第20話 痛み

 目を開いた。

 見えたのは白。そして幼馴染みの後頭部。向こう側、窓の方向を向く形で横になってヴェルトが寝ていた。

 ああ、そっか。私、いつのまにか寝ちゃってたのか……。

 寝ぼけている頭で、自分が昨日看病しながら寝てしまっていたことに気付いた。椅子に座りながらなんて器用だなと、自分のことながら思う。

 丁度その時だった。


「いたっ……」


 頭がズキンと痛んだ。しかもそれは徐々に強くなり、頭中に響いていく。そして更に咳も出て来た。

 苦しい。苦しい……! なに、これ……! ぞわりと背筋に寒気が走った。

 それは暫く続いた。俯き頭を抑えながら十数秒後、ようやく収まった。

 嫌な予感が頭を過ぎる。しかし私は否定するように頭を振ってから、顔を上げた。

 そしてあることに気付いた。

 ――ヴェルトの様子が異常なことに。

 体は小刻みに震え、わずかに聞こえて来る息遣いは、確かに必死に堪えているように聞こえる。


「ヴェルト……?」


 焦って私は立ち上がり、横になっていたヴェルトを仰向けに直した。その際にベッドの上に落ちていたタオルが、更に床に落ちたのが見えた。

 それと共に視界に入ったヴェルトの顔。それが昨日より、赤みを帯びていた。

 私は、息が止まりそうになった。

 最早顔の大部分が赤くなり、仰向けになったことでより聞こえて来る息遣いからとても辛そうにしているのが分かる。

 無意識の内に出ていた手が布団を捲ると、見えた手も赤くなっていた。


「そんな……」


 なんで、なんで、なんで……、なんでヴェルトが……。

 様々な感情が沸き上がってくる。

 怒り、悲しみ、後悔、恐怖。

 でも、言葉が出ない。事態を理解出来ない。いや、出来ないんじゃない。受け容れられない。

 私はなんで寝てしまったんだ。なにをやっているんだ。

 それだけじゃない。それより以前、さっさと打つべきだった。やっぱり、感染していた。予想していたのに。もっと早く打てば良かった……。

 ――違う。今は後悔なんかしている場合じゃない。


「助けなきゃ……」


 助けなきゃ、助けなきゃ……。

 少しでも早く。助かる可能性を上げるんだ。

 私は、白いケースをすぐに手に取り、中身を開いた。

 中に入っている内の片方、ヴェルトが言ってくれたお陰で持ってきたまだ未完の注射を一本取り出す。

 まだ安全が確証されてなくても、効力が強いならこっちを使ってやる。


「ミリア……」


 ヴェルトが薄く眼を開き、こちらを見ながらわずかに口を開いた。

 いつもの強気な口調はどこにもない。なんて、なんて弱々しいのだろう。


「ごめんね、ヴェルト。今助けるから」


 以前、ヴェルトがお父さんに注射の使い方を聞いた時に受けた説明は覚えている。左手でヴェルトの右腕を取って、静脈を確認する。

 ここだ。ここに打ち込めば済む話だ。

 注射を握る手の力が自然と強くなる。

 今すぐその苦しみから解放して、楽にしてあげるからね、ヴェルト……。

 私はポイント目掛けて、ゆっくり注射を降ろしーー


「待て、よ……ミリア」


 再び、微かに聞こえたか弱い声。

 しかし必死な想いが伝わってくるその言葉に反応して、私はピクッと動きを止めた。

 そしてその私の右手首を、ヴェルトの左手が掴んだ。

 弱っている筈なのに、掴む力は思いの外力強い。


「この、手を離して、注射器を……貸して、くれ」


 ヴェルトは私が手首を掴んでいる右手を振りながら、絶え絶えに言った。

 

「なんで……? 自分で打つってこと? そんなの危険だよ。私が打つ」


「良いから、貸してくれ……」


 手元も覚束ない筈だ。もし間違えて打ったら、危険だ。


「ごめん、それは出来ない、ヴェルト……」


 ヴェルトの頼みをはっきりと断ったことなんて初めてかもしれない。ヴェルトも意外そうな顔を一瞬見せた。

 そうしてでも、私が助けるんだ。絶対に。


「そうか……」


 ヴェルトも分かってくれたみたいだ。力を緩め、私の手を離した。

 次の瞬間、バッと油断した私の手から注射器を奪い去った。


「なっ、ヴェルト、なにを……!」


「悪いな……」


 そしてヴェルトは相変わらず乱れた、苦痛の息を吐き出しているのに、その顔を穏やかにして……直後に悲しげな顔を見せた。


「ヴェルト、早くそれを返して!」


「ミリア……」


 そして、弱々しく私の名前を呼んで、不格好な、だけど必死にいつも通りを演じて、にっと普段の笑顔を見せた。


「今まで、ありがとな……」


 ヴェルトは、私の右手首を掴んで注射を打ち込んだ。


   ☆★☆★☆★☆★☆


 脳全体に熱気が籠もったように、ヴェルトの頭は熱く正常に機能しない。蒸気がかかり、視界が奪われる錯覚に陥る。

 起きているのもやっと、考えることすら面倒くさい。体を動かすことも労力を要する。


「そんな……」


 朦朧とする意識の中、一つの声が聞こえた。その声は、耳を通り、現状上手く働かない脳にも鮮明に届いた。

 ミリアの声。幼馴染みの声は聞き慣れている筈なのに、何故かその言葉は聞いたことの無い程の深く悲痛な想いを伝えてきた。絶望したかのような呟き。

 そこで気付いた。手に触られている感触がある。ヴェルトは向けていた天井への視線をミリアに向ける。その顔は、いつもの輝きを放っていない。

 何て顔してやがるんだ。焦りと困惑で、表情は暗い。そんな顔してんじゃねえよ。


「助けなきゃ……」


 助けなきゃ……? 誰を? 何から?

 ……俺か? 何で俺の手を見て? 何で俺の顔を見てんだよ。

 何でそんな顔で俺を見てるんだよ。

 ――何で、薬を取り出してるんだよ。

 ヴェルトの頭に次々と疑問が浮かんでくる。


「ミリア……」

 

 気付けば、無意識にミリアの名を呼んでいた。言葉になったことに自分でも驚いた。

 くそ、やっぱりかよ……。ヴェルトは歯を噛み締める。

 どんなに結論から逃げても、頭が上手く回らなくても、実際は何故なのかなんてヴェルトには分かっている。

 そのミリアの顔と言葉から、はっきりと確信してしまった。受け容れ難い、信じたくない。しかし、四十度の熱を越えた時から自分の中で抱いていた疑念。それが現実だと、今告げている。そのことはヴェルトの心に重くのしかかった。

 ヴェルトは自分の手を見た。そしてすぐ目を逸らした。

 くそ……くそ、くそ! 何でだよ! 何で、俺が……。

 俺もウイルスなんかにやられるのか……。世界を救うなんて言っておきながら、誰もと同じようにただ死んでいくのか?

 約束したのに。必ず帰るって誓ったのに。……何で、俺が。

 まだ、やらなきゃいけないことがたくさんあるんだ。何で俺が死ななきゃいけないんだよ。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない! ウイルスなんかにやられたくない!

 ヴェルトの死への恐怖は徐々に強くなっていく。

 

「ごめんね、ヴェルト。今助けるから」


 その時だった。

 死という深い闇が段々と覆いつつあったヴェルトの心に、その言葉は一筋の光となって差し、照らしてくれた。

 そして、ヴェルトの腕をミリアが掴んだ。

 そうだ、それを打てば助かるかもしれない。死なずにすむかもしれない。わずかな希望が生まれた。

 だというのに、何でだ……。

 そう思う反面、何故かそのことに対してヴェルトは焦りを感じていた。

 打ってはいけないと直感が告げている。今打ったら、何か取り返しがつかないことになるような気がしてならない。

 ぎゅっと強く注射器を握ってミリアは今にも打たんとばかりの態勢になる。

 その時だった。またいつもの頭痛が起きた。

 今まで何度も起こった頭の痛み。同じなのに、度合いが大違いだ。

 何だ、これは? ――痛え。

 今までの比ではない痛みを感じる。そしてそれは徐々として増していく。

 そんな中だった。もやがかかっりはっきりしない脳内で、それだけは明瞭ないつもの写真のような光景が写し出された。

 血を吐き、亡くなっている女の子。いつもと変わらないそのシーンが、しかし今回だけは違った。

 見ることが出来た。小さい頃は見えていたのに、最近は見えなくなっていた女の子の顔を遂に認識することが出来た。

 その顔に驚いた。と同時にヴェルトはどこか納得した自分がいることも自覚した。

 ……そっか。お前だったんだな、ミリア。


「待て、よ……ミリア」


 近付いて来たミリアの腕を掴んで止めた。

 そのまま打ってもらう訳にはいかないから。


「この、手を離して、注射器を……貸して、くれ」 


 途切れ途切れになりながらも、なんとか言葉を紡いだ。

 

「なんで……? 自分で打つってこと? そんなの危険だよ。私が打つ」


 しかし、やはりというべきか、ミリアは納得してくれない。

 それでも引き下がる訳にはいかない。


「良いから、貸してくれ……」

 

「ごめん、それは出来ない、ヴェルト……」


 ミリアも食い下がる。

 お互いがお互いを助けようとしている。でも現実で助かるのはどちらか一人。もし、ヴェルトが助かることになるなら、ミリアは生きることは出来ないだろう。

 なら、助かるのはミリアでなければいけない。

 今までは気付くのが遅すぎた。大切な人に死が近付いていることも気付かずに、何も出来ないまま死ぬ光景を眺めていた。結果残ったのは、後悔と自分への怒りだけだった。そんなのもう嫌なんだ。

 そう考えた時、ふとヴェルトは自分に疑問を抱いた。

 

 ――もう一本の薬を打てば助かるんじゃないのか。


 そして、もう一つ。何故、自分は今も頭に浮かぶこの光景がこれから起きると信じているのか。ひょっとしたら夢で見ただけかもしれない。ただ、自分が起こって欲しくないと思っている未来を想像してしまっているだけかもしれない。ヴェルトが思い付いた答えはどれもしっくりこない。

 そしてその時だった。写真は突如消え、直後にパッと別の写真が写った。そしてそれは連続し、取り留めなく、スライドショーのように流れていく。

 ……そうだ、違う。今までだってそうだった。今まで見てきたミリアの死の光景は、現実だ。

 見たことがある筈がないのに、確かにこの目がどこかで見てきた俺自身の記憶だ。しかもこれを経験したのは一度だけではない。そう確信しながらも、どういうことなのかは分からない。でも、それを本能的に理解した。

 そして他にも思い出した。今までは薬をあのまま一本しか持ってこなかった。それを病気に罹った俺にミリアが使ってくれたが、少しの延命だけして俺は結局死んでいった。

 薬を使い切り、同じく病気に罹ったミリアを為す術無く看取った後に。


「そうか……」


 そうだったんだな。

 ミリア、お前も病気に感染しちまっている。このままじゃ死んじまうんだ。

 でも、頭に浮かんだ光景で死んでいく姿が見えたのはミリアだけではなかった。もう一人誰かいたんだ。それは分かるのに、誰か思い出せない。姿もぼやけてはっきり見えない。一週間寝続けて目を覚ました俺の目の前で誰かが死んだんだ。

 ……何でだよ、何で思い出せないんだよ。そこが重要なのに。誰か分からないんじゃ、助けることも出来ないじゃねえか。

 いっつもそうだ。何で肝心なことを思い出せないんだ。ヴェルトは自分に怒りを覚える。

 それにそれだけじゃない。あまりにもタイミングが良すぎる。自分達が来てしばらくしてから誰かが病気で死ぬことになる。それは、今病気に罹ったヴェルトやミリアから感染した可能性がある。

 ……病気から世界を救おうとこの時代に来たのに、その所為で病気が流行っちまったのか? だとしたら、俺達は何の為に来たんだよ。来なかった方が良かったのか? 俺達がやって来たことは間違いだったのかよ……。何だ、それ……。

 そんな嫌な可能性が浮かんでくる。それが悔しくてしょうがない。

 しかしどんなに悔しがろうと、確実に誰かが死ぬ未来は来る。ずっとそうだった筈なんだ。

 だから、その人を救うんだ。その人の為に薬を使い切る訳にはいかない。


 ――だから、お前が生きてくれ。


 いつの間にか体が動いていた。ヴェルトはミリアから薬を奪い取っていた。

 体がだるいのに。動かす事すら困難な状況なのに、体が勝手に動いていた。

 よく動いてくれたと、ヴェルトは不甲斐ない自分の中でそのことに関してだけは誇らしく思った。


「なっ、ヴェルト、なにを……!」


「悪いな……」


 更に腕を掴んで狙いを定める。


「ヴェルト、早くそれを返して!」


 ミリアが必死に声を上げる。

 俺の為に行動してくれてるのに、本当に悪いなとヴェルトは考える。


「ミリア……」


 でも、何より思う。

 今ここじゃない場所でも、ずっとお前は俺と一緒にいてくれた。俺を想って助けようとしてくれた。

 ずっと支えになってくれて本当に助かってるんだ。

 だから――


「今まで、ありがとな……」


 その言葉を伝えた後、ヴェルトはミリアの腕に注射器を打ち込んだ。




 



 

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