(六)
千葉県:木更津市:金田:午後
どこまでが東京で、どこからが神奈川か。
どこまでが神奈川で、どこからが千葉か。
都条例が施行されて以来、都内かそうでないかが気になるあまり、地勢的な感覚が鋭敏になったとGEEは思う。
首都高速湾岸線を脱けて東京湾アクアラインへ。東京都から神奈川県に入ったかと思うと直角に曲がって海を越え、千葉県へ渡る。ものの五分も開けず二度も県境を越える。ということは、今走っているこの洞穴、東京湾の海底トンネルですらとっくに電網免許制の治外なのだ——そう感じつつ右手を強くひねり、大きくスロットルを開けた。
エンジン音がぐわっ、とテンションをあげる。
〈もー、荷物多すぎ! 片付けるのは私なんだからぁ〉
凜とした有華の声は、ビッグスクーターの排気音を物ともせずGEEの鼓膜を震わせた。
「今日までに出てけって言われてるから、しょうがないやん……」
GEEのヘルメットには高性能なHMDを仕込んである。バイクがトップスピードにあってもナビの地図をにらみ、音声通話までこなすことが可能。改造そのものはGEEのお手製だが、基本的な仕様は米軍や日本の航空自衛隊が導入した
〈どうして来れないの?〉
「……クチフネとかいう男の居場所がわかりそうやねん……ベガスの技術系社員……四本木のおっさんによれば、まさしくハッカー。もしかしたら……」
トンネル内のまっすぐ続く上り勾配を駆け上がる。地の底から這い出て、GEEを乗せたバイクは外へ。陽射しが背中に感じられる。潮の香り。強い風圧。橋の上にいるという手応えがある。真下は間違いなく——海。
〈……悪い奴?〉
「……まだ何ともいえん」
〈頑張ってください。こっちは何とかします〉
「恩に着るで」
GEEはアクセルを緩めた。緩めざるを得なかった。アクアライン——東京湾を豪快に横切るこの有料道路を走るのはちょっとした冒険なのだ。海底トンネルはともかく、海上に出てから続く長大な橋梁はライダーにとって強い横風との闘いである。風との戦いで握力が潰える。まったく気乗りしないツーリングだ。加えて。
(わちゃー……やっぱり混むんかぁ)
大渋滞に見舞われたGEEのバイクは時速数キロにまで減速を余儀なくされた。料金所へ続く渋滞なので、すり抜けるわけにもいかなかった。
修学旅行バスの大惨事、その爪痕が生々しく残る木更津金田本線料金所は完全復旧を待たず、使用できるレーン数を減らした状態で営業を再開している。それでもアクアラインを渡ろうという車が後を断たないのは、物見遊山な野次馬が少なからずいるということだろう。GEE自身は現場にまったく興味がない。けれど渋滞のせいで黒焦げの路面を踏むことになった。この消し炭の黒さの中に、血の黒さが混じっている——そう思うとゾッとした。
(ひー……はよぅ脱けたいなぁ)
*
目的のホテルは海沿いの、少々高台にあった。駐車場に到着した時は、渋滞のせいで予定より半時間遅れの十六時。
「……ははぁ。なるほどな」
GEEはヘルメットを脱いで瞳を凝らした。この高台からは、件の料金所まで伸びる高速道路が一望できる。五十六人を血祭りにあげた「地獄の釜の縁」を覗くことができる。
「趣味の悪いやっちゃ……クチフネはん」
間違いなく朽舟という男はあのバス事故に執着している。そう確信できた。
駐車場で車を発見すると、GEEは写真を撮って四本木宛てに送信した。あのカエル親爺は実験用車両「アスカ号」を転がし、国分寺へ納品に向かった筈。運転中かもしれないと気遣った。
NICTは東京の西の外れ。一方、ここ木更津は東京を挟んで東の外れ。渋滞につかまるから車で最低二時間、電車ならそれ以上かかる。四本木が到着するまで自分が幸代の車を見張るしかない、それがミッション——GEEはそう割り切った。だから車の傍に自分のバイクを横付けし、ハンドルに仕込んである小型Webカメラの電源を入れる。
それからホテルの自動ドアをくぐり、手近なソファへと腰掛けた。小振りなHMDをポケットから取りだし、サングラスで変装するかのごとく装着。ロビーを横切る四十代の夫婦がいないかどうか意識しつつ、内蔵マイクに小声で話しかける。
「……髷の字、ヒマやから話相手になってくれ」
視界の中のWebカメラ映像が映し出す朽舟幸代の車。その隣で煙玉がぼんと割れて——三頭身のチビ忍者、人工知能・髷MAXが姿を現す。髷は間髪いれず二つの「播き菱」を投げた。各々が朽舟滋と朽舟幸代の顔写真に変化し、画面の右上隅に収まる。
「……ホテルの宿泊管理システム、どないなってる?」
〈ウィンドウズ上のカスタムアプリケーション也〉
髷は古いビルドナンバーを口にした。
「ってことは、丸見えってことやな」
〈既にハック済みにて候。宿泊名簿にクチフネサチヨ在り、部屋番号は……〉
「ああ、まぁええで。なんぼ怪しくても、会社を欠勤して行方不明っていうだけで、犯罪者扱いするのもアレやしな。それより……」
〈?〉
「……クラムシェルの方がよっぽど気になる」
〈甲斐原豪〉
GEEは左目でロビーの往来を、右目で監視カメラの画像を、左耳で有華の声を聞きながら——自問自答した。
「ウチらは狙いどおり甲斐原を捕まえた。あいつのPCにはバスのファームウェアをいじり倒した痕跡がばっちりあった。おかげで警察が動き出した。おそらく金目当て。誰かに依頼されてバス事故を計画、遂行した。甲斐原が主犯なら、警察さえ頑張れば解決に向かう……せやけど」
疑問が残る。奴は本当に一人ですべて成し遂げたのか、という疑問。
単独犯か、あるいは複数犯か。
「どう思う?」
チビ忍者はGEEの肩にあぐらをかいて座り、首をかしげた。
〈分析難。甲斐原の狙い自体が不明瞭〉
「そうや。そもそもこいつの狙いは……殺人といえるか?」
〈否〉
「……おお」GEEは人工知能の応答にほくそ笑んだ。「ええ答えや」
〈恐悦至極也〉
甲斐原の目的は果たして殺人だったのか?
GEEは犯罪を仕掛ける側に立ち、悪意の在処について思索を重ねていた。まず狙いが「猪川大臣の息子の殺害」であるなら、どのような準備が必要となるだろう。修学旅行の日程を調べ、バス旅行会社を内偵し、車種や型番を調べる。だがバスが首尾良く料金所に突入したところで、本当に殺害できるという保証はあるだろうか。
(最悪の作戦やで? ガキ一人が風邪でもひいて、別行動になったらパーになる計画や……ありえへん)
巨額の報酬を目当てに少年一人の殺害を目論むならば、事故を装って料金所に衝突させるなど面倒この上ない。他にいくらでもやりようはある。つまり乗客の殺害が目的ではなかった——そうみるのが正しい。
「運悪く全員死んでしもうたけど、バスの当たり所が悪かっただけで、犯人の狙いは事故そのもの……つまりベガスを巻き込んだ賠償騒ぎ。そうみるべきや」
〈御意〉
「しかも……ウチが
〈……〉
「ウチが甲斐原やったら絶対引き受けへんで。自分はベガス傘下の整備工場の勤め人や。整備不良が疑われでもしたら、真っ先に疑いがかかる。甲斐原は確かに関わった。けど主犯じゃない。黒幕の〈企画者〉は別にいて、そいつが〈出資者〉から金を受け取り、〈企画者〉が作った個別の請負仕事を甲斐原は引き受けた。つまり甲斐原は〈作業者〉、しかも濡れ衣を着せるための捨て駒。狙ったバスのプログラム入れ替えまでは請け負ったけれど、その中身がどういう物で、何時、何が起こるかまでは教えてもらえなかった」
〈承知〉
GEEはここ暫く四本木を巻き込み、ベガス製バスを相手にさまざまな調査・実験を重ねてきた。ところがプログラミングによる暴走の証拠は発見できなかった。だから焦りがある。最悪の場合、甲斐原と島﨑は有華や緒方に怪我を負わせただけの罪で——つまり公務執行妨害どまり、罰金刑のみで釈放されるかもしれない。
(そうはさせるか)
HMDの下で瞼をしばたいた。細かく、素速く。意識にのぼる思考を、紙芝居のように切り替える時の癖だ。そして呟いた。
「ブロウメン……」
日本車に精通する連中が徒党を組むハッカーグループ。そのメンバーで、とてつもない悪党がいるとするならば——奴だ。
〈pack8bak8〉
髷の人工音声が、最も謎に包まれたメンバーのハンドルネームを口にした。パケットバケット。本名はおろか年齢、性別まで一切が不明。こいつの正体は何者だろう。
真犯人についてわかっていることはたった一つ。車載ECUのプログラムに精通する凄腕ブラックハット。奴は車を知り尽くしている筈。それもベガス車。ならば四本木から聞き及んだ朽舟滋なる男の存在は気がかりだ。一年前のリコール騒ぎで対策チームのリーダーだったというベガスの有能な社員。車載コンピュータに精通したエンジニアという肩書き、ハッカー的な資質。そして——バス事故の直後行方知れずになったという顛末。気にならないほうがおかしい。
そこまで考えた時、ふと視界を横切る女性の体躯を感じ取った。半透明のHMD越しに後ろ姿を追う。
内蔵カメラが第三の目となり、髷がその分析結果を報じた。
〈朽舟幸代に同定、六十五ぱーせんと〉
「後頭部で六十五パーかいな……大した人工知能やで」
GEEは悟られないように立ち上がると、電話、四本木、とマイク越しに囁いた。音声がコマンドに変換されるまで百分の数秒——そして小兵の野太い髷が、ふわりと舞った。
*
十八時。時計の読みに四本木篤之は舌打ちする。GEEから再三受けていた電話の着信履歴に気づいたのが十六時半。アスカ号の納品ついでに常代有華と話が弾んだのが災いした。あわてて車を走らせたものの、まだ海の上。日没にかけてアクアラインの混雑は酷くなるばかりだった。
苛々が頂点に達した頃、想定外の電話が鳴る。
「はい……四本木です」
手はハンドルから離さない。GEEから借りたままのHMDを起用にハンズフリーフォンとして使いこなす。
〈四ちゃん、今いいか〉
専務だった。忙しいなどといって断れる筈がない。「勿論。どうしました」
〈えらいことになった……お前さんの耳には入れておく。心して聞けよ。朽舟って主任技師、知ってるだろう〉
朽舟の名が出されたことで四本木は一気に緊張した。
「ええ。元、部下です。何かしでかしましたか」
〈役員全員宛てに封書を送りつけてきた……とんでもない中身だ。昼から緊急役員会。さっきまで喧々諤々でな〉
前の車がわずかばかり進む。流れにあわせてフットブレーキを踏みながら、四本木はハンドルを握る手が汗ばむのを感じた。
「まさか……脅迫ですか」
〈告発だよ〉
「告……発?」
〈まず聞いておくが、お前さん……個人的に朽舟滋の居場所、心当たりないか?〉
四本木は咄嗟に逃げを打った。
「携帯電話の番号ぐらいは、わかりますが」
〈そうか。どうやら事件の後、体調不良を理由に出社してないんだが……まぁいい。あのな、朽舟は一年前のリコール騒ぎで対策委員会の長に抜擢された。そんときだ。俺もよく知らなかったんだが、実は常務のキモ入りで妙なプログラムを作らされたらしい〉
「
〈それにオマケがついてんだよ〉専務の声には怒りがこもっている。
「オマケ?」
〈TR条件分岐が動作したかどうか記録して、本社から追いかけられるようにしたらしいんだ。いっぱしのデータロギングだ〉
データロギングシステムは、F1レースなどでメカニックがピットから車の動作状態をモニターするための仕組みである。車体で電子制御される処理の一切についてコンピューターが数値を記録、無線で遠隔地へと飛ばす。
「その件は、軽く聞いてますよ。当の朽舟から」
ベガス社は二〇〇〇年代初頭から、販売した車両と本社のサーバーを電話回線で結ぶサービスを展開している。カーナビの地図情報を自動更新したり、各車両の運行状態から独自の渋滞情報を構築するといった芸当が可能。躍進著しいグーグルやアップルといった米国企業に対抗し、ベガスユーザーを囲い込むための施策だ。
その回線を使えば、車両のパラメーターを本社へ定期的に送信することも不可能ではない。
「……ユーザーに黙って、やってるという話でしょ」
〈規約上は問題ないんだってな〉
「ええ。ベガスはお客様のために必要な情報を吸い上げます。同意しますか? ……はいを押さなきゃ先へは進めない」
〈うん……ここ一年、自動ブレーキシステムを改良した全てのベガス製トラックは、エンジン始動と同時に一日分のログを本社へ送信するようになった。朽舟はツールを使ってTR条件分岐が動作したかどうか解析する役割りを……要するに、見張り番をやるはめになった。で、今年の二月になって厄介事が発生した。あるトラックでTR条件分岐が発動。ECUは想定通りに動いたが、しかし結果的に追突事故が起きた〉
「二月……」四本木は顔をしかめた。「リコールの対応が完了した後ですね」
〈そう。後だ。ところが新聞沙汰にはならなかった。ラッキーなことに、単なる追突事故で処理されたんだよ。クレームの電話も鳴らなかった〉
「たまたま気づかれなかったのか……」
〈だが朽舟は気づいていた。だから担当役員に報告したらしい。自分が作ったTR条件分岐は対策として不完全でした、アルゴリズムを見直すべきです、ってな。修理が終わった数千台のトラックをもう一度集めて、プログラムを上書きするべきだと進言したわけだが……その担当役員が、実はあの井村だ〉
「井村……常務!」
嫌な名前だった。井村といえば、過去に別のトラブルで責任を取るべき立場にあったものを、政治力でまんまと回避した前科がある。
四本木は恐る恐る尋ねた。「どう対応したんです? 常務は」
〈…………朽舟に工場長のポジションを約束した。黙っている引き替えにだ。最悪だろう〉
工場長といえば二、三段跳び越えての出世である。
「……最悪です。まさか辞令下りたんですか」
〈朽舟は黙認を約束させられたが、辞令だけは受け取ろうとしなかった。根は真面目な奴なんだろう、一人で悩んだに違いない。ここから、もっと恐ろしい話になる〉
「怖がらせないでくださいよ」
〈……朽舟は市販車を見張るデータロギング用ツールを自分のPCに入れて使っていたわけだが、井村常務が自分にもチェックさせろと言い出した。仕方なく朽舟は井村のノートPCにツールをインストールした。断れる相手ではないからなぁ。しかし、だ〉
「……」
〈それから二ヶ月後の事だ。井村常務の自宅がハッキングの被害にあった。奥さんが通販サイトのパスワード・リスト攻撃にあったらしい。知ってるか。パスワード・リスト攻撃ってやつ〉
「聞いた事はあります。どこかからパスワードが流出した時に、同じユーザーが使っていそうなありとあらゆるWebサイトを、しらみつぶしに攻撃するって奴だ……まさか」
〈そのまさか、だ。常務がノートPCを自宅に持ち帰っていたタイミングで、事は起きた。そのせいでロギングツールが外部に漏れたらしい。これは一大事だ〉
四本木は身震いした。自動車メーカーの開発部門が磨き上げた門外不出の最高機密。エンジンやシャーシの細かい挙動をモニタできる、マニア垂涎のお宝である。
「流出……でも……さすがに使い方が難しすぎるんじゃ」
〈ところがだ。常務のPCにはもちろん電子メールの履歴があった。そいつも流出した〉
「……使い方のわからない常務の質問に、朽舟が答えるという、メールの履歴がご丁寧にオマケとして添付されていた。そういうことですか」
〈最高のマニュアルだろ。その一式がインターネット上の、ブラックマーケットで売られてるそうだ〉
四本木は下唇を噛んだ。なんてことだ。
〈それからバスの件が起こって……朽舟は病気を理由に出社しなくなった。身体の弱い奴らしいが、むしろ精神的なストレスが大きかったんだろう……悩みに悩んで、会社の不正を告発しようと心に決めて……だから〉
専務の声に耳を傾けながら、四本木は停滞が解けない夜のアクアラインをにらみつけた。まっすぐ伸びる道路の果てに朽舟が。そしてこの電話も、まっすぐバス事故の核心へと結ばれている。だから念じた。
渋滞よ、解消しろ。
俺を早く。
早く——早くあいつのところへ行かせてくれ。
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