2

 木立を縫って、傾きかけた日の光が差し込む。山吹は肩を抱き、西の空を見上げた。

 山吹が転げ落ちた崖はそう高くはなかったし、途中にいくつも枝を伸ばす木々が生い茂っていた。体はひっかき傷だらけになってしまったが、そのおかげ一命を取り留めることが出来た。さらに幸運なことに、落ちた先は河だった。流されながらも必死で水を掻き浅瀬にたどりつくと、岸に上がる。だが、そのまま倒れ込むと、もう一歩も動くことはできなかった。

 夏も終わりに近いとはいえ、熱を孕んだ日差しは濡れた体を乾かしてくれる。

 体がきしみ、このままずっと横になっていたかったけれども、日が暮れる前にしなくてはいけないことが山のようにあった。山吹は痛みに目をしかめながらなんとか立ち上がり、森の中に足を踏み入れた。

 今日は森の中で野宿をするほかないと腹をくくる。これが流されなくてよかったと、腰に差し込んだ石斧を手のひらで撫でると、安堵のため息が漏れた。

 山吹は寝小屋を作るために中心となる、ちょうど良い大きさの木を見つけると、周辺の枝を石斧で切り始める。

 一人で、夜を明かすことは初めてではなかった。寝小屋の一つくらいは作れるし、火だって起こせる。

 だが、朝霧とはぐれてしまったことと、精霊の怒りを買ったこと、崖から落ちたことが心に大きな影を落とし、山吹を気弱にさせていた。中でも気がかりなのは朝霧のことだ。

 たった一人でここにいることがいたたまれなくて、思わず歌を口ずさんでいた。


「おやまのすあなでまっている

 かわいいあのこに どんぐりひとつ

 みやげにもって かえりましょう


 おそらたかくのすのなかで

 おなかをすかせたあのこには

 あかいきのみをあげましょう


 あそびつかれてねむたげな

 まあるいほっぺのこのこには

 ……」


 小さいころ、母の背中で聞いた子守唄だ。震える声で歌いながら、山吹は懸命に涙をこらえていた。

 その時、背後から木立の揺れる音がして、山吹は我に返った。

 すっかり疲れ果て、逃げることも身を隠すことも出来ずにただただ立ち尽くす。

 そうしている間にも、草を踏みしめる足音は近づいてきて、木立をかき分ける音はもう目の前まで迫っていた。

 生い茂った葉の間から、浅黒い手がちらりと見えた。その手が枝を押しのけて、一人の少年が姿を現した。見たことも無い立派な服に身を包み、驚いたような顔をして山吹を見ている。

 二人はしばらく口をきくことも出来ず見つめあっていた。

 山吹は、緊張と安堵がないまぜになり、ついに大きな瞳からぽろりと涙をこぼしてしまった。

「君、だいじょうぶ? けがをしたの?」

 涙が、二人の間にある緊張を解いた。

 山吹より幾分年長と思われる少年は、歩み寄ると手や足、そして頬に手を触れて山吹の傷を確かめる。

 山吹はもう涙をこらえることができなかった。少年が纏う柔らかな生地を握りしめるように掴むと声をあげて泣き出していた。

「だいじょうぶ。もう、だいじょうぶだからね」

 少年の手が、山吹の長い黒髪をするすると撫でた。


 少年はチェインと名乗った。

 チェインは街道を馬で移動していた際に、山吹の歌声を聞いたのだと言った。

 震える歌声を聞いたチェインは、乗っていた馬を街道沿いの大木につなぎとめると、歌声を頼りに山吹のもとにたどりついたのだと言う。

 山吹は、初めて目にした馬という生き物に、涙にぬれた目を輝かせた。千龍の郷では牛や馬を飼い、使役することが禁じられていたし、付近の山には野生の馬は生息していない。

 チェインの上衣には、控えめでありながら美しい刺繍が施されていた。衣の上の羽織は驚くほどに薄く透けていて、うっとりするようなさわり心地だ。

 山吹はごわごわとした生地の、被るだけの貫頭衣の腰に帯を巻いて、足はむき出し。足元には草鞋という己のすがたをちらりと見下ろした。

 チェインは山吹に手を貸して馬に乗せてくれた。かなり大きな馬だった。すっかり疲れ切った山吹は、おとなしくチェインの手を借りた。チェイン自身は馬に乗らず、手綱を引いて歩いていく。

 山吹は、恐る恐る馬の首にさわる。温かくて、少しだけれども気持ちが落ち着いた。

「どこへいくの?」

 山吹は歩き出したチェインに尋ねた。

「ここからすぐそばに私たちの砦があります」

 チェインは山吹を見上げた。

 チェインの話し方には独特なイントネーションがある。それに、チェインの肌は浅黒い色をしている。千龍の郷の者はたいていもっと白い肌だ。黒い髪は一緒だが、山吹の髪はするすると真っ直ぐなのにチェインの短い髪は緩く波打っている。そして彼は馬に乗る。

 千龍の郷にはいくつもの集落があるが、外見がこれほど違う人間はいない。皆一様にあまり癖のない黒髪と、白く、少しばかり黄みがかった肌をしている。

「チェイン」

「どうしました? ヤマブキ」

 おそらくチェインは千龍の郷の者ではないのだろう。

「チェインはどこの国の人なの?」

 今まで他国の人間など見たことがなかった。

「私はあけの帝国の者です。今年より、朱の帝国は千龍の郷との境界近くに砦を作っているのです。私は、その砦の守護としてこの地にやってきました」

 そうチェインは答えた。

「朱の帝国……」

「知ってますか?」

 チェインは馬上の山吹を仰ぎ見た。

「春にお父さんが、朱の帝国のお客人に会ったと言っていたの。父さんはアユの里の長だから、神和ぎの里に来たお客人に会いに行ったの」

「ああ、その時私も神和ぎの里の神主様に砦を作るにあたってのご挨拶に伺ったのです。では、私は山吹の父上に会っているのですね」

 その言葉を聞いて、山吹はうれしい気持ちになった。チェインが今までよりももっと身近になったような気がしたのだ。

 その頃になると、もうすっかり辺りは夜の気配を濃くしていた。星々が煌めき始めている。

 チェインは、歩みを止めると、馬につけた袋の中から小さなランタンを取り出した。

「それは、なに?」

 山吹が興味津々で、体を乗り出してチェインの手元を覗き込んむ。

「ランタンというものですよ。この底の部分に油が入っているんです。紐が出ているでしょう。ここに……」

 チェインがランタンと一緒に取り出した石を、つるっとした細い金属で打つと火花が散った。

「わあ」

 山吹は歓声を上げる。

 ランタンに仄かな明かりが灯った。

「少しは明るいでしょう?」

 ランタンを掲げて山吹に見せる。その灯が山吹の瞳にも灯った。

「すごい。星を捕まえたみたいね」

歓声を上げる山吹に、チェインも笑顔を見せた。

「山吹の瞳の中にも、星がありますよ」

「ええ!?」

 山吹は驚いてランタンから視線を外した。自分を見上げるチェインの顔を見る。その瞳の中にランタンの火が映りこんでいる。

「あ! ある。チェインの目の中にも星があるよ」

 そう言って、チェインに手を伸ばした。チェインはだが、笑顔で「落ちてしまいます」と、山吹の体を押しやり馬上に戻す。

「ああ、ほら、見えてきました」

 しばらく歩いたのちにチェインは右手で前方を指差した。

 木立の切れ間から大きな門が見え始めた。門の奥には巨大な建物が見える。

「あれが、トリデ?」

 ごくり。

 山吹の喉が鳴った。

 山吹がこれまで見た建物の中で一番に大きなものは、千龍の郷にある神殿だ。

 だが、目の前に見え始めた砦という建物は、その神殿の何十倍も大きいようだった。

 あちこちに篝火がたかれ、暗闇の中に屋敷を浮かび上がらせている。浮かび上がった砦の威圧的な姿に、 山吹は逃げ出したいような気持になっていた。


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