第21話 生きろ

「そんな……。何で、ヴェルト……?」


 その言葉が出たのは打たれてから、一分程経ってからだった。

 それまでまず何が起きたかを把握することが出来なかった。いや。正確に言えばまだ出来ていない。目の前で起きた状況を整理することが出来ず、ただ呆然としていた。

 右腕に痛みを感じる。見ると、ヴェルトが注射器を打った痕がある。

 何で、ヴェルトが私に……。病気であるヴェルトを差し置いて、何で私が薬を打たれているの?


「お前、自分で本当は、気付き、始めてたんだろ……?」


 無理して動かした所為か、さっきより息を乱しながらヴェルトは喋る。

 その言葉に心臓が一瞬止まった気がした。

 何を。それをヴェルトは言っていないのに、何についてか理解してしまった。流れからだけではなく、言葉があまりにも的確だったから。

 可能性に気付いておきながら、私は逃げ続けていた。そんなある訳ないと、目を背け続けてきた。


「あのままなら、お前が、死んでた……」


 言葉が突き刺さる。

 私の疑念を更に肯定するかのように、ヴェルトは確信めいた顔でそう言ったから。


「何でヴェルトはそんなこと知ってるの……? 私が病気だってことも……」


「何度も見てきた気がするんだ……。でもまだその段階で打てたんだから、大丈夫だろう」


 何度も? それは夢のこと……?

 疑問は増すばかりだが、それよりも今は考え事をしている場合じゃない。

 幸い薬はもう一本ある。それをヴェルトに打ち込めば……。私はもう一本の薬を掴んでいた。


「打つな、ミリア……。打っても、無駄、だ。それを打った所で、俺は、助からない……」


 助からない……? 言葉が私の胸を貫く。

 なんでそんなことを言うの……?


「そんなのやってみなきゃ分からない……。なにもしなかったら、それこそヴェルトは死んでしまうんだよ!」


「分かるんだ。今までだってその薬を打ったけど俺は死んできた……」


 今まで……? いつのことを言っているの。それに死んできたって……。

 分からないけど、ヴェルトの瞳は全く揺るがない。

 何年もずっと追い掛けてきたんだ。分かってしまう。今まで発してきたヴェルトの言葉は憂いや可能性からの話ではない。何でかは分からないけど、確信している。ただ事実を告げている。そしてそれは真実だと私自身も何故か確信してしまっている。それがとてつもなく私に悲しみを与えてきた。

 そう理解しても。何もしないなんて嫌だ。

 今までだめだったとしても、今回は違うかもしれない。諦めきることなんか出来ない。

 ……だというのに、言葉はそんなことじゃない。一番強い想いが口から吐き出された。


「なら、なんで! なんで私にこっちの薬を打ったの! 私とヴェルトのどっちかしか助からないというなら、私は望んで死を選んだ! なんで、私を助けたの……?」


 声が震える。自分が死ぬなんかよりももっと恐ろしいこと。

 それが近付きつつある恐怖を感じるから。


「ここまで進行した俺じゃ薬が効くかは分からなかったから……。まだ症状が、はっきり現れて、いないお前の方が、助かる可能性は、高いだろ。……どっちにしろ、危険な薬を使うことになって悪かった、けどな」


 そんな、そんな……。

 そんなの納得出来る訳がない。


「そんなの――」


「それに、俺はお前に、生きて欲しいんだ。……良いだろ。散々お前が死ぬ姿を見せられてきたんだ……。たまには、お前が俺を看取ってくれよ」


 私を押し黙らせるように、ヴェルトは言い、そして私は黙った。でもそれはヴェルトが割り込んで来たからじゃなくて、私自身が言葉を失ってしまったからだ。

 そんなの私は知らない……。知らないのに……。


「……だから、その薬は元に戻してくれよ。……それを、必要とする人が現れる筈、なんだ……。頼む、ミリア。それを俺に使わないで、くれ。死に行く誰かの命を救ってくれ……」


 誰かの為に、この後ただ一本残る薬を使う……?

 誰かが死ぬ。多分それも間違いではないのだろう。

 これをヴェルトに打ったら、誰かが死んでしまうかもしれない。これをその誰かを救う為に残しておくというならヴェルトは死んでしまう。

 私はなにもしないで、ただヴェルトの死を待つの……? 

 ……嫌だ。

 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ。そんなの嫌だ! ヴェルトが死ぬなんて嫌だ。

 死なせてたまるか。誰が死のうと関係ない。あなたを助ける。あなたにはなにがあっても死んで欲しくない。目の前で死に行くあなたを見るなんて嫌だ。

 ……なのに、私の手は止まっていた。

 動け、動け、動け! ……動いてよ。 

 どんなに念じても動かない。いや本当は、想いとは裏腹に、更に強い意志があることに私は気付いていた。

 このタイミングで薬を使うべき人、つまり感染者がいたとしたら、それは最初の感染者である可能性が極めて高い。

 つまりヴェルトは、一人の人間の命を救うと共に、世界も救ってくれと。自分の願いを私に託してくれたんだ。

 お父さん、ザムエルさん、アリーナさん、ルドルフさん。未来で病気で苦しみ心を幸せを奪われた人達。そしてヴェルト……。

 もしここで打ったら全員の願いを見捨てることになるかもしれない。

 それにただ一人の命だから。そんな言葉で本心は誤魔化せない。私には誰にも死んで欲しくなんかない。誰が死のうと関係ないなんてただの強がりだ。死ぬと分かっている誰かを見捨てることなんて出来る筈がない。


「ごめん……。ごめんね、ヴェルト……」


 私がもっと早く気付けば助けられたかもしれないのに。私がもっと強ければ助けられたかもしれないのに。


「ミリア……」


「私はあなたに救われた。あなたがいなかったらとっくに死んでいた……。あんなにおいしいパンを食べることも出来なかった。……あの時食べたパンの味、今でも覚えてる。本当においしかった……」


 声の震えがより酷くなる。

 それでも悲しみを押し殺して、私は精一杯言葉を紡ぐ。


「ヴェルト……あんなおいしいパンを食べさせてくれてありがとう……。私を生きさせてくれてありがとう……。私に――」


「――私に生きる意味を与えてくれてありがとう」


 笑顔を作って、必死に想いを伝えた。

 顔もだ。悲しみを見せたままこの気持ちを伝えたくなかった。それでも自分の顔を想像する余裕もない。少しでも歪んでしまっていないか、正直自信はない。

 そして言い切ってから自然と変わった。


「なのに、ごめん。……私はあなたを助けられない。助けてあげたいのに私は弱いから……」


「謝るなよ、ミリア……。そんなお前、だから俺は生きて、欲しいんだ……。だから、これは、俺の勝手だ……。俺の方こそ、わがまま押しつけて、ごめんな、ミリア……」


 ヴェルトの言葉を聞いて、息を吸えなくなる錯覚に陥った。

 一緒にもう流さないと誓った涙が、目から重力に従って落ちてくる。

 落ちるな、落ちるな……。抗ったけど、最後はもうやめた。

 涙が止まらない。それでも必死に声は上げるもんかと、些細でもなんでも、必死に抵抗した。


「無理させて、ごめんな……」


「ヴェル、ト……」


 短いというのに、名前をまともに呼ぶことすら出来ない。

 ヴェルトも元々弱っていた言葉が、更に弱くなっていくのをはっきりと感じる。


「ミリア……二つだけ、頼みがある」


「……なに?」


「……まず、この後すぐにでも、ハンナさんに、言って、デニスさんっていただろ。あの人に、会って、理由を話して、頼んでおいてくれ。俺を、病院で隔離してもらえないか……」


 ズキンと胸が痛んだ。

 それは、つまり感染者である自分に近付き病気が移ることで感染者を増やすリスクを減らす為の対処だ。そんなの分かってる。

 でもそれは、ただでさえ受け止め切れないでいるヴェルトに近付きつつある死を如実に感じさせる。そしてヴェルトを、紛う事なき、感染者として扱うということになる。

 それを考えると、心が苦しくなる。


「あと、もう一つ……悪い、誰か死ぬっていうのは分かるのに、それが誰か俺には分からないんだ……。でも、お前なら、助けられると、信じてる……。頼む、その人を見つけてあげてくれ……」


 言った後、ヴェルトは眠たげな子供のように目を細めていく。

 嫌だ、っと瞬時に感じた。

 

「嫌だ、死なないで……。生きてよ、ヴェルト。私を一人にしないで……」


「ごめんな……。あとは、頼む、ミリア……」


 そのままヴェルトは目を閉じた。

 閉じられた目から涙が溢れていた。

 

 その後すぐにヴェルトに言われた通り、ハンナさんに頼んで前に一度会ったデニスさんに連絡を入れてもらい、ヴェルトをデニスさんの病院の集中治療室に移してもらった。


 ――三日後、ヴェルトは死んだ。




 



 

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