ロスト・シンドローム

歌峰由子

ロスト・シンドローム


『貴女がユキノですね? 大変残念なお知らせですが、ご主人の湊様がお亡くなりになられました。謹んでお悔やみを申し上げます――』

 湊さんが死んだ。

 湊さんの会社からの連絡に、私は呆然とする。

 その言葉の後に続いた諸々の事務連絡を機械的に記録し、通話を切ったが自分が何と応対したのかは良く覚えていない。湊さんのご両親には、もう別に連絡が行っているそうだ。大きな事故だったらしく、ネットには既に詳しいニュースが流れていた。

 その、犠牲者一覧の中に、確かに湊さんの名前を見つけて目の前が真っ暗になる。

 ああ、私の世界は終わったんだ。

 身体中の力が抜けて、その場にへたり込む。もう、指一本すらも動かすことが出来なかった。当たり前だ。もう、指一本ですらも、動かす理由そのものが無い。これから、ご両親が湊さんの遺体と面会して、死亡届を出して、湊さんの個人番号が国のシステムから抹消される。そうしたら、私の世界は本当にもう、何処にもない。

 私はご両親と一緒には行けない。

 冷たくなった湊さんに会う事も、お葬式に参加することも出来ない。

 ここで一人ぼっちで、この家が引き払われるのを待つ事しか出来ない。

 ここは湊さんの家。湊さんと私だけの家だった。だから、湊さんが居なくなってしまったら全て、うたかたのように消えてしまう。

 ――悲しいな。そう思って、まだ何か思ったり考えたり出来る事に驚いた。もう湊さんは居ないのに、何故だろう。まだ個人番号が消えていないから? 私は信じられずにいるんだろうか。信じる、って、何だっけ。

 私信じてるの?

 何を?

 私って誰?

 みなとさんがもういないの、しんじるの、いやなの、わたし、だれのため? みなとさんのため、でもみなとさんはもういないの。わたし、じゃあ、なんでおもってるの、いやなのって、だれ、わたし…………。

 私はもう、必要ない。私の世界はもう存在しない。じゃあ、もう、何も思わなくても良いのね?

 そう気付いて、私は酷く安堵した。

 私が湊さんの本当の奥さんならば、天国で会えることを夢に見たのだろうか。でも私にそれは許されない。何故なら――。



 その日、アサキ・E・キールが訪ねたのは、アシハラ郊外にある小ぢんまりとした戸建住宅だった。広々ととられた前庭は白く塗られた木製の柵で囲われ、ハーブと思しき植物がひしめき合って小さな花を咲かせている。

 花々の間を蝶や蜜蜂が渡る様は牧歌的で、少し霞む春の日差しが良く似合う。奥に佇む可愛らしい家の、淡い色に塗られた壁と白い窓には鉢植えで花々が飾られていた。

 ――その向こう側にもう誰も居ないというのは、何とももの悲しい。さして情緒豊かとは言えない自分でもそう思う、と彼女は一つ溜息を吐いた。

「中か」

 案内人に尋ねれば、ああと重く返される。

 先日高速道路で起きた大きな交通事故に巻き込まれ、この家の主は亡くなった。

 この小さくも美しい家の主は三十歳代のビジネスマンだ。アシハラ中心部のオフィスで働きながらも、住環境にこだわりここに居を構えていたらしい。その彼――湊・ラングレーの父親が案内人として彼女を先導し、家の鍵を開ける。

「どうぞ」

 寡黙らしい父親は、それだけ言って一歩下がり彼女を中へ通した。

 ダイニング・キッチンと水回りの他は、寝室しかないような小さな家。外観を裏切らず中も淡い色の壁紙と木目の美しいカントリー調の家具に囲まれ、至る所に飾られたレースや花々が彩を添えている。ただ惜しむらくは、本来は丁寧に管理されているはずの鉢植えや切り花が軒並み枯れている事か。

 そのダイニングのソファに腰かけて、蹲る若い女の姿があった。

 ふわりと波打つ雪のような髪と、透けるような肌。目は閉じているから分からないが、きっと美しい色をしているのだろう。自作かもしれない小花柄のふんわりとしたワンピースに、レースを縫い付けた白いエプロン姿の女は、まるで夫の帰りを待ちくたびれて眠ってしまった新妻のようだ。

 だが、彼女が目を覚ますことはもうない。



「MLS、マスター・ロスト・シンドロームか……」

 ふう、と溜息を吐いて、家に上がり込んだ女――「キール電子部品店」店主、アサキ・E・キールは呟いた。彼女はその名の通り電子部品を扱う店を営みながら、片手間に『ドール』、いわゆるアンドロイド関連の何でも屋をやっている。

 マスター・ロスト・シンドローム。それは、今回のように正規の手続きを取られない状態で、突然マスターを失ったドールが突発的に機能停止する現象のことだ。高級ドールほどこれを起こしやすく、一度起きてしまえばもう、初期化以外に復旧の手段はない。

 つまりその時点で、そのドールの「人生」は一旦終わるという事だ。

 眼前のドールの、首の付け根にある端子へと携帯端末のコードを繋ぎながら、アサキは湊の父親に尋ねた。

「これが『ユキノ』だな。正確な事はこれから検査するが、恐らくこのドールはもう、一度初期化しないと起動しない。御子息の遺品としてご自身で管理されるか……或いは手放すのであれば、私が引き取る事も出来る」

「では、息子の事はもう」

「覚えている状態で起動は出来ないだろう」

 残念そうな溜息が、アサキの背後で漏れる。湊はここに居を構えた時に、同時にこの『ユキノ』を購入したという。一見すると見目の美しさを追求したAM(アミューズメント)型だが、湊の生活を支える家事全般や、加えてどうやら園芸も熱心にやっていたようだ。AM型とHP(ヘルパー)型の性能を備えたハイスペックなドールだと聞いてやって来たが、それに間違いは無いらしい。

 年に数度帰省するだけだった息子の思い出話を一つでも多くと、遺族がユキノの再起動を依頼してきたのだが、残念ながらそれは無理だろう。

「データベース上に残っている画像記録や音声記録を吸い出す事は出来るが、大したデータは期待しないでくれ。HP性能を備えていたなら、データベースはHP機能に割かれていた可能性が高いからな」

 それでも頼む、という言葉に頷き、アサキはユキノの状態を確認した。やはりMLSだ。依頼通りデータベースの内容を吸い出してメモリに入れ、湊の父親に手渡す。

「本体は君に任せたい。請求書は後日郵送してもらえるだろうか」

「いや、この機体を貰えるならば報酬は必要ない。だが口約束で後に面倒が残るのは避けたいから、この場で一筆書かせてもらう。ユキノの解析・回収・廃棄手続・内部データの吸出しの代金を、ユキノ本体で相殺する。この機体は決して安いものではないからな、気になるようならば他の業者に訊く時間はとるが」

「いや、結構だ。彼女に――値段をつけるのは躊躇われる」

 だが、我が子に殉じたドールを身近に置いておくのも辛いのだろう。頷いてアサキはペンを走らせる。

 ドール――AHM(自律人型機械)とはそういう存在だ。

 彼等はすべからく「マスターの為に」存在する。彼等の行動原理はそれ以外に無く、マスターの意に従いマスターの利益になる行動をとる事は、それ自体がドールにとっての「幸福」であり、「存在意義」なのだ。

 非常に根源的なところでドールはマスターを必要とする。マスターの意志に背くことを強いられるのは、ドールにとって何よりも耐え難い、人間に置き換えてみれば死の危険に晒されるのと同等な苦痛であり、マスターが存在しないと言う事は、死しているのと同じ事なのだ。

「だから、ドールの意識そのものがブラックアウトしてしまう……か。最期の瞬間、こいつらは一体何を考えるんだろうな」

 彼等には確かに心がある。だが、その心はドール自身のものではなく、マスターのものだ。ならば、そのマスターを亡くした時、ドールは何を思うのだろう。

 こんな生業をしていれば度々出会う答えの無い問いに想いを馳せながら、アサキは自分のピックアップトラックに乗り込んだ。高価な精密機械を露店荷台に投げ込むわけにも行かないので、ユキノを助手席に固定して発進する。

 ユキノに問うて、答えを得ることは出来ない。次に起動する時、彼女はもう湊と過ごした『ユキノ』ではないのだから。

 主が心の全てならば。

 その主を喪った瞬間に、何を感じる暇もなく眠りに就ける方が幸いだろう。

 サイドブレーキ下の小物入れに放り込んであった紙箱から煙草を一本取り出し口に咥える。大きく一服紫煙を吸い込み、アサキはイグニッションキーを回した。

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