魔性の血〈5〉
朝の閣議を終え、スウシェが部屋を出て歩き始めてから数分。
後ろから雑な足音が響いて自分を呼ぶ声が聴こえた。
「お待ちくださいっ、スウシェ殿!」
男性にしては高めなその声に、スウシェは渋い顔で立ち止まった。
そして溜息を一つ。
けれどすぐにそんな顔も和かな表情に変えて、スウシェは振り向いた。
「これはこれはスカヤール侯爵様」
目の前に立つ男を見てスウシェは思った。
(嫌な相手が来たものね)
カムエル・スカヤール。
焦げ茶色の髪に青い瞳。
痩せ型で神経質な表情はいつものことだが、今朝は一段とスウシェを見つめる瞳が険しい。
「なにか?」
「スウシェ殿! あのような閣議では納得しかねますぞっ。陛下もお見えにならないのに、一体どういうことなのか、説明してもらおう!」
「説明? 陛下が閣議をすっぽかすのはよくあることでしょう。なのに納得できないとはスカヤール侯、あなた質問の主旨が違っているのではありません?
一体なにをお訊きになりたいのです?」
「そ、それはっ、昨夜の騒ぎの詳細が、まだ未報告ではないかと言ってるのだ!」
「昨夜の騒ぎ? ……はて、何のことでしょう」
「とボケないでいただきたい!」
「あら、トボけてませんけど。今朝の閣議でそのような質問をしてきた者は一人もいませんでしたが……」
「それはわたしが! 今こうしてあなたに直接尋ねる方がよいと考えて……つまり皆を代表して、それで訊いてるのですぞ」
「まあ……」
───うるさいハエめ。
スウシェは心の中で呟いた。
「けれど貴方に話すことは何もありませんの」
「そのような返事が通ると思っておられるかっ!」
スカヤールの癇癪に、スウシェはおもわず顔を顰めた。
「では何と申し上げましょうか。スカヤール侯爵様に返す御言葉が、見つかりませんわ。何を知りたいのか判りませんが、あなたにお話することは一つもありません」
「こっ、この成り上がり者がッ!」
「貴様! スウシェ様に向かって口を慎めっ!」
スウシェの傍に控えていた一人の護衛が、スカヤールに詰め寄った。
背が高く褐色の肌と短めの黒い髪。
瞳は濃いグレー。
そして騎士の衣装がとてもよく似合ってはいるが豊かな胸元や腰のラインから、その護衛が女性であることは確かだった。
「おやめ。ルルア」
「しかし、スウシェ様……」
「スカヤール侯、これ以上の問答は意味のないこと。どうしても話がしたいのであれば、直接陛下に申し込みなさったらいかがです? わたくしが取り次いでさしあげましょうか。……でも陛下が会ってくださるかは判りませんけど」
───会う筈がない。
こんな下衆の三下野郎になど。
スウシェは心の中で毒突いた。
「いっ、いつまでも、そんな勝手が通ると思うなッ……」
「勝手とは、どういう意味だ?」
別の通路から声がして、ユカルスを伴ったロキルトが三人の前に現れた。
「閣議は無事に終わったか、スウシェ」
「はい。でも無事かどうかは……」
「なんだ」
「陛下のお顔を拝見できないと、ご機嫌の悪くなる者たちが大勢いますので」
スウシェの言葉にロキルトは鼻で笑った。
「見ても見なくても同じだろ。老臣どもの機嫌が悪いのはいつものことだ。
なあ、スカヤール侯。貴公はスウシェが何の勝手をしていると思うのだ? この国の宰相が勝手をしていると?
それは一体どんなものだ? なあ、スカヤール侯爵、俺に教えろ」
面白がるように細められた眼は薄白く怪しげでいて鋭く、まるで妖蛇の眼差し。
そんな雰囲気だった。
「い、いえっ、わたしはただっ……」
ロキルトの冷たい視線を受け、スカヤール侯爵は身を縮ませながらも発言する。
「昨夜の騒ぎが……風凪の門で何があったのか、我々にも聞かされるべきではないかとっ」
「たいしたことじゃない。ネズミが六匹忍び込み、そのうちの一匹を俺が捕まえただけだ。しかし残念なことにそれは舌を噛んで自害してしまったがな。
つまらぬから首だけでも刎ねようと思ってね。今から行くところだ。
そうだ、スカヤール侯、よかったらついて来るといい。刎ねた首を門に飾るのを、ぜひ君に手伝ってもらおうか」
「い⁉ いえっ! わたくしはっ、今日はそのっ、本日はこれからッ……」
「何か用事? な~んだ、残念だなぁ。じゃあ早く戻ったら?」
「はははいっ、失礼いたします!」
「……あらあら」
あたふたと戻って行くスカヤール侯爵の後ろ姿を見つめながら、スウシェは苦笑し、そして言った。
「次に首を斬り落とされるのが、あの方だったらいいのに」
「その時はこのルルアにお役目、お申し付けください」
傍らの麗人ルルアの切れ長で形の良いグレーの瞳が、スウシェに向けられた。
「ダメよ、ルルア。可愛い貴女にそんなことさせたくないわ」
「しかしあやつはスウシェ様を侮辱しました。私は許しません」
「ありがとう、ルルア。気持ちだけ受け取っておきます」
見惚れるような笑顔をルルアに向けてから、スウシェはロキルトに言った。
「それにしても、陛下に助け舟を頂けるとは思いませんでしたわ」
「あれか? スウシェが前から言っていた、しつこいハエというのは」
「ええ。もうしつこくて、困ってますの。どうやらわたくし気に入られてしまったようですわ。いつも何かと文句を言ってくるのですもの」
「ふーん。ま、放っておけ、あんなハエは。あいつの悪意はたいした色じゃない。可愛いもんだ」
「でも陛下はどうしてこちらに? わたくし、今から伺おうかと思ってましたのよ。お伝えすることがあって」
「なんだ」
「ロゼリア様が今夜ぜひ晩餐をご一緒したいと。オリアル様も同席で、例の件についていろいろとご相談されたいそうです」
「今夜はダメだな。俺は今宵、宵の宮へ行く」
「あらまあ、随分お早いお渡りですこと。リシュ姫さまは、まだこちらに戻られたばかりだというのに。あまり姫さまに無理させてはいけませんわよ、陛下」
「おまえ、なんか勘違いしているな」
「え?」
「俺は話に行くだけだ」
「あら。なんだ、そうなんですか?」
「なんだその顔はっ。まったく……。逢った初日からそんなことするかよ。んな展開になるわけねーだろ」
「でもそのための宵の宮なんですのに」
まだ何か言いたそうなスウシェに話す隙を与えぬよう、ロキルトは続ける。
「リシュには今日から舞踏会に向けてダンスの練習をさせることになった。
それでな、ルルアを講師に借りようと思ってな。それを伝えるためにここへ来たんだ」
「そうですか。わかりました。ルルア、お願いね」
ルルアは無言で頷き、ロキルトに腰を折る。
「それにしても。ダンスの講師でさえ、殿方を許されないとは。
どのような者であっても、あの花に触れさせたくないのですね、陛下は」
「ああ、そのつもりだが。何かおかしいか?」
ロキルトの言葉に、スウシェは微笑んで返した。
「いいえ。ただ、敵が増えるのではないかなと。それに、ご自分がダンスの練習相手として付き合ってさしあげたらよろしいのに」
「楽しみは後にとっておくタイプだからな、俺は。それに……なんだかさっき、少し機嫌を悪くさせたようだから。じゃあ頼んだぞ、ルルア」
「これからどちらへ?」
「首を斬りに」
実に愉しげな様子で笑みを浮かべて去って行く少年王に、スウシェとルルアは然して動じることもなく頭を下げて見送った。
♢♢♢♢♢
庭園の東屋で、リシュはあれからぼんやりとリィムが迎えに来るのを待っていた。
毒の染みた土に触ったせいで、薄紫色の付いた指先ばかりに目がいく。
毒に触れると手を洗っても二、三日は色が残る。
そのうち自然と薄れて消えていくのだが。
そして約束の一時間が経った頃、リィムがリシュを迎えに来て言った。
「姫様。今日はこれから舞踏会に向けてダンスのお稽古をするようにと、陛下からのお言葉です。お部屋ではなくこれから練習用のホールへ移動してもらうことになりますが」
「ダンス……」
(……あぁ、面倒くさい)
リシュは再び憂鬱になった。
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