エピローグ

 今年の夏休みに入ったばかりのある日、祖父の訃報が届いた。二月くらいから体調が悪いとは聞いていたのだが、漁から戻った港で脳卒中で倒れたのだそうだ。


 なにぶん気軽に立ち寄れる距離ではないので、また夏に顔を出せればいいと呑気に考えていたことを深く後悔した。


 僕は両親と共に急遽南洋の島に向かうこととなり、葬儀の準備や祖父の遺品整理や掃除、その他雑用に奔走した。滞在は一週間にも及んだ。


 木田のおやっさんには世話になったのだからこれくらいのことはどうということはないと、夜を徹して地元の漁師仲間や、僕の島の友人たちが手伝ってくれた。


 結局いまわの際まで祖父は島を出ることなく、生涯を過ごした土地が一望できる丘上の墓地に永眠した。町内の人々が絶え間なく訪れ、焼香を済ませ、頭を垂れて帰っていった。慎ましやかな静かな葬儀だった。


 祖父は葬儀にかかる費用を別にし、家や土地を含むすべての財産を父にではなく、北岸戦争後に設立された国際戦災救援基金への寄付を望むという遺書を残していた。


 失意の中の帰省となったことは残念でならなかったが、島の人々が「また何時でも遊びに来い、お前たちは島の人間なのだから」と言ってくれたことは何より嬉しかった。

 

 昔から仲のよかった島本くんは漁師になる道を選んだ。島にいればそのくらいしか仕事はないとあきらめ顔で僕に言った。それに対し都会に出ることは考えないのかと問うと、俺はこの島が好きだから、とあっさり答えられた。


 彼のように自分自身も、その人生も極々シンプルに規定できれば、どれほど楽だろうか。ふと僕は波頭に飲まれそうな小さな島が離れてゆく船上で、思う。


 またこの島に、彼らと同じ気持ちのまま来ることができるのだろうか、と。


 祖父の葬儀を終え、一週間後南辺に戻ったばかりの僕の携帯のメールサーバーは、彼女からの鬱憤でパンパンに膨れ上がっていた。


 あわてて離島へと出発したため携帯を自宅に忘れてきてしまっていた。彼女からはいい加減新しい携帯に買い替えろと再三言われて、この春にバイトをして買った新しい機種だ。メールでのやり取りが出来るのは便利が、何でも文字になって残るというのはいかがなものかとは思う。


 どこへ行っている、何をしている、何故連絡をよこさない、等々言葉は違えど同じ意味のメールが三十通ほど、最初は怒りに任せた読むのもつらい内容のメールばかりだったが、日を追うごとにそれらは気弱な文章になっていた。彼女には悪いことをした。


 島から帰った翌日、僕は祖父にもらったバイクに乗って彼女との待ち合わせの場所に向かっていた。時間にはうるさいんだ、彼女。自分は遅れても何もいわないくせに。


 駐輪場に勢いよく滑り込み、スタンドをかけて飛び降りる。少し遅れて焦っていた。


 島から帰宅後すぐに彼女に連絡、あわてて事情を話すと、もうすでに彼女の叔母から説明されていたようで、特に荒れることもなくその場は収まった。しかし彼女は僕の疲れや消沈ぶりを慮ってはくれない。


「明日の土曜日、映画に行きたいから付き合って、十時にいつもの場所に集合ね、おーけー?」彼女の電話の強引な誘い口調。


 僕はその誘いに快諾するより仕方がなかった。


 もちろん、固定の電話を使って連絡はいくらでも取れただろう、それを一週間もほったらかした僕が明らかに悪い。そういう負い目もなくはなかった。だがそんな彼女には感謝もしている。


 おそらく彼女が誘ってくれなければ僕はさらに一週間、部屋に引きこもって悶々と考え事をしていただろう。僕の人生、といっては大げさかもしれないけど、その芯を肯定してくれた人の急逝はやはり堪えるものだろうからだ。


 彼女は僕の彼氏としてダメな部分を飲み下してくれていることは解る。解っていながらも何処かでそれに甘えていたくないというか、彼女に頭を下げたくはないという思いも強い。


 邦画はあまり好みではない彼女だったが、今売れに売れている新人俳優『嶋田カヲル』主演の映画ということだけで彼のファンである彼女は僕を付き合わせる。なぜかチケット代は僕もちというのが腑に落ちないのだが、仕方がない、今日はおとなしく言うことを聞いておこう。


 待ち合わせ場所のアーケード内の噴水広場に着いた僕は、きょろきょろと辺りを見回すが彼女の姿はない。


 よかった、まだ来ていないようだ。今日は僕の勝ちだ、メシは彼女のおごりに決定。これは僕たちが付き合ってからずっとルールにしていることだ、互いにいつまで経っても遅刻癖が抜けない二人だったから。


 一年前に完成したショッピングモールはこの噴水広場を中心に放射状に施設や店舗が広がり伸びる。まあちょっとお洒落になった商店街といったところだ。


 この噴水前に映画館と並んで洒落た催事場があり、期間ごとに歴史物の展示や地域の特産物展やフリーマーケットや絵画展などをしている。どれもいつも大したものではないのだが、映画の待ち時間の暇つぶしにぶらつくにはちょうどいいので重宝している。


 今は写真展をやっているようだ、入場無料だし彼女が来るまで少し見てゆくか。それにしてもこんなへんぴなところでやるなんて、売れてない作家なんだろうな。


 とはいえ、この業界ではプロの作家でも名が通っていなければ個展を開いたところで大抵入場料なんて取れはしない。


 なによりお金を出して場所を借りてという自腹がほとんどで、立地のいいちょっと名の売れたギャラリーなんかで個展を開こうと思っても、自前の機材の維持だけでヒィヒィ言っているビンボウ作家の財力ではまず無理だ。


 入り口に簡素な受付を構え写真集を積み上げて座っている、この展示作品の作家と思われる男は色黒で見るからに品性のない無精ひげと、色あせたジーンズ、薄汚れたよれよれのTシャツを着ている。


 名も売れてないセミプロってところだろうか。男が軽く会釈したのが横目に映ったが、僕はその男と顔をあわせないように無視して入場する。


 作品はモノクローム中心のスナップ写真が中心だ。何の気なしにぶらぶらと覗くように眺める。


 古びた町並み、工場跡、瓦礫の山、少年と少女が手をつなぐ後姿、車のリアウィンドウをすかして見える商業ビル街、誰もいない街道、老若男女が入り混じった謎の雑踏、不自然に無数に並ぶ車列、崩れた建造物、それらにはどこか硝煙の匂いがする。


 この作家は何を訴えようとしているのか、個展のタイトルを見ておけばよかった。しかし、ありきたりなどこにでもあるような風景に見えて、どこか非日常で緊迫した鬼気迫る作品に、僕は引き込まれてさらに奥へと歩みを進める。


 展示の趣向だろうか、作品は観客を日常から非日常へと誘うかのように並べられているように思えた。どこかの街だったはずだ。どこかこの国の風景だったはずなのに、今僕の目の前に広がっている写真のパネル群はもはやただの風景を逸脱して何かを騙りかけている。それらにテロップらしきものは一切なくとも強烈なまでのメッセージを突き付けていた。


 これはどこか海外の紛争地なのだろうか、テーマが見えない。


 迷路のようにパーテーションが入り組んだ会場に点々と並べられた作品、順路は限定されており、会場の奥へと誘うように展示されていた。


 そして、その一番奥に彼女の後姿をみつけた。


 ノースリーブの白いワンピースに、いつも肩より少し長い髪を簡単にゴムで後ろにまとめているだけなのに、今日はきれいなポニーテールを結っている。一瞬見間違うところだった。


「ああっ、やられた! なんだ、きてたのかぁ、どうした? 今日は随分……」


 僕がそう声をかけた彼女の背中越しに、ひときわ大きな写真があった。


 荒々しい粒子の暗い背景になまめかしく浮かび上がる中心の人物を捕らえたもの。一瞬僕の心臓はドクンと大きく波打ち、数秒止まったかのように感じた。




 瓦礫の中に横たわる少女の傍らに、一輪の花を携えて両膝をつき、うなだれる薄汚れた衣服の少年。


 僕は。


 君に。


 花を。



 僕はこの少女と少年を知っている。


 僕は、その花の名を知っている。


 そしてあの受付の男も。


 僕は、あんなにも大事なことを今までずっと忘れていた。記憶に蓋をして、そのものをけして誰の目にも触れない場所へ隠していた。



 突然大粒の涙が僕の視界を奪う、歪んだレンズの向こうで彼女が困惑しながらも僕を振り返り、一瞬戸惑いを含んだ微笑みを向けたのが見えた。


 僕はゆっくりと写真に歩み寄る。しかし呼吸が激しくなり、それ以上歩みを進めることができず、苦しみのあまりその場に膝をつく。


「なんで……どうして……?」驚いて駆け寄ってくる彼女の声が、宙をむなしく漂い遠くに吹き飛んでゆく。


 モノクロームの風景を染め上げる悲しみの渦が、ただただ広がってゆく。僕の全ての感覚を遮断し破壊するかのように。


 両拳をきつく握った力は逃げ場を失い肩を震わせた。


 嗚咽をあげ、土砂降りの中をさまよう僕は彼女の柔らかな胸に抱き寄せられる。もう何も聞こえなかった。


 日に焼けた彼女の肩を伝ってとめどなく雫が流れる。


 彼女はやさしくそっと僕の頬をなでてくれた。


 その手はいつもと同じように、かすかな花の香りがした。




「……きれいね、ありがとう」彼女は最期にこう言ったんだ。

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