第六幕 火喰い鶏との戦い


 六月二十三日の夜、晩御飯を食べ終わった後に俺は二十一世紀の格好に着替え、スポーツバッグの中の荷物を整理していた。


 行灯あんどんの灯りのみが部屋を薄明るく照らし、俺の影を壁に映している。


 白衣しらぎぬ緋袴ひばかま、巫女装束に着替えたすずさんがふすまを開けて部屋に入ってくる。


「りょうぞう、調ととのえは済んだかい?」


 スポーツバッグの中身を整理し終わった俺は応える。


「ああ、はい。でもこんな格好でこんな荷物持ってたら、目立つと思うんですがどうしましょうか?」


「ああ、着物に関しては上から袢纏はんてんでも羽織ってりゃいいさ。は……りょうぞう、ちょっとおまいさんの影の中に荷があるよう立ちな」


 そう言われて俺はほのあかるい行燈あんどんと荷物の中間に立ち、俺の影の中に荷物があるようにする。


 すずさんが光の映す影となっている畳の上の荷物を軽くでると、スポーツバッグ二つとナップサック一つが、俺の影の中に吸い込まれていった。


 すずさんが告げる。

「おまいさんのを、おまいさんの影の中に入れたよ。これで、あたいが遠くに離れない限りははりょうぞうの影の中でついてくるからさ」


「凄い力ですね」


 俺は感心すると、すずさんは満足そうな顔をする。


「まあね。あやかしだったら大方おおかたふたつくらい、何らかのすべを持っているもんなのさ」


 そこで、俺は尋ねる。

妖怪ようかいを退治しているって言ってましたよね? すずさんとおあきちゃんで戦ってきたんですか?」


「まあね、あたいもおあきも伊達だて酔狂すいきょうでお稲荷様の使いやってるわけじゃないからね。町の衆が何気なく暮らせるように裏で調伏をしてるのさ」


 すずさんの言葉に、俺は当惑する。


――そんなあやかしと、すずさんとおあきちゃんは戦ってきたのか。


 おあきちゃんのような幼い女の子でさえ――


 ちくりと胸が痛んだような気がしたが、すぐに振りほどいた。俺は、そもそも無関係の人間なのだ。江戸の文政年間で過ごした八日間はあくまでイレギュラーな日常であり、俺は帰るべきところ、生まれ育った街である東京に帰らなきゃいけない。


 俺は後ろめたさを誤魔化ごまかすように、改めて口を開いた。


「はい、よろしくお願いします」


「まかせときなって、あの兎のあやかしが現れればちゃんと帰してやるよ」


 すずさんが笑う前で、俺は心の奥底に残る思いを振り切るかのようにうなずいた。




 徳三郎さんの袢纏はんてんを木綿ジャケットの上から羽織った俺は、ジーンズを穿きスニーカーを履いて、子の刻(深夜零時前後)に、表通りを避けるようにして深川の町の幅二メートルもない細い道を歩いていた。


 ジーンズのポケットには何も入っていない。財布もスマートフォンも学生証も全て俺の影の中に入ってあるナップサックの中だ。


 すずさんは巫女装束で、ひとりの提灯ちょうちんを先にぶら下げた棒を持っている。江戸の町では夜歩く時は提灯ちょうちんを持って歩く決まりなのだという。


 江戸の町には電気で輝く街灯はなく、こんな下町ではこんな裏通りに深夜には人は歩いていない。


 幅の広い表通りならばまだ、わりと少なくない人が行き来しているらしいが、ゆらゆらと揺れる提灯の頼りない灯の向こう側には広大な闇があり、どこからかする野犬の遠吠え、そして夏の虫の声だけが響いていた。


 棒にぶら下げられてゆらゆら揺れる提灯ちょうちんあかりが目前に広がる闇の中で往復している。


 すずさんは、白衣しらぎぬ緋袴ひばかまといった、巫女装束で俺の前を歩いている。なんでも、深夜に誰かに見つかったとしても、神事の一環としての儀式だと言い訳が立つかららしい。おあきちゃんも赤茶色の着物を着てすずさんの隣を歩く。いざとなったら、すずさんの影にいつでも隠れられるようにしているとのことだ。


 神社を出て、200メートルほど歩いたところで、すずさんとおあきちゃんと一緒に裏通りから表通りに顔をひょいと出すと、提灯ちょうちんの掛かった木の柵のようなものが道を塞いでいるのが見えた。木の柵の近くに接している小屋には誰かがいるようで、提灯ちょうちんあかりがぼんやりと柵と小屋を照らしていた。


 俺はすずさんに尋ねる。

「すずさん、あれはなんですか?」


 すずさんは答える。

「ありゃ町木戸まちきどって言ってね、町境まちざかいにあって、夜四つ(午後十時ごろ)になったら閉めるんだよ。泥棒どろぼうとか押込おしこみとかのぞくが夜の町に現れても逃げられないようにするためさ」


「普通の人は通れるんですか?」

「小屋にいる木戸番きどばんやってる奴に、ちゃんと理由わけを話したらくぐり戸から通してもらえるよ」


「でも、俺達は妖怪を退治しに行くんですよね? ちゃんと理由を話すんですか?」

「そんなの、話せるわけないだろさ」

 すずさんは、何の気なしに言う。


「じゃあ、なんて言って通るんですか?」

 俺がそう尋ねると、すずさんがこう応える。

「そりゃね、黙って破るのさ。りょうぞう、ちょっとこっち来い」


 すずさんはおあきちゃんと一緒に、木戸きどが接している建物の脇にある路地に入る。俺も手招きされ路地の中に入るも、木でできた壁で圧迫されているようなかなり狭い路地であった。


 俺は路地ですずさんに尋ねる。

「こんな路地に入ってどうするんですか?」

 すると、すずさんが飄々と答える。

木戸きどを通れないならさ、答えは容易たやすいものさ。を通らせてもらえばいいのさ」 


 へ? 

 俺はきょとんとする。こんな深夜に知らない人の家の中に入るなんて、それこそ盗賊とうぞくそのものではないか。


 すずさんは、家の壁に手を当てると、そのまま腕ごと壁の中に手をずぶりと沈ませた。

 俺が呆然としていると、すずさんが口を開く。

「わかるかい? りょうぞう。この家の壁にできた家のを通って、向こう側まで行くのさ」


「りょう兄ぃ、この前の夜もこうやって河原かわらまで行ったんだよ」

 おあきちゃんがすずさんのはかまに掴まり、次いでもう片方の手で俺の手を掴む。


「りょうぞう、起きているときに影の中に入るのは初めてだろう? だけど、そんなに悪いものでもないよ?」


 すずさんの言葉と共に、ずぶずぶと、俺たち三人の体が壁の中に沈みこむ。俺は、改めてこの二人が人ならざる妖狐であることを認識した。





 家の影の中を通り抜け、所々にあった町木戸を抜け、4キロメートルくらい歩いてどこかの河原に到着した。川の水がさらさらと流れる音の傍には夜の闇が広がっている。既に時間帯は丑刻うしのこく(深夜二時前後)くらいになっているだろう。


 俺は、提灯ちょうちんを棒の先にぶら下げているすずさんに尋ねる。


「ここですか?」


「ああ、そうだよ。ここで小さなあやかしが飛び跳ねてたってのを見た奴がいたらしいのさ」


 すずさんが提灯棒を持っていない左手の人差し指と中指を合わせて動かすと、提灯ちょうちんの中に入っていた炎が浮かび、提灯ちょうちんから飛び出し、中空に浮遊した。


 すずさんの力の一つで、炎を自在に操ることができるとの説明は受けていたが、いざ目の前でその妖術を使われるとやはり不思議な感じがする。


 すずさんは炎を空中に浮かべると灯りの消えた提灯ちょうちんを棒ごとたもとの影の中に入れた。影の中になんでも潜ませることができるという力があるということは、つまりどれだけ多くの物品でも何でも近くの影の中にしまっておけるという事なのだとか。


 すずさんが、俺に向き直って話しかける。


「じゃあ、りょうぞう。あやかしを呼び寄せるけどさ、覚悟はいいかい?」

 俺がうなずいて「はい」と応えると、すずさんは両手で何やらいんを結び、呪文を唱え始めた。


 おあきちゃんが俺に話しかける。

「りょう兄ぃ、今、あやかしを呼び寄せているの。もし、兎のあやかしじゃなかったら退治するから、その辺りに隠れといて。妖が出ると瘴気しょうきが充ちて、いくら大声を上げてもが外に届かなくなるから気を付けて」


 俺は周りを見渡す。小さな炎に照らされた暗い河川敷には何本も生えている細い木のそばに小屋があり、いざとなったらそこに隠れることができそうなのを俺は確認する。


 しだいに、闇の向こうから何か不気味なものが飛び跳ねつつ、近づいてくる様子が視界に入った。


 十メートルほど向こうにいるそれは確かに小動物サイズのものであったが、兎ではなく、にわとりであった。


 大きさは60センチメートルほどでそれほど大きくはない。目は青いガラス玉のように透き通っていて、黒目がなかった。黄色いくちばしの下には袋ではなく、いくつもの垂れ布のような赤い長方形のひらひらが垂れ下がっていた。鶏冠とさかは燃えるように紅く、ゆらゆらと実体のない炎のように揺れている。不気味だ、というのが俺の率直な感想だった。


 すずさんが、残念そうな口調で俺に告げる。

「なんだい、違うようだね。りょうぞうはそのあたりの小屋にでも隠れてな、すぐにカタをつけてやるからさ」


 すずさんは俺の離れるように手で払う動作をし、反対側の手でおあきちゃんの手を握る。俺は言われた通りにすずさんの後ろに下がる。


 あまり離れすぎると妖術が解け、影の中に入っている俺の荷物が出てきてしまうらしいので、気をつけないといけない。あと、すずさんが気を失っても術が解けてしまうらしい。


 すずさんはおあきちゃんの手を握り「おあき、薙刀なぎなた!」と叫ぶ。


 すると、瞬時におあきちゃんの体が柄の長さ約150センチメートル、刃が約60センチメートルくらいはある薙刀なぎなたに変身する。すずさんは勇ましく薙刀なぎなたを構え、鶏に一目散に駆けていく。

「先手必勝だよ!」


 駆けていくすずさんのかたわらを狐火がついていき、俺の足元は暗くなっていく。


 薙刀なぎなたの刃を振り上げ、弧を描いてにわとりに振り下ろされる。


 ガシッ!!


 地面に勢いよく薙刀なぎなたの刃が振り下ろされる。乾いた土の音が辺りに響く。


「消えた!?」

 すずさんが叫ぶ。


 確かに刃が振り下ろされる間際、にわとりは消えたのだった。


 そういえばこないだの兎の妖怪もいきなり消えた。その直後に、俺は首を切り裂かれたのだった。


 俺は叫ぶ。

「すずさん! 気をつけてください!」


 すずさんは薙刀なぎなたを持ったまま、後ろにいる俺に向き直る。

「りょうぞう! 気配は消えてない! どこかそのへんにいるよ!」 


 すずさんが叫んだその直後、すずさんの振り返ったほほが、ねじり上げられ千切られるのが見えた。赤い血が空中に吸い込まれる。

「ぐぅぅっ!」

 すずさんが悲鳴を上げると同時に、すずさんは薙刀なぎなたを投げ落とし、自分の頬をねじり上げた何ものかを両手で掴んだ。


「掴んだ! ここにいる! こいつは透けて見えなくなっているんだよ!」


 投げ落とされた薙刀なぎなたは変身が解かれ、おあきちゃんの姿に変わる。


 すずさんは頬から血を流しながら、暴れまわる透明のにわとりと格闘している。


 すずさんが、透明のにわとりの首根っこを右手で掴んだらしい。右手で何かを掴むような動作を見せ、もう片方の左手の平を開き、にやりと笑う。

「焼いてかしわにしてやるよ!」


 すずさんの左掌ひだりてのひらから明るい炎がとめどなく吹き出し、にわとりのいると思われる場所に注ぎ込まれる。


 しかし、何かおかしい。すずさんの左掌ひだりてのひらから出ている炎は、すべて何かに吸い込まれているかのように宙に集まり、一箇所に留まり続ける。さながら透明なにわとりの胃袋に炎が溜め込まれているように見えた。


 浮いている狐火に後ろ姿を照らされていたすずさんの挙動が変わった。宙で透明なにわとりの首根っこを掴んでいた右手が何かの力をかけられたように大きく開く。


 後ろ姿を見せていたすずさんが「しまった」という挙動をしたのが見えた。


 おあきちゃんが叫ぶ。

「すず姉ぇ!? どうしたの!?」

 すずさんが自分に駆け寄ろうとするおあきちゃんを制するようにてのひらを向ける。

「おあき! 来るんじゃない! こいつは火喰い鶏だよ!」


 そう言うが早いか、炎をたたえたにわとりが完全な透明ではなくなり、腹の中に光り輝く炎を貯めた半透明の姿を見せた。


 その大きさは、先ほどの60センチ程度しかない小動物レベルの大きさから、明らかに150センチを超える中型動物レベルの大きさになっていた。


 鶏は、そのくちばしを大きく開ける。


 ボウン!!


 声にならない衝撃波のようなものをすずさんに向けて撃ち出した。


 ボウン! ボウン! 


 といった、鈍い音が風を抜け、何発もすずさんに叩き込まれる。その度ににわとりの体は少しずつ小さくなったような気がした。すずさんは衝撃波に吹き飛ばされ、ふっ飛ばされた先で仰向けに倒れた。


 宙に浮いていた狐火が消えた。

「すず姉ぇ!」


 おあきちゃんが叫び、すずさんに駆け寄る。


 透明な妖怪の腹の中の炎に照らされ、影の中に入れてもらったはずのスポーツバッグとナップサックが地面の上に現れているのがわかった。気絶したので術が解けたらしい。


「すず姉ぇ! お願い! 起きて! すず姉ぇ!」

 暗がりからおあきちゃんの必死な声が響く。しかし、すずさんの妖術である狐火は復活しない。


 腹の中の炎で照らされた半透明のにわとりの妖怪が、獲物をついばもうとしてるかのように、一歩一歩、気絶しているすずさんとその傍らのおあきちゃんに近づいていく。


 俺は咄嗟に、足元に合った木の枝を拾い上げ、にわとりに向かって走り出した。


「おあきちゃん! なにやってるんだ! 逃げて!」

 俺は走りながら、木の枝を鋭利な切り口になるようにばきりと折る。


 おあきちゃんが叫ぶ。

「でも! すず姉ぇが起きない! すず姉ぇを置いていけない! あたしは気を失ったのは治せないの!」


 俺は二人に近づいていく、先ほどから少し小さくなったとはいえ、130センチメートルはあろうかというにわとりの首に後ろから抱きつく。


「クェェェェェ!! クェェェェェ!」

 両翼をばたばた羽ばたかせ、半透明のにわとりは必死の抵抗をみせる。にわとりが抱きつく俺に衝撃波を食らわせようと、首をよじる。


 ボウン! ボウン! という音がにわとりに抱きついている俺の傍をかすめる。角度の関係でこの位置には届かないらしく、衝撃波は夜の闇の彼方に飛んでいく。


 一発撃つと、10センチメートルくらいにわとりが縮むようであった。


 俺は、必死で鶏にしがみつきながら、おあきちゃんに叫ぶ。

忠弘ただひろに化けて! 忠弘ただひろなら女一人くらい軽い!」


 おあきちゃんは、ああそうか! という顔をして直ちに忠弘ただひろに変身した。


 巨漢である忠弘ただひろに化けたおあきちゃんは、気絶しているすずさんをひょいと小脇に抱える。


「りょう兄ぃ! すぐ戻ってくるから!」


 忠弘ただひろの声が響くと、おあきちゃんはおそらくすずさんを安全な所に連れて行くのだろう。闇の方に走っていってしまった。


「クェェェェ! クェェェェェ!」

 ばさばさと跳ね回る、大きさが110センチメートルになったにわとりとの消耗戦が続いていた。


 俺の足が時々地面から離れるくらい、にわとりは暴れている。あとは、すずさんが起きるまでの時間稼ぎとしてこいつを押さえ込めばいい。そういう計略だった。


 しかし、計略は時として、いや、大抵はあらぬ方向へ行ってしまうものだ。


「クェェェェェ!」


 にわとりは、大きく咆哮を上げたと思うと、俺の下半身を引きずったまま、さっきの小屋のほうに駆け出した。


 首の後ろに掴まっている俺も、そちらの方向へ運ばれざるを得なかった。暗くて見えづらいが、暗闇の中には盛大に土埃つちぼこりが舞っているのだろう。


 にわとりは、木の壁のある小屋近くに来ると、俺のいる首の後ろの位置を小屋の方に向けた。


 俺は即座に、これからにわとりが何をするつもりか理解したが、次の瞬間には手遅れだった。


 ドシン!


 俺は小屋の木の壁ににわとりと挟まれるような格好で打ちつけられた。アバラにひびが入ったかもしれないような激痛が走る。


「ぐぅぅぅぅ!!」

 俺はあまりの痛さにうめきの声を上げ、にわとりの首に回していた両腕をほどいてしまった。


 俺は地面にどさりと両膝をつく。目の前には黒目のないにわとりの妖怪が、くちばしを突き出し、臨戦態勢を取っている。


――くちばしで刺し殺す気だ。


 俺のその予感は正しかった。にわとりくちばしを突き出し、突っ込んでくる。


 ガツッ!


 俺は間一髪で左に転がり、避ける。


 先ほどまで俺が背にしていた板は、にわとりくちばしに、綺麗に貫かれていた。だが、俺はこの好機を逃さず即座に反応した。


 ザクリ!


 右手に持っていた鋭利な木の枝で、にわとりのガラス玉のような右目を突いた。ぱりんという音を立て、右目が薄い陶器片のように壊れる。


「ギェェェェェ!」


 にわとりが咆哮を上げる。


 壁に突き刺さったくちばしを抜いたにわとりは、怒りとしか形容しがたいの形相をこちらに向ける。炎のような赤い鶏冠とさかがいっそうめらめらと揺らめいた。俺の右手に握られた木の枝に汗がにじむ。


 ヒュルルルル! グサッ!!


 風きり音がしたと思うと、先に火のついた矢が勢いよくにわとりの首筋に突き刺さった。貫通した矢の先から血が一滴二滴と地面にしたたり落ちる。


 にわとりがそうしたように俺もその方向を向くと、二つ浮かんだ狐火の傍で、巫女服姿のすずさんが矢をつがえて弓のつるを引き絞っていた。


 すずさんは引き絞ったつるを放し、矢を射る。


 風切り音に次いでざくりという音を立て、またもや火矢が一直線ににわとりの胴体部に突き刺さった。


 この弓と矢もおあきちゃんが化けたものだろうか。刺さった矢は鶏を貫くと、役目を終えたかのように虚空に掻き消えた。


「りょうぞう! 今のうちに逃げな!」


 すずさんが俺にげきを飛ばしたので、俺は先ほど術が解けて地面にあらわになったスポーツバッグの方向に駆ける。


 俺とにわとりの距離が離れたところで、にわとりは俺に追いつこうとするが、すずさんの放った第三の矢がにわとりの胴体に突き刺さる。


 にわとりは足を止め、一瞬頭を動かしたかと思うと、すずさんの方に駆け出した。


 そこで俺は考えた。あのような矢では致命的なダメージを与えることはできない。すずさんが操ることのできる狐火で攻撃しようとしても、あのにわとりは火を吸い込んで自分のパワーに変えてしまうらしい。


 俺はスポーツバッグに駆け寄ると、大急ぎで目的のものを探す。ジッパーを開け、ここに来る前にしまい込んだ荷物の場所を探る。


 向こうのほうで、がきん、がきん、という音がし始めた。視線を向けてみると、弓矢に変わっていたおあきちゃんは薙刀なぎなたに化けなおしていた。くちばし薙刀なぎなたで、時代劇の殺陣たてのような斬り合いの様相を呈している様子だ。


 俺はスポーツバッグから、ハンカチ一枚、ユーティリティライター、ポケットティッシュ、そして虫除けスプレーを取り出した。虫除けスプレーはお徳用の大型のものである。


 まず、持っていた棒切れにハンカチを巻き付け、ティッシュを何枚か巻きつけた。これで火の付きは良くなるはずだ。そして、LPガスを噴射剤とした虫除けスプレーを吹き付ける。これでミニ松明たいまつの出来上がりだ。


 そしてユーティリティーライターでミニ松明たいまつの先に着火する。目論見どおり、ミニ松明たいまつの先が、めらめらと燃え出した。


 俺は、近くにあった手ごろな小石をアンダースローでにわとりに投げる。


 石は上手く鶏に当たってくれ、こちらに注意が向いたようだ。

 

 にわとりがこっちを見た瞬間、俺はミニ松明たいまつの炎に、虫除けスプレーのLPガスを勢いよく吹き付けた。スプレーガスの内圧が夜の空間に明るい炎を演出する。


 ボワワワァァァァァ!


 炎の赤さが辺りを照らす。にわとりは炎に注目し、こちらに向かってひたひたと歩き出したと思ったら、一直線にこちらに突進してきた。


――狙い通りだ。


 薙刀を持ったすずさんが叫ぶ。

「馬鹿! 何やってんだよ! 隠れな!」


 そう言われても、俺も一応男の子だ。江戸の町で夜の闇に紛れて妖怪と戦うというシチュエーションに血が沸かない道理があるものか。


 俺はときおりミニ松明たいまつの炎を虫除けスプレーから噴射されるLPガスで拡大しながら、川のほうへ向かって駆ける。


 にわとりが俺に今まさに追いつこうとする。


 状況は調った。俺は、川べりにて水面の上に炎の噴射を噴き出させる。


 ボワァァァァァァ!


「クェェェェェ!」

 大きさ80センチメートルくらいになっていた半透明のにわとりが奇声をあげつつ、炎に向かって本能丸出しで駆けてくる。


 俺は、向かってくるにわとりの先ほど潰してやった右目の方向へするりと脇を抜け、にわとりの首根っこを両腕でしかと抱きしめ、その勢いを利用して一緒に川に飛び込んだ。


 ざぶん!

 大きな塊がふたつ、水に飛び込んだ音が響く。さすがに夏とはいえど、深夜の川は暗く、そして、体を充分に冷やすほどの冷たさであった。


 にわとりは飛べない羽をばたつかせ、辺りにしぶきを勢いよく舞い散らす。

「クェェェェェェ! クェェェェェ!」


 バサバサバ! ジャバジャバジャバ!

 水深は川べりなのでそれほど深くなく、俺の腰くらいまでだ。


 また少しだけ、にわとりの体が小さくなった気がした。


 腹の中の炎が段々と尽きかけているのは明白だった。俺とにわとりの懸命な格闘は二十秒は続いた。


 にわとりが、しがみついている俺に向かって顔を向けた。余力が残っているうちに、あの衝撃波を食らわせるつもりなのだろう。


――そうはいくか。


 俺は左手をくちばしの中に突っ込んだ。


 ぶちり!


 激痛が走る。指を三本ほど食いちぎられたらしい。


「があぁぁぁぁぁ!」

 俺は叫ぶ。


 にわとりに掴まっていた両腕が、指先のあまりの激痛で思わずほどかれる。俺は暗い水面にばしゃりと音を立てて背中から叩き込まれた。

 左手を見てみると、人差し指と中指と薬指が消えていた。にわとりは怒髪天を突くといった形相ぎょうそうでこちらを見下ろす。


 ザクリ!


 脇から伸びてきた薙刀なぎなたが、にわとりの胴体を突き刺す。


 近づいていたすずさんが手に持つ薙刀なぎなたの刃でにわとりを刺したのだ。


 刺されたにわとりはもんどりうって大きな水音を立て、川の流れに逆らいつつも流されそうになりつつ横に倒れた。


 すずさんが叫ぶ。

「おあき! 変わり身を解け! りょうぞうを治してやんな!」


 その言葉に、薙刀なぎなたがおあきちゃんの姿に変わる。俺はにわとりから逃げるように水から上がり、おあきちゃんに近寄り、左手を差し出す。


「りょう兄ぃ、すぐ治してあげるから」

 おあきちゃんが手をかざすと、なくなったはずの左手の三本指がイモリの肢やプラナリアの胴体が数十倍速の速さで再生されたかのように、即座ににゅるりと元通りの形になった。


 川のほうを見ると、鶏が立ち上がり大きくくちばしを開いていた。あの衝撃波をまた撃つつもりだ。


 俺は咄嗟に叫ぶ。

「すずさん! そいつに火を食わせやってください!」

 すずさんは火球を一発にわとりに発射した。にわとりは当然のごとく、その火球を食い少しだけ大きくなった。


 俺は更に叫ぶ。

「もっとです! もっともっと火を食べさせてください!」


 すると、すずさんが叫び返す。

「そしたらまた大きくなるだろうが!」

「もっと食わせてやれば自滅します!」


 俺の真剣な声を聞いたおあきちゃんが、すずさんに一緒に叫ぶ。

「すず姉ぇ! りょう兄ぃの言うとおりにして! お願い!」


 おあきちゃんのその願いに、すずさんは一瞬戸惑いの顔を見せたが、真剣な顔つきになる。

「わかったよ! でもりょうぞう、抜けたこと言ってたら承知しないよ!」


 すずさんの両手から、先ほどとは比べ物にならないくらいの大量の炎が放たれる。ぼうぼうという炎の燃え盛る音を立て、川べりにいるにわとりは掃除機がほこりを吸い込むかのように炎を吸い込み続ける。


 にわとりはどんどん大きくなり、ついに俺の背丈より高く、2メートルほどの大きさになった。腹の中ではすずさんの出した炎が渦巻き光り輝いている。


にわとりが、くちばしのはずなのに口角を上げた気がした。そうでなくても、自信満々といった顔つきをしている。そして、急に上を向いて叫びだした。


「クェェェェェェ!」

 俺は、その時が来たと思った。すぐさま、鶏を背におあきちゃんをかばう。


「おあきちゃん! 耳を塞いで!」


 おあきちゃんが両手で自分の両耳を塞ぐ。その直後に大きな音がにわとりの胴体から響く。


 ボッガァァァン! 


 肉の壁の中で爆弾が爆発するような鈍い轟音と同時ににわとりの胴の肉が二箇所にかしょ裂け、炎が勢いよく噴き出した。川の中でなければ辺りは瞬く間に火だらけになってただろう。粘性ある炎の塊が周囲に飛び散り、下半身だけになったにわとりはばしゃりという音を立て、ゆっくり横向きに倒れこんだ。


 さっきまで両の手の平から炎を出し続けていたすずさんはきょとんとした目で、たおれ透明さを失ったにわとりの妖怪の、水面にのぞく死骸を見つめた。


「あれ? ひょっとして死んじまったのかい? おまいさんどういう技使ったんだい?」

 すずさんは俺のほうに顔を向け、そう問い尋ねる。


「さっき、にわとりの口の中に虫除けスプレーの缶をねじこんでやったんですよ。で、胃の中で炎に熱せられて、爆発したって寸法です」

 俺は息を切らしつつ答える。


 指三本失う痛みに耐えた価値はあったようだった。大型の虫除けスプレーだったから、さぞかし大きな爆発を起こすものだろうと考えてのことだった。


 水面みなもにのぞくにわとりの死骸の表面からは、命の油が蒸発するかのように蛍のような光の点滅が現れては消えていった。そして体はだんだん小さくなっていった。


 すずさんは、右手の人差し指と中指を合わせて動かし、少し離れたところにある蛍の光のような命のかけらの炎を操作しようとしているようだった。そして、一際ひときわ大きな明滅する光点が、にわとりむくろから飛び出した。


 すずさんは見えない糸を手繰るようにその光点を招きよせる。そして、ふところから和紙を取り出したと思うと、うやうやしく、大切なものを扱うかのように、その光点を和紙に折り畳んだ。


 すると、目の前にあった透明さを失ったにわとりの妖怪の死骸しがいが、まるで最初からそこになかったかのように、すっと虚空に掻き消えた。川の水は相変わらずさらさらと夜の闇の中を何事もなかったかのように流れていた。




 俺はずぶぬれになった体を震わせ、すずさんに尋ねかける。

「その紙に包んだのが、あのにわとり御魂みたまですか?」

「ああ、そうだよ。こいつをやしろ合祀ごうししてやれば、もう二度と同じあやかしは出てこないんだよ」


 光り輝く点を畳み込んだ和紙を手に持つすずさんは、心なしか気分が良さそうだった。


 おあきちゃんが、俺にこんなことを尋ねる。

「もう、りょう兄ぃ、あたしが無くなった指を治せなかったらどうするつもりだったの?」


 ちょっとだけ、おあきちゃんは怒っているように見えた。


「いや、あんなに血が噴き出ていたのに朝に血を失った感じがしなかったし、あれくらいは後で治してもらえるんじゃないかと思ってね」


 俺がそう応えると、すずさんが上機嫌な口調で俺に話しかける。

「でもさぁ、りょうぞう、おまいさん男を見せたねぇ。あんなの、中々できることじゃないよ」


「りょう兄ぃ、危ないことはやめてね。あたしたちは妖狐だけど、りょう兄ぃは唯の人なんだから」

 おあきちゃんの気遣いの言葉に、俺は返す。

「おあきちゃんが治してくれるんじゃなかったら、できなかったよ。ありがとう、おあきちゃん」


 俺はにっこりと微笑むと、おあきちゃんは感謝されて満更まんざらでもない様子であった。


 これで無事、妖怪退治が済んだのだがひとつ問題がある。夏だというのに涼しすぎる江戸の夜の風が吹くたびに、びしょぬれの俺は体温を奪われる。


 すずさんが軽快に笑う。


「しかしりょうぞう、おまいさん、すっかりねずみだね」

「ええ、早く着替えてお風呂に入りたいです」


湯屋ゆやが開くのは、明け方過ぎてからだよ。それまで我慢だね」

 すずさんの言葉に、俺は体を震わせながら返す。

「今ばっかりは、あの熱いお湯が恋しいです」


 すると、すずさんがこんなことを言う。

「ははっ、男を上げた夜の明けに朝風呂なんて粋じゃないかい。それでこそ江戸っ子さ」


 夏の夜の闇に響くすずさんの笑い声に、俺はただただ合わせるしかなかった。

 


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