魔性の王〈5〉
「あなたはこれ以上何を望むの? 王になって、何もかも手にいれたくせに」
「俺は王になりたいと思ったことなど一度もない。俺はただ……」
目の前で自分を見下ろすロキルトの瞳が一瞬、揺らいだように見えた。
「……リシュは小さいんだな」
言いかけていた言葉の先は、どうやらすり替えられてしまったようだ。
「リサナがデカすぎたんだな。あいつの身長をやっと追い越したとき、あいつ悔しかったみたいで、二日も口をきいてくれなかった」
(───なによ、その思い出)
リシュの表情を愉しむように、ロキルトは続けた。
「いつも眠そうな目をしているのも同じなんだな、あいつと。あんなに寝ておいてまだ眠り足りないのか」
「ダンスの練習で疲れたのよ」
「ダンス、ね。ルルアが褒めてたぞ。俺にはダンスが好きなこと、今朝一言も言ってなかったじゃないか」
「そ、そんなこと!ち、近寄りながら喋らないで……それ以上近寄らないで!」
「なんで」
手を伸ばさなくても捕らえられてしまうだろう距離で。
その手はまだリシュのどこにも触れていないのだが、ロキルトの威圧感のような、見えない何かに。
リシュの身体は締め付けられるように固まっていた。
それでも後退りたくはなかったし、逃げたくもなかった。
「怖くなった?」
至近距離から訊いてくるロキルトから、リシュは視線を外し首を振った。
「だよな。おまえにはまだ色が視えない。だからやり方を変えてみようと思って」
「やり方?」
「怖がらせるのはやめた」
(じゃあ次はなによ⁉)
「リシュは……よく見るとそうでもないな、リサナと。あいつの瞳の形はもっと大きな雫型で唇も色艶が良かった。笑うと笑窪ができた。リシュはあるのか?
こんな状況で笑えると思ってんの⁉
キツイ眼差しを向けるリシュに、ロキルトは平然と続ける。
「それにリシュは発育が悪い。今朝も言ったがもっと食えよ飯。俺より姉さんのくせに、肝心なところがしっかり育ってない」
ロキルトの視線はリシュの胸に向いていた。
「わっ、悪かったわね! どうせわたしは母様のような美人じゃないわよッ」
(この子っ、怖がらせる次はわたしを怒らせようとしてるの⁉)
まるで子供みたい。
母様が言っていたように。
ロキってばいつまでたっても子供みたいなのよ───と。
「それからその服、似合わない。そんな着古したようなモノは衣装部屋に置いてなかったと思うが? もっと明るい服を着ろ。リサナは結構派手でいたぞ、ここではな。とくに赤系の服を好んで着ていた。そうだな……真紅。あれは髪色が際立って美しかった」
ロキルトの眼差しはリシュを通り越して、どこか遠くを見据えていた。
この子は……ロキルトは今、わたしに母様の面影を視ている。
自分にリサナの幻が重ねられているとリシュは思った。
「わたし、赤は嫌いなの」
「似合うと言っている。リサナは似合ってた」
わたしは……
リサナではない。
「あなたって……」
怒らせるとか、困らせる、なんて。
そんなことより本当は
わたしに母様の面影を重ねて……
「あなたって、母様のことが……」
面影を追い求めて……
「リサナが恋しいの?」
その瞬間、ロキルトの髪色が銀を帯びた紫に……
一瞬、光ったようにリシュには視えた。
動揺と怒りのような感情の入り混ざった表情は、なぜか儚げで。
(言ってはいけなかったかな……)
少し後悔した直後、リシュの視界が揺れた。
足下の感触が急に無くなる。
あっという間の出来事に、何が何やら把握できない。
気がつくと、リシュの視線はいつもより高く……ぐらぐらと揺れ、視界に飛び込む天蓋をくぐり───そして寝台の上に投げ出された身体が大きく跳ねた。
「気が変わった」
ロキルトに抱き上げられて運ばれ、真っ白で柔らかで綿のような感触の寝具の上で。
「───ちょっ⁉ やめてっ!」
起き上がろうとしたリシュの身体を、ロキルトは押さえ付けた。
「あの魔女を、俺が恋しいだと?」
「やッ! はなしてっ!」
両腕を広げられ、しっかりと押さえ付けるその強さは、少年のものではなかった。
「細い腕だな。折ってやろうか、簡単だ、こんなの」
「っ、痛ぃ……」
本当に折られてしまうのかと思うほどの痛みがリシュの全身を貫こうとしたそのとき。
その力が不意に緩んだ。
緩んだことにはホッとしたが、リシュに覆いかぶさるような姿勢でいるロキルトが近すぎて、逃げ出すことは不可能だった。
「反則だろ、リシュ……」
「え?」
「おまえのその髪……」
なぜなのか苦しげに自分を真上から見つめるロキルトの表情に、リシュは不安を覚えた。
青白い顔。
呼吸が荒く、瞳も虚ろだ。
(ロキルト?)
「……苦しいの?」
一体どうして……?
ロキルトは苦痛そうに眉を寄せながらも、リシュを見つめながら嗤った。
「その香り……解らないのか。……そうか」
歪めた笑み、そして荒い吐息が漏れる……
苦しそうに。
「香りって……なに?」
リシュには全く判らなかった。
匂いなど感じないこの部屋で、彼は一体どんな香りを感じているのか。
訊イテハ、イケナイ……
訊カナイホウガ、イイ……
何かが、警告していた。
なぜ、そう思うのだろう。
「おまえ、知らなかったのか。あいつ……これは言わなかったのか……」
ロキルトは態勢を崩し、リシュの横に仰向けに身体を並べた。
「ロキ……?」
リシュは起き上がり、おもわず名前を呼んでいた。
初めて。
彼に向かってその名を。
「───くそっ、リサナの奴! あいつが残した嫌がらせだな」
ロキルトは目を閉じて、呻くように呟いた。
「一体何のこと? 香りって何なの……。わたしは感じないけど」
「おまえだよ、リシュ。おまえのその髪の香りが俺を苦しめる。ほんとに聞いてなかったのか……。悪趣味リサナの置き土産かよ……」
「わたしの髪?」
ロキルトは天蓋を見上げたまま、虚ろな瞳で言葉を続けた。
「毒の香りは解るのに、自分から発せられる匂いには気付かないのか。まぁ、その髪の匂いは俺だけが感じるものだけど。リサナと一緒の匂いだからな」
(母様の髪も⁉)
リシュは震えそうになる身体を必死に落ち着かせようとした。
(この髪から何か匂うというの……?)
ならば……
その香りに反応する事とは?
リシュはすぐ横で仰向けになっているロキルトをじっと見つめた。
閉じられた瞳。
うっすらと額に浮かぶ汗。
そしてその苦しさを反映するようにロキルトの髪色が、うねるように変化する。
薄く濃く。
それはとても不気味に視えた。
「人を呼んでくるッ」
「必要ない」
ロキルトがリシュの腕を掴んで言った。
「だって苦しいんでしょう?」
「寝つきが悪いだけだ……俺は……この息苦しさはすぐに終わる……」
ロキルトの呼吸はその言葉通り、徐々に落ち着きを取り戻していった。
虚空を見つめるような両目は、まだぼんやりしているが……。
───なんて眠そうな眼。
……まさか。
ロキルトが感じる香りというのは、わたしやリサナと同じ症状を誘発させるもの?
同じ「眠り」を。
毒の後遺症。
慢性的睡眠疾患。
「あなた……………眠いの?」
「リサナとおまえの、その髪の香りは……俺の眠りを誘う。俺を眠らせることができる……まるで毒香だ」
ロキルトだけが感じる香り。
「わたしから……」
───なぜ?
♦♦♦
……なぜ、
言ってしまったのだろうと、
ロキルトはぼんやり考えていた。
弱点になるようなことを。
こいつは知らなかったのに。
けれどこの身体は悔しいくらい正直で。
眠りを欲していた。
最近は特に。
この……甘く
欲しくて……
とても欲しくて。
♦♦♦
「おまえやリサナだって毒の香に眠りを誘われるんだろ。俺はそんなおまえたちの……その髪から放たれている匂いに睡魔が誘発されるらしい」
「やっぱり人を呼んでくる」
「いい、呼ぶな」
「だって、あなた苦しそうよ」
まだロキルトの髪色が落ち着いていない。
ゆらゆらと、色が波打っていて、定まっていなかった。
「眠りたくないからな」
「じゃあ尚更、わたしがここに居ない方がいいでしょ。ひどい匂いに包まれて眠ってしまうより」
「ひどいなんて言ってないだろ。懐かしい香りだ……甘くて、とてもいい……悪くない匂いだ。悔しいがな。
でもどうせもうすぐ時間だ……きっと、ユカルスがっ、……最初から時間を告げておいた。俺も忙しい身でね、姉上の相手を一晩中しているわけには……っ …くッ!」
「ロキ ⁉」
睡魔と闘うロキルトの表情が苦痛に歪んだ瞬間、
彼の髪色が……
ゆっくりと、
濃い紫へと戻ってゆく。
「なまえ……やっと呼んだな」
♦♦♦
(……待っていたんだ)
口には出さずに、ロキルトは心の中で呟いた。
こんなことなら……
我慢できると思っていたのに。
これほどの……力とは。
リサナより強く感じる。
でもこれは自分が長いことしっかり眠っていなかったせいだろうか。
こんなことなら、もっとしっかり眠っておけばよかったか……。
「───キ? ……ロキ…⁉」
懐かしい声。
……眠りたくない。
……眠りたい。
心と身体が求めるものが、いつも同じに重ならない。
そしてずっともがき苦しんでいる。
リサナが去ったあの日から、だろうか……
でも
それも今日、やっと終わる。
明日からまた
元に戻るのだろうか……
眠りを知っていた頃に。
再び手に入れた、この青い花に。
俺の名を呼ぶ……この魔女に。
俺は……
その名を呼び続ける声と、心が支配されてしまうような香りの中に包まれて。
ロキルトはいつしか意識を手放していた。
♦♦♦
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