07.

 シエリールは、トメと柴浦が帰った後、すっかり忘れていた弁当を食べ始めた。

 今日は雪が降るくらいに寒く、事務所には暖房は入っていない。しっかりと、買う前と同じくらいまで冷えていた。

 巡季がいつでも温かい料理を出してくれるため、この事務所には電子レンジがない。

 唐揚げは弱ったゴムボール、カルビはゴム板みたいだと思いながら全部を平らげた。

 昼前になろうという時間に美作中央総合病院に向けて事務所を出る。歩みは重い。見たくない現実が待っていそうなので正直、目を背けたい。

 だが、自分から逃げて結果を先延ばしにするやり方は自分の流儀ではない。行って、事実を確認し、もしかしたら以前のように戻ってくるかもしれないと、事務所で待つ方がよっぽど自分らしいと言える。

 病院に着くといつもの部屋だろうと直行した。病室のドアをノックしようとするが、手が止まる。わずかに震えていた。それを握って力で誤魔化す。深呼吸をして戸を叩いて中に入った。

 まだ南中していない太陽の光を浴びて、病室はまぶしい。思わず目を眇める。

 中を確認するが、真澄はいない。

 すとんと、なにかが抜けたようにシエリールは、ベッドの横に置かれたいすに腰を下ろした。視線は自然と下を向く。

「話はしたのか?」

 目線を合わせずに質す。

「はい」

「最後に、彼女はなにか言ってたか?」

 巡季は答えない。不審に思えたので、視線をあげてみると、巡季は無表情に前を見ていた。

「なにも、なかったのか……」

「最後というのがいつを指すのか明確ではありませんが、最後のやりとりというのであれば、『売店に行ってきます』が最後の言葉でした」

「は?」

 シエリールは自分の耳を疑い、巡季の頭を疑い、現実を疑った。

「所長に関して言えば、『いつくるんでしょうね、あの冷徹な所長様は』でした」

 淡々と報告だけする巡季。

「ちょちょっと待て、真澄は我々と袂を分けたわけではないのか? だって、もう別れる話をしたのだろう?」

 少し黙考して、再び口を開く。

「ああ、話とはそのことを指していたのですか。はい、話はしましたが……」

 そのとき、病室のドアがあけられた。廊下に立つ人物は、特徴的な赤い髪を後ろで縛ってまとめていてすらりと伸びる長身。どっからどうみても真澄だった。

「ま、真澄。おまえ、なんで?」

 シエリールはわからないことでいささか混乱していた。

「やっときたのね。遅い。遅刻のいいわけは?」

 真澄は腰に手を当て、胸を張って叱る格好を取った。

「え? いや、来客があったのでな」

「こんなときにお仕事? そんなの後回しにしなさいよ」

 ふだんと変わらぬ軽口がここにはまだあった。

「食うのにも困る状況だから、仕方がなかったんだ」

 心の中を少しずつ満たしていく喜び。

「あんた、巡季さんの治療費払えるんでしょうね?」

 ふつふつと沸き上がる嬉しさ。

「もちろんだとも。私を誰だと思っている? 名探偵シエリール・ダルソムニアだぞ」

 いつしか、喜色満面になっていた。

 それを見て、真澄は毒気を抜かれたのか、小さく息を吐いて肩の力を抜いた。

「お帰り、シエ。復讐に行って怪我がなくてなにより」

「ああ、ただいま真澄」

 シエリールはこの後、二人のやりとりの結果を聞いた。

「そんで、わたしはもう少しあんたたちと一緒にいたいと思うんだけど、いいかな?」

「歓迎するぞ。おまえの勇気ある判断に感謝する。こんなにうれしいことはそうないぞ。本当、勢いで結婚でもするか!」

 こんなに浮かれたのはいつの日以来だろう。もうなんでも、口にできそうだ。

「いや!」

「にべもないな」

 シエリールは自分の手の指の爪を見る。そこには、赤いマニキュアが残っている。それは、知らない日常の象徴だった。

 シエリールの友達で、人間の形をしたり、人間という生き物はいるが、その誰もが生きることに一生懸命で着飾る文化を持たない。

 いくら強い強い言われてもそんな程度なのだ、結局は。

 心で誓う。もし、いつの日か裏の世界が真澄に牙をむいたとき、全力で守ることを。

 真澄が表の世界に引っ張りあげてくれたように、自分は真澄を裏の世界から引き剥がすことを。

 どうしても、裏の世界の方が魅力的に見えるのが人間の救い難さで、また魅力でもある。

 真澄にはこのまま片足をつっこんだままでいてもらう。いや、いさせる。それが、シエリールの誓いだった。

「シエ? シエってば。聞いてる?」

「ん? すまん。考えごとをしていた」

「まあ、良いか。大事な話でもないし」

 そんな時間こそ貴重なものなのだが。

「そういえば、今日来た客というのがトメでな。権利書を返しに来たぞ」

 巡季に向かって報告しておく。

「そうですか。次を探さねばなりませんね」

「必要あるか? もういるだろう。おまえはどう思う?」

 主語も述語も吹っ飛ばした会話。真澄は理解すらしようとしているようには見えない。

「所長のご随意に。しかし、意見を許されるのなら彼女にお願いしたいです」

 ぱんと手を打つ。

「決まりだ。真澄、帰りにうちに寄ってくれ。渡したいものがある」

「今の話、わたしに関係あったの? ごめん聞いてなかった」

 頭をかきながら軽く謝る。友達だから許される謝り方だろう。

「気にするな。帰りにうちに寄ってくれればいい」

「うん? 行くけど、それって良いもの?」

「聞いてたじゃないか、見方によっては良いものだ」

 途中、巡季の回診が始まる。看護師も同伴でやって来た。鈴村 すずむら うみ、本名マリン・ガナッシュという夜明けを歩くもの《ダウンプロウラー》だ。

 夜明けを歩くものは、夢魔ナイトメアの一種で、主に眠りの能力に長けている連中の呼び名である。彼らと夢魔との大きな違いは、精を滅多に奪わないという点だった。命に危険を感じたときくらいしか彼らは吸わない。その代わり、人という種に依存しない生き方をする。時折、夢魔の中には彼らを出来損ないと蔑む者もいたが、彼らは取り合わなかった。

 身長は、シエリールと同じくらい。だが、胸と尻は大きく、多くの男を人、超越種関係なく魅了する。シエリールは、それを夢魔の系列なので種族的なものだと気に留めないようにしていた。割りに女から嫌われないのは、裏表なくイヤミのない性格をしてるからだろう。

 この病院に来る、裏の生き物たちは大体個室を与えられ、ガナッシュの世話になる。そして、傷と不釣合いに短い入院期間と、普通ではない額の金を残して出て行くのだ。撃たれた半日後に、ふさがりかけている傷というのはそうそう公開していいことではない。それを看るためにガナッシュは雇われている唯一の超越種だ。しかも、驚くことにガナッシュの看護師免許は偽造ではなく、本物である。

「おっ、やっときたかね、シエリール」

「ああ、ガナッシュ。こいつ《巡季》の状態は?」

「なんも。いつもどおり、早い治りですよ。ところで、私のことはマリンさんと呼べといってるでしょ?」

 ガナッシュは、シエリールより年上だ。そして、超越種なのに歳による上下を気にする。別に、不快なほど意固地というわけじゃないが、マリンさんとさん付けで呼べというのだ。だから、シエリールは精一杯抵抗してガナッシュと呼び捨てる。

 昨日の今日で経過観察もないが、意識はあるし、傷もほとんどふさがって来ている。巡季の治癒能力は高い。

 所緒の腕、という線もあるが、それを越えたものを感じる。

 巡季の見た目、性格はシエリールの知るところのホムンクルスそのものだ。

 自分も当時、奇跡のような出来だった。だが、弱点を付けられなかった。だから、優秀な出来だった巡季があてがわれたのか。なんだか煮えきらない思いがわいてきた。

 そんなことを考えていると、真澄が肘でつついてくる。

「ねえ、巡季さんの背中のたてがみみたいの、生まれつき?」

 小声で聞いてきたのだが、シエリールは遠慮なしに巡季に聞く。

「おまえの背中のたてがみは生まれつきか?」

「はい、連中は選ばれた証拠だ、とか言ってました」

「だとさ」

 シエリールは答えを真澄に流した。

「あんたは、今まで知らなかったの?」

「ない」

「ああいう目立つものって気にならない? 特に自分と違うとさ」

「腕が二本、脚が二本、目、耳が二つ一組、鼻も口も一つずつ。ついてる場所も同じ。私の世界では私と同じに見えたから、気にならなかった」

 ふ、ふーんと真澄は答えたが、完全に裏返っていて引いているのがわかる。

 きっと真澄は人間の形をした知的生命体しか見てこなかったのだろう。この世には、いろんな生物がいる。それを少しずつ伝えていければいいと思っていた。

 陽が暮れはじめ、周りが赤く染まり始めた頃。シエリールは真澄を促して帰ることにした。

 巡季に別れを告げ、外に出る。外は、うっすらと積もった雪が朱く染まっていて、幻想的な雰囲気になっていた。

 シエリールは、真澄と肩を並べて歩く。言葉はない。だが、気まずさは全く感じない。誰かが言っていた本当の友人とは無言を共有できるものである、と。

 そのことを思い出し、少しくすぐったくなって、くくくと笑い声をこぼす。真澄は不思議そうな顔をしたが、彼女もえへへと笑い、特に問いかけはなかった。温かいものが心を満たす。

 結局、事務所までの道のりの間、ほとんど会話はなかった。

 事務所の鍵を開けて、二階へ上がる。そして、部屋の鍵も開けて中へ入った。朝には自分すら見失いそうなくらいの寂しさがあったのに、友人一人を連れているだけでここまで空気が変わるものなのかと驚きを禁じえない。

 自分はひょっとしておかしくなってしまったのではないだろうか? そんな疑問すら浮かんでくる。

「寒くてすまない」

「平気。大丈夫」

 真澄は、青いジーンズの上着のまま、朽ちかけのソファに腰を下ろした。

「で、これが渡したいものだ」

 シエリールは、年季の入った封筒をテーブルの上に置いて自分もソファに腰掛けた。

「なにこれ? あんまり良いものに見えないね」

 タバコを懐から取り出すと、火をつけた。一吸いする。

「まあ、いいから中身を見ろ。良いものかどうかは見方によると言ったろう?」

 真澄は、中の紙にも外側と同じように長い歴史を感じとり、優しく引っ張り出す。文字が旧字体で、ひらがなではなくカタカナで書かれていた。

「ええと、これは……、権利書?」

「そうだ、ここのな」

 シエリールは指で建物を指した。

「こんなものを見せてどうしたいの?」

「おまえに渡したいと言ったろう? それをおまえに預けたい」

 ふう、と煙を吐き出す。

「ええーっ? こんな大事なものを、なんでわたしなんかに?」

 おまえだからだよ。おまえじゃなきゃダメなんだ。そう心で語りかける。

「昨日の一件で理解できたと思うが、私たちは、いつ死ぬかわからない。いついなくなっても不思議はない。だから、ここを処分するために、一番信頼している人間にお願いしてるんだ」

 消えるならさっぱりきれいに、なにも残さず。人々の記憶からも消え去り、悲しみすら残さない。そんな末路がいい。でも、目の前の友人はきっと泣いてくれるのだろう。それが悲しい。

「そんな大任をわたしに? 良いものってそういう意味だったのね。確かにこれは良いものだわ」

「そう言ってくれると思ったよ」

 シエリールは、自然相好が崩れる。だが、真澄は厳しい顔だった。

「どうした?」

「あんたの意思だから預かるけどさ、使わないことに越したことはないんだからね」

「ああ、わかってる」

 だが、物事には必ず終焉が用意され、いつかはみんな飲み込まれる。それが、真澄の前でないこと、真澄の存命中でないことを祈るばかりだ。

「近頃、物騒だ。日が落ちたら出歩くな。出来れば昼間も人のいないところにはいかないようにしろ。巡季の所に行くのは止めないが、遅くはなるなよ」

「はーい。なんか小学生の保護者みたい」

 依然存在する現実に対する温度差。なんとかして埋めたい。

「私は、おまえが巻き込まれることを危惧している。連中は、人質という最低な方法であれ、それが、彼らに利益をもたらすのであれば、罪悪感など全く感じずにやる。勝てば官軍を地で行く連中だ。だから、見て、人じゃない連中がいたら絶対に近づくな」

 伝えようか、一瞬迷って口ごもる。

 真澄はきっと、超越種だからといって皆が悪いわけではないと思っているに違いない。だが、現実は甘くない。吸血鬼と人間の関係は捕食者と餌だ。もしくは、狩人と獲物だ。

「いいか、なにも手段選ばずというのは彼らの専売特許ではない。我々は、人間たちのように生きていい権利に守られているやつなんていやしない。生きることに必死なのはみな同じだ。必死であればあるほど手段は二の次になっていく」

 真剣な眼で真澄の目を見る。

「それがあんたたちの世界なんだね」

「そうだ。私は怖い。連中はする。本当なら、家に閉じ込めて四音を重石に置いときたいくらいだ」

「ちゃんと聞いたよ。私は、友達の真剣を笑うほど、お天気な頭してるわけじゃないよ?」

「そうだな」

 真澄の視線も真剣そのものだ。これ以上いうのは彼女への冒涜になる。だが、古木のやり口には不安を拭いきれなかった。

「今日ももう遅い。送ろう」

 シエリールは限界まで短くなったタバコを灰皿に押しつける。今朝の分とあわせて二本、吸い殻が置いてあった。

 真澄は、ハンドバッグと自分より遙かに年上の書類を手に立ち上がる。

 電気を消し、鍵をかけた。



 曇天の下、雪が降っていた午前中と違い、空には真円を過ぎた月が煌々と、路傍を照らしていた。冬になり空気が澄んでいるせいか、月はいつもより元気そうに見える。

 シエリールは、また真澄と肩を並べて歩いていた。

「おまえは、私より背が高いんだな」

 シエリールは、今更なことを言った。ほんの少し顔を上げながら。

「かわいくないでしょ? あんたは何センチ?」

「私か、私は百六十七だ。おまえは百七十ちょっとか?」

「うん、百七十二。昔から大女ってしょっちゅう言われてきた」

 苦笑する。自分でも大きくなっておかしいと思っているような笑み。

「だが、巡季とだと、私よりおまえが並んだ方が見た目良くないか?」

「ホント? ホントにホント? ああ、やっぱり巡季さんは運命の人なのかも。そのためにこの身長があったとしたら、今までのそしりなんて乗り越えられるわ」

 真澄は、今にも踊り出しそうな勢いで喜んだかと思ったら、急に暗くなった。

「でも、私は人間。彼は、ホムンクルス。恋に壁は付きものだって言ったって高すぎるよ」

 シエリールは、おまえらしくない、と言うために口を開きかけたが、言う前に真澄が乱暴に背中を二度叩いて、おちゃらけて見せた。なにかを振り切るように。

「そんな気分になることもあるのよ。いいんだ、わたしは今が楽しいし、今の自分は好き。好きな人とも恋人同士じゃないけど仲良くしてもらってるし、これ以上はバチが当たるよ。きっと」

 シエリールの見立てでは、巡季は恐らく、自分以外の中では一番のところまで来ているのだと思う。

 それが恋愛かどうかと問われれば是と答えられない。だが、確実になにかしらの気持ちは通じているように見える。

「ところで!」

 真澄は急に足をとめ、シエリールに向き直った。

「なんだ、いきなり?」

「あんた、わたしをこんなに気にかけて大丈夫? そりゃ、友達としてはうれしいけどさ。それで、あんたが苦しむ姿は見たくないよ?」

 シエリールはとっさに返す言葉が見つからなかった。確かに、ただの友人にしては気にかけている。今朝の苦悩も異例といえる。まるで、恋する乙女のよう。

 そう例えて。

「く。ははは」

 笑える。自分が恋する乙女? 自分を構成する要素のどこにそんなものが?

「いきなり笑いだして、なに?」

「いや、すまん。ちょっとな」

 真澄は真剣な表情を崩さない。

「さっきの話じゃないけど、わたしが人質になっても、戦えるの? ううん、生きることに執着できる?」

「…………」

「前のときみたく無事だという保証はないでしょう?」

 少し逡巡して。

「ああ」

 と肯定してみせる。

「約束して。もしそうなったら、できる限りの努力をして。簡単にあきらめないで。そして、どうにもならなかったら、わたしを見捨てなさい」

 確かに、律の言うとおりだった。真澄は覚悟をしている。自分に関わるということがどういうことか理解している。

 ぬるま湯でぼけているのは、むしろ自分。

「約束しなさい!」

 真澄の語気が強まる。

 できない。自分は、真澄を見捨てることはできないだろう。それは、口約束で見捨てると言っても実際はそうならないだろうから。

 真澄もシエリールの沈黙に答えを感じ取っているのか黙り込んでしまった。

 シエリールはジャンパーのポケットにつっこんだ手を固く握りしめる。

 そんなときだった。数人の若い男たちが話しかけてきた。

 気がつけば自分たちは人通りの少ない公園の真ん中に立っていることに気がつく。

 迂闊だった。気を付けろと、あれだけ念を押しておいて自分はこのざまだ。

「お姉さんたちきれいだね。俺たちと遊びに行かない?」

 男たちは、ただの人間らしい。ニット帽に、パーカーに、ドレッドヘア。ストリート系といったか。地方都市らしい遅れ方だ。

「行かない。今大事な話をしてんの、他を当たって」

 真澄は慣れているのか、怖じることなく厳しい口調で追い払おうとした。だけど、言われるほうも常套句なのか、男たちは全く気にかけるそぶりもない。

「おいおい、つれないな。相談になら乗ってやるぜ?」

 そう言いながら、あごひげにドレッドの男が真澄の腕をつかんだ。

 その腕を、真澄が文句を言うより早くシエリールがひねりあげる。

「いてえっ! いてえよっ! いてえって言ってんだろうが!」

 シエリールはその男を突き飛ばした。怒気がこもった声音で、わかりやすい最終警告。

「痛い目を見たくないなら、おとなしく失せろ、ガキども」

「んだとぉ?」

 時々いるのだ。明らかに喧嘩を売ってはいけない相手にも平然と挑む馬鹿が。相手がわかりやすく殺気を放っていても動じない鈍さ。面倒だ。

 あごひげドレッドは、相当気の短かく、かつ恐怖で相手を支配したい性格のようだ。ポケットからナイフを取り出し、あからさまにちらつかせた。

 シエリールは呆れて無言。そんな鉄の塊、怖くも何ともない。

 その沈黙を、恐怖のせいと受け取ったのか男の仲間たちはえへらえへらと笑っている。

「今なら、遊んでくれれば許してやらんこともないぞ」

 そもそも許されることをしたような覚えはない。無視。

「あっちゃんは、すぐ切れるし、切れたら俺ら止めらんねから」

 シエリールは黙って、右腕をポケットから出して中指を立てた。今の若いのに通じるのかわからなかったが、怒りだしたところをみると通じたらしい。

「このバイタァ!」

 あごひげドレッドことあっちゃんは、ナイフをふるってきた。命を奪うわけではない、どこを狙ったのかわからないナイフ。

 シエリールは、それを難なくよけて、すれ違いざまにブーツのつま先を鳩尾に叩き込む。死なないように加減して。それでも、あっちゃんは、胃の中のものをぶちまけながら苦痛に悶えた。

 加減し過ぎたようだ。意識ごと持っていくつもりだったのに。

 そののたうつ男の顔を無慈悲に踏みつける。それも潰さんという力加減で。

「失せろと、私は言ったぞ」

 あっちゃんの仲間もその光景で導火線に火がついたのか、一斉に殴りかかってくる。

「真澄、下がれ」

 そう言って、ポケットに再び手を突っ込んだ姿勢で、次々とのしていく。

 場を支配するのは、男たちのうめき声。

 最後に、あっちゃんのところにしゃがみ込むと、その髪ををつかんで持ち上げ、耳元に冷たく言う。

「おまえに罵倒されてもなに一つコないぞ?」

 あっちゃんは泣きながら、すいませんでしたと謝った。それを容赦なく地面に顔を叩きつけて気絶させた。

 歯が何本か逝っただろうが、授業料としては破格だ。

 シエリールは、自分が壊れてしまったのでは? という問いに答えを見いだしていた。

 自分は壊れてなどいない。こんなにも他人に冷たい。情なんて微塵もわかなかった。状況が許すなら容赦なく殺していたところだ。

 圧倒的な暴力が過ぎ去り、男たちはそれに飲まれ伸びている。そんな状況に真澄の頭がようやく追いつく。

「あんた、ちょっと怖いよ?」

 シエリールは怯むことなくその評価を受け入れた。

「そうさ、私は吸血鬼だ。化け物だ。怖がられて当然だ。おまえは正しいよ、真澄。おまえの感覚は正常だ。我々の世界はおまえが思うほど優しくなんてない」

「どういうこと?」

「超越種共は、おまえが思っているほどおまえという個人を認識していない。認識されていない人間の扱いなんてものは、見ての通りだ」

 真澄は、辛そうな顔をする。

「でも、あんたは殺さなかったでしょ?」

 なにかにすがるような問い。しかし、シエリールは逡巡した後、決意を込めて断言した。

「状況が許していれば殺していた。手加減して生かすより、力任せに殺した方が楽だからな」

 ためらいなどなく、普段通りの口調で言う。逆にそれが、衝撃なのか真澄は俯く。

 時期尚早だったかもしれないと僅かばかり後悔したが、でも笑って殺せるとは言わなかった。

「昨日の人たちみたく?」

 古木の外人部隊のことだ。

「そうだな、彼らは法が許さなくても殺していた」

「人間でも?」

「ああ」

 真澄と目があわせられない。

「わたしがいやだって言っても?」

 言葉に詰まる。

「…………多分」

 弱々しく肯定する。

「だが、だがな! 私はそれしか生き方を知らないんだ。いや、言い訳だな」

 砂を噛むような気持ちだ。

 真澄を正面から見つめた。そして、優しい声で、自分でも驚くくらい優しい声で告げる。

「結果そうしても、おまえの望まない方法はとりたくないと思っている。これは、本当だ」

 真澄も見つめ返し、しばらくシエリールの目を見ていた。

「信じるよ」

「え?」

「信じるよ。信じるってそう決めたの。だって、だから、わたしに殺すって行く前に言ってくたんでしょう?」

 ありがとう、そう言おうとした刹那。風切り音がして、なにかが自分に向かって飛んできたのがわかった。真澄を、突き飛ばしなにかを叩き落とす。

 落としたものを見て、短く舌打ちした。

 刃渡り五十センチくらいの両刃の剣。柄の長さは、片手用を示す長さで、鈍い銀色が光を放っている。

 これは磔剣たっけんと呼ばれる武器で聖堂教会の退魔師エクソシスト職の人間の一部が愛用する、ある意味骨董のような伝統武器だ。扱いは難しく、使用するものの大半は腕利きである。つまりは、面倒の証。

 砂を踏む音がした。一人の男が、紺の生地に黒の縁取りをした法衣を翻しながら現れる。

 アイザック・アイゼンク。少しばかり物騒な噂をもつ、やり手の退魔師。

 短く刈り上げられた金髪に、少しばかりの無精ひげ。目はきれいな青で、油断なくシエリールを捉えている。戦うことが好きな狂犬のような目だ。身長は、百七十前後くらい。大柄ではない。右手は素手、左手は黒い革手袋をはめている。

 アイゼンクは、アメリカ英語で話しかけてくる。

『やあ、お嬢さん。今日は良い夜だ。血を、吸いたくならんかね?』

『やあ、初めまして神父。今夜はちと明るすぎるな。なにかをするのにはうまくない。そう思わないか?』

 答えるシエリールは、流暢な英国英語クイーンズイングリッシュ。真澄をちらりとみるが、やりとりについていけず、放心しているようだった。

『我々は、おまえたちとは違う。やましいことはなにもないし、月が隠れたところでしゅは見ておられる』

『我々だって別にやましいことはしていない。おまえらだって、肉を食うことをやましいと思うか? 思わんだろう? それに、我々だって自分自身が見ている』

『然り。だが、俺は人間の守護者。神の子を傷つける化け物を滅するのが使命だ。おまえらが人間を喰うというなら、俺は戦う。それだけだ』

 く、と短く笑う。微妙に答えになっていない。

『そうか。わかりやすくていいな。それにしても、最近の教会は死角から磔剣をいきなり投げつけるのが礼儀になったのか? ずいぶんと行儀良くなったものだ』

『単なる挨拶だ。俺はおまえを捜していた。これを躱せぬものに用はない。実際他のものはみな塵に還り、おまえは避けた』

『私を捜していた? 人違いではないかな、片手袋ノーフェロウ?』

 片手袋と言われた男は、腕を腰の後ろに回し、自信満々に告げた。

『白昼悪夢と呼ばれる吸血鬼。シエリール・ダルソムニア。黒い森で造られ、逃げ出した偽りの超越種』

『ほう? 人ですら複製品を造れんと言うのに、私が造られたとなぜわかる?』

 今度は、神父がく、と笑いをもらした。

『おまえは我々と違うところから発生している。人間なら誰でもわかることだ』

 ちらりと真澄を見る。真澄も始めは目を引くのだと言っていた。

『それはそうだ、私は真祖だからな。人間とは違うところから生まれているさ』

 取り繕うように言うが、自分でも白々しく聞こえる。自嘲ものだ。

『いや、おまえは親を知らないはずだ。おまえはできすぎている。まるで、人の欲が形になったようだ』

 シエリールは肩をすくめた。身体から無駄な力が抜ける。

『やれやれ、おまえみたいな有名人と知り合いになりたくないのだがな』

『ふははは、面白いことを。我々の仲間を生かしておけば友情でも湧くと思ったか。残念ながら我々の手はおまえらと握手してやるためには空いていない。救わねばならない同胞のすがりの腕でいっぱいだ』

『難儀だな。だが、一方はそうかもしれないが、もう一方は塗られた泥をぬぐうためにハンカチでうまっているんだろう?』

 シエリールは挑発するが、神父は表情を変えない。少し黙って視線を交わす。

 唐突にシエリールは、質問を投げかけた。

『人の魂の重さを、知っているか?』

『なんの話だ?』

 シエリールは人差し指をぴっと立てて、話を聞くように促した。

『二十一グラム。死ぬと人間は二十一グラム軽くなるそうだ。つまり、魂も物理学的に存在しているらしい。では、貴君らの神の御霊は何グラムだ?』

『貴様、主を冒涜する気か?』

 そうではないとシエリールは首を小さく横に振る。

『では、私は何グラムだ? 私には貴君らの言う魂というものがあると思うか? 貴君らの神はそれに答えてくれるだろうか?』

 シエリールは神父、アイゼンクと出会うのがわかったときからこの質問を用意していた。

『主は寛大だが、我ら迷える子羊たちに脅威となる存在には厳格であられる。よって、おまえたちの存在は、お認めにならない。すなわち答られることもない』

 シエリールは、小さく息を吐いた。あきらめというよりかは、あまりに想像通りの答えに自嘲すら覚える。

 シエリールは目尻を引き締めて、強い視線でアイゼンクを見た。

『アイゼンク神父。一つだけ言っておかねばならないことがある。私はここにいるために誰の許可も必要としない。私は、けして居場所のことで他に媚びることはない。世界が、神が、我々の居場所を否定しても必ずや必要な行為の後でその場は奪い取る。これは絶対だ! そのためならば、身を賭した戦闘行為、殲滅や、虐殺を含むあらゆる可能な限りの武力行使を一切厭わない! 私には神はない。代わりに、あらゆるものに誓おう。もちろん、貴君の絶対にして唯一の神にもだ』

 一呼吸おいて、真澄の方を見て日本語で言う。

「私は、ここが好きだ」

 強い意志を持って宣誓した。とても優しい眼をして。再び、同じ紅い眼は態度を百八十度変えてアイゼンクを見据えた。

『私の居場所を奪おうというなら、戦争だ』

『そうだ、おまえの価値はそれだけだ。戦え、苛烈に! そして、この俺を楽しませて死んでゆけ!』

 戦いの火蓋は切って落とされた。

 アイゼンクは、右手に三本、左手に一本磔剣を持ち、それらを投げつけてきた。その次点を供給する速度、磔剣の速度、命中精度、どれをとっても油断すれば死ぬ。

 雨。そう例えるのが妥当と思える攻撃。目にも止まらぬ速度で投げつけられる磔剣を、これまた目にも止まらぬ速度で、落としていく。

 足下を狙ってくる磔剣を、足を止めずにひたすらに躱す。巧みな足捌きで避ける。下半身にあたった場合、そのあとは剣山になるのは見えている。

 熟練した磔剣すら貫き通せないジャンパーは上半身にしかないのだ。

 詰め寄れれば、力――単純な筋力では圧倒的に上なのだ、なんとでもなる。だが、そうさせないのが上手い磔剣使いであり、磔剣が銃の発達した現代においてもまだ使用される理由の一つだ。それでもこれほどの使い手はまだまみえたことがなかった。

『くっ、できるな、神父!』

 純粋な賛辞。

『貴様は、この程度ではなかろう? 本気を見せてみろ!』

 せめて、魔方陣を組み直して置くべきだった。これも珍しく、シエリールの油断だ。一つの油断は命。この状況はそうなってもおかしくなかった。もっとも、使う暇があったかは疑問だったが。

 背中に冷や汗が伝う。緊張しっぱなしだ。

 避けられぬ攻撃ではない。だが、反撃に移る暇がない。あらゆる回避行動を駆使し、躱す。三本、一本、再充填にコンマ一秒。そして、また違う投擲間隔。一本調子になどならない。シエリールは、舌打ちする暇を惜しんで避けた。

 磔剣の使用されている理由のもう一つに、高い破魔性という属性の付加が容易なのがあげられる。弾丸は小さすぎる。だが、磔剣なら刃に刻んで投げれば良い。

 人の手による投擲とは思えない威力、速度、破甲性。ジャンパーがなければ守りにも回れたかも怪しい。

 千載一遇の機会が訪れる。次の一手が透けて見えた。その隙をついて、距離を詰める。しかし、アイゼンクは慌てたふうもなく、磔剣で斬りつけてくる。至極冷静な反応だ。

 その攻撃を袖で逸らし、腹に拳を振るう。が、体勢が万全ではない。浅かった。アイゼンクも距離を取るべく無茶な体勢から蹴りを繰り出す。シエリールはそれを受け止め、掴んだ。そのまま、背負い投げの要領で力任せに投げた。

「おおおおぉぉぉっ!」

 地面に叩きつけるが引き手を離さず、反対側に向かって投げつける。それをさらに二度繰り返す。

 アイゼンクは、ぬぅ、と短く唸って受け身に徹していた。そして、五度目に持ち上げられたとき、上から磔剣を投げつけてきた。狙いは頭。それをとっさに歯で防いだ。

 さすがに、持ち手が緩んで逃げられてしまった。

 一定の距離で、両者の動きが止まる。まるで、台風の目の中のような静けさ。だが、緊張した空気はそのままだ。

 シエリールは、内心嘆息した。なんという不幸。なんという災難。なんという面倒。そして、なんという幸運。

 こいつは、喰ってしまっていいか? 思わず舌なめずりする。

『ふっふふふ。見事だ神父。よくぞ人の身でそこまで成し得たものだ』

 アイゼンクは、無言。だが、その目はシエリールの一挙一動を油断なく見据えている。

 シエリールは、その守りの要だったジャンパーを脱いだ。

「Listen my being. set code108 ID Benigarasu」

 そう唱えると、ジャンパーは、その在り方をみるみる変えていった。

 シエリールの手の内にあるのは、防具ではなく武器。黒い刀身に鎬地に二本の赤い二筋樋が入った刃渡り七十センチ強の日本刀だった。

 シエリールは二度ほど振って重さを確認した後、上段に構えた。攻めの姿勢である。アイゼンクも両手に一本ずつ磔剣を握り、十字に交差した。

『主よ、照覧あれ』

 今度は接近戦が始まった。シエリールに剣道の嗜みはないが、どうすれば相手が効率よく追い込まれるか知っている。特に、殺すということに関しては比類なき殺戮者だ。命を鋭い突きで削り、威力ある斬りで奪いにかかる。

 アイゼンクも、自身より死が遠いそんな厳しい連中と戦って、戦い抜いてきた猛者だ。全く引けを取らず、変幻自在の二刀流で突きを流し、斬りを逸らしなおかつ反撃にでる。

 互いに、今の一撃が足りないとわかるとシエリールは魔力を体に流し、アイゼンクは法力を体に巡らせた。それによって、身体能力は飛躍的に上がる。特に魔法人造生物のシエリールは、この方法による強化とは相性がいい。

 火花だけがあちこちで散っていく。

 また、武器も魔力法力に呼応する武器を使用しているので、攻撃力はお互いうなぎ登りだ。

 黒い刃は、敵の腕を狙い、眉間を突き、肩から袈裟にしようとたくらむ。

 銀の刃は、肩を貫き、足を縫い止め、体を磔にしようとする。

 だが、それはどれ一つ達成されず、お互いの武器がぶつかったところで明滅を繰り返す。

 シエリールは、喰い応えがある。そう思った。

 しかし、楽しんでいるのは彼女だけではない。明らかに、神父の表情も愉悦に歪んでいる。

 それがまた何合と繰り返された後、横で呆然と見ていた真澄の足下に着弾した。

「へっ?」

 なにが起こったのかわからない真澄の暢気な声。

 その瞬間、シエリールの集中が切れ意識がそちらを向いた。時間は何百の一秒という僅かな時間。しかし、アイゼンクの一撃はシエリールを捉え、左脇腹から背中に向かって串刺しにする。

 シエリールはその一撃を諦め、瞬時に戻した集中力でアイゼンクの左腕をもらうことにした。

 手応えはあったが、左手からは血は出なかった。アイゼンクは素早く距離を取る。

 今までからすればかなり緩慢な動作で、脇腹に刺さった腕付きの磔剣を抜き取った。シエリールの血がぼたぼたとこぼれる。これはすなわち、彼女の歴史そのもの。

『義手だと? それで革手袋か。見分けがつかなかった』

 傷の割に、シエリールは飄々としていた。そう見せている。

『その一撃で死なないとは、噂どおりだな。左腕には、対吸血鬼用の外的施術法印を刻んでいるのだが。これでは、殺しきれんな。ユディト!』

『はい』

 公園の木の上から、枝をならしながら、先ほどの銃弾の主が姿を現す。

 ショートカットで、浅黒い肌をしている若い女、いや女の子だ。服装は、街で見かけるシスター服を着ている。だが、手には不釣り合いに立派な暗視スコープ付きの狙撃銃があった。琥珀色した目はどこを見ているのか判然としない。

『手を出すなと、言っておいたではないか。それに、一般人を狙うとはなにごとだ?』

『彼女は、吸血鬼と関わっていた人間。死んでも仕方ない』

 ユディトは、油断した瞬間を見せつつ、銃を持たないほうの手でスタングレネードを投げた。

 シエリールは、とっさに真澄の前に出て、自身の眼は腕でかばう。

 彼女が視界を取り戻したとき、強い耳鳴りを残して二人は姿を消していた。

 敵の離脱を確認するとシエリールは、膝をついた。

「ぐ、ぐぅぅぅ……」

 痛みが、シエリールを襲った。魔力による強化で体の機能を上げた余韻で体温が高くなっている。普段より濃い白い息には、苦痛が強く滲んでしまう。真澄は、すぐに側に駆け寄ってきた。その出血量に顔を青くする。

「ちょっと、大丈夫なの? 救急車呼ぶ?」

「いらんよ。この程度で死にはしないさ。ぐっ」

 紅鴉を杖代わりにして、体を支える。

 こんなところで、死ねない。口から血が逆流するが、耐える。相変わらず不味い。それになによりも真澄の前で死ぬわけにはいかない。

 シャツを脱いで、それを包帯代わりに腹と背に強く巻き付ける。紅鴉を、ジャンパーに戻し、それを着て前を閉めた。

 よろめきながらベンチまで行き、乱暴に体を預ける。

「うぐ。ところで真澄。一つ答えてもらえるだろうか?」

 死にはしないと聞いて、ほっとしている真澄は、さっきのことだと思ったらしい。表情が暗くなる。

「あんたの生き方については、なにも言えない。わたしが出来るのは、受け入れるか拒否するかだけ」

「違う。さっきの話じゃない。私には、魂はあると思うかい?」

 シエリールは、吸血鬼。死ねば灰になり、二十一グラムを測ることも叶わない。

「なに? 急に難しいことを言い出して。わたしは、魂っていうのがどういうものか考えたこともないけれど、あんたは生きてるじゃない。他人の辛さに苦しむ心があるじゃない。生きて、心があって、まだ必要?」

「そうだな。こんなにも痛い思いもしてるし、これ以上の実感はいらないかもな。でも、おまえたちには、魂がある。私は、こんなにも違うおまえと一緒にやっていけるのだろうか。魂の無い、人形かも知れないのに」

 この心だって、嘘かもしれない。さすがにシエリールに心があるといってくれる友人には言えないが。

 さっき流れ落ちた血が、シエリールの自信と確信を一緒にもっていってしまったのだろうか。こんな質問、今するものではないと思う。だが、今真澄に問わねばならない問題のような気がした。辛くも生きてる今だから。

 シエリールは、真澄と同じがいいと強く思う。

 真澄は、シエリールの額を音高く叩いた。いい音が寒空に響く。

「らしくないね。傷のせい? 普段のあんたならそんな質問はしないね」

「そうかもしれない」

「いつもだったら、大事なのは、私の中に魂があるかどうかじゃなくて、今までの時間を共に在れたことだろう。とか言うんじゃないの? だから、あんたの中身があるのかないのか知らないけど、あんたの殻は好きよ」

 シエリールは、不意打ちを食らった。真澄は、恥ずかしさで顔を真っ赤にしている。

「くっ。くっくっく。あははは。あぐっ。げほっげほっ、あはははっ」

 シエリールは、痛みをこらえて笑う。心の底から、笑うことができた。

 シエリールは自分の根本に、人への憧憬が眠っているような気がしている。人と同じを強く望む傾向があり、こだわりというか、違うと納得しない部分がある。だが、真澄はシエリールのあるかないかわからないものより、シエリールであることを望んでくれているのだ。殻、か。シエリールは、いい表現だと思った。

 シエリールは、人に惹かれる。人という生き物に惹かれ、人という性質に憧れ、人という作りを渇望する。シエリールは、吸血鬼であり、真祖。人であった経験は無い。

「あんたはどう? 自分のことどう思う?」

「私は、自分については嫌いじゃない。おまえとこうして話せている自分は好きだ。だが、私の嫌いなものは知ってるか?」

「面倒でしょ」

「ああ、そうだ。そして、一番好きな瞬間はなんだと思う?」

「えー? んと、友達と話しているとき?」

「ああ、それは大好きだ。間違いない。だがな、それは、好きなことだ。好きな瞬間は、面倒が解決したときなんだ。矛盾を感じるだろう? 自身がこう矛盾してるからな。人生の評価も矛盾に満ちているんだ」

「ふーん。わたしと同じだね」

 何気ない一言のように真澄は言った。この笑顔、突き抜ける笑顔とはこのことだろうか。真澄もシエリールと同じで、“同じ”であることを嬉しいと思っているようだった。

「でもさ、あんたには、あるかないかでいったら魂はあると思う。あんたと過ごしてきた時間は生きてるから。……なんてねっ」

 真澄は、顔を赤くしたまま、恥ずかしいねって言った。

 シエリールは、確信する。友人が、真澄が好きだ。シエリールの愚考に明快な答えをあっさりとくれる。正しいか間違っているかはわからないが、それが答えかもしれないと素直に思えるものだ。件の神様は、耳も貸さない問いに正面から答えてくれる。シエリールは、自分が求めるのは、神ではなく、人。それも、友人なのだ、と。

 シエリールは、ここまで恵まれてるのだ、魂の有無なんて些事だろうという結論を得た。なんでこんなことを、気にしてしまったのかわからない。魂がないとしても、シエリールは生きているし友とこうして充実した時間を送っている。それとも、魂があるとわかるとこれ以上のなにかがあるのだろうか?

 シエリールは、次に痛む脇腹に意識を向けた。人間なら、肝臓、腸をやられ、出血多量の前にショック死するところだろう。だが、シエリールは生きている。これが、吸血鬼であるということ。

 そして、対吸血鬼用の装備で死なないのが造られた吸血鬼であるということを如実に語っていた。そのことに不思議と落胆を感じる。それによって生きているのに。

 回復魔法が使えないのは、覚えてから初めてだった。しかし、その前はなくても生き残ったし、この傷も魔法がなくても生きていけるぎりぎりの程度だ。

 座っているベンチのすぐ横で売ってる自動販売機の缶ジュースを飲みながら動けるときを待つ。血で口の中が一杯でなにを飲んでるかわからなかった。シエリールはいつも思う。どうして、自分の血はうまく感じないのだろうか。同じ血であることに変わりはないのだが、と。

 それに真澄は、いやな顔一つしないで付き合ってくれた。

 お互い言いたいことを言ってしまったからか、言葉は少ない。あんた、英語もしゃべれたんだねえとか、強かったねとか感想だけだった。シエリールは、ああ。と、短く答えてばかりだった。

 シエリールは、真澄の、人質になったらどうするの、という質問の答えを一生懸命探していたからだ。

 一時間後、予定通り、真澄を家まで送って行った。

 赤い目のカラスがその様子をずっと眺めていた。あたかも楽しそうに鳴き声を上げて飛び立っていった。

 シエリールは一人、深々と清らかなる雪を降らす天を仰いで哀哭に近い希望で心を塗りつぶす。もっと自分の性格が破綻していれば、もっと狂っていれば、殺戮兵器であれば楽だったろうか。魂の有り無しなど気にしないで笑い飛ばしてしまえればよかったのに。

 真澄の問いに対する答えは、まだ見つからなかった。

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