(七)

新宿区:歌舞伎町:夜


 戦後の闇市に端を発し、赤線まがいの営業を続けていた集落。それが一九五八年の売春防止法成立を受けて飲み屋街へ変貌、そのままの姿で現在に至る。風変わりな歴史を持つ新宿ゴールデン街は、故に、今も五〇年代の香りを残している。言い換えれば新宿駅という都内最大のターミナル、あるいは都庁がそびえたつ副都心から目と鼻の先にもかかわらず、まったく開発の波から取り残されている。

 コマ劇場近隣がいわゆる「歌舞伎町」として東洋最大の歓楽街を成すのとは対象的に、ゴールデン街の建物はいずれも古く手狭、どの店も広さは三坪から五坪ほど。人間が数人並んでしまえば満席になる。老舗のバーに集うマスコミや演劇関係者で賑わってきたが、営業が立ちゆかなくなって姿を消した店も多く、鍵をかけたまま戸の開かない空き家もちらほら存在する。一方、若い世代の新規参入による奇抜な店舗が増えつつあり、景観の古さとは対象的に中身の新陳代謝はめまぐるしい。

 岩戸紗英がこの店、Spider-Webスパイダーウェブに初めて足を踏み入れたのはかれこれ三年前になる。ニューウェーブ系に属する不思議な店だ。店内は無国籍なジプシーテイストにデコレーションされ、カウンターの内側にはいかにも占い師という出で立ちの美人バーテンダーが立ち、国際色あふれる名を持つカクテルが振る舞われ、近所から運ばれるエジプト料理と手製のモロッコ料理が味わえる。

 扉を開けると、客はまだ一人もいなかった。だから壁一面を覆う大きな蜘蛛の巣模様がはっきりと見て取れる。糸に沿って色とりどりのガラス玉が鏤められ、怪しい光を放っていた。

「……珍しいですね、お一人だなんて」バーテンダーは目を丸くした。名をみそら、という。

 席に着くなり岩戸は苦笑した。「フラれたの」

「男?」

「男。しかも三人」

「本当ですか」

「本当。そういう日もあるさ」

 岩戸は定位置へ座ろうとして違和感を覚えた。「名物キャラがいないね」

「流しは今日、お休みなんです」みそらは言った。

 壁にギターだけが飾られている。フレットが幅広で押さえ辛そうだ。

 この店には世にも珍しい女のフラメンコギター弾きが出入りする。リクエストは往年の歌謡曲で構わない。山口百恵にピンクレディー、松田聖子に中森明菜。それを上手くラテン風にアレンジしてくれる。

 でも今日は、その愉しみが無い。

「もしかして……私たち二人語りになっちゃう?」

「そうですね」

「じゃあ、みそら女史も飲もう」

「……いただきます」

 みそらは顔を半分ほど隠していたフェイスベールを取り、飲める態勢をとった。目鼻立ちが派手で外人と見紛う容貌に、薄暗い店内を意識した濃いめのメイクがとびきり映える。加えてベリーダンスやフラメンコで鍛えた細身の筋肉質スタイルは、何を着てもマネキンのようにしっくり馴染む。特筆すべきは姿勢の良さ。長い髪に付けたアクセサリのすべてが、カウンターの中でおさまりよく動く。カクテルを作る様は踊っているかのようで、眺めてさえいれば酒がどんどん旨くなる。

 店の常連客はみそらのファン。岩戸もその一人だ。

「それもシルク?」

 みそらはカラフルに染めたドレスの袖口を持ち上げて言った。「ええ。珍しい色でしょう」

 シルクには蚕の吐く絹糸という意味の他に、クモの糸という意味もある。店の名であるSpider-Web蜘蛛の巣には、ベリーダンサーが好むシルク地の薄く透けた衣裳に対するこだわりと、怪しげな蜘蛛の巣模様へのこだわりが反映されている。

 みそらがカクテルを乗せるべく差し出したコースターにも蜘蛛の巣の刺繍があしらわれていた。

「私の蜘蛛の巣、穴が空いちゃったみたい」岩戸が自嘲する。

「まさか」みそらが笑う。「極上の糸をお持ちですよ。やわらかくて、切れにくい」

 二人は薄桃色のリキュールグラスを手に取って、小さく合わせた。

 女の客を女郎蜘蛛シルクスパイダーに例えて扱うのが、この店のテイストだ。女郎の響きは遊女を連想させるが、一方で位の高い女性官吏を意味する上臈じょうろうが語源という説もある。つまるところ「女たるもの二つの貌を使い分けるべし」がオーナー・みそらの主義である。あるときは遊女のように巣を張って男を待ち、あるときは貴婦人の如くかかった男を使役する。

「さしつかえなければ、教えて下さいな」みそらは悪戯っぽくウインクした。

「振られた相手?」

 岩戸は出されたピーナッツをかじり、頬杖をついた。「一人目はね、若い男。二十代前半」

「キましたね、いきなり」

「あいつは来れなくても、しょうがないの。大怪我したばかりで」

「骨折とかですか」

「それもあるんだけど、糸で縫い合わせた傷とかがあって……怪我した後って、お酒は控えるものらしいんだ。治りが遅くなるんだと」

「格闘家か何かですか」

「ううん……でもまぁ、そんなとこかな。うん」

「母性本能を」

「ああ、くすぐる系。なんとなく、いじめ甲斐がある」

「脈は」

「どうかな。警戒されちゃってるか」

「いいですね。楽しそう」

「楽しいのは間違いない。賢くて、誠実。プライドは高くない。ちょっぴりユーモラス」

「私なら間違いなく本命ですね」

「あと二人いるのに」

「聞かなくていいです。うん、本命」

「背が低いよ。そんなに男前でもない」

「ますます気になるなぁ……ま、でも残り二人聞いておきましょう」

「二人目はね、有名人で長髪。ちょっとバブリーな香りがするお洒落さん。背は高いかな」

「いけませんねぇ」

「表向き、かなり軽薄。女好きっぽいことを自称する。そのくせ中身は超がつくほど有能で、私とも対等に論を張る。たぶんお金持ち」

「いけません、ね」

「私と飲みに行きたいとか言ってた癖に、こっちから電話したら留守電という……不届き者」

「ますます……いけないなぁ」

「みそら女史は遊び人に点数辛いよね」

「その手は勝手に寄ってきますからね。物件としてはありふれている」

「なるほど。希少価値がない、か」

「というより……岩戸さんが勿体ない。そいつの相手は、そこらのビッチで十分です」

「わは。じゃ、三人目いくか。こいつはねぇ、この店にも連れてきたことがあってぇ……」

「そうなんですか」

「誰だと思う」

「誰でしょう」

 そのタイミングで岩戸のハンドバッグが振動音を奏でた。ジッパーの隙間からLEDの明滅が覗く。HMDを取り出して装着すると、半透明のサングラス型モニターの上に、亀のごとく眠い目をした男のアイコンが表示された。位置情報は霞ヶ関とある。

〈もしもし……垂水です〉

「はい。三人目君、どした?」そう言って微笑む。

 アイコンの向こう側、透けて見える女バーテンが舌を出した。

〈何ですか、三人目って?〉

「こっちの話よ。忙しいんでしょ?」

〈今、ピザ休憩を入れたんです。ちょっと時間が空いたんで、電話しました……といっても、いいとこ三十分ぐらいですが〉

「新宿なんだけど」

〈ゴールデン街ですか。例の〉

「スパイダーウェブ」

〈いいですね。でも、ちょっと無理だな……〉

「垂水クンは無理だとして、手が空いてる人……アテはない?」

〈ここらにはシャットダウンに必要な人間しか、残ってませんしね。常代君は〉

「別行動」

〈GEE君も〉

「そう」

〈ナナゆりコンビは〉

「真面目に語りたい気分なのよね」

〈何かありましたか〉

「ん、まぁ」

〈常代有華ですか〉

「………………どして?」

〈例の、インターン枠募集で動いてる三枝って事務官なんですが……今日NICTに行かせたんです。若手研究者の何人かと、常代君にも声をかけたみたいで〉

「どうだった? ゆかりん……」

〈断られたそうです。僕がちょっと煽りすぎたせいもあって、肩透かしだったと三枝に言われました〉

「…………………………そっか。他の人は?」

〈総じて手応えは芳しくない〉

「だめじゃん」

〈結局、試験に通らなきゃいけないってところが面倒に感じるんでしょう。でもね、他の連中はともかく、常代君は喜んで飛びつくものだとばっかり思ってました〉

「……」

 電網庁の正職は電網一種の取得が義務づけられていて、ハードルが高い。香坂一希のような人材はおいそれと集まらない。そこで育成を前提として採用するインターンの枠を作った。ところが。

「ゆかりんは別としても……」岩戸は溜息をついた。「希望者が少なすぎるのは、由々しき事態ね」

〈……やっぱり警察官ほどポピュラーではないから、イメージが湧きづらいんです。しょうがないところではある〉

「私たちって罪作りよねぇ」

〈罪?〉

「国民に試験を強いて、試験を受けさせるために税金を充当。守らせるために番人を雇って、そのためにまた税金を使う」口元をほころばせ、自嘲気味に語る。「その番人のなり手が少ないから育成制度を作って、また税金……こんなことでいいのかしら」

〈……〉

 岩戸はHMDのコントローラ部をいじり、スピーカーフォン機能を有効にした。垂水の声をみそらに届けるためだ。

「税金泥棒って言葉が、最近身に染みるの」あえて赤裸々に言う。

〈岩戸さん〉

 垂水の声が店の中に漏れる。

「何?」

〈…………地元に出向した時のこと、覚えてます?〉

「うん。新潟県庁」

〈税金泥棒な感覚、ありました?〉

「……なかったかもね。人もお金も、まるで足りなかったし」

〈でしょう。東京は特別なんですよ。この街が僕らをそうさせるんです。抗えない〉

「中央がお金を使いすぎって意味?」

〈と、いうより……東京という街に住むと、街の流儀に隷属するようになる。なっちゃうんです、誰でも〉

「レイゾクってか」

〈東京に働かされるようになる。だから仕事をどんどん作ってしまう。東京にいるために……いたいがために理由を捏造する〉

「私も……しがみついてるわけ? まぁ、そうなのかもしれないね」

〈中央にいる。選ばれたからにはという強迫観念にかられている。決して税金泥棒を働きたいわけじゃない。でも新しい概念や斬新なポストをひねり出したい。企業も同じです。東京に集中する本社機能は、新規事業という蜃気楼に翻弄されている〉

「メディアもよってたかって騒ぐものね……まやかしの情報に、みんながみんな踊らされて」

〈時代の要請とやらに、首を突っ込まずにいられない〉

「……街の操り人形。無意識のうちに職業さえ捏造するなんて不気味な話。んー、そうはありたくはないけれど」

〈おかしいと思いませんか? 僕はずっと、おかしいと感じている〉

 垂水の落ち着いた声が低く、長く、強く響いた。岩戸が抱えるグラスの液面に波紋が広がっていく。

〈……そもそも東京は、人ありきで成立していない。街ありきで、人はむしろ隷属している。東京はずっとここにあって、構成員だけは入れ替わる……次々と。まるで椅子取りゲームだ〉

 みそらが片方の眉をぴくりと持ち上げた。「こないだ店に来てくれた時も、その話をしてらっしゃいましたね。俺たちは東京の餌だ。蜘蛛の巣にかかった虫のように、身を捧げてボロボロになるんだって」

〈……〉垂水の反応はない。

 岩戸が首をひねる。「垂水クン、そんな事言ってたっけ」

「ほら。あの日は、女性陣が盛り上がりすぎちゃってて」みそらは笑った。「彼は肩身が狭そうにしてて……私と二人、話込んでたんです」

「うーん、覚えてないぞ」

 みそらは半身をひねって言った。「この壁をごらんになって、それで」

 店の壁に描かれた大きな蜘蛛の巣模様が、まるで東京の地下鉄の路線図に見える——垂水はそう呟いたという。この街こそ蜘蛛の巣スパイダーウェブそのものである、と。

「俺たちはいずれ、ひからびる。でも次の餌が……東京に足を運んでくる。街の魅力に惹かれて。そうですよね?」と、みそら。

 岩戸はカウンター越しにグラスを差し出した。二人で、HMDのカメラに収まるようにグラスを掲げ——かちり、と合わせる。

 すぐさま画像は霞ヶ関へ届けられる。

 反応があった。

〈ああ、みそらさんだ。おや、飲んでますね〉

「何にします?」

〈俺?〉

「奢るわよ」岩戸が笑う。

〈じゃあ、ペリエをいただきましょう〉

「……まさかダイエット?」

〈こちとら仕事中です〉

 炭酸水の注がれた緑色のタンブラーが、みそらと岩戸のリキュールグラスに並んだ。

〈実績だけで電網公安官を雇う。これができれば、苦労は半減するんですが〉

 垂水の言葉には「常代有華にチャンスを与えたい」というニュアンスが感じられた。しかし。

「試験……抜き?」岩戸は一口あおってから言った。「それだと組織としては脆弱よね。裁量に頼れば恣意的な存在になる。糸が弱い」

 自分は有華に目をかけている。それだけに甘やかすことができない。

〈思うンですが、ハッカーは実績を重んじる割りに、組織や肩書きを気にしません〉

「そりゃそうよね。彼らは独立心が旺盛だもの。個性を尊重する」

〈資格も必要ない〉

「ないでしょう」

〈東京にいる理由もない〉

「そうよ」

〈我々って真逆でしょう。官僚は典型的な東京人だ。制度を保つために生きる〉

「ハッカーと公務員。求める人材と自分たちが乖離してるわけね。でも、だからこそ試験で篩いにかける必要があるんじゃない? ハッカーとして優秀。だからって誰でも電網公安官になれるわけじゃない。そういうことよね?」

〈もちろん試験で拾いあげることができた人間は有能だ。香坂のように。でも拾いあげられなかった人間が不要かどうかは別問題。試験自体を受けてくれなきゃ、なおさらで〉

「そうはいってもさ、作ったからには試験の効能を信じないと始まらない」

〈そうだよなぁ。作ったんですからねぇ〉

「そうよ。組織もそう。法律もね。作るからには信じないと。試作品ですだなんて開き直っても……納税者は納得してくれない。この街が潜在的にプロトタイピングの温床だ、ってことはわかるわよ。けどね、どうにか脱け出してみせなきゃいけない。都条例でおしまいだなんて敗北は絶対許されない」

〈アグリーです。でも岩戸さん〉

「何」

〈我々は本当に信じているんでしょうか……ネット免許制の意義を〉

「どういうこと?」

〈ただ単に、暴走しているという自覚ができないだけなのかも〉

「東京人だから? 囚われの身だから本質が見抜けない、ってわけ?」

〈東京という脳の中で夢を見続けている。手足がもがれていても気づけない。脳内だから、どんどんエゴイスティックになる〉

「そこまでネガティヴになっちゃいけなくない? 悪い癖だよ垂水クン」

〈しらふなのに?〉

「そうよ」

 垂水の返事が戻るまでに、少々間が空いた。

〈……すいません、呼ばれたんで、切ります〉

 店が静まりかえる。

 一呼吸——置いて。

 みそらが笑った。「いいですよね、彼」

「ああ見えて独身だよ」

「でも私にはダメ。振り向いてくれそうにないから、対象外」

「そう? みそら嬢の色仕掛けに反応しない男なんている?」

「間違いない。岩戸紗英のためなら身体を張るくせに、私には無反応」

「バツイチ」

「いい」

「子持ち」

「ますますいい」

「表向きは強気で弁の立つ切れ者、実は繊細で酔うとネガティヴ」

「最高なんだけど、ついていくと……悲惨なことになっちゃいそうだからなぁ。泣く泣く遠慮します」

「どうしてついていきたいかなぁ。弱点だらけでしょ、垂水昂市」

「弱点がない男なんて、つまらない。私にはご褒美です」

 みそらは岩戸のために二杯目を作って、差し出した。「東京の魔力に堕ちた小心者の軍師を慰める、美しきジョロウグモの姫君に奢らせてください」

「小心者……か」岩戸は少しだけ唇を湿らせた。「私こそ、東京でしか生きられない。東京を出るなんて一生無理に思えてくる」

「まさか。岩戸紗英が小心者だなんて、誰も信じない」

「みそら女史は?」

「お察しの通り、冒険心だけは旺盛です」

「……何処出身だっけ」

「愛知。安城ってわかります? 三河安城」

「あんじょう? 三河って響きはそれっぽいけど、位置まではさすがに」

「岩戸さんは確か……新潟」

「うん。刈羽村ってどう? イメージ湧く? 柏崎刈羽って言ったほうがいいか」

「ごめんなさい。地理、苦手なんです」

「ねぇ、みそら嬢はいずれ東京を出る? 出られる?」

「面白く……なくなれば」女バーテンは壁の装飾を手でなぞった。「儲けなんてないも同然ですから、執着しようがない。親元に戻るのは簡単」

「負けたとか、思わない?」

「思わないでしょうね。だって私の代わりは無限にいる。東京ってそういう所じゃないですか。余所者ばかりの街。お互いがお互いを、いずれ消える人間だと信じている」

「えー。私はこの店、ずっと続けてほしいけど」

「いいえ、消えます。そう遠くない日に」

「……そんなぁ」

 女バーテンの瞳の奥底はたっぷり黒々として、重い。「……自分だけは東京に不可欠なエレメント。そう考えるのは、まったくのナンセンス。だからがっかりすることもない」

 岩戸はコースターを手にとって、刺繍の柄を愛でた。「あーあ、私も働かされて、ひからびて……終わるのかぁ」

「いいえ。岩戸さんは違う」

「違うの?」

 みそらは手近にあった赤く光る蜘蛛のアクセサリを取り上げた。壁へぞんざいに、しかし絶妙な強さで放る。

 蜘蛛が放射状の糸に絡まって、しがみついた。

「岩戸さんも、どうぞ」

 青色の蜘蛛が差し出された。ダーツのように放れということだ。岩戸はそれを受け取ると、立ち上がって狙いを定めた。

 ——投擲とうてき

 放たれた青いアクセサリは、壁にぶつかって跳ねてしまう。しかし、転がり落ちながらすんでのところで、糸の端に絡まって止まった。

 岩戸が手を叩いて笑う。「どうするのよ、こんなんで」

「……最初はしがみつくしかない」みそらはくすりとも笑わず言った。

「ダメだよね。振り落とされないように耐えてるだけじゃあ」

「登っていけばいいんです。中心の奴と勝負して食い殺せば、主になれる」

「登って……いけるかなぁ」

 みそらは青い蜘蛛に手を添えて、巣の中心へと滑らせ、中央付近にしっかりと絡ませた。

「この街で生まれては消えるどうしようもないアイデアを、リアルへと導く人間は必要です」

「……」

「既存の連中がたむろする巣窟を、食い破ってしまう圧倒的な存在。罠を鼻で笑いつつ、軽々と飛び越える力を……誰もが求めている」

 岩戸は肩をすくめて笑った。「それ、私じゃないかも」

「弱気ですね。いつになく」

「みんな知らないのよ。私だって囚われてる。連れ出してほしい。東京を鼻で笑う女神が何処かに……」岩戸は青蜘蛛の背中を見つめて言った。「何処かにいてくれるなら、すがりたいって思う」



 ここまで心細く感じた夜は久しぶりだ。酒の力を借りても、常代有華と仲違いした自分を癒しきれない。

 夜の十時をまわったところで、岩戸はスパイダー・ウェブからひき上げようと決めた。結局、最後まで店の客は一人。メールをくれたのはGEEだけ、しかも「参加はできるけれど、かなり遅くなる」とつれない。今夜誰かを待つことは諦めるべき。待つ寂しさが克服できそうにない。

 店の扉を閉じてすぐに岩戸は耳をそばだてる。余所で騒ぐ音もほとんど聞こえてこない。今宵のゴールデン街はどこもかしこも閑古鳥らしい。酔った足でゆっくりとアスファルトを踏む。手狭で薄暗い路地。大通りからみて随分と奥まった場所にあり、ネオンの明かりがここまでは届かない。建物の影。看板の影。影、影、影。ほんのわずかにイルミネーション——そしてまた影。暗い中を歩くから自分の身体が路面に影を落とさない。落としてくれない。それほどに灯りがない。

 自分の前途に案内人はいない。切り拓くしかない。いつもそう言い聞かせている。けれど東京を鼻で笑い、上へ上へと登っていく——誰か。何か。その背中を追うことができたら、どんなに楽だろうか。あるいは暴走する馬車を走って追いかけ、飛び乗る方がよっぽど楽しそうだ。そっちのほうが性に合ってる。そういうことを誰もわかってくれない。

 頭の中を自分の言葉だけが駆け巡る。

 暗闇に危険を感じられないほど酔ってもいる。

 通い慣れた裏路地。大通りまでそう遠くない。女の一人歩きは危険などと考える由もない。

 岩戸は丸腰だった。

 すぐ背後に人が迫っているなどと思いも寄らなかった。

 革グローブをした手で口を塞がれ。

 何かを嗅がされ、意識を失う寸前まで。

 今夜の自分が、犯罪者にすら相手にされないほど孤独であると、信じて疑わなかった。











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