泡沫の平穏 2



 夏霞に水を引かせ、すっかり服も乾いたところ。いつ以来だろうか。久々に大声で笑い気も晴れたサユに、ファイスが優しく微笑んだ。


「初めて笑ってくれたね」

「……そう、かしら」

「初めてだよ。いつも眉間に皺を寄せて、君の使精——、シテンとそっくりだったよ」

「あいつに? やめてくれない? ねぇ、ナツカ。そんなことないわよね?」


 助けを求めるように、夏霞に訊ねたサユだったが。


「うーん。おでこがこんなでも、シテンより、ナツは断然サユが好きだよ!」


 眉間に皺を寄せ、それを指差した夏霞にサユは項垂れる。


 至天と夏霞。けして仲が悪いわけではないと思う。ただ、前線で使ってもらえない夏霞は至天が羨ましいらしく、対抗意識を持っているようだった。問題は敵と対峙する急場において、いまだ自分の力を制御しきれずにいるサユにこそあるのだが。


「お願いだから、シテンとそっくりだというくだりだけは否定してちょうだい」


 その一点に関してだけは認めたくなかったのだが。そこにファイスが口を差し挟む。


「ナツカはシテンが邪魔なのかい? それなら僕も同意見なんだけど」

「同士! ナツね、打倒シテン目指してるの」

「打倒シテンか。ナツカとは話が合いそうだな。しかもそれ、期待していいかな? いや、むしろ喜んで協力するよ」


 腰を落としたファイスは夏霞と視線を合わせると、何事かひそひそと相談を始めた。

 具体的にどのような作戦を練っているのかまでは聞こえてこなかったが。打倒シテンを掲げ、腕を組む勢いで盛り上がるファイスと夏霞を横目に、サユはひとり溜息をついた。


「勝手にして」


 呟きに反し、サユの顔には楽しげな笑みがあった。けれど群青の瞳に目が留まった途端、表情が翳る。

 なぜなら承知していたから。髪や瞳の色を思うままに変えられる者の存在を。太陽神の力を撥ね返すほどの魔力を有した者ならば、それを可能にするという事実を。


 サユは息を吸って口を開いたが、零れ落ちたのは溜息だけで。問いの言葉は呑み込んでしまった。それは満月の前夜。ファイスと手合わせをしてからいくどとなく、心中で反芻していた問いだった。





   *****





「この部屋で最後ですね」


 申し訳なさそうに、中年の痩せた男がサユに向かって声をかけた。


 男が窓を塞ぐ鎧戸を押し開くと、暗かった室内に穏やかな光と風が通る。部屋に足を踏み入れたサユのまえでは、窓から射し込む陽光のなか、ゆったりと埃が舞うのが見えた。


 サユはいま、官吏のために用意されている館まで来ていた。昨夜、ファイスから聞いた噂の真偽を確かめたく思ったすえの行動だった。だが、八年前の官吏の後任が続けてこの館を使ったらしく、時間も経ちすぎている。公金の行方を掴むため、徹底的に調査もされたはずだ。なにか残っているとは考えがたく、だからそれは予想どおりの結果と言えた。


「空っぽだね」


 サユを見上げた夏霞は、調べものを手伝うと意気込んでいただけに残念そうな顔をしていた。最後に案内されたこの部屋も、ほかの部屋同様、家財ひとつ残されていなかった。


「本当に、なにも残っていませんでしょう?」


 気の毒に感じたのか、案内役の男は夏霞に同情した様子でそう言った。


 男はロイという名で、クアジに教えてもらった人物だった。

 ロイの家は館の管理を任されている。いまは定期的に換気や掃除をしているだけだが、ファイスが来る以前は、この村に派遣された官吏の雑用も引き受けていたという。彼の話によると、調度品は八年前、値打ちのあるなしに拘らず、すべてランカース公領の中央官府に接収されたとのことだった。つぎにやってきた後任の官吏は私物を使っていたらしく、村を出るさい処分するか持ち帰っていた。


「なにもなくて、かえって気が済んだわ」


 気落ちするでもなくロイにそう伝えたサユは、正直このとき安堵を覚えてもいた。

 もし、噂を裏づける物証が出てこようものなら、それは使族の在りかたにまで波紋を投じるからだ。だが、そうと判っていながら、サユは訊ねずにいられなかった。


「八年前の事件当時だけれど。普段、この館に出入りしないような人物を見かけたりしなかった?」

「ええ、見ましたよ。仕事の帰りぎわに、門のあたりで擦れ違っただけですが。いかにも不審なふたり組でしたね」


 するりとロイから出た返答に、サユは少なからず動揺する。


「顔は見たの?」

「顔までは判りませんでした。ふたりとも、外套を頭まですっぽりと被っていましたから」

「見かけたのは、いつ?」

「まだ、動物への被害しか出ていなかったころでしたか。私が官吏に訊ねたところ、月魄専門の狩人を雇ったのだと言っていましたがね。狩人は総じて怪しげな恰好をしていると聞きますが。いまとなってはそれも真実だったのか……」


 ロイの表情からは、クアジと同じ悔やむ気持ちが窺えた。


 人間のなかにも月魄退治を生業としている者たちがいる。しかも彼らは使族より安価に依頼を引き受ける。だから、使族よりさきに彼らに仕事を頼むのは珍しい事例ではない。


 そう納得しようとしてもできず、気づけばサユは、それが狩人であって欲しいと、強く願っていた。





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