第九幕 お盆の日の夕暮れ
七月十五日のお盆祭りの日の夕方、日が沈みそうな時刻に、俺とすずさんとおあきちゃんは人で賑わう河川敷に来ていた。
今夜は十五夜の満月であるので、もしあの兎の妖怪が満月の夜を好むのならば、今日この場所に出ると思われる。よって、俺たち三人は事前にこの場所の下調べをしていたのである。
まだ明るいうちに来てわかったのだが、この河川敷は本所の東を流れる川の西河原である。つまり、二十一世紀でいうところの荒川河口付近の西岸にある河川敷であった。
対岸、つまり川を挟んで向こう東側にある村は、将来葛飾区や江戸川区と呼ばれる地域である。そこらは文政の世においては
広い広い葛飾の村には小松菜とかの野菜を作っている農村が広がり、江戸の町に住む膨大な人たちに絶えず野菜を供給しているのだという。
葛飾の村は徳川の将軍様が鷹狩りをする場所でもあるため、他の地域の農村よりも格は高い。だが、この時代には向こう岸に都会的な町はまだなく、森と田畑がどこまでも広がっているのだそうだ。
正面から初秋の赤い夕日の光を受けた葛飾の雑木林の緑葉は、遠目で見てもわかるくらいにきらきらと美しく輝いていた。
俺の隣にいるすずさんが口を開く。
「りょうぞう、こういう盆の日にはさ、
「お盆ですからね。そういうのもあるでしょうね。ところで肝心の、兎の妖怪は現れそうですか?」
「どうにもわからないねぇ」
深紫色の着物を着たすずさんと紺色の着物を着た俺が歩きながらお互いに言葉をやり取りする。間には赤茶色の着物を着たおあきちゃんがとことこと歩いている。知らない人が見れば父親と母親そして幼い娘の三人家族がお盆で川べりに夕涼みに来ているように見えるかもしれない。
核家族という言葉は江戸にはまだないが、言葉がないからといって概念がない訳ではない。むしろ概念がありふれているからこそ言葉がないことだってありうるのだ。実際に核家族は江戸の庶民ではありふれた家族形態らしい。
お盆というのは、江戸の人たちにとっては重要な年に一度の年中行事である。先祖供養という本来の意義から外れて、ただただ乱痴気騒ぎをする為にこの日を心待ちにしている人も多いらしい。
何しろこの三が日は江戸中がお祭りである。そこらじゅうに屋台が立てられ、ある者らは酒を呑んで騒ぎ踊り、居酒屋や料理屋で旬の料理を食べ、男と女は祭りにかこつけて
本質的には二十一世紀のクリスマスやハロウィンなどのイベントと何ら変わらない。
夜五つ(午後八時ごろ)には本所の西を流れる大川(隅田川)では威勢よく花火が上がり、
大川ではそれはもうお大尽と呼ばれるような金のある者たちが川を埋め尽くすように船を出し、またある者は両岸に立ち並ぶ料亭などで遊びを尽くしているのだという。
俺たちがいるこの東の川には金持ちは少ないものの人は多い。そこそこ慎ましやかに、だが肝心な所では騒がしく、
十五日の送り盆の夕刻には江戸の様々な川で『
迷える霊を供養する為だろうか、
おあきちゃんが土手に向かって走り出したので、俺は声をかける。
「おあきちゃん、そんなに走っちゃ危ないよ!」
するとおあきちゃんは振り返り、大声を出す。
「りょう兄ぃ! 一緒に天ぷら食べよ! 天ぷら!」
どうやら
すずさんが応え、大声を出す。
「屋台は逃げないよ! ゆっくり歩きな!」
その声におあきちゃんは「わかった!」と応えると、俺たちが追いつくまでその場に留まった。そして俺たちと一緒に、落ち着いて屋台に向かって歩き始める。
俺たち三人は、土手で営業をしている天ぷら屋台に近づく。屋台の主人は二十代後半くらいの男であった。
脇では見習いらしき十代前半の男の子が、銭を回収したり客の食べ終わった串を片付けたりしている。
高いところのでっぱり板には
奥には釜のような油鍋があり、下から火で熱せられているのか油が煮えたぎっている。その周り、木で区切られた台の上には、身を剥かれたクルマエビ、
手前中央には天ぷらつゆを入れた大きな
俺はこの時点で、この時代での天ぷらは料理屋で小皿に乗せて出される
おあきちゃんがきらきら目を輝かせて口を開く。
「えっとね、あたしはエビにイカでお願い!」
すると、屋台の男は「へい!」とだけ言う。そして次々と天ぷらのタネに水で溶いたうどん粉をまぶし、細い竹串でタネをそれぞれ串刺しにする。そして煮えたぎる油にタネが隠れるくらいにつける。溶き卵は使わないようであった。
すずさんも注文する。
「あたいはキスにカマスで頼む。りょうぞう、おまいさんはどうする?」
すずさんに言われたので、俺は応える。
「あ、じゃあすずさんと同じで」
それを聞いて、すずさんは屋台の男に伝える。
「兄さん、さっきあたいが言ったのを
その言葉を聞いた屋台の男はこれまた流れるような手つきで、天ぷらのタネをうどん粉でまぶし、串で刺し、油で揚げる。
しばらくすると天ぷらが揚がり、男は慣れた手つきで串を油鍋から出す。狐色にこんがり揚がった天ぷらが夕焼けの空の光とよく合う。
すずさんは、布製の財布から四文銭をいくつも出し、台の上に置く。
俺とすずさんの分の天ぷら串が平皿の上に置かれると、速やかに見習いの男の子の手により回収される。
すずさんは、自分の分とおあきちゃんの分の天ぷら串を手に取る。そして、大きな
俺も揚げられた天ぷら串を手に取る。
「つゆは、二度漬けるんじゃないよ」
すずさんに注意をされたので気をつけつつ、俺も天ぷらをつゆに入れる。
俺たち三人は後ろから来る客の邪魔にならないように、屋台の脇に移動する。
そして手に持った天ぷらをかじり取る。
確かにそこの
そう、このスナック的な感覚は、俺のいた時代での
「そっか! フライドチキンだ!」
学校帰りにコンビニに寄って、油で揚げた鶏肉を食べるあの感覚に似ている。すずさんとおあきちゃんがきょとんとした目で俺を見る。
「りょうぞう、『ふらいどちきん』ってなんだい?」
すずさんの問いに、俺は答える。
「俺の故郷での食べ物なんですけどね。鶏肉に衣をつけて、油で揚げて食べるんです」
「へぇぇ!
おあきちゃんがうきうきした口調ですずさんに伝えるも、すずさんはしかめっ面をして返す。
「おあき、江戸では町の衆は
「ちぇー」
おあきちゃんが口を尖らせ、天ぷら串にかじりつく。
俺も天ぷら串を食べつつ、話をする。
「俺の故郷にも
「じゃあさ、りょうぞうの故郷では天ぷらってどんな衣だったんだい? うどん粉だけじゃないのかい?」
すずさんも天ぷらの串を食べつつ、そんなことを問いかけてくるので俺は返す。
「
「溶き卵ぉ!? そんな
すずさんが
鶏が一日にひとつしか卵を産まない江戸において、鶏卵は非常に高価な食品なので、天ぷらは安い食べ物という前提でのこの反応はいたしかたない。
そこで俺はなんだか後ろに視線を感じたので振り向くと、先ほどの見習いの男の子が大根とのおろし金を持ったまま、じっと俺たちを見て話を聞いていた。
「お兄さん、お兄さんの故郷では衣に溶き卵を使うのかい?」
男の子の言葉に、俺は返す。
「ああ、まあね」
「凄ぇ! 凄ぇ! 溶き卵使うなんて
男の子は何やら興奮しているようであった。すると後ろのほうから怒号が飛ぶ。
「こらてめぇ! 何客とくっちゃべってんでぇ! さっさと
先ほどの屋台の主人が激怒し、後から喝を入れる。男の子は恐縮し、大根を金属製のおろし金ですり下ろしはじめる。
俺は残りの天ぷら串をかじりながら、その場を三人で離れる。いつの時代も師弟関係というのは大変だな、という思いが心の中に浮かんでいた。
色々な屋台で、
日は既に沈み、
すずさんにそっと耳打ちする。
「すずさん、この
薄暗がりでもわかるくらいに、薄い藍色の
すずさんは返す。
「なぁに言ってんだよ。
俺たちが屋台に近づくと、木で四つに区切られた台の上には、ほとんど
屋台の前面には紙が貼られてあり、なんのネタを乗せた
屋台には二十代前半くらいの若い男がいて、俺たちが近づくと「へいらっしゃい!」と声を張り上げた。置いてある
すずさんが屋台の主人に声をかける。
「兄さん、残ってるの全ておくれ。ヒラマサとイサキは持ち帰るから笹に包んでおくれ」
店のお兄さんは「へい!」と応えると、笹の葉を取り出し、四角い
すずさんは、一貫八文の
おあきちゃんがコハダの
大きい、というのが率直な感想だった。平成時代の回転寿司で食べるような寿司の八倍から十倍の体積がある。寿司というよりおにぎりに近いように思えた。
すずさんも
食べると確かに美味かった。こんな美味しい寿司は二十一世紀でも食べた事がないかもしれない。俺はおあきちゃんに話しかける。
「おあきちゃん、食べきれる?」
「ちょっと難しいかも。りょう兄ぃ、余ったら食べてくれる?」
「ああ、いいよ。でも、これは寿司にしてはちょっと大きすぎるね」
その言うと、すずさんが反応する。
「りょうぞう、
俺は答える。
「ええ、それに俺の故郷ではこういった『
「『
おあきちゃんが尋ねる。
――ひょっとして
俺はおにぎり大の
「お客さんの目の前で魚を切って、用意していた酢飯と一緒にすった
すずさんも興味深そうに
おにぎりくらいの大きさの四角い
同じくらいに
「すずさん、
俺がそう言うと、すずさんが呆れた顔をする。
「りょうぞう、なんもわかっちゃいないねぇ。屋台で
「え? 本当ですかそれ?」
「そうだよ。だから
すずさんが、屋台の主人に同意を求めようとする。しかし、屋台の主人たる若い男は
すずさんが声をかける。
「あれ? どうしたんだい? ご主人?」
すずさんの声に主人の男が我に返ったようになり、口を開く。
「……あっし、
その問いかけに俺は戸惑った。特許技術とかなら大問題だが、
俺が悩んでいると
「お願いしやす! あっし、その『
主人が熱気をもって俺に言うので、俺もつい「あ、別にいいですよ」と言ってしまった。
「有り難うございやす! 兄さんに案を頂いたので、今日の
主人の男は紐で吊るされた
「待ちな、待ちな。
しかし、
しばらく二人が押し問答をしていると、おあきちゃんがぽんと手を叩く。
「あっ! じゃあ、すず姉ぇが新しい屋号考えてあげたらどうかな!?」
店の主人とすずさんの押し問答が止む。
「おあき、そりゃどういうことだい?」
すずさんが問うと、おあきちゃんが応える。
「だから新しく
おあきちゃんの発案に、すずさんと
「そうだねぇ、ご主人はどんな屋台になって欲しいんだい?」
すずさんが主人の男に尋ねると、主人が返す。
「あっしは、人が大勢来るような、
その言葉を聞いて、すずさんは目を
「よし! じゃあ『はなや』と名乗りな!」
すずさんがそう言うと、主人が訊き返す。
「『はなや』でごぜぇやすかい、どういう
主人が尋ねるので、すずさんはにこにこしながら応える。
「大勢の客で賑わう『
すると主人の男も笑顔になる。先ほどまで言い争いをしていた
「
「おうおう、頑張っておくれよ
すずさんと
俺は、未来の寿司屋に似たような名前の店があったことを思いだしたが、気にしないことにして汚れた手を
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