第十幕 怒操夜雀との戦い


 

 すしを食べ終わって空を見ると、おぼろげな満月が東の空に明るく昇り、西の空には一番星がまたたいていた。


 江戸時代では夜の明るさは月の満ち欠けに大きく依存する。月が出ていない夜なぞ、提灯ちょうちんの灯り無しでは危なくて出歩けるものではない。


 もう少し経てば、天頂には白い乳液にゅうえきを黒い天蓋てんがいに流したかのような銀河が浮かび上がってくるはずだ。


 俺は江戸に来るまで銀河というものを、漫画のように星々の粒のような光点の集まりとして見えるものだと思っていた。しかしそうではなく、本当に乳液の道筋ミルキーウェイの名に相応ふさわしく、べったりと白い流れが横たわっているものだという事を江戸に来て初めて知った。


 とにかく江戸の夜は星が綺麗であり、本当に東京と同じ場所なのかと最初は疑ったものだ。


 江戸の世の人達にとって月は夜道を照らしてくれる友人であり、星々は夜空を飾ってくれる隣人なのである。


 笹折りを下げたすずさんと、おあきちゃんと、俺の三人で堤防を歩いていると、どこからか喧嘩の声がした。


 俺はそちらの方を向くと、土手の下のほうに血気盛んそうな男が二人、殴り合い掴み合いの喧嘩をしていた。周囲には当然のごとく人だかりができている。


「すず姉ぇ! あれ!」

 おあきちゃんが、喧嘩をしている二人を指差す。すずさんも応える。


「ああ、ありゃぁあやかしの仕業だね」

 すずさんが喧嘩する二人を見ながらそんなことを言うので、俺は尋ねる。

「あれ、ただの喧嘩じゃないんですか?」


 俺がそう言うとすずさんはたもとからすっと、黒いまだら模様の文蛤はまぐりの貝殻を取り出した。影の中に閉まっていたのだろうか。


 すずさんは文蛤はまぐりを開け、中に詰められていたピンク色の膏薬のようなものを薬指ですくり、俺にその指を向ける。


「りょうぞう、ちぃとばかり目をつむりな」

 そう言われて俺は目をつむる。すると、すずさんの指先の感触がまぶたに伝わり、先ほどの薬を両目のまぶたの上に塗られたのだとわかった。


「よし、目を開けていいよ」

 すずさんが言ったので、俺は半分期待を混ぜた感情で恐る恐る目を開ける。すると、今まであった光景とは明らかに異なった幻想的な光景が川べりに広がっていた。


 川の方を見る。河原にはお盆のために大勢の人達がいるが、その上にはありとあらゆる色の魂が乱舞していた。魂の色は白色、赤色、緑色、黄色、青色、またあるものは常に色が移り変わりながら人々の間を駆け抜けている。


 両親と一緒に歩いている、ある幼い男の子の上には、優しそうなお婆さんの姿が見える。しかしそのお婆さんは半透明で宙に浮き、足が無かった。


 酔っ払ったような足取りで歩くさらしを巻いた任侠者風の中年男は、夕暮れだというのに月の影がはっきりくっきりとどす黒く地面に現れている。そのどす黒い影から、骸骨になってしまった腕が伸び、苦しんでいるかのように動いている。


 若い男と仲睦まじく歩いている若い娘の下腹部には、星灯りのようなきらめく光点が、拍動するかのように明滅しているのが見える。


 見えるべきでない幻想的なものがありとあらゆる所に見える。明らかに、一介の高校生が易々やすやすと見て良い光景ではないということに思えた。


 俺はすずさんに向き直る。すずさんのくろかみはそのままに、頭には実体のない金毛こんもうの狐耳のようなものが浮かび上がり、その尻には妖狐ようこらしいやはり金毛こんもうのもふもふの尻尾が生えている様子になっていた。


 俺はすずさんに問いかける。

「すずさん!? これは何ですか!?」


 すると、いかにも妖狐らしい見た目になったすずさんが、赤くなった瞳を俺に向け、口からやはり実体のない牙を見せながら答える。

「りょうぞうの目を少しの間だけあやかしの目にしたのさ。あたいらは妖狐だから、ちょっと気合を入れればこの目になるけどね。りょうぞうは人だから、あたいが作った薬を塗ってやらないとあやかしの目にはならないのさ」


――なるほど、これもまた妖怪の術か。


 俺は率直な疑問を返す。

「でも、こないだの鶏の妖怪の時は俺の目にも見えましたし、さわれましたけど?」


「ああ、正刻しょうこく(午前零時)から明け方までの間だけは、その手合てあいあやかしも人の目にも見えるしさわれるのさ。そういうあやかしを人が見ちまうのはこの間だけだしね。裏を返せば、夜にしか現れないあやかしは昼間にどう頑張ろうが人の手で退治はできないよ」


 すずさんの話に、俺はなるほどとうなずく。


「りょう兄ぃ! あそこ! 喧嘩してる所の上を見て!」

 すずさんと同じく、実体のない金毛こんもうの狐耳と尻尾を生やした格好になっているおあきちゃんが、先ほどの喧嘩をしていた男達を指差す。殴り合っていた男達は互いに血を流してめちゃくちゃな取っ組み合いをしていた。


 喧嘩をしている男達の上を頭に黒い紋のようなものがある巨大なすずめが旋回して飛び回っているのが見えた。


 すずめにしては異常な大きさで、羽を広げた大きさが60センチメートル近くある。しかし、誰もそちらの方を見ていない。つまり、あれは人の目には見えない妖怪だということだ。


 取っ組み合いの喧嘩をしている二人に岡っ引きが駆け寄り、喧嘩の仲裁をする。二人とも互いに殴りあったので、顔はぼこぼこになっている。おそらく歯も何本か抜けているだろう。


 すずさんが口を開く。

「りょうぞう、兎のあやかしを調伏しに今夜ここに来るけど、あっちが先になるかもしれないよ」


 狐耳が生えたすずさんは、怒っているのか楽しんでいるのか、狐のような笑顔で瞳孔を細めて舌なめずりした。




 夜がふけて深夜になり、俺たち三人は再び河原に来ていた。


 俺は上に半纏を羽織りシャツにジーンズにスニーカー、おあきちゃんはいつもの着物、すずさんは巫女装束である。


 満月は既に真南を越えて西に傾き始めようとしていた。この前のように、俺の影の中にはスポーツバッグとナップサックが隠されている。


 土手にある無人のはずの屋台から大きくいびきが聞こえているので覗いてみた。酒が入っているのであろう瓢箪ひょうたんを近くに置いた酔っ払いが、すしだと思われる笹折りの紐を手首に結び、ぐうすかと寝入っていた。


 俺はその酔っ払いが凍死しないように、着ていた半纏を被せてやる。


 すると、すずさんが話しかけてくる。


「りょうぞうはおせっかいだねぇ、まだ凍死こごえじになんかしないよ」


 そう言われたものの気になるのだからしょうがない。江戸の地面はアスファルトなぞで覆われていないので、残暑の時期でも日が沈んだらすぐに気温が下がるのである。


 俺たち三人は、浮遊しているすずさんの狐火に照らされて、注意しつつ土手の坂を下りる。人はもう見当たらなかった。深夜の涼しい風が河原を撫でる。


 すずさんが、おあきちゃんに何かを伝えると、おあきちゃんは瞬く間に柴犬に変身した。


「わんっ!」

 おあきちゃんが化けた柴犬が鳴く。


 まったくもって本物の柴犬にしか見えない。


 すずさんが柴犬に語りかける。

「じゃあさ、おあき。あの兎の匂いを追っておくれ」


「わんっ!」

 柴犬が元気に声を出し、満月の明かりに照らされた地面に鼻をつける。


 しばらくそこかしこを嗅ぎ回っていたが、ある場所にて大きく首を上げる。

「わんっ!」


「おっと、兎のあやかしの匂いを見つけたかい?」

「わんっ!」

 おあきちゃんが化けた犬は、そうだと言わんばかりに尻尾を振って、匂いの後を辿たどる。


 俺たち二人が蛇行しながら柴犬の後をついていくと、川べりにて柴犬になったおあきちゃんが申し訳なさそうに「わふう」とうなった。


「あー、こりゃまいったねぇ。おあき、戻っていいよ」

 そうすずさんが言うと、柴犬の姿がしゅるりとおあきちゃんの姿に戻る。


「おあきちゃん、どうしたの?」

 俺の問いかけに、おあきちゃんがしょんぼりした様子で口を開く。

「川であやかしの匂いが途切れてたの。ごめんね、りょう兄ぃ」

「どういうこと?」


 すずさんが解説を入れる。

大方おおかた精霊しょうりょう流しの灯火ともしびについていっちまったんだろうね。この本所からはそう離れてないだろうけどさ」


 つまり、あの兎の妖怪はもうここに現れないということだ。


「そんな! じゃあ俺もう帰れないんですか!」

 俺はつい、悲痛に叫んでしまった。


 すると、おあきちゃんがますますしょんぼりする。目には涙まで浮かんでいる。


「ごめん、ごめんね、りょう兄ぃ。あたしがりょう兄ぃを連れて来なければ、未来に行ったときに道に出なければ、そしたらりょう兄ぃに迷惑かけることもなかったのに……」


 おあきちゃんの声が涙声になったので、俺はおあきちゃんに柔和な口調で伝える。

「違うよ、おあきちゃんのせいじゃないよ。俺はおあきちゃんじゃなくて、あの兎にこの時代に連れてこられたんだからさ。あの兎を退治すれば済むことだろ? おあきちゃんを責めてなんかいないよ」


「だって……だって……あたし、悔しくって……あの時もう少し考えて動けばって……」


 おあきちゃんが、ぐすっぐすっと泣き始めている。

 俺は軽率に叫んだ自分を叱責したい気分になった。おあきちゃんは言葉には出さなかったけど、本当はずっと苦しんでいたのだということに気付いた。


 俺は、これはいけないと思って言葉を選び、優しく話しかける。


「ううん、違うよ。俺はこの江戸に来て良かったこともいっぱいあったんだ」

とうに?」


 おあきちゃんの涙が止まる。

「本当だよ。俺は江戸に来てすずさんや徳三郎さん、屋次郎さんや竹蔵さん、お梅さんとか普通に生きていたら絶対に会えない昔の人と話ができたんだ。それに、この時代でしか見れないものも沢山見たし、とても貴重な経験だったよ。それに較べたら、しばらく帰れない事なんて気にしてないよ」


 俺はそこで言葉を区切る。すずさんは隣で、黙って聞いている。


 そして、俺はおあきちゃんの手をとる。

「それに何より、俺の事をそんなに考えてくれている、おあきちゃんにも会えたしさ。だから自分を責めないでね」


 すると、おあきちゃんは気分を取り直したように、涙目のままにこりと笑った。


「ありがとう! りょう兄ぃって優しいんだね!」

 おあきちゃんが笑顔になったところで、すずさんが口を開く。

「まあ、あの兎のあやかしは色んなところに声かけとくからさ。誰かが見かけたらすぐ知らせるようにしてもらっておくよ」


 その言葉に、俺は応える。

「誰かって、他に仲間がいるんですか?」

「まあ、表にも裏にも色々ね。巫女なり妖狐なりのつてってもんがあんのさ」


 すずさんが、そこまで言ったところで、俺の背筋を貫くかのような激情が襲った。

「うわっ!」


「どうした!? りょうぞう!?」

「な、なんだか! 気分が昂ぶって! 怒りが!」

 俺の腹の底から、マグマのような怒りの感情がこみ上げてくる。誰に対するものでもない、ただの怒りを目的とした破壊衝動としか表現できない怒りだ。怨みがましい心が燃えるように熱い。


 するとすずさんは、速やかに例の文蛤はまぐりを取り出し開き、薬を俺のひたいに塗りつけた。すると、その薬の効果か俺の心がすっと軽くなる。


「りょうぞう、落ち着いたか?」

 すずさんの言うとおり、俺の気分は嘘のように即座に沈静化した。


 俺は尋ねる。

「あ、はい。なんだったんでしょうか?」


 おあきちゃんが上空を見上げ、指差した。

「あれ! あの雀があんな高いところにいる!」


 その言葉に、俺もすずさんも上空を見上げる。30メートルくらい上空だろうか、あの大きな雀が上空を月の光を受けて旋回していた。


 すずさんが口を開く。

「ありゃ、夜雀よすずめだね。しかも人の怒りを操るすべを持っているらしいね。りょうぞうに薬塗ったら落ち着いたんだから、あいつのすべで決まりだね」


「ということは、あの薬を塗れば俺が他の妖怪の妖術にかからないようする事もできるって事ですか?」

 俺が尋ねると、すずさんが返す。

あやかしすべとして力の弱い奴だけだよ。夜雀よすずめの本来のすべでもないしさ」


 あの夜雀よすずめとか言う妖怪は、本当はどんな能力を持っているのか気になったので尋ねようとした。しかし、それはできなかった。すずさんがおあきちゃんと臨戦りんせん態勢たいせいを取ったからだ。


「おあき、鉄砲てっぽう変化へんげだ! 撃ち落とすよ!」

「うん!」

 おあきちゃんがそう応えると、すぐさま火縄銃ひなわじゅう変化へんげする。


――鉄砲にもなれるのか、火薬とか弾丸にもなれるなんて凄いな。


 すずさんは上空を見上げつつ、隣に狐火を浮かせたまま火縄のついた鉄砲を水平に構え、何やら呪文をつぶやく。


「ちっちちっちと鳴く鳥は、しちぎの棒が恋しいか。恋しくんば、ぱんと一撃ち。ちっちちっちと鳴く鳥を、はよ吹きたまえ伊勢の神風」


 すぐ近くだったので、はっきりと呪文を聞き取ることができた。そして、上空を旋回している夜雀よすずめは風に吹かれたかのように土手の方向へ流れていった。


 浮かべた狐火で銃の火縄に着火したすずさんが銃身の仰角を上げ、にやりと口角を上げて叫ぶ。


「恋しくんば、ぱんと一撃ち!」


 ぱぁん!


 すずさんが引き金を引くと、火縄銃から威勢よく煙が上がる。満月の光を受けて遠くを飛んでいた夜雀は、その場から下に落ちた。


 俺は声を上げる。

「やった!?」


 あまりにもあっけないと俺は思った。雀は屋台の辺りに落ちていった。


 すずさんが嬉しそうだ。

「よし! 御魂みたまを拾うよ!」


 すずさんはおあきちゃんの化けた鉄砲を持ったまま、川べりから土手の上にある屋台に向かって走る。俺も後をついていく。土手の坂を登ったところで、すずさんがいくつも並んでいる屋台の一つを覗き込む。


「あれぇ? おかしいねぇ? この辺りだと思ったんだけどさ?」


「本当にこの辺りなんですか?」

 俺がすずさんにそう尋ねた直後だった。


 隣にあった屋台の陰から飛び出してきた男にタックルされ、俺は地面に叩きつけられた。


「ぐはっ!」

 背中を打った俺が声を出す。


「りょうぞう!」

 すずさんが叫び、火縄銃の照準を男に定め構える。俺に組み付いている男は叫ぶ。


「てめぇこの餓鬼がきぃぃぃ! 舐めんじゃねぇ! ぶっ殺してやらぁぁぁ!」


 手首にはすしを入れてあるのであろう笹折りを紐でぶら下げている。さっき屋台の中で酔っ払って寝入っていた男だ。力仕事をしている者ではないのか、江戸時代の男にしてはそれほど腕力が強くないが、それでも男の両腕を掴んだ俺はまったくほどくことができなかった。


「りょうぞう! 夜雀よすずめはそいつに取り憑いてんだ! 気を失わせないと戻らないよ!」


 すずさんが火縄銃の火縄に狐火をつけ、引き金に指をかける。


――男を撃ち殺すつもりだ。


 男にのしかかられた俺は叫ぶ。

「待って! 撃たないでください!」

 その言葉に、すずさんは引き金から指を離す。俺には何の落ち度も無い人間の命を奪う事なんてできない。


 すずさんが焦ったように叫ぶ。

「でも、そう容易たやすく気なんか失わせられないよ! 薬はあやかしじかに取り憑かれた奴には効かないんだよ!」


 薬が使えないという事を聞き、俺は必死になって考える。そして案を思いつく。


「おあきちゃん! こっちに来て! 俺の思ったものに化けて!」

 俺が叫ぶと、火縄銃に化けていたおあきちゃんが女の子の姿になり、組み伏せられている俺に駆け寄ってくる。俺が男の腕から片手だけを離すと、即座に自由になった男の片手が俺の首を絞めた。


「りょう兄ぃ! すぐ化けるから!」

 俺は外した方の手を伸ばし、おあきちゃんの手を取る。


 鉄砲に化けられるのだったら、他の道具にも化けられるはずだ。


 俺は頭の中で電撃を放つスタンガンを思い浮かべる。


 次の瞬間、俺の手にはスタンガンが握られていた。スイッチを入れるとバチバチと電撃の火花が飛ぶ。


 俺は、男が死なないように注意して、首筋にスタンガンの電撃を押し付けた。




 男の体がびくんと痙攣したと思ったら、そのまま俺の横に倒れ鼻提灯を膨らました。呼吸をしているので、生きてはいるようだった。


 俺が男を脇によけ、立ち上がる。すると、倒れた男のわき腹から先ほどの大きな雀の妖怪がにゅるりと出てきた。


 雀は弾丸を食らって血を流している。本当にとり憑いていたようだ。


 おあきちゃんがスタンガンから変化を解き、すずさんが月光の下で険しい顔をして近づく。


「さぁて、大人しく調伏させてもらおうかい」


 その言葉に反応したのか、夜雀は鳴き声を出すわけでもなく大きく翼を広げた。


 すると、異常事態が起こった。


 にわかに、周囲が闇に包まれた。宙に浮いていた炎の光が急激に輝きをくすませた。空を埋め尽くすように飾っていた星々はもう見えない。弱弱しい、薄弱な満月のまるい輪郭のみが空に浮かんでいた。


 まるで、明るさを感じる感覚神経を殆ど残らないほど麻痺させられたような状態だ。


 闇の中から声がする。

「すず姉ぇ! りょう兄ぃ! どこにいるの!?」

「ちっ! これは夜雀の本来のすべだ! あたいたちは鳥目に……」


 すずさんの声がそこまでしたところで、悲痛な叫び声を上げる。


「ぎゃぁぁぁぁ! 片目を食われた! おあき! りょうぞう! 目を守れ!」


 すずさんがどうやら片目を食われたようだった。夜雀は俺たちを夜目が利かないようにしてからゆっくりと料理する気だ。俺は両目を片腕で守りながら叫ぶ。


「おあきちゃん! 自分の目を守りながらすずさんを治して! それからすずさん! 俺のを俺の影から出してください!」


「どうする気だい!?」


「いいから出してください!」


 今、あの夜雀はどこにいるのだろうか。俺が目の前から腕を離したらすぐさま俺の目をついばみに来るのだろうか。そんな事を考えながら、足元に現れたスポーツバッグを開け、手探りで目的のものを探す。


――確か、救急箱の近くに置いたはずだ。


 記憶を頼りにスポーツバッグの荷物を掻き分ける。そして、お目当てのものを見つける。


――あった、間違いない。


 そして俺は、近くに寝転んでいた男をこれまた手で探り当て、手に結び付けてあったすしの笹折りを手に取る。俺は心の中で思った。


――来やがれ、雀野郎!


 俺は目の前から腕を除け、目を見開く。あの妖怪が目をついばむ習性があるのなら、俺の目をついばんでくるはずだ。


 ざくり。


「がぁぁぁぁぁぁ!」


 目に激痛が走る。しかし、その代わりに目の前に来た夜雀をしっかりと掴んでやった。俺は力を込めて夜雀を握り潰そうとする。

はねを折る!」


 俺は雀のはねをぽきりと折ってやろうとしたが、弾力性のあるカーボンフレームみたいにぐにゃりと曲がり折ることができない。


 雀が鳴き、自信たっぷりに羽ばたく。鳥が上へと舞い上がるような感覚と共に、俺の両手は質量を失った。


「りょう兄ぃ! 大事ない!? 今治すから! どこにいるの!」


 おあきちゃんの声が聞こえたので、そちらの方向へゆっくり足を運ぶ。二、三歩歩いた所でおあきちゃんの体にぶつかった。


「大丈夫、ここにいるよ」


 俺は眼窩から流れているであろう血をおあきちゃんの着物につけないように注意しつつ腰をかがめ、おあきちゃんの手を握り自分の眼前に誘導する。ただ、激痛は絶え間なく続いている。


「治してくれる?」

「うん!」


 おあきちゃんの声と共に、目が温かく癒されるのを感じる。無くなったはずの片目にそっとまぶたの上から手を当てると、眼球の感触があるのがわかる。無事に治ったようだ。


 すずさんの声が響く。


「りょうぞう! ありゃなんだい!? きらきら光るものが空を飛んでいるよ!」


 俺もその方向を見ると、月の光を受けてきらきらきらめく細長いものが、夜空を旋回していた。俺は応える。


「ランニング用の蛍光タスキですよ! 男が手に持っていたすし飯粒めしつぶで、あの雀につけてやったんです!」


 練ったご飯粒を羽毛としっかり絡めてやったので、そうそう落ちはしないだろう。    


 俺がそう叫ぶと、すずさんが明るく声を出す。


「そうかい! よくわからないけど、あの光る奴が夜雀よすずめなんだね!? おあき! 鉄砲てっぽう変化へんげだ! 撃ち落とすよ!」


「うん!」


 闇の中でおあきちゃんは、即座に先ほどの火縄銃に変わったのだろう。鳥目の術のせいで光を見づらいが、弱弱しい狐火の光が火縄に着火したようにぼうっと仄明ほのあかるく燃える。すずさんの目は既におあきちゃんが治したようだった。


 ぱぁん!


 闇の中に銃声が響く。しかし遠くを旋回する光るタスキは落ちず、東の川向こうの森の方向へ帰ろうと向きを定める。すずさんが叫ぶ。


「ちいっ! 鳥目だからあいだが掴めない! 逃げられちまうよ!」


 すずさんの悲痛な叫び声が聞こえ、俺はすずさんに近寄り肩を掴む。


「すずさん! おあきちゃんに、今から俺が思い描くものに化けなおさせてください!」


 そして俺は、すずさんが構えるおあきちゃんの化けた火縄銃に手を伸ばす。


 すずさんが声を響かせる。


「おあき! 聞いたか!? りょうぞうの思ったものに化けな!」


 その言葉と共に俺は火縄銃に触れつつ、動画サイトや海外ドラマでしか見たことの無い飛び道具を心に思い浮かべる。


 この前に、モニターの向こう側でしか知らない有名な俳優に演技力もコピーして化けられたのだから、画面の向こうにしか見たことの無い武器にも性能を再現して化けることもできるはずだ。


 化け直しが完了したのか、すずさんが闇の中から声を響かせる。


「りょうぞう! こりゃなんだい!? 鉄砲みたいだけどさ!?」

散弾銃ショットガンっていう火がいらなくて弾が散らばる未来の鉄砲です! これで早くすずめを撃って下さい! 逃げられます!」


 俺の言葉に、すずさんは威勢の良い声を返す。

「わかったよ! 少し離れな!」


 俺がすずさんから一歩引くと、すずさんは東の川向こうに飛び去りつつある蛍光タスキの輝きに向かって、ショットガンを放つ。


 バァン!!


 閃光で一瞬だけ見えた爆音を背景に銃を構えるすずさんは、切れ上がった両目を見開き、実に嬉しそうに笑っていた。





 飛沫しぶきのように広がった散弾ショットシェルは、確かに夜雀よすずめを捉えたようだった。ぼんやりと光る蛍光タスキが風に落ちる花のように地面に落下する。


 と、同時に周囲が明るくなる。満月の光は煌々こうこうと川べりを照らし、俺たちの姿を闇夜の中から浮かび上がらせる。


 満月の光ってこんなに明るかったのか。


 俺は、散弾銃ショットガンを構えたすずさんと目で合図をし、つつみを駆け下りる。狐火の明かりが無くても眩しいぐらいに、足元がはっきりと見える。


 撃ち落とされた夜雀よすずめは散弾の粒をしこたま食らったのか、息も絶え絶えにはねを動かして逃げようとしていた。


 すずさんがにじり寄りつつ口を開く。


「観念しな」


 その言葉と共に、夜雀よすずめはまた声も無く翼を広げる。


 夜いきなり顔に自動車のハイビームを受けたような感覚に襲われた。


 周囲の光がまぶし過ぎて俺は目をつむる。


 すずさんも同じようになっているのだろう、俺に向かって叫ぶ。


「くぅっ! こいつのすべは鳥目にする事じゃない! 目に入る光を操るすべだよ!」


 すずさんはどこにいるのか、俺は手を振り回す。いきなり真昼間の砂漠に連れてこられたように目がくらむ。夜雀よすずめは、こうしている間にも負傷した体を動かし、この河原を這いずって逃げようとしているのだろう。


 すずさんと右手が触れ合った俺は、すずさんがその手に持っている散弾銃ショットガンに手を触れる。


「おあきちゃん! 今から俺の思ったものに化けて!」


 その言葉を発してすぐ、俺の右手にはこの事態を解決する装身具が握られていた。



   ◇



 夜雀よすずめは、傷ついた体で懸命に這いずり、川の中に逃げようとしていた。川まで逃げれば水の中に入って、住処すみかである葛飾の森に帰れるはずだった。自分を追ってきた者たちは今、己の術で目が眩んでいるはず。逃げ切れる確信は充分にあった。


 ふと、気配を感じ首を回し後ろを見上げる。月光の中に大きな石を両手で持って立つ男の姿があった。目に何かを着けている。狸の模様みたいに黒いふちが人間の男の目を覆っていた。


 その男は、真っ直ぐこちらに向かい、己を石で潰そうとしている。あの男はこちらの姿が見えている。光を敏感に感じるようにしたのに何故? 目がくらんでいないのか? そうだ、解除しなくては。


 夜雀よすずめがその事に気付いたのは、自分の体を押し潰す石が自分の骨という骨を叩き折るわずか一秒前の事であった。



  ◇



 俺が夜雀よすずめを近くにあった手ごろな石で押し潰したところ、雪山か砂漠のごとく輝いていた世界は、月の穏やかな光が照らす夜の世界に移り変わった。夜雀よすずめの術が解けたらしい。


 すずさんが駆け寄る。


「りょうぞう! やったか!?」

「はい、なんとか」


「その、おあきが化けたおおう道具は何ていうんだい? 見たところ眼鏡めがねに似てるけどさ」

「これは、『遮光しゃこうゴーグル』っていうんです」


 俺は、溶接の際に顔に着けるような遮光しゃこうゴーグルを外す。すると、ゴーグルがおあきちゃんの姿に変わる。


「ふぅ、あやかしは事無くやっつけられたみたいだね」


 おあきちゃんの言葉に、俺は石を夜雀よすずめの遺骸から除ける。血でにじんだ雀のむくろからは、以前見たように命の明滅が蒸発していた。


 すずさんが、巫女服の懐から和紙を取り出し、指先で明滅を操作する。死骸から、一際大きな輝きがぼうっと現れた。宙に浮いた夜雀よすずめ御魂みたまを和紙で丁寧に折り畳んだすずさんの顔が御魂みたまの灯りに照らされる。


 雀の体は、すっと消えた。


 光る和紙包みを懐に閉まったすずさんが、俺に向き直ってこんなことを言う。

「りょうぞう、しばらくの間だけど、あたいらと共にあやかし退治に付き合いな」


 その言葉に、俺は戸惑う。

「え? どうしてですか?」


「さっきから見せてくれた、未来みらい都合つごう道具どうぐがあればあやかし退治も随分と容易たやすくなるからさ。あたいも、物置ものおきに閉まってあるじつほう薙刀なぎなた弓矢ゆみや、それからととさまの部屋にかざってあるかたな引っ張り出してくるから、おまいさんはおあきの化けた武具で戦いな」


 そこまですずさんが言ったところで、おあきちゃんも言葉をかけてくる。

「りょう兄ぃは、嫌? 嫌ならいいんだよ?」


 俺の感情が動く。以前感じたちくりと刺された心の傷を洗い流す為には、俺も覚悟しなければならない。


「いえ、俺もすずさんとおあきちゃんの力になります」


 そう、俺はおあきちゃんのような子供でも、お稲荷さまの使いとして隠れて妖怪を退治している事実に力になれない後ろめたさを感じていた。すずさんと、おあきちゃんと一緒に、俺が協力できることがあるのならば戦うべきだ。


「そうかい、じゃありょうぞう、これからおまいさんが未来に帰るまでの間よろしく頼むよ」

すずさんが笑顔になる。


「怪我したらすぐあたしが治すからね」

 おあきちゃんは真剣な表情でそんなことを言ってくれる。


「はい!」

 ごく自然に、俺も口元をほころばせる。


 俺の心のわだかまりを流すかのように、荒川の流れはさらさらと音を立てて、月光の優しい光の中を流れていた。

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