6:蓮水理乃と十一人の恋人(前)

 俺が二度目の告白で理乃に玉砕していた頃も、もちろん日本の各教育機関は平常通りに生徒児童の健全育成に注力していたわけで、すなわち全国の中学三年生にとって最大の難関である、高校受験の当日はほどなくやってきた。


 俺も理乃も、各々の学力と内申点に見合った志望校に願書を提出し、試験でもそれなりに無難な成績を取って、晴れて四月から高校一年生になることが決まった。

 ただし、小学四年から六年までと中学校三年間の合計六年を、俺と理乃は同じ学校の同じクラスで過ごしたわけだが、ついに高校はまったく別々の学校に通うことになった。

 俺は地元の平均的な偏差値の男女共学校で、理乃は入学にそれよりワンランク上の成績を要求される女子高だった。

 理乃は記憶喪失になってはいても、中学時代に定期考査で俺よりやや上の学年順位をキープしていた基礎学力については、一切失っていなかったのだ。


 ひょっとして、理乃は俺と再び必要以上の関わり合いになることを避けて、別々の高校を受験したのではないか?という考えは、当然あった。

 だから、願書提出後に受験を終えるまで、俺も中学校の自分のクラスで会うとき以外は、理乃と少し距離を置くことにした。

 本当なら、もっと理乃の近くに居て、彼女の記憶を取り戻すために、二人で一緒に写真を見たり、俺の知ってる思い出話を聞かせてやったりしたかったが、あんなやり取りをしたあとだったから、お互い少し冷静になる時間があってもいいのではないかと思ったのだ。

 それに何より――これはやや情けない話だが、やはり受験間近で、俺自身も少しは真面目に勉強しておかないと、不安だったのである。



 しかし、無事に受験が終了し、卒業式と春休みを控えた中学三年の三学期末、さらに受け入れがたい運命が、俺や理乃と、彼女を取り巻く人々に衝撃をもたらすことになる。


 それは卒業式まで中学校での授業が、進路報告で登校する日以外はすべてなくなり、俺が昼頃まで自室のベッドで惰眠を貪っていたときのことだった。

 突然、理乃の小母さんから、電話が掛かってきたのだ。


 二度目の告白をフラれてしまったものの、俺は彼女の事故の後遺症回復のため、可能な限り協力したいという旨を、理乃の小母さんに申し出ている。

 そして、理乃の件で何か気掛かりなことがあったら、互いに直接連絡を取り合うことになっていた。

 まさしく家族レベルのお付き合いなのだが、元々小学校時代から蓮水家に頻繁にお邪魔していた身なので、今更俺にはそれが特別な感覚はない。


 果たして、小母さんからの電話は、やはり理乃に関わる話だった。

 今朝起きてから、理乃の様子がおかしいようなので、また病院に行くことにした――と。


 俺は、電話口では詳しい話を後回しにして、理乃がかかっているという病院に急いだ。

 やはり、自分は少しの間だけだったとしても、理乃と距離を作ったりすべきではなかったのだろうか。

 俺は道すがら、そんなことを悶々と考えていた。


 病院に到着すると、俺は以前に彼女が入院していたのと同じ病室に案内され、理乃と面会した。

 理乃はこれからまた精密検査をするとかで、すでに衣服を寝巻きに着替えていて、ベッドの上で大人しくしていた。

 以前に事故で入院したとき同様、そばには理乃の小母さんも居る。

 俺は小母さんに短く挨拶してから、理乃に声を掛けた。


「理乃、その――調子が良くないみたいだって聞いて来たんだが、大丈夫なのか?」


「……ああ、透弥くん。お見舞いに来てくれたの? ありがとう、おかげさまで……」


 俺はすぐに、そのちょっとした会話で、理乃の雰囲気に違和感を覚えた。


 少し驚いたような面持ちになって、理乃はおっとりとした口調で返事したのだ。

 その言葉の内容といい、俺を見たときの反応といい、まるで――あの事故直後に会ったときの理乃の態度そのものだった。

 俺は、かつて録画した映像を見せられているみたいな錯覚を抱かされた。


 なぜ、理乃がこんな態度を俺に取るのか、辻褄が合わない。違和感の正体はそれだ。

 俺が二度目の告白をしたとき、理乃はこれ以上自分に関わって欲しくないと言い、俺と再び恋人になることを拒否して、とても悲しそうな顔をしていた。

 だから俺は、今この病室に入って、理乃に久しぶりに声を掛けたときも、彼女が俺に対してどんな拒絶の姿勢を見せるのかと、内心かなり緊張していたのだ。冷たい言葉をぶつけられたところで仕方ない、というぐらいの覚悟があったぐらいだった。


 しかしながら、これは……いったいどうなっている?


「ところで――透弥くん、一人だけで来てくれたの?」


 俺の密かな困惑など、まったく気付かない様子で、理乃は次の言葉を続けた。

 俺は、背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。

 とても危険な予感がしたのだ。

 できることなら、耳を塞いでこれ以上は理乃の言葉を聞きたくない、という気持ちが一瞬芽生えた。


「まさか、透弥くんがお見舞いに来てくれると思わなかった。私と透弥くんって、中学校でのただのクラスメイトでしょ? その中学校も、お互いもうすぐ卒業だし――」


 理乃は、そこで少し慌てたような身振りを交えながら、「あ、あの。来てくれたことはすごく嬉しいんだけど、ちょっと意外で、驚いちゃったから」と、自分の発言を補足した上で、


「まさか、こんなに私のこと心配してくれるって、思ってなかったから」


 そんなふうに、聞き覚えのあるセリフを付け加えた。



 そのとき俺は、自分の危険な予感が的中していたことを察した。


 蓮水理乃の脳内における、<事故後から高校受験が終了したあと昨日まで>の記憶の一部分は、再度なぜか消去デリートされてしまったのだ。


 あの事故から、三ヶ月ほど経過したある日のことだった。


     ○  ○  ○


 理乃の記憶が、再び一定量脳内の記憶領域から削除されてしまった事実については、もちろん俺や彼女の家族にとって辛く認め難いことだ。深い落胆に値する。

 だが、起きてしまった現実を正面から受け止め、正しく把握せねば前に進めないことだって、世の中には沢山あるだろう。おそらく、これはその一例だ。

 俺たちは、記憶を失っていなかった頃の理乃と、最初に事故で部分的に記憶を失った理乃、そして今現在二度目の部分記憶喪失になってしまった理乃との違いを、理解に努めねばならなかった。

 特に、最初の記憶喪失の時点と、現在の状態の差異について。


 基本的に、理乃は日常生活にまつわるような軽い事象は、蓄積された記憶を失っている様子はなかった。昨日食べた夕食とか、一昨日見たテレビドラマの内容とか、そういえば洗面所の歯磨き粉がそろそろ切れそうだったから買っておかなければいけないとか――ごく身近な身の回りのことは、健常者と同じようによく覚えているのだ。

 ご両親のこと、親戚のこと、月刊雑誌の発売日や、昔読んだ少女漫画のストーリーなども、きちんと覚えていた。

 もちろん、カレーライスの作り方も。


 ところが、自分自身を含め、他者と関わりを持って何かしたという行動の記憶については、おぼろげには覚えていたり、完全に忘れていたり、かなり曖昧になってくる。


 例えば、理乃に記憶を失う前日の夕食は何を誰と食べたか、と質問する。

 すると、焼き魚を自宅で食べたことはしっかり覚えているのだが、誰と一緒に食べたのかに関しては――やや間をおいて、「お母さん?」と小首を傾げながら答えが返ってくるのだ。


 それは正解ではあるのだが、理乃のリアクションを見る限り、本当に短期的な記憶から導き出された答えなのか、それとも記憶を失う以前の経験則と照らして彼女が思い浮かべた答えなのかは、第三者の目には判然としない。

 理乃に改めて問うと、彼女自身も漠然としたイメージで回答したことを認めた。


 完全に理乃が忘れてしまった記憶は、やはり光平先輩に関わる物事だった。

 最初の部分記憶喪失のあと、俺は写真や思い出話で、理乃に蓮水光平という兄が居たことを繰り返し説明していたわけだが、それらは綺麗さっぱり忘れていた。

 つまり、おまえは自分の兄について忘れているぞと、俺が教えてやったことをも忘れてしまっていたのだ。


 そして、同時に。

 俺に関する記憶――というか、俺という人物に対する認識は、最初の部分記憶喪失の時点まで「巻き戻されて」しまっていた。


 事故後、理乃の後遺症を回復させるため、俺が彼女の身の回りでとってきた行動は、すべて忘れられていた。

 しかし中途半端に、やはり今回も存在自体は消し去られるには至らず、理乃の記憶は「小学校時代からの友人で、中学校のクラスメイトである日渡透弥」という事故直後の状態まで、彼女の脳内における俺の役どころを立ち返らせたらしい。


 理乃の記憶の中において、俺の存在は誰とも違う、特別なポジションを与えられていたのだ。


 俺は、その事実に気付いたとき、強い使命感が自分の中に湧き上がってくるのを感じた。

 理乃の記憶は、俺だけを彼女の特別な存在と認めたんだ。


 ただの思い込みと嘲りたければ、そうするといい。

 だが、俺はただちに決意を固めた。

 俺では、妹のために命を投げ出した光平先輩の代わりになるには、おそらくずっと物足りないのかもしれない。そんなことは百も承知だ。

 それでも――


 理乃の記憶を、俺が必ず取り戻してみせる。

 これからどんな障害があって、どれほどの時間が掛かったとしても。必ずだ。



     ○  ○  ○



 四月になって、俺と理乃は互いに別々の高校に進学した。

 小学生の頃から才能もないのに、光平先輩に引っ張られて続けてきたサッカーだが、俺は高校では帰宅部になることにした。自分の進学した学校は光平先輩の通っていた高校とは違っていたし、辞めることに未練はなかった。

 何より、俺には部活をするより、他にせねばならないことがあった。


 この頃の俺は、毎日放課後に、蓮水家へ押し掛けるようになった。

 凝りもせず、理乃に光平先輩との思い出話を聞かせたり、写真を見せたりして、彼女が事故に遭う前の忘れてしまった出来事を説明し続けていたのである。

 そして、以前は自分が理乃の恋人だった時期があったことや、初めて食べた理乃の手作りカレーライスがいかに殺人的に美味な兵器であったかを、繰り返し説いた。


 理乃は、普通ならば疎まれてもおかしくない俺の話を、いつも律儀に、真面目に聞いてくれた。

 しかし、やはり最初に記憶を失った頃と同じように、反応は鈍く、理解はしてくれても、今の彼女には受け入れ難かったり認め難かったりする話が、決して少なくないようだった。

 少なくとも、「思い出した」というリアクションは、まったく得られなかった。


 理乃との対話を続ける中で、俺は三度目の告白も試みた。

 だがこれも、二度目の告白とほぼ似たような態度を理乃に取られ、俺はまた振られて、恋人同士に戻る機会を逸した。



 そうこうしながら、二度目の部分記憶喪失発症から三ヶ月が経過した。


 理乃は、三度目の部分記憶喪失になった。

 俺が理乃に教え聞かせた過去の思い出話は、またしても彼女の脳内記憶領域から消去デリートされた。


 俺に対する人物認識も、同様に最初の事故直後の時点まで「巻き戻された」――いや、厳密には、少し変化したか。

 今回の理乃から見た俺は、「小中学校時代からの友人で、現在別々の高校に通う日渡透弥」になっていた。環境の変化に合わせて、理乃の脳内認識は少しだけ認識を補正したようだ。


 どちらにしろ、また「やり直し」であることには違いなかったが。


     ○  ○  ○


 理乃は、この三度目の部分記憶喪失から少し経って、通っていた女子高を辞めてしまった。


 学校の勉強に付いていけなくなったわけではない。

 部分健忘が発症しても、理乃は学校で習ったことや教科書で覚えたことは忘れていなかったのだから。


 しかし、クラスメイトや担任教師の顔と名前は、覚え続けていられなかった。

 それは、過去二度の記憶喪失が起こった時期が中学在籍時や春休みだったので、これまで目立ってわかっていなかった症状だった。

 理乃は、事故以前に知り合っていた人々のことは覚えていられる。

 だが、事故後に新しく知り合った人のことは、部分記憶喪失が繰り返されるたび、どうやら何もかも忘れてしまうようなのだった。

 新しく読んだ少女漫画のキャラクターは忘れないくせに。おまえはネットで美少女礼讃している二次元オタクかよ、もう少し三次元の人間のことも覚えておけ。


 とにかく、三度記憶障害を発症した理乃も、自分が高校に通っていたことはわかっている。

 ところが、いざ教室の中を見回すと、自分の隣の座席に居るクラスメイトも、入学からすでに二ヶ月は経っているはずなのに、初めて見る顔にしか思えない。担任の教師の名前も思い出せない。三度目の症状が出る前日に、一緒に昼食を食べた相手が誰だったのかも、まるでわからない――

 これでは、人間関係が維持できるはずがなかった。


 一応、学校側には入学前に、理乃の両親が娘の事故後の後遺症について説明していた。

 ただ、その時点では、こうした症状を誰も正確に把握していなかったし、何より理乃は入試でも合格者平均点以上の得点を修めていた。ゆえに本人の希望さえあれば、学校側としても軽々しく彼女の入学を拒否したりできなかったのである。


 しかしながら、理乃にとって三度目の記憶喪失が発症したあと、学校生活が変わらず平凡なものであり続けるかというと、少なくとも彼女自身の負うことになった精神的苦痛は、高校一年生の女子生徒にはかなり重苦しいものがあった。


 理乃を心配した両親の方から、学校側に娘の退学を申し出たのも致し方ないだろう。


 これ以後、理乃は自宅で、引き篭もりがちなニート生活を送るようになってゆく……。



 さて、元恋人の三度目の部分記憶喪失を目の当たりにして、俺のみならず理乃の症状を見守っていた人々は、ひとつの仮説に思い至った。

 それはすなわち、理乃はもしかすると一定の周期的な法則にしたがって、記憶喪失を発症するのではあるまいか、という考察だ。


 具体的に言うと、「およそ三ヶ月周期」で。


 俺を含め、理乃を見守る人々は、彼女の記憶回復をサポートするため、またしても思い出話を聞かせたり写真を見せたりといった努力を続ける一方で、その仮説の蓋然性がいぜんせいを見定めようとしていた。

 三ヵ月後に、理乃が四度記憶を失うのではなかろうかと、慎重に観察していたのだ。

 ……その間に、俺が理乃に密かに四度目の告白を試みて、前回や前々回同様に三度目の撃沈を経験していたことについては、まあこの際どうでもいいことにしておきたい。



 結論としては、やはり前回の発症から三ヶ月ほど経過した頃合に、理乃は四度目の部分記憶喪失になった。

 光平先輩に絡んだ情報はすべて消去デリート、俺に対する認識もまた巻き戻された。

 三ヶ月周期仮説は、ほぼ証明された。


 そうなると、今度は「なぜ三ヶ月という期間なのか」という疑問に当然突き当たる。

 これには、やはり脳生理学的医学的な解答を見出すのは、とても難しいようだった。



 でも、俺にはひとつだけ、心当たりがある。

 それはもちろん、各分野の専門家などではなく、単なる素人で、蓮水理乃の元恋人兼元幼馴染だからこそ言える、これまで同様に根拠なしの妄想だ。


 俺と理乃にとって――「三ヶ月に一度」と言えば、それは俺が光平先輩と同じサッカーチームに所属していない時期に、蓮水家で彼女の手作りカレーライスを食べられるおおまかなサイクルに決まっているじゃないか!


 光平先輩は、亡くなってしまった。

 もう、光平先輩は俺の近くにはいない。

 だから当然、同じサッカーチームにも所属していない。そのはずがない。


 つまり、理乃――そういうことなんだろ?


 この周期は、理乃の脳内で失われてしまったはずの、カレーライスの記憶を反映している。

 独りよがりの自惚れかもしれないが、きっと理乃も俺と光平先輩が同じチームに居られなかった時期、三ヶ月に一度のカレーライス作りを楽しみにしていてくれたんだ。


 俺が理乃のカレーの味を求めていたように、彼女もまた。

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