第七幕 短冊に掲げる願い


 新月しんげつを過ぎ、七月の五日になっていた。


 立秋りっしゅうは既に過ぎ、暦の上では秋となっているが夏真っ盛りだった。


 今は二十一世紀での暦では八月の下旬初めくらいだろう。秋にもかかわらず夏の暑さが残る、いわゆる残暑の熱気が本所の町を包んでいた。


 白衣びゃくえはかまを身に着けた俺は午前中、神社の東にある庭にてかがみこみ、けたたましく鳴り響く蝉の鳴き声を背にしていた。


 木灰きばいを混ぜた水をはったたらいの前で腰を落とし、布を手で揉んで洗うという、いわゆる手もみ洗濯をしていたのである。


 俺はこの時代の洗濯は洗濯板を使うものとばかり思っていたが、そんなものは見た事も聞いたこともないと言われた。


 徳三郎さんのふんどしやすずさんの襦袢じゅばんを手で揉んで洗う。近代的な合成洗剤はないが、先人の知恵というのはたいしたもので、この木灰きばいをといた水でもかなり汚れは落ちるものだという事を知った。


 なんとか昼に日が高くなるまでに、洗濯を終わらせた。物干し竿に全ての衣類を竹でできた洗濯ばさみで干した俺は、満足して大きく背伸びした。今日も太陽が調子よく照り付ける良い洗濯日和だった。


 今日は講堂から子供の声は聞こえてこない。あの鶏の妖怪を倒した後に知ったのだが、このやしろの手習い所は、毎月の五日、十五日、二十五日は休みなのだという。


 俺はすずさんに洗濯が終わった事を報告しに、住処すみかに入る。土間口の段差を上がり、廊下をつたい、西の客間に行く。


 ここはふすまを全て開ければ風通しがすこぶる良いので、すずさんもおあきちゃんも夏の暑い日はここで薄着を着て寝て過ごすのだという。なお、庭先には西からの陽を防ぐための大きなすだれがかけられている。


 軒先に吊るされている陶器製の風鈴が、ちりんちりんと鳴っている。


 二人とも薄着を着て俺のスポーツバッグの近くで畳の上に寝そべり、残暑の暑さにうだっている。なお、おあきちゃんも汗をかきながらすぅすぅと息を立て寝ころんでいる。


 俺は、淡い藍色の薄着を着た、寝転んでいるすずさんに話しかける。


「すずさん、洗濯終わりましたよ」


 すずさんは寝そべったまま返す。

「あありょうぞう、ご苦労。でもおまいさん、こんな暑い日によく動けるね」


 確かに今は江戸の人にとっては暑い盛りだが、地球温暖化に加えてヒートアイランド現象のある二十一世紀の東京の夏を過ごしてきた俺にとってはこれくらいの暑さはそれほど辛くはない。摂氏三十度を少し超えたくらいだろうかと思う。


「未来ではこのくらいはそれほど暑いうちに入らないんですよ。もっと暑い日が何日も続きます」


 俺の言葉にすずさんが、寝転んだまま気だるそうに返す。

「おお、やだねぇ、やだねぇ。未来ってのは夏になったら焦熱しょうねつ地獄じごくになるようなもんじゃないかい」


「そうでもないですよ、エアコンとかもありますし」


「『えあこん』? 『えあこん』ってなんだい?」

 すずさんが聞きなれない言葉に興味を示す。


「えっとですね……暑さ寒さを操る機械きかいのことです」

「『機械きかい』ってなんだい?」


――ああそうか、まだ『機械きかい』という言葉がないのかもしれない。


「夏には涼しくしてくれて、冬には暖かくしてくれる機巧からくりのことですよ」

 その言葉に、すずさんが興味深そうに反応する。

機巧からくり? じゃあ、おあきに化けさせることとかできないかい?」


「えっと……多分無理です。安定した電力が供給されるコンセントがりますし、こんな部屋じゃ冷気が逃げて涼しくはならないかと」


 すずさんは、寝転んだまま不満そうな顔をする。

「じゃあさ、りょうぞう。その『えあこん』とやらが無くっても、涼しくなる方策とか考えておくれよ」


「えっとですね……未来ではこういう暑い日には、かき氷とかを食べたりして涼をとりますね」

「かき氷? なんだいそれ?」


――ひょっとして、かき氷もまだないのか。


「氷をかんなのようなで薄く削って、甘いシロップ……みつをかけて食べるんですよ。こっちでは食べられないんですか?」


 俺の言葉に、すずさんが不満げに口を尖らせる。


「りょうぞう、江戸では夏にそんな氷を削ってみつかけて食べられんのなんて、徳川とくがわ将軍しょうぐんさまとか、日本橋にほんばし豪商ごうしょうのようなお大尽だいじんくらいなもんだよ。氷なんて冬の寒いうちにしかつくれないからさ」

「まだ冷凍技術がないんですね」


 すずさんは寝転んだまま、いかにもめんどくさそうに話をする。

「まあ、あたいは炎を操れるから、冬はどうってことないんだけどね。夏はどうも苦手さ。下手すると暑気しょきあたり(熱中症)になっちまうからね」



 なお、徳三郎さんは友人と川べりに涼を取りにいっており、昼飯は用意しなくて良いとのことだった。


 そこに、遠く遠くの方から、かすかな掛け声が聞こえてきた。

「……ひやっこーい、ひやっこーい」

 冷や水の売り歩きの声だった。


 すずさんが、寝転んだまま俺に伝える。

「りょうぞう、冷や水を買ってきておくれよ。おまいさんの分も買ってきて良いからさ」

「買ってきてもいいですが、俺は飲みませんよ」


 俺は数日前、天秤棒で売り歩く冷や水売りから冷や水を買って飲んでみたことがあるが、二十一世紀の清涼飲料水のようなものと思って飲んでみたのが間違いの元であった。


 冷や水といっても煮沸しゃふつ消毒しょうどくした水ではなく、川向こうの用水路の水をそのまま汲んで売り歩くといったものであったらしいので、平成に生まれ育った俺はすぐさま腹を下した。


 その後、スポーツバッグに正露丸を入れておいてくれた葉月に心から感謝したのは言うまでもない。なお、若者に比べて腹が弱いお年寄りが無理をしてこの冷や水を飲み、腹を下す事を『年寄りの冷や水』というらしい。



 俺は廊下を抜け土間段を降り、木の器を手に取り草履ぞうりで表に出る。


 通りに出ると、陽射しを避ける為に竹編みの笠を頭にかぶった、棒手振ぼてふりの人がちょうど神社の前を通り過ぎるところだった。


「すいません! 冷や水ください!」

 その俺の呼びかけに、天秤棒で桶を担いだ男が振り返る。竹蔵さんだった。


「おっと! りょうの字! いやぁ、毎日暑いねぇ」

 編み笠をかぶった竹蔵さんは、にこにこしながら俺に近寄る。


 俺も応答する。

「竹蔵さん、冷や水を一杯お願い」

「はいよ! 四文でござい!」

 竹蔵さんは担いでいた天秤棒を下げ、桶を下ろす。そして備え付けの柄杓ひしゃくで、俺の手に持つ器に一合ほどの水を入れ、加えて天秤棒に取り付けてある砂糖袋から黒砂糖を一さじ入れる。なお、四文銭一枚は現代でいうと百円玉くらいの感覚で使うものらしい。


 砂糖の混ざった冷や水の入った器を手に持った俺は、竹蔵さんに話しかける。

「江戸って砂糖が手に入るんだね」


「あいよ、そんなに安かねぇけどな。ここ十年か二十年かで薩摩さつま(鹿児島県)や讃岐さぬき(香川県)で甘蔗かんしょ(サトウキビ)を作り始めたってんで、江戸えど市井しせいものらにも手が届くようになってきたんでぇ」

 竹蔵さんはそう言うと、俺から四文銭一枚を受け取る。


 俺は尋ねかける。

「屋次郎さんは元気にしてる?」


 この前聞いたのだが、どうやら屋次郎さんと竹蔵さんは『蒟蒻こんにゃく長屋』と呼ばれる同じ長屋の住人同士で、よく一緒に酒を呑みに行ったりしているらしい。


 俺の言葉に、竹蔵さんが気まずそうな顔をする。

「あー、実はよ。ヤジさんは今、寝込んでんだよな」


「えっ!? 何で!? 病気とか!?」

 俺は声を上げる。


 竹蔵さんが伝えてくる。

一昨日おとといに、鯖鮨さばずしをしこたま食ったんだけどよ。それがどうやらこの暑さで痛んでたらしくってな、腹下してぃ言ってんだよ」

 なんだそんなことかと思い、俺は胸を撫で下ろす。


「じゃあ、俺も屋次郎さんの所へお見舞いに行くよ」

 俺の言葉に、竹蔵さんが返す。

「残暑見舞いは、腹が治ってからの方がいいんじゃねぇか?」


 俺の『お見舞い』と竹蔵さんの『お見舞い』の意味がずれているようだった。


「えっと……故郷から持ってきた、腹痛はらいたによく効く丸薬がんやくがあるから、屋次郎さんに持っていこうかと」

 俺の言葉に、竹蔵さんが驚く。

丸薬がんやくぅ!? りょうの字、お前ぇそんな値の張るもんヤジさんに渡すつもりなのかい?」


――もちろんだ、俺は困っている人を放っておけない性分なのだから。


 俺は竹蔵さんに、長屋まで案内してもらう為、待っていて欲しいと伝える。


 社に入って冷や水をすずさんの元に送り届け、神社を離れても良いというすずさんの許可を貰う。


 そして残暑の蝉の声降り注ぐ中、すずさんに巾着袋を借りた俺は四百粒入りの正露丸の瓶を入れて外に出る。俺は白衣びゃくえはかま姿のまま、竹蔵さんと一緒に屋次郎さんのいる、蒟蒻こんにゃく長屋に向かった。






 蒟蒻こんにゃく長屋は小名木川に架かる高橋たかばしという橋を渡ってから四町、つまり400メートルほど行った所にあるらしい。


 神社を出てから北の方に進むとすぐ小名木川があり、そこから少しばかり東に向かった所に架かる『高橋たかばし』というアーチ型に反った大きな木造の橋を渡り、深川の町から南本所の町に入る。


 隣を歩く竹蔵さんは、重さ数十キログラムはあろうかという水桶を天秤棒で担いでいるというのに、俺と変わらぬ速さで歩いていた。なんてスタミナだ。


 表通りには商店が並んでいるが、商店と商店の間には所処ところどころに路地がある。それらが長屋のある領域の入口なのだという。


 俺達が、蒟蒻こんにゃく長屋に通じるある店とある店の間の細い道を入ると、所狭しと長屋が並んでいた。多くの江戸の庶民は庭のある屋敷ではなく、こういった狭い集合住宅に押し込められるように住んでいるのだという。


――東京の厳しい住宅事情は二百年前から少しも変わらないんだな……


 そんな事を思いつつ、長屋のある領域を歩く。


 目の前にある井戸はおそらくは生活用水に使う水路の水をひいた井戸なのであろう。


 中年女性たちが近くで手揉み洗いで洗濯を行い、噂話に花を咲かせていた。子供が手に手に折り紙でできた風車を持ち、群れて走っていた。巡らされたどぶ溝の上には木の板が敷かれていて、上を歩くたびに音がする。


 鼻を突くの臭いがするかわやの入口の扉が隠しているのは下半分だけで、老人が後ろ向きで力を入れて用を足しているのが見えた。女も後ろの頭を見せたまま用を足すのかと、そんな事を考えた。


 蒟蒻こんにゃく長屋に近づき、屋次郎さんが住んでいる部屋の前に行く。部屋幅へやはばは二メートル半強程であり、障子紙の引き戸には『火の用心』と刷られた御札おふだが貼られていた。


 竹蔵さんが、どしりと水桶を地面に下ろして戸の近くをコンコンとノックする。

「ヤジさーん! 竹蔵だ! 入るぜー!」


 部屋の中から低くくぐもった「おぉぅ」という声がして、竹蔵さんは戸を開ける。


 竹蔵さんと共に俺は部屋に入る。


 土間には水瓶みずがめ、外のどぶに繋がっている流し、かまのあるかまどがあった。


 一段高くなっている土間段の向こうの生活空間は、四畳半の広さであった。


 そしてその四畳半部屋の真ん中に、屋次郎さんが敷物布団の上で仰向けに寝転んでいた。


「ヤジさん? どうだい、気分は?」

 竹蔵さんが訪ねると、屋次郎さんはこちらを見ずに天井を見たまま返す。

「ああタケさん、駄目だね。あのさばかなり古かったらしい。ちきしょう、旨かったのになぁ」  


「まあ、食いもんは腐りかけが一番旨いってのはよく聞くがね。腐りきったもんが旨いって話はあんま知らねぇな」

「タケさん、そりゃ腐りきったもん食った奴は、あまりの旨さにみんな昇天しちまうんだよ」


「はは、ちげぇねぇな」

 竹蔵さんが笑う。


 そこに、俺が口を開く。

「屋次郎さん、大丈夫?」


 すると、俺がここにいることに気付いた屋次郎さんが声を上げる。

「おお、なんだ! りょうやも来てくれたのかい! 嬉しいねぇ。腹のほうはあと三日は駄目だろうな、さばにあたったら長引くからよ」


「今日は俺、正露丸せいろがんっていう丸薬がんやくを持ってきたんだ。故郷から持ってきたとてもよく効く薬だから、飲んでもらおうと思って」

 俺がそう言って正露丸せいろがんびんを巾着袋から出すと、寝ころんだままそれを見た屋次郎さんは、飛び起きて手を振った。

「いやいや! そりゃいけねぇいけねぇ、そんなたかそうな舶来はくらいの薬なんか買えねえよ」


「何言ってんだよ、売るわけ無いだろ。あげるつもりだよ」

「じゃあ何かい? りょうや、ちょっと前に知り合ったばかりの俺に薬を恵んでくれるって訳かい!?」


「まあ、こないだあじの開き貰ったし、お返しだよ」

 俺がそこまで言うと、屋次郎さんは感極まったといった感じになった。

「そうかぁ。りょうや、お前ぇきっと立派な神職になれんぜ、なあタケさん!」

「ああ、ちげぇねぇや」

 屋次郎さんの言葉に竹蔵さんもうんうんとうなずく。


――いや、俺は別に神主になるつもりはないのだが。


 俺は屋次郎さんに尋ねる。

「屋次郎さん、塩はある?」

「ああ、そこのかまどそばにあらぁ」

 屋次郎さんが指差した先を見ると、台の上に小さなふたつきの白い陶器のつぼが二つあった。開けて中を見てみると片方には醤油と思われる黒いどろりとした液体、もう片方には白い塩が入っていた。


 俺は竹蔵さんに、これまた近くにあった木の器を渡してお願いする。

「竹蔵さん、これに冷や水一杯お願い。砂糖は入れないで」


 本当は煮沸しゃふつ消毒しょうどくした白湯さゆの方がいいのだが、沸かしている暇も無いだろう。それに、江戸の人はそれくらい問題ないらしいし。


 竹蔵さんは心得たとばかりに外に出て、すぐに器に水を溜めて戻ってきた。


「りょうの字、こいつでヤジさんに薬を飲ませんだな」

「ああ、ちょっと器を貸して」


 俺は竹蔵さんから水の入った器を受け取り、塩をひとつまみ入れる。昔、弟の慎司しんじが腹を下した時に作ってやった水と同じく水と塩を目分量で百対一になるようにしてから、近くにあったさじでよく混ぜる。


 下痢になっても飲める、浸透圧調整した応急スポーツドリンクのできあがりだ。


 俺は草鞋わらじを脱いで土間段を上がり、座った屋次郎さんに水の入った器を手渡す。


 そして正露丸せいろがんびんふたを回して開けると、正露丸特有の異臭が溢れだした。


「うわっ! くせぇ!」

 屋次郎さんが鼻をつまむ。


――生まれて初めて正露丸の臭いを嗅ぐのだから、そりゃそうだろう。


「臭いし、苦いけど本当によく効くんだ。噛まずに水で飲んで」

 俺がそう言いつつ、びんから正露丸の粒を三粒取り出し、屋次郎さんの手のひらの上に乗せる。


「これ……飲むのかい?」

 臭いに顔をしかめる屋次郎さんの言葉に、俺はうなずく。


「実はよぅ、りょうや。俺ぁ生まれてこの方、薬なんか飲んだ事ねぇんだよ」

 屋次郎さんが躊躇ためらってると、竹蔵さんが後ろからはやし立てる。

「なんでぇなんでぇ!? ヤジさんそれでも江戸っ子かい? 年下に薬なんちゅうたいそうなもん恵まれて飲まねぇなんて江戸っ子の面汚しにも程があらぁ!」


 その言葉に屋次郎さんは意を決したようで、悪臭放つ正露丸の丸薬を三粒口に入れ、持っていた器の水で一気にごくりと飲み干した。


 器を顔から離した屋次郎さんが渋い顔をする。


「かぁぁ! にげぇ! こんなにげぇもん口ん中に入れたの、生まれて初めてだぜ!」


 すると後ろから、竹蔵さんが言葉をかける。

「なぁに言ってんだヤジさん。昔っから、良薬は口に苦しっていうじゃねぇか。そこまで苦ぇ薬なら、きっと霊験れいけんあらたかな薬に違ぇねぇぜ」


「それもそうだな。ありがとな、りょうや。深く礼をするぜ」

 屋次郎さんが座ったままお辞儀をして、笑って白い歯をみせる。


 俺は適当に挨拶をして、その場を切り上げた。


 夕方と翌朝の分を六粒部屋に残して、俺と竹蔵さんは屋次郎さんの部屋を出た。


 そろそろ真昼だろうか、夏の太陽が頭上でぎらぎらと照っていた。俺は、こんな炎天下で水を売り歩く竹蔵さんの事も心配になった。竹蔵さんに声をかける。


「竹蔵さんは、こんな暑い日に天秤棒担いで熱中症とかにならないの?」

「『熱中症ねっちゅうしょう』? なんでぇそれ?」


「あ……えっと、暑気しょきあたりとかにならないの?」

「ああ、暑気しょきあたりか。暑い中、無理して売り歩いて倒れたり、死ぬ奴もかなり多いって聞くなぁ。仕方ねぇけどよ」


――よくそんな事をすらりと言えるな。


 どうやら、この時代は命の価値が軽いようであった。


「竹蔵さん、暑気しょきあたりは一刻いっとき(二時間ほど)に一度必ず物陰ものかげとかで休んで、塩をひとつまみ舐めて水をちゃんと飲むことで大分防げるから気をつけといて」


 俺がそこまで言うと、竹蔵さんはぽかんといった顔をする。


「りょうの字、お前ぇ、まさか……」


――まずい、でしゃばりすぎたか。未来の知識を言ったのはまずかったか。


 俺はごくりと唾を飲み込む。


 そして竹蔵さんが言葉を続ける。

「お前ぇさん、医術の心得があんのか!? 凄ぇなぁ!」

「あ、いや、医術っていうか、保健の授業で習っただけで……」


「へぇー『保健ほけん』っていう名の塾で習ったのかい! やっぱり長崎の蘭方医の塾かい!?」


 俺が竹蔵さんに詰め寄られながら、なんとかかんとか誤魔化していると、小さな人影が近づいてきた。


 身長140センチメートル弱で頭の上で髪を結った、右目元に泣き黒子ぼくろのある深い赤色の着物を着た小さな女の子だった。背丈の感じでは十歳か十一歳くらいだろうか。


「竹蔵にいちゃん、屋次郎にいちゃんの具合はどうさね?」

「ああ、おうめ。ヤジさんならもう平気の平左衛門さ。ここにいるりょうの字が、ヤジさんに薬を恵んでやったからな」


 女の子は恥ずかしそうに口元を着物のそでで隠し、微妙に顔を赤くしている。


 俺は手を振って挨拶した。

「こんにちは、君もここの長屋の人?」


 すると、女の子はそそくさと竹蔵さんの後ろに隠れてる。そして俺におびえているかのように、泣き黒子ぼくろのある右目だけを見せる格好でこちらを覗く。


「ああ、悪ぃ、悪ぃ。おうめはちぃと人見知りでよ」

 竹蔵さんがフォローを入れると、おうめちゃんが口を開く。


「オレ、こんなでっかい人と話なんかしたことないさね」

 すると、竹蔵さんが応える。


「こいつはな、ほら、高橋たかばしを越えたとこにある深川の稲荷社いなりやしろに来た異人の子のあんちゃんだよ。言っただろ? まだ十五だって」


「ああ、あの噂の人かね!」


 おうめちゃんが驚いたような顔をしてから、安心したように竹蔵さんの後ろから出てきて俺の前に来る。不思議と、先ほどまで抱いていたような恥ずかしさはもう感じていないようだった。


「屋次郎にいちゃんに薬をくれて有り難う。オレからも礼を言います」


 口元を引き締めてぺこりと礼をする姿は、うって変わってしっかりした印象だ。俺は応える。


「ああ、また誰かが腹痛はらいたになったらいつでも言ってよ。まだ薬は沢山あるから」


「それにしてもほんに、たけが高いさね。オレより一尺(約30センチメートル)超えて高いんじゃないね?」


 確かに、俺は身長が174センチメートル、この子は140センチメートル弱。仮に138センチメートルとしたら、36センチメートルも身長差があることになる。


 竹蔵さんが口を開く。

「おうめはな、深川の豆腐屋で女中奉公をしてんだよ。でも何で帰ってきたんだ? 忘れ物かい?」


「あー、うん、ちょっとさ。たなの旦那様に伝えて、忘れ物取りに来たのさね。ついでに昼飯を食べようかなって思ってさ」


 こんな十歳か十一歳程度の子供でも仕事をしているのかと、俺は心の中で感心した。




 正午の九つの時の鐘が鳴って、俺は蒟蒻こんにゃく長屋から神社に戻ってきた。途中でおみやげもいくつか買ってきた。


 神社に戻った俺は、すずさんとおあきちゃんが寝ていた西の客間に足を運ぶ。


 すずさんもおあきちゃん同様、暑い中すぅすぅと寝息を立てて寝ていた。


「すずさん、起きてください。お昼ですよ」


 肩を掴んでゆさゆさと揺すると、すずさんが起きる。


「ああ、りょうぞう。用事は済んだのかい?」

「はい、ちゃんと屋次郎さんに薬を渡してきました」


 すずさんはおあきちゃんの頬をつついて、起こす。


「おあき、昼飯を作るから起きな」

「……ううん、暑いからあまり食べたくない」


 おあきちゃんが目元を指でこすりながら、ゆっくり上体を起こす。


 そこに、俺が伝える。

「今日は俺が作るよ。町で素麺そうめんを買ってきたから」


 先ほど、町にある乾物屋で素麺そうめんを買ってきたのだった。


 すると、おあきちゃんが笑顔になる。

とうに? すず姉ぇ! 素麺そうめんだって!」

「おっと、冷麦ひやむぎかい。七夕たなばたにはまだ早いけど、こんな暑い日には冷麦ひやむぎに限るねぇ」


 おあきちゃんも、すずさんも喜んでくれたようだ。

「ユーティリティーライターがあるので火もつけられます。かまどなべで茹でてくるので、しばらく待っててください」

 俺がそう告げると、すずさんがこんなことを呟く。

「やっぱり、冬の煮麺にゅうめんもいいけど、夏は冷麦ひやむぎだねぇ」


 上機嫌のように思えるすずさんの声を背に、俺は台所に向かった。




 ざるに乗せて井戸水で冷やした素麺を三人で食べたところ、すずさんもおあきちゃんも大変喜んでくれた。醤油にみりん、そしてダシとして鰹節かつおぶしを混ぜたそうめんつゆを、いたく気に入ってくれたようだった。


「ごちそうさま」


 おあきちゃんが膳の前で手を合わせる。俺とすずさんも同じく手を合わせる。


「でも、ちょっと少なかったね」

 おあきちゃんが幼い女の子らしい可愛らしい声でそう言うので、俺は返す。


「デザートを用意してるんだ。ちょっと待ってて」

 俺がそう言い立ち上がると、後ろからおあきちゃんが声をかけてくる。

「りょう兄ぃ、『でざあと』って何?」

「すぐにわかるよ」


 俺は部屋を出ると、土間段を降り、外に出て井戸に近づく。


 そして井戸から伸びている縄を引っ張りかごを引き上げる。縄を結わえたかごにはスイカが入ってある。先ほど四十文で買って、この井戸で冷やしておいたものだった。


 俺は台所にて包丁で半分だけ適当にスイカを切って、盆に載せ、ほんのちょっとだけ塩をふる。おあきちゃんとすずさんの元に持っていくとおあきちゃんは目を輝かせた。

西瓜すいか冷やしてきてくれたの!? ありがとう、りょう兄ぃ!」


「ああ、西瓜すいかかい。西瓜すいかが初めにこの江戸に来た時はあかはらわたのような恐ろしい中身だってんで、皆食べなかったんだけどねぇ。でもここのところは暑いさかりにはみんなやして食べてるねぇ」


 そう言ってすずさんは西瓜すいかの切れを持って赤い部分にかじりつく。おあきちゃんも小さな口でそれにならう。


 もちろん俺もその場に座り、涼を取るためにスイカを手に持ちかじりついた。品種改良があまり進んでいないのかそんなに甘くはなく、種も多かったが、三人で向かい合って座りながら食べるスイカはそれ以上の価値がある味がした。


 外からは相変わらず、夏の暑さを表すかのように、けたたましく蝉の声が鳴り響いていた。

 



 それから二日が過ぎ、七月七日の夕暮れになっていた。


 稲荷神社の前、鳥居の傍には一際ひときわ大きな笹竹が飾られていた。昼間には手習い所の子供達が各々おのおの願い事を書いたので、三十近い短冊が吊るされている。


 この笹竹は昨日の六日、腹痛はらいたが治った屋次郎さんが感謝の言葉と共に持ってきてくれたものであった。


 屋次郎さんは「舶来はくらいの薬ってやっぱりすげぇなぁ!」と言っていたが、正露丸せいろがんは正真正銘日本製品だということは言わなかった。


 講堂の土間段に座る薄着のすずさんが、竹骨に紙の貼られた団扇うちわを片手に手招きする。


「りょうぞう、おまいさんも何か願いを書きな」

「ええ、そうですね」


 俺は講堂に上がり、用意されていたすずりで墨をすり、細い筆で白い短冊に願いを書く。


 何を書くかなんて決まっている。

『東京に帰って、皆に会えますように』

 これだけだった。


 俺の短冊を覗き込んだすずさんが、後ろから怪訝けげんな口調でこんなことを言ってくる。

「りょうぞう、それ『う』って文字もじかい? おまいさんまな楷書かいしょしかまなんでないらしいけど、もしかして未来みらいでは楷書かいしょをそんなていりゃくすもんなのかい?」


 戦後の新しい漢字は知らないのは当然だ。俺が簡単に返事をすると、すずさんが何やら口元を緩めにやにやしている。


「ひょっとして未来に、懸想けそうした女でも残してきたのかい?」

「……別にいいでしょう、俺には俺の事情があるんですよ」


 葉月に抱く恋心を見透かされたような気がした。俺は少し気恥ずかしくなって、土間段を降り、笹竹に向かう。


 おあきちゃんが自分の短冊を手に持ち、笹竹に何とか取り付けようと頑張っている所だった。


「おあきちゃん、おあきちゃんはどんな願いを書いたの?」


 俺が尋ねると、おあきちゃんは俺のほうを向いて、短冊の紙を後手うしろでに回して隠した。


「な、なんでもない! りょう兄ぃには内緒!」


 何だか焦っているように見えた。そもそも俺には女の子の秘密を覗き見る趣味はない。


 しかし、いつの間にかおあきちゃんの後ろに回りこんだすずさんが、えいやっ、という掛け声と共に、おあきちゃんの短冊を奪い取った。


「返して! すず姉ぇ! 返して!」


 おあきちゃんはぴょんぴょんと手を伸ばして飛び跳ねる。しかし、すずさんの手に持たれた短冊は、そこより随分上に掲げられて届かない。すずさんは、上を向いて短冊を読み上げる。


「えーと、何々、『亮兄りょうにぃと、なるながらせますように』か」


 おあきちゃんの顔が夕日に照らされる。


 すずさんは笑いながら、「こらっ」と言って手刀でおあきちゃんの頭を軽く叩く。


 カナカナカナカナ……


 赤い夕べに鳴り響く蝉の声は、既にひぐらしの鳴き声に変わっていた。



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