第十八幕 防壁鉄鼠との戦い
本所深川の南端には、
俺の生まれた平成時代ではこの辺りの遠浅の海岸は埋め立てられて、もっと南にある海岸線はコンクリートで固められているのであるが、文政年間にはこの海岸は実際に漁師が漁に出て生計を立てるための自然海岸となっている。
十月十五日の満月のある深夜、俺は神職の白衣袴に藍色の半纏を羽織った格好で、この
隣にはもちろん、巫女装束姿のすずさんと赤茶色の振袖を着たおあきちゃんがいる。
人魂を二つ傍らに浮かせたすずさんはいつものように白衣に緋袴、おあきちゃんは赤茶色の着物であった。
砂浜に
眼前の寄せては返す波の音のする方に向かって、背中から陸風が吹き当たる。
ざぁぁぁん ざぁぁぁぁん
打ち寄せる波の音を傍に俺は、すずさんに尋ねる。
「すずさん、今度の妖怪は、海の妖怪ですか? 海坊主とか?」
「いや、どうも海を
「そうなんですか、その辺りは俺は詳しくないんですけどね」
どうやらすずさんは、本所地域にて妖怪が起こす問題を引き受ける、
おあきちゃんが口を開く。
「夜の海ってちょっとだけ怖いね。りょう兄ぃ、離れないでね」
「おあきちゃん、妖怪が現れたら用心して」
俺がおあきちゃんの問いかけに応える。そして、すずさんは両手で印を結び、妖怪を呼び寄せる呪文を唱える。
しばらくすると、波の音の響く闇の中から、大きさ30センチメートルくらいの獣が現れた。
しゃりしゃりと近づいてきたそれは、猫ほどの大きさのあるドブネズミのような生き物であった。しかし、ドブネズミにしては大きすぎる。
いきなり、その
口がワニのように横まで裂け、その内側にはサメのような仰々しい
すずさんが、俺に伝える。
「どうやら
――頼まれたって、敢えてかじられたりはしたくない。
すずさんは、左掌をすっと前に掲げ、
「どれ、動きはどうだい?」
ひゅん
すずさんの
ぶつかる直前で、
すずさんが、口を開く。
「中々素早いねぇ、二発ならどうだい?」
すずさんが、左手の前に二つの火球を浮かばせる。そして、すずさんが気合を入れた声を出す。
「せいっ!」
ひゅん ひゅん
二つの火球が続けざまに、わずかにずれた方角から
しかし、
火球が砂浜に当たると、炎は赤く弾けとび、瞬く間に消滅する。
すずさんが
「なら、これでどうだい!」
立てた
「せいっ!」
すずさんの
めらめらと燃える炎の塊は、
俺は倒したのかと思い、叫ぶ。
「やった!?」
すると、すずさんが返す。
「いや、
すずさんが、冷や汗をかいたような気がした。
砂浜の上の炎が鎮まると、そこには相変わらず
すずさんは、
俺は、おあきちゃんの手を取り、いつものように
すずさんが、
ガッキーン!!
金属同士を打ち鳴らすような音がし、俺は驚きと共に敵の妖怪を見る。
金属を打ち据えた感触に戸惑ったすずさんは、油断したのだろうか一瞬だけ動きが止まった。バリヤーを解いた
がじり。
「ぎゃぁぁぁぁ!!」
「すずさん!」
俺は
「おあきちゃん!
すると、目の前に構えてある
外してはいけない。すずさんに当てたらすずさんが死ぬ。そして何もしなくても死ぬ。
俺は、慎重に
タン!
「ぎゅぅぅぅぅ!」
上手く
タン! タン!
俺は
すずさんの傍に駆け寄った俺は、叫ぶ。
「おあきちゃん! すずさんを治して!」
すぐさま、
しかし、巫女装束の
俺は羽織っていた半纏を脱ぎ、すずさんに渡す。
「すずさん、これを」
「ああ、済まないねぇ。……りょうぞう!
半纏を受け取る前にすずさんが立ち上がり、辺りを見回す。
俺も見回すと、
「いえ!? 逃げたんでしょうか!?」
すずさんが、良くないことになったという顔になりつつ、半纏を肩にかける。
「いや、気配は消えてないよ。どこか、その辺にいるよ」
「おあきちゃん、念のため、拳銃に
俺の言葉に、おあきちゃんはこくりと
俺とすずさんは、互いに背中を合わせ、臨戦態勢をとる。どの方角から
三十秒くらい経ったろうか、俺が言葉を発する。
「すずさん、敵のいる方角はわからないんですか?」
「どうにもわからないねぇ、遠いような、近いような、だけど殺気だけは感じるよ」
再び沈黙。砂浜を照らしていた空の満月の光が、雲に隠れる。
殺意は、不意に襲ってきた。
ザシュリ!!
鋭い痛みを感じた俺は足元を見る。砂の中から現れた
「がぁぁっ!!」
俺はバランスを崩し、倒れかける。激痛の中、俺は
タタタン!!
しかし、三発の銃弾は、かきん! といった乾いた金属音と共に、半球状のバリヤーに防がれ宙に留まる。おあきちゃんの妖術として役目を終えた弾丸は、妖力を失い虚空に掻き消える。
しかし、次の瞬間にすずさんが
「ぐぎゅぅぅぅぅ!!」
俺は、右足を負傷し、砂地に左膝をつく。
すると、
「りょう兄ぃ! すぐ治すから!」
おあきちゃんが俺の右足の甲に手をかざすと、噛み千切られた俺の足が再生する。足袋の前半分が食い千切られているので、右足の指全てがあらわになった。
「おあきちゃん! 危ないからすぐに銃の姿に化けなおして!」
俺が叫ぶと、おあきちゃんはすぐさま俺の手をとり、
あいつのもう一つの
「りょうぞう!
すずさんのその言葉に、俺はふと思いついたことを尋ねる。
「すずさん! おあきちゃんって砂には化けられますか!?」
「砂ぁ!? いや、試した事はないけどさ!
「おあきちゃん! 聞いた!? 大量の砂に化けて!」
俺がそう言って拳銃をぽいっと放り投げると、おあきちゃんの化けた拳銃は、放物運動を描きながら一斗(約18リットル)ほどの砂に変わり、砂浜に広がる。
「すずさん! おあきちゃんの化けた砂の上に乗っかってください!」
俺が言葉を発すると、すずさんは俺と共に、こんもりとした砂の上に足を運ぶ。
再び俺はすずさんと背中を合わせると、すずさんから声をかけられる。
「りょうぞう! おあきを砂なんかに化けさせてどうするつもりだい!?」
「
俺は、半分だけ破れた足袋の穴から出た、足の指先で砂に触れている。触れているので、俺が思ったものに化けられるはずだ。
それから二十秒も経っていなかった。
「がぁぁぁぁ! おあきちゃん! 化けて!」
俺が叫んで合図すると、足元の砂は
ガシャン!
ばねが縮む音と共に、金属が動物の肉を挟む音が響く。
猪や鹿の足さえも捕らえられそうな巨大なトラバサミが、
「すずさん!」
俺は、すずさんに呼びかける。
「任せな!」
すずさんは、罠に挟まった
「燃えちまいな!」
トラバサミの金具に挟まったままの
しかし、おあきちゃんが変化を解いてしまった。女の子の姿になったおあきちゃんは、俺の近くでしゃがみ、俺のほとんど無くなっていた左足の甲を治した。
「おあき!」
すずさんが叫ぶと、すずさんの片手の力だけで制されていた
「ごめん! すず姉ぇ! りょう兄ぃが痛そうだったから! 我慢できなくて!」
おあきちゃんが叫ぶと、すずさんが応える。
「……怒ってなんかいないよ! それより、身を守りな!」
すずさんが再び
しかし、
俺はすずさんに尋ねる。
「襲って来ませんね?」
「おそらくは、さっきので懲りたんだろうさ。二人一辺に食い千切るのは分が悪いとかで、離れたところを襲うつもりなのさ」
その言葉に、俺はある策を考え付き、すずさんに伝えた。
西に傾きはじめた満月の光を正面に仰ぎ、俺は一人で砂浜の上を駆けていた。手にはおあきちゃんが化けた刀を持っており、肩には
あの
月の光が浮かび上がらせた影は、俺の背中から砂浜に伸びている。
俺は立ち止まる。そして大きく呼吸をし、耳を澄ます。
がさり
後の方から砂がすれる音がしたと思い振り向く。
俺は瞬時に刀を振り、
ガキン!
宙にいる
――今だ!
俺は、肩にかけていた
俺は刃の切っ先を下に構え、足元の膨らんだ半纏に振り下ろす。
ガキン!
半球状のバリヤーが
「今です!」
半纏の影の中からすずさんの両手がぬっと現れて、今度は逃さないようにと
「つーかまーえたー」
すずさんの声が半球状のバリヤーの中から木霊する。どうやら音は
すずさんが言葉を続ける。
「今度こそ、燃えちまいな!」
すずさんの両手から出た炎は、ゼロ距離で
十秒ほど経っただろうか、
半纏の燃えカスの影から、にゅるりとすずさんの体が現れた。手には消し炭になった
そして、消し炭の中からは一際大きな光点が、しゅっと現れた。調伏が完了したという事だ。
すずさんは、片方の肩が破れ、半分
肩を片方、色っぽい感じで
「ふぃー、今回は、中々大変だったねぇ。
その言葉に俺は返す。
「とりあえず、すずさんの着物はおあきちゃんに化けてもらったらいいと思いますよ。俺はまあ、
「そうかい? それならいいけどさ。江戸の町にはどこに犬のクソが落っこってるかわかんないからさ、用心しなよ? 足元くらいは照らしてやるけどさ」
すずさんが、口角を上げてにっと笑う。
「まあ、気をつけます」
俺は、あわせて笑う。
十月の満月は、冬の海を明々と照らしていた。
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