5:遠い日のカレーライス(後)

 理乃と光平先輩が交通事故にあって、救急病院に運ばれたと知らされたのは、交際半年ほど経過した頃の、ある小雨の日の夜だった。


 光平先輩は、その日も高校のサッカー部で、ユニフォームを雨と汗に濡らしながら遅い時間まで居残り練習し続けていたらしい。

 天候が多少の悪条件でも、試合になればプレーが続行されるのはサッカーの常である。

 小雨でぬかるんだグラウンドは、それはそれで、足元が良くない状況でのゲームを想定した練習になるのだった。


 しかし、俺と交際をはじめたあとも、やっぱりまだ幾分ブラコンの気が抜けきらない理乃は、雨降りの中、辺りが薄暗くなるまで練習し続ける光平先輩を労わった。

 それでその日、傘と着替えを持って、光平先輩の高校まで迎えに出掛けたのだ。

 結果、今どき三流ドラマでも流行りそうもないアクシデントに遭遇した。


 帰路に着いていた蓮水兄妹をねたのは、業務用の大型車だった。

 横断歩道を歩いていた二人に、信号無視で突っ込んできたのである。

 悪天候にトラブルが重なって、その日の物流が少しだけ予定より遅れ、積荷の発注業者が指定する納品時間に間に合わせようとし、ついスピードを飛ばしていた――と、運転手は警察の取調べで話していたそうだ。

 明らかな、運転手側の業務上の過失だった。


 光平先輩は、ほぼ即死だったようだ。

 痛みすら感じる暇はなかったのではないかと見られている。

 しかし、事故直後の有様は、自分の傘も鞄も放り捨てていて、両腕はがっしりと自分の妹の身体を包み込むように守っていたというあたり、光平先輩は最後の一瞬まで光平先輩だったのだと言うしかないだろう。

 理乃は、そんな光平先輩に守られながら、兄の服の袖をきゅっと掴んだまま倒れていたという。


 ありふれたテレビドラマであれば、自分の身近で親しい人物が交通事故で亡くなったりすると、その原因が大抵主人公の言動の一端にあったりして、ああ俺があのときもっと別の行動を選択していれば、などと悔恨かいこんの念に苛まれる描写でもあるのだろうが、当時の俺はむしろそんな感情を抱く余地のある架空のキャラクターを、羨ましく思った。

 蓮水兄妹の事故は、部活動に熱心だった兄と、その兄を労わった妹の善意とが、運命のイレギュラー要素とでもいうべきものに蹂躙じゅうりんされた産物で、俺はただその事実をあとから知らされただけの役回りにすぎなかったのだから。


 もちろん、二人を撥ねた運転手に対して、強い私怨しえんはある。

 だが、自分自身を責めることが出来る人間の方が、ただ大切な存在を理不尽に奪われた人間より、おそらく感情の置き場所に困窮こんきゅうすることはない。

 だからきっと、他者を理不尽に苦痛たらしめた人間は、たとえそれが本人の意思ではなかったとしても、罪をあがなうことになるのかもしれない。



 そして――俺の恋人、蓮水理乃の安否はというと。

 理乃は、身を挺して彼女の盾となった兄の献身もあって、事故直後はしばらく気を失っていたものの、奇跡的に軽い捻挫や打撲、掠り傷を負った程度で、命に別状はなかった。

 ただし、それはあくまで外傷だけの話だ。


 理乃が意識を取り戻したと聞かされ、まだ光平先輩の死を受け入れられずに呆然とした心地だったが、病院に到着した俺は恋人の元気な姿を確認したくて、彼女の病室に早足で向かった。

 看護士から教えられた部屋に入室すると、そこは飾り気のないベッドやサイドテーブルが一対だけ備え付けられた個室だった。

 ベッドの上には病院の白い寝巻き姿の理乃が、まだ微かに焦点の合わない瞳でぼうっとしながら上半身だけ起こしていた。左手首には包帯が巻かれていたり、右手の甲にはガーゼが貼られていて、各所の傷を覆っている。

 そばには、理乃の小母さんも椅子に腰掛けていた。

 俺は先に小母さんに軽く頭を下げつつ挨拶した。小母さんの方もすぐに気付いて、こちらに挨拶を返してくれた。当たり前だけど、小母さんはとても辛そうで、悲しそうにしていた。俺は何度も理乃の家で会ったことがあったけれど、小母さんのこんな姿はそのとき初めて見た。


 それからようやく俺は、ベッドの上の理乃に向き直った。


「――理乃、無事だったか?」


 他にいい言葉も思い浮かばなくて、俺はおよそ独創性のない声を恋人に掛けた。

 理乃はなぜかちょっと驚いたような表情になって、ようやく俺の方に視線を向けてくれた。


「……ああ、透弥くん。お見舞いに来てくれたの? ありがとう、おかげさまで……」


 理乃は少しはにかむように、おっとりと返事した。

 俺は、ほっと胸を撫で下ろした。よかった、どうやら大丈夫みたいだと思った。


 ただ、こんなふうに、理乃がにこやかに微笑んでいられる様子を見ていると、おそらくまだ彼女は光平先輩の死を聞かされていないのかもしれないな、とも考えた。

 急いでこの病室まで来たので、そのあたりの事情を俺は詳しく確認していなかった(すぐ横に理乃の小母さんが居るには居るが、まさか彼女を目の前にしてここで訊くわけにもいかない)。


 理乃はわりと感受性が強くて、お世辞にも気丈な性格とは言いがたい。

 もし光平先輩の死を知ったら、とても平静ではいられないだろう。

 まして、光平先輩は、事故で理乃を庇っていた。

 もしかすると、理乃を庇うような行動をしなかったとしても、光平先輩はやはり死んでいたかもしれないし、理乃も同様に無事だったかもしれない。それはわからない。

 でも、少なくともそういう事実があったことは、理乃が知ったら酷くショックを受けるのは当然として、直ちに自分を責めかねない要素である気がした。

 だから俺は、慎重に会話することを決めた。

 光平先輩の死を、今いたずらに理乃に知らせたりしてはいけないと思ったのだ。


 このあとすぐ、他ならぬ自分自身も大きなショックを受けることを、俺はまだ知りもせずに。


「えっと……事故だって聞いたときは、どうしようかと思ったけど、大した怪我じゃなかったみたいで、少し安心したよ。理乃が無事で、本当に、俺――」


「もう。大げさすぎるよ、お父さんやお母さんもそうだったけど、透弥くんも」


 理乃は、少し苦笑いしながら言った。

 そうしてから、続いてやや戸惑いを含んだ、不思議そうな面持ちになって、理乃は何度か俺が今入ってきた病室の入り口の方へ視線を動かしつつ、逆に質問してきた。


「ところで――透弥くん、一人だけで来てくれたの?」


「……ああ、そうだけど」


 理乃の言葉に、何かしら噛み合わないニュアンスを感じて、今度は俺の方が僅かな困惑を覚えた。

 彼女の病室へ俺が一人で来たことを、理乃はどうも不自然に思っているらしい。

 俺は最初、それは理乃の兄の光平先輩がここに居ない理由に対する疑問なのかと思った。

 しかし、事実はそうではなかった。

 自分や蓮水家の人々以外であるとするなら、理乃はいったい自分以外の誰が見舞いに来ることを望んでいたのだろう、などともこのとき俺は考えていた。

 結論としては、根本的にその俺が抱いていた疑念自体が、考え違いだったのだが。


「そうなんだ。……でも、ちょっと嬉しいな」


 理乃はどことなく会話を取り繕うような口調で言った。

 そして、理乃がその次に発した一言は、俺にひょっとして自分の聴覚が突然異常をきたしてしまったんじゃないかと誤解させた。


「まさか、透弥くんがお見舞いに来てくれると思わなかったから」


「……なんだって?」


「あ、あの、折角来てくれたのにヘンなこと言って、ごめんなさい。でも、その――」


 彼女の言葉の意味するところが咄嗟に理解できなくて、俺は愕然として聞き返した。

 理乃は少し慌てたような身振りを交えながら、自分の発言を補足した。


「私と透弥くんって、同じ学校の、ただのクラスメイトでしょ? まさか、こんなに私のこと心配してくれるって、思ってなかったから」



     ○  ○  ○



 ……【部分記憶喪失】。


 それが、事故後の理乃に残った後遺症だった。

 部分健忘症といった呼び方もあるらしいが、とにかく記憶喪失の一種だ。


 記憶喪失というのは、漫画やゲームの世界だけにあるネタだとばかり思っていた。

 第一、理乃は生活に支障が出るレベルの大まかな過去の記憶は何も失っていなかった。

 ここはどこで、私は誰?

 ――なんてやつが、記憶喪失の定番中の定番じゃなかったのかよ。


 ところが実際には、そうした自分の居場所や名前すらも忘れてしまうような記憶喪失は、むしろほぼありえないぐらいのレアケースで、部分的に過去の事物を忘れてしまう程度の症状の方が多いのだという。



 そして理乃は、過去の出来事のいくつかだけを、限定的に、あたかもピンポイントで選んで抜き出したみたいにして、きれいさっぱり忘れてしまっていた。

 それこそ、雨の横断歩道に置き去りにしてきたように。


 ざっくり理乃が忘れてしまった記憶を挙げると――

 俺との恋人同士の関係。

 兄である光平先輩の存在。

 幼馴染として過ごした、小学校の頃からの何年間かの思い出。

 など……


 理乃は、俺が小学校時代以来の友人で、クラスメイトの一人であることは今でも把握していたけれども、それ以外のことはもう何も覚えていなかった。

 俺がサッカー少年団で光平先輩の練習パートナーだったこと、蓮水家に初めて招待されたときに理乃の手作りカレーライスを食べさせてもらったこと、俺が思い切って彼女に告白して、彼女も俺と同じ気持ちだったことまで、忘れてしまったのだ。

 そもそも、周囲から指摘されねば、自分が記憶の一部分を失っていることにすら気が付いていなかった。


 部分記憶喪失が発症するにあたって、その患者は今後の自分の精神的均衡を保つため、自分にとって不都合な現実や苦痛となりうる記憶因子を、封印するかのように忘却する傾向がある、という説がある。


 その説に従うなら、たぶん理乃は光平先輩の存在を、自分の脳内の記憶から消去デリートしようとしたのではないかと、俺は思っている。


 今の理乃は、自分が交通事故にあったことは知っていても、自分を救おうとした兄が居たことを知らない。


 そう、理乃を事故から救うために、身を挺して妹を守りぬいた光平先輩。

 理乃は事故現場で倒れていたときも、ずっと光平先輩の服の袖を離さずにいたのだ。

 それをいつもの理乃の癖だと一言で片付けるのは、いかにも容易たやすい。

 だが、おそらく理乃は――あるいは彼女の脳は、事故の瞬間、目の前で自分の盾となった光平先輩の姿を網膜で視認して、すぐに兄が助からないであろうことを予知してしまったのではないだろうか。

 いや、予知ではなかったかもしれないが、これはもう無理だと、絶望の認識を得たのかもしれない。兄が助かるとは、感じることができなかったのではないか。

 なぜなら、理乃は真面目で、ちょっとしたことでもネガティヴになりがちな性格だったから。


 もしかすると、そんな理乃にとって、これからの一生における光平先輩の存在は、とてつもない葛藤の源泉になりうるのかもしれなかった。

 その葛藤とは、「優秀な兄を犠牲にして自分が生き残ってしまった」という自己嫌悪だ。

 理乃の記憶は、そんな自己嫌悪の苦しみから、彼女自身を防護しようとした。


 その結果が、部分記憶喪失なのではないだろうか……



 無論、俺は脳生理学の専門家でも、脳外科医でもない。

 だから、それらは単なる俺の憶測以上でも以下でもない。

 事実、理乃の症状を診察した医師は、明確な疾患の原因や、失った記憶と覚えている記憶の因果関係などに、科学的医学的な立場から断言できることは決して多くない、というようなことをしゃべっていたようだしな。


 俺の憶測が正しかったとすれば、理乃の失った記憶の部品パーツの種類に、一定の納得のいく説明ができる、という――これはそれだけの話だ。

 ただ、たぶんそれによって、俺という存在は、理乃の中でクラスメイトとして辛うじて生き残ったけど、光平先輩を接点として彼女の記憶に焼き付けられていた関係性は、すべて失われてしまったのではないか。俺はそう考えている。



 もっとも、繰り返すが俺の憶測もあくまで非科学的な妄想での域を出ていないわけで、やはりそれだけでは説明できない不思議な事実もある。

 例えば、理乃は事故後の後遺症が出たあとも、自分が過去に幼馴染らしき異性と交際していたという事実だけは、おぼろげに覚えているというのだった。

 それは俺のことだ、とこちらから主張してみたりもしたのだが、さすがに今の理乃はすんなり受け入れてはくれなかった。


 理乃の穴だらけになった記憶は、もちろん所々破綻している。

 しかし、その破綻した箇所を、適当なでっちあげの思い込みや、思い出の編集改ざんによって、理乃は――というか、彼女の脳は――記憶をぎし、不都合がないよう、自分自身に疑問を抱かせないように補正しているみたいだった。


     ○  ○  ○


 亡くなった光平先輩の葬儀は、理乃の退院を待たずして執り行われた。

 もちろん、遺体をそのままにしておくことができないというのが一番の理由である。

 だが、たとえ理乃が参列したとして、存在そのものを忘却してしまった兄のために、彼女が遺影の前で心から泣くことができたかどうかは怪しい。

 たとえ周囲から「この人は貴女を庇って死んだんですよ」と教えられたとしても、だ。


 例えばあなたは、「ある刑事が一人の子供を守って殉職した」という一文を読んだだけで、号泣することができるだろうか。おそらく、その刑事を気の毒に思い、立派な人物だったのでしょうねというふうには言うかもしれないが、それだけで文面以上の何かを掴み取ることは、誇大な妄想癖でもない限りは無理だろう。


 記憶の積み重ねが人の心に投げ掛ける影響の大きさというのは、たぶんそういうものだ。

 逆に、故人に関する背景(特に善良な思い出)をより多く知る者は、その人の死について等量の悲しみを抱き、涙を流すのではなかろうか。

 そして、俺は葬儀の日、光平先輩との記憶を手繰って、理乃のぶんまで泣いた気がした。



 ところで俺は、理乃の記憶喪失について、すぐに絶望感を覚えたわけではない。


 記憶喪失という現象がいかにも漫画的ゲームシナリオ的事象だとするなら、そうした娯楽作品の流儀にならって、患者がやがて記憶を取り戻す可能性だって必ずあるはずだと考えたからだ。


 まして理乃は、俺と過ごした小学生だった頃から事故直前までの恋人としての思い出を、すべて忘れているかもしれないが、自分に「幼馴染の恋人が居たらしい」ということはちゃんと覚えていてくれたのだ。

 それは、光平先輩を失った現実から逃げようとしている理乃の記憶にあって(また科学的根拠のない、手前勝手な都合のいい解釈をすれば)、彼女の俺との関係に対する未練なんじゃないかという気がしてならなかった。

 そうだ、俺から彼女に告白したとき、彼女もまた俺のことを好きで居てくれたじゃないか。

 俺たちは、ずっと両想いで、きっと本当は今でも記憶さえ取り戻せば、彼女は自分に好きだと言ってくれる――

 うぬぼれと言われても、俺はそう信じたかった。



 少し経って、理乃も病院を退院する日が来た。

 元々、外傷はほとんど大したことはなかったのだ。様々な精密検査を受けるため、それでも一週間程度は入院していたが、部分記憶喪失以外の点については、診断の結果健康そのものということらしかった。

 一方、理乃が失った記憶については、やはりただちに効果の見られる有効な治療手段はないのだった。時間の経過を見るなり、周囲の親しい人間がサポートするなりして、回復の兆候が出るまで辛抱強く待つしかないのだ。


 そうして、俺は彼女の記憶を取り戻すため、様々なアプローチを試みるようになった。

 どんなに理乃が俺の説明する過去の事実を信用しなかったとしても、俺と理乃が恋人同士であったときの写真や、亡くなった光平先輩が蓮水家に暮らしていた形跡は沢山残されているのである。

 理乃が光平先輩を失った現実から逃れようとしたところで、そうした物理的な証拠を消し去ることは出来はしない。


 とはいえ、人の心が厄介で、数学みたいに綺麗な数字の答えにならない難しさは、理屈や妥当性だけで真実を当事者が割り切れはしないところである。

 果たして理乃も、様々な思い出の品を目の当たりにしてなお、失った記憶を取り戻した様子はまったく見られなかった。俺が小母さんに頼んで拝借したアルバムも、まるで他人の過去の出来事を眺めるみたいにページを捲っていたのである。


 光平先輩の死を知らされ、子供時代の兄妹の思い出の写真を、しかし困惑気味に見詰める理乃の有様は、俺にとって少なからず衝撃的であった。

 一人の人間の存在が記憶の中から完全に抜け落ちるというのは、かくも残酷なものなのかと、悲しみを通り越して恐怖感すら覚えた。



 追い討ちするように、理乃はある日、記憶を失ってしまったがゆえに発するようになった言葉で、俺の心を大いに苦しませてきた。


「――透弥くんは、どうして私の記憶を取り戻すために、色々してくれるの?」


「どうしてって……早く理乃に、昔のことを思い出してもらって、恋人同士に戻りたいからだろ」


「でも、どんなに頑張っても、永遠に思い出さないかもしれないよ」


 理乃は、かすれかかった声で言った。


「それに、『恋人同士に戻りたい』ってことは……逆に取れば、私たちって『今はもう恋人同士じゃない』んだよね」


「――理乃」


「恋人でもない女の子に、一生懸命になるなんて、おかしいよ。まして、私みたいな子なんかのために。透弥くんは、もっと自分のことを――」


「だったら!」


 俺は強い口調で、理乃の言葉を遮った。

 自分でも少し興奮しているのがよくわかった。でも、それ以上、理乃の言葉の続きを黙って聞くことは、そのときの俺には耐えられそうもなかった。

 だから、勢い任せに、俺は理乃の顔を真っ直ぐ見て言った。


「今からまた、俺を理乃の新しい恋人にしてくれよ。おまえの、二人目の恋人に。俺は、ずっとおまえが好きだから」


 俺は、理乃に再び告白した。

 理乃にとっても、異性から交際を申し込まれた、これが二度目の告白だ。


「俺はおまえが好きだ、理乃」


 俺は、自分の口の中が少し乾燥してきたのを感じながら、気持ちを落ち着けて、もう少し穏やかな口調で改めて言い直した。


 理乃は、いつかのように震えていた。

 しかし今回は、それが俺の最初の強い口調に押されたからなのか、それとも別の心理的な作用でそうなっていたのか、はっきりとはわからなかった。

 ただ、理乃は俺の方から顔を逸らして、とても悲しそうな表情になった。

 俺は、どうやら自分が失敗してしまったらしいことを、すぐに悟った。

 また同時に、その表情を、どうして光平先輩の写真を見たときにしてくれなかったんだと、俺は理乃に対する理不尽とも言うべき苦い感情と共に見詰めていた。


「――ごめんなさい……。やっぱり透弥くんには、記憶を失くした私と過去にこだわって一緒に居るよりも、自分自身のことを考えていて欲しいから……」


 そんなわけで俺は、ほんの少し前まで恋人同士だった幼馴染の女の子から、見事に振られることになった。

 なんだか奇妙な言い回しだが、事実なのだから仕方ない。



 とはいえ、しつこい男だとさげすんでもらってもかまわないが、俺はそれで理乃のことをあきらめるつもりになど、到底まったくなれなかった。

 だって、俺はもうとっくに、かの手作り兵器カレーライスに心囚われていて、理乃の作るそれなしではいられないことを自覚していたのだ。

 

 男という生き物は、つくづく女の子の手料理に弱いものなのである。

 そうだろう?

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