8:子供から、大人まで。

 ……前回のデートから一週間が経ち、俺と理乃のデートは今日が四回目になる。


 本日のデートコースは、午後から森林公園そばにある地元近代美術館で『童話世界の挿画とアート展』を見物することになっていた。

 俺と理乃は、一三時過ぎにいつもの駅前広場にある大時計で落ち合うと、電車に乗って街の中心部を離れた。目的地の駅は少しレトロな外観の建物で、下車すると、すぐ都会にはない澄んだ空気が肌に触れ、周囲に緑の気配を感じた。

 俺と理乃は、道路のかたわらに設置されていた道案内を頼りに、美術館を目指して歩いた。

 当然、理乃はいつものように俺の服の袖を引きながら。


 今回の『童話世界の挿画とアート展』は、理乃の希望で来ることになったイベントだ。

 主に、西洋童話や世界的児童文学をモチーフにして描かれた作品が展示されているらしい。古今の絵本や児童書を彩った歴史的なイラストレーションの原画および版画から、現代美術の芸術家が前衛的な表現を用いて作成した立体物まで、多様な展示物が揃っているという。


 何しろ、少女漫画好きな理乃のこと、『人魚姫』とか『白雪姫』とか、はたまた『不思議の国のアリス』などといった題材の作品は、彼女の感性をくすぐるストライクゾーンらしい。

 つくづく乙女脳の女の子である。


 とはいえ、美術館の中に展示されていた作品の中でも、十九世紀に作成された挿画などには、やはり時代を超越した美しさがあって、童話に然したる興味を持たずに来場した俺でさえ、ついつい惹き付けられた。

 舞踏会場の豪奢な装飾ひとつひとつを、圧倒的な図版の密度で細緻に描き込んだ『シンデレラ』や、お菓子の家を複雑な色彩で美麗に表現した『ヘンゼルとグレーテル』などの挿画には、目を奪われずにはいられなかった。

 俺ですら眺めていて思わず感心してしまったぐらいなので、理乃がどれほど喜び感激していたかについては、多くを語るまでもないだろう。


 ただし、少しだけこの展覧会には、理乃にとってのマイナス要素もあった。

『赤ずきん』をモチーフにした現代アート作品の中に、非常に過激な残虐表現を用いた絵画があったのだ。

 童話の中で、オオカミの腹部が裂かれ、赤ずきんやおばあさんたちが救出されたあと、代わりに巨大な石を詰め物にされるシーン。

 大地におびただしい血が流れ、臓物が剥き出しになったオオカミが横たわっていた。暴力的な描写でオオカミに制裁を下す猟師、それを周囲で狂喜の表情を浮かべながら扇情する赤ずきんとおばあさんの姿が描かれている。

 武力に対して武力で報復することの醜さを伝えようとした展示物だった。


 あくまでファンタジックなテイストで描かれていたため、そこまで深刻な刺激ではなかったのだが、これは過度の流血描写を苦手とする理乃にとって、ちょっとした不意打ちだった。


 理乃は、この種の表現を目の当たりにすると、精神が不安定になりやすい。

 おそらく、交通事故で撥ねられたときのことを連想するからではないかと思う。

 もちろん、現在の理乃はもう光平先輩のことは、ちゃんと覚えてはいない。

 小母さんから聞いた話によると、今の周期に入ってからは少し前に自宅の仏壇を何やらじっと見詰めていたことがあったものの、遺影の少年が誰かについては何も質問されなかったという。

 それはそれで、少し不思議な感じでもあったが、彼女の些細なリアクションで、いちいち一喜一憂するのも禁物だろう。

 これまで俺は、理乃と四年間で手を変え品を変え、恋人としての思い出を積み上げてきた。

 それによって、少しずつ彼女の部分記憶喪失が良い方向へ向かっている、とは信じている。

 だが、やっぱり三ヶ月周期の呪縛は、いまだに理乃を捕らえて離していないのだから。



 いずれにしろ、童話がモチーフということで、メルヘンなイメージばかり先行し、美術館の展示内容について下調べが足りなかったのは、完全に俺の失態だ。

 俺は、やや顔色が悪くなった理乃の手を引いて、美術館を出た。

 まあ、そうした誤算はあったものの、それでも館内に居るあいだに全体の展示物は八割以上見て楽しんだのではなかろうか。入館料金の元ぐらいは取ったと思いたい。

 先週の映画館で万が一のときに想定していたシナリオを、まさかここで演じさせられる羽目になるとは、予想外の展開ではあったけれども。


 俺と理乃は、少しのあいだゆっくりと、美術館の隣の森林公園を散歩した。

 木々の香り漂う微風を浴びて、理乃の状態が落ち着くまで待つことにしたのだった。


 理乃はまた、俺の服の袖を引っ張ろうとしたけど、俺は今回それを許さなかった。

 代わりに、理乃の右手を自分の左手で強く握って、いつもより彼女の身体を近くに寄せた。

 森林公園の中は、俺たちみたいなカップルが他にも沢山居て、そうすることに気恥ずかしさはあまりなかった。正直、こんなときだったので、理乃を安心させてやるために、この状況はかなり助かった。


「――この公園、いい場所だね」


 理乃は、しばらくすると、随分落ち着いた様子になって言った。


「そうだな。山とか、海もいいけど、森の中を歩くのも悪くない」


「そうだね。山とか、海とか、谷間もいいけどね」


「……まだ、そのネタで引っ張るんですか理乃さん」


 俺がちょっとだけ弱り顔で苦笑すると、逆に理乃はくすくすと楽しげに笑った。

 どうやら、そろそろ心配する必要はないみたいだった。


     ○  ○  ○


 陽が傾きはじめる頃合になると、俺たちは電車に乗り込んで森林公園を去った。

 スーパーで買い物を済ませたあとは、もちろん今晩も蓮水家で、理乃の手作りカレーライスを頂くことになっている。


 理乃は、「またカレー?」と、少し呆れたような声音で問い返したが、もちろんその通りだ。

 デートした日の夕食は、理乃の手作りカレーライスでなくてはいけない。俺は固執した。


 理乃は、部分記憶喪失が発症すると、過去に誰と一緒に夕食を食べたかは忘れてしまう。

 でも、どこで何を食べたかは忘れずに済むケースもあることについては、すでに説明した。

 だから、俺はデートした日の夕食は、必ず理乃の家でカレーを食べるのだ。

 何人もの別人のはずの過去の恋人が、全員デートの日の夕食にカレーライスを食べたがる。

 その法則性に、彼女が気付いてくれれば……

 そんな期待感を込めて、俺はカレーライスを食べ続けてきた。


 もっとも、これまで残念ながら、この試みにそれらしい成果は何ひとつ出ていない。

 やはり良くも悪くも、カレーライスは理乃の記憶の中で特別な料理として、例外的に認識されているのかもしれなかった。

「自分の恋人は全員カレーライスが好きだ」という情報は、見方によっては恋人の人物像を特定させてしまう。これは、「恋人が誰なのかの記憶を、次の三ヶ月周期まで持ち越せない」というルールと矛盾するからだ。

 まして、カレーライスは俺と理乃だけでなく、間接的に光平先輩との思い出をつなぐ料理でもある。

 それゆえ、理乃はカレーライスに限ってだけは、他の料理のように食べたことを覚え続けていられない可能性は高かった。

 実際、理乃は「自分の昔の恋人もカレー好きだった」というような話は、俺の前で一度もしたことはない。

 いや、そもそも今目の前に居る恋人に面と向かって、普通は元カレの話などしないか。このあたりはデリケートな部分だな。


 まあ、何はともあれ、どんな理由を取り繕ったところで――

 単純におまえは理乃の手作りカレーが食べたいだけなんだろうとツッコミ入れられれば、ハイそうですとしか言えなかったりもするのだが。



 帰宅すると、理乃はキッチンに向かった。

 たまねぎをきざみ、ニンジンとジャガイモの皮を剥いて、炒めた豚肉と一緒に、手際よく鍋へそれらの具材を放り込んだ。

 一時間ほど煮込んで、カレールーを投入すると、あとは完成を待つだけになった。


 いつものように、あの恐るべき戦闘兵器を手作りするエプロン姿の理乃。

 ダイニングテーブルの席に着いて、俺は相変わらずぼうっとしながら調理中の彼女を眺めていた。

 理乃とカレーライスのことを考えているとき、同時に思い浮かぶものと言えば、それはもちろん三ヶ月周期の部分記憶喪失についてだった。


     ○  ○  ○


 今、目の前にいる理乃と俺の関係は、交際日数四〇日弱。この三ヶ月周期で付き合いはじめるまでにも一ヵ月半掛かっているから、合計経過日数としては八〇日強といったところか。

 雑な計算だが、三ヶ月を九〇日前後、理乃の部分記憶喪失発症タイミングをプラスマイナス一週間程度の誤差で見るなら、俺の恋人が再びただの知り合いに戻るまで、今回の残り時間はあと一〇日程度。

 最速なら、また俺のことを三日後ぐらいには忘れてしまうかもしれない。


 次の三ヶ月周期がはじまったら、また俺にとって十七度目の告白という課題が待っている。

 理乃に受け入れられるための難易度が徐々に上がりつつある告白を、次回はどうやってクリアしようか。俺はすでに、そんな攻略法を思い描いていた。

 いっそ、そのときになってみて、どうしても難しいようなら、次々回の周期まで持ち越してから恋人関係をやり直すという手もある。

 交際し直すまで倍以上の時間が掛かり、それが以後常態化してしまうと、一年のあいだで理乃と恋人同士に戻れる期間もこれまでの半分になってしまうかもしれないが、それも致し方なしだ。

 理乃にとって一番いい方法が、どんなに時間の掛かる手段にしろ、俺には彼女のそばを離れるつもりはない。



 なぜなら、俺はもう、そんなふうに考えてしまうぐらい、徹底的に理乃が作るカレーライスの味に幻惑されて、この料理なしではいられなくなっているんだからな。


 くどいようだが、つくづく男という生き物は、料理上手な女の子に弱いものなのである。

 特に、カレーライスの破壊力は抜群だ。

 美味いカレーライスを作る女の子、まったく本当に最高だな。

 俺は理乃より美味いカレーを作る女の子に出会ったことがないし、きっとこれからも出会うことはないだろう。永遠に。


 そんな理乃のカレーライスを食べるためなら、三ヶ月おきの告白なんてワケないし、彼女がたとえこのまま一生幼馴染としての記憶を失ったままだとしても、俺は何の恨みも抱くまい。


 ただ、いつの日か。

 もし、理乃が過去の失った記憶を取り戻すことがあったなら、そのときは是非直接言ってやりたいことがある。

 後遺症が治っていなかった頃のおまえは、少女漫画みたいにたった一人の相手を好きで居たかったと言っていたけど、本当は気付いていなかっただけで、俺以外の男とただの一人も付き合ったことはないんだぞ、と。

 初めてカレーの味を褒めた恋人も、初めてキスをした恋人も、二度目も三度目も、そのあとのキスの相手はすべて俺で、初めてキス以上のことをした相手も俺だったんだと。

 そして――俺も、おまえ以外の誰かを好きになったことは、一度だってなかったのだと。

 改めて確認するまでもなく、記憶を取り戻した時点で、彼女がその事実に気付いている可能性があるのもわかっているが、それでも。


 もちろん、俺はネット上のアイドルの記事などでよく話題になる、女性の処女性について、とやかく不毛な議論をするつもりはない。

 過去の記憶を引き摺ることが、今現在や未来を目指すより優れているなどという、懐古じみた妄執に囚われるつもりもさらさらない。


 だが、失われたまま思い出せない過去を放置しておくことは、未来に希望を見出すことと必ずしも同じではないし、ひとつことに不変の愛情を注ぐのもまた、おそらく無価値ではないだろうと信じている。

 だから、理乃はやがて記憶を取り戻したら(谷間はないけど俺好みの)胸を張って、自分はずっと少女漫画みたいに一途な恋をしていました!、とドヤ顔でもして周囲に言いふらすといい。

 そうなったら俺も決して、彼女の恋人として恥ずかしがったりはしないつもりだ。

 まあ、逆ハーレムみたいな世界観も、ハマればそれはそれで、きっと面白いと思うけどな。


 とにかく、俺の過去には理乃しかいなかったし、未来もまたそうなるだろう。


 手作り兵器カレーライスに誓って。


     ○  ○  ○


 しばらくして、カレーライスが完成した。

 ライスとルーがバランスよく盛られた皿がテーブルに並んで、俺と理乃はいつものように夕食を開始した。

 スプーンで掬ったカレーライスを口に運んで、俺は具材とスパイスのハーモニーを堪能する。

 やっぱり、今日も理乃の作るカレーは美味い。


「本当にカレーが大好きなんだね、ほにゃららレンジャーさん」


 理乃が、カレーを頬張る俺の顔を見て微笑む。


「ああ、大好きだぞ。カレーはなんたって、日本の国民食だからな」


「たしか子供の頃から、ずっと好きなんだよね」


「そうだ。小学生ぐらいから、ずっとだな」


「はー。男の子ってカレー好きな子が多そうだけど、みんなそうなのかなー」


「みんなってことは、さすがにないと思うけどな」


 グラスに注がれた水を飲んで一息入れながら、俺はいかにもそれが一般論という調子で意見を述べた。

 それから再び、グラスをスプーンに持ち替え、ライスとルーの山に銀色の先端を突き立てる。


 理乃は、ちいさく何度かうなずきながら、まるで独り言のように言葉を続けた。


「そうだよね。……例えば、サッカーチームを作れるぐらいの人数の男の子が、全員カレー好きだなんて、普通はありえないよね」


 俺は、思わずスプーンを動かす手を止めた。

 そして、顔を上げて理乃を眼差す。

 理乃は、正面からは顔を逸らして、どこを見ているでもない様子だった。


「私ね――カレーライスって、変わらないものの象徴なのかなって。たった今、キッチンで具材を煮込んでいるときに、ふっと考えたの。子供の頃から、大人になっても、ずっと変わらない何か。夢とか、幸せ、温もりとか――」


 理乃の言葉は、ひどく夢想家じみてて、甘ったるい感傷の類にしか聞こえなかった。

 でも、俺は彼女を冷やかす気にはなれなかった。

 カレーライスが普遍性の象徴だという見解は、俺もまた同じだったからだ。


「……そして初めて、自分のカレーライスを好きな男の子から褒められたときの喜び、とか」


 理乃は、こちらを振り向いた。

 彼女の瞳はわずかに赤く滲んでおり、必死に瞬きを堪えているように見えた。

 しかし、すぐに耐えかねたのか、理乃はうつむき、左手の人差し指で、泣き虫の子供がそうするみたいに、瞳を擦った。


「ごめんね。ちょっと、目が霞んじゃって……」


 理乃の様子を見詰めていた俺も、カレーをそれ以上食べ進めることができずに、少しの間ただ傍観しているだけだった。

 身体がどうしようもなく震えているのが、自分でもよくわかる。


 あまりに唐突だったので、俺は気持ちの整理をすぐに着けることはできなかったが、とりあえず無理やり声を絞り出した。


「……カレーを作るときに、たまねぎをきざみすぎたんじゃないか」


 我ながら、よくもこんなにつまらないことを言ったものだと、俺はすぐに後悔した。




<手作り兵器カレーライス・了>

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手作り兵器カレーライス 坂神京平 @sakagami

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