第15話 「池の中の魚」

 僕らはもう少し考えなきゃいけなかった。あんなことになる前にもう少し、問題意識をもって考える必要があった。


 国民は自国が領有権を主張する竹田島を隣国に占拠される現状に、口で批判はするものの状況打破へのきな臭い行動、つまり紛争を望むことはなく、話し合いで解決する国際司法裁判所への提言を求めた。


 だが、国際世論とはこの平和な国が望むほど寛容で優しいものではなく、実効支配もまた実績であるという見方をする傾向も否めない。つまりは何十年もの間、その不当に占拠されると主張しながら、危機を放置してきた側にもそれなりのスタンスを示さなければ、いくら歴史的な認識を持ち出しても説得力が薄いというわけだ。


 ちなみに、類似のケースに北方領土の問題があるが、これは先の大戦下、終戦の折になし崩し的に軍事占領さ れた経緯から、終戦講和直後から当該国との折衝が行われている。完全に“放置”してきた竹田島とはケースが異なる。


 高度経済成長を経て、冷戦を経て、世界の勢力図が書き換えられる中、もはや戦争という言葉は死語となりつつある、といった幻想はあくまでこの国の人間のみの盲目的希望であった。


 先進国でありながら自国のビジョンを持たず、自らで道を切り開くことをしない国民性を国際的に非難されることもしばしばであったが、なにより世界一平和な国は同時に他国の追随を許さないほどの経済大国であることが、竹田島の一件を含む国が抱えるフラストレーションを見て見ぬふりに追い込む結果となった。


 北岸竹田島紛争(通俗名 北岸戦争)は同年九月十四日をもって終戦。日ごろより想定されていた隣国の強襲揚陸作戦に対する国防軍の近代兵器を駆使した迎撃作戦により水際防衛に成功、敵勢力は我が国の国土に足を踏み入れることなく戦力を消耗し、要塞化された竹田島への撤退を余儀なくされ、まもなく終戦協定が結ばれた。


 竹田島の領有権に関して国際司法裁判所は隣国の主張を退け、国際世論は歴史の捏造と情報操作を繰り返す隣国の姿勢を厳しく批判した。


 この事件後国内保守派は国軍の強化、同盟国との連携をより密なものとすることを求める声が強まりを見せたが、現矢部政権は周辺国家の不安を煽るなどの懸念から今後の課題として据え置くとし、国防軍は改めて「健全な独立国家における自主的な軍事抑止力の保有継続の必要性」を証明したにとどまった。


 戦争が終わってからマスメディアを始め周囲ではひとしきり自国の無事を喜び、戦争の恐ろしさについての記事やニュースが話題になり、外交への関心が高まっていった。


 今僕が感じているようなことが、この国の中のあちこちで話されていた。一つの戦争をきっかけにして、少しだけこの国は変わった。


 実際のところ戦争といってもほとんどが海上での迎撃戦で、敵の上陸は許さなかったわけだから、当然北岸からはるかに離れたこの南辺の町に何か戦傷があったかといえば皆無だった。夏期講習は変わらずあったし、入学試験もつつがなく行われた。


 早くも高校三年の夏を迎えていた。

 中学三年の夏を思い出す。

 あの頃は皆、受験一色で、進学の事しか頭になかった。けど再び人生の岐路に立たされた今、少し状況が変わっている。


 けして進学だけではなく就職を望むものの割合がぐっと増えた。中には大学進学をやめて国防軍に入るというやつまで現れた。あるいは看護師の資格をとるために看護学校に行くという者も。あの戦争が僕らにもたらしたものは何だったのだろう。


 事実、若い自分が使う事も使ったこともない健康食品の飛び込み営業よりも安定した給料と、喉元を切りつけられるタクシードライバーよりも安全で、薄給で老人のために延々とこき使われる介護ヘルパーよりも自尊心が保てる国防軍の兵士は、この三年で人気の職業になった。


 ただ情報を注ぎ込まれるだけの空っぽの器のような僕らが、少しだけ変わったことは良かったのかもしれないとは思うけど、僕自身はこれといって先に望む何かを見出すことが出来ないままだった。単純に目標が見つかったやつがうらやましくも思いながら、進路調査の用紙を前にただため息をつく毎日だ。


 提出期限はとっくに過ぎている。僕は何がしたいんだろう。


 先日、相変わらずビールを飲みながら戦争関連の番組を見て父はこんなことを言った。父は若いころ、海外の戦争をニュースや新聞で見て戦場ジャーナリストに憧れたのだそうだ。その告白は今のお堅い役職からすると相当意外だった。


 今から約三十三年前、合衆国による途上国内戦の紛争介入から泥沼化し五年間もの間混迷を極めた大規模な近代戦があった。それは今でもテレビのドキュメンタリー等で語られることは多いし、映画化されることも少なくないから、世代ではない僕らでもビジュアル的にはリアルな絵として想起できる。


 その戦争の記録が多くの鮮明なフィルムで残された背景には、当時マスメディアというビジネスが確立し、その意義が重要視され始め第三の視点として機能することが迎合されたことによる。


 戦場報道という現象はこれまでの“戦争は国家間の紛争”といった視点から“人類全体が危惧すべき問題”というスタンスを間接的ではあったが生み出すことになり、世界中の人々がよりリアルに戦争という事実を受け取り、多くの都市で平和運動や反戦運動が巻き起こった。結局世論に抗しきれなくなった戦争当事国政府が戦局からの撤退を余儀なくされ、終戦に向かったという人類史上稀に見る美談を作り上げた。


「戦地を駆け巡り死に物狂いでシャッターを切りまくり、そいつを世界に発信するんだ。世界が俺の目を通して現実を事実を真実を垣間見る、そこにはちょこっと都合の悪いものも写っていたりするもんだが、なあに事実は事実、権力に屈してはジャーナリストは失格、そんなアナーキーな美学ってのがあったのさ」


 僕はそれに対しては判らない事もなかった、男にとってはそれが何であれ、冒険心というか、真実を追い求めることに美学を持ちたがるのは確かだ。


「今は諦め顔で淡々と戦争ってもんが始まっては終わる、別に俺は血なまぐさい戦場を見たいわけじゃないが、市民は普通の生活を限りなく犠牲にせずに空のかなたのほうで戦争っていう外交が行われているだけのように捉えている。現に俺たちは危惧こそすれど毎日の晩酌を欠かすこともなく、酒席であれこれ言っている間に戦争は終結している。戦場ジャーナリストが語るまでもないほどの迅速さでな。戦争行為が単なる手段だってことに気が付いちまったからだろうな」


 さも、自分がジャーナリストだったかのような口ぶりだが、東西の勢力図が確立してから以降戦争は起こることなく平和な世の中が続き、父は普通の商社に就職し、いつしかそんな夢も忘れていたという。


 血なまぐさい戦場。


 今でもあの記憶が事実だったのかあやしいほど、僕の脳には薄くしか印刷されていない。開戦から三日後にあたる夕刻、なぜか僕は何一つ持たず北岸の山鍋市という街の駅前に立っているところを保護されたのだ。


 当時記憶にない眉の怪我を見て両親は心配し、僕に精密検査を受けるように促した。僕は咄嗟に、白昼夢のような薄いあいまいな記憶をここで話してはよけいに怪しまれると考えて黙ってそれに従った。


 医者からはストレスによる一時的な記憶障害だと診断されるにとどまり、僕は程なくしていつもののどかな受験生活に開放された。


 事実三日間ほどの間、どこで何をしていたのかという記憶が一部を除いてすっぽりと抜け落ちていた、覚えているのは北岸で見た血なまぐさい戦闘の様子だけ。夥しい量のがれき、衣服が乱れ動かなくなった女性、血を流し悶える男性、ただ蹲ってむせび泣く老人。行くあてもなく泣き喚き彷徨う子供。


 あとになって当時の新聞や過去の報道を紐解いて僕の記憶に残る体験との符合を試みたが、ただただ徒労に終わった。


 もちろん僕がなぜそこにいたのかという理由はわからないし、証明するものも何もない。客観的な証拠を示せないということは、つまりそれは夢を見ていたと同義だと人はいう。


 無論それ以来何の異常もなく、体もぴんぴんしている。何事もなく高校受験にも合格し、今に至るのだから頭にも異常はなかったと言ってもいいだろう。


 三年もたった今ではあのことは夢だと思えるようになった。あるいは、こちらのほうが突飛だが、敵に本土上陸された竹田島紛争というケースのパラレルワールドに迷い込んだのだと。


 終戦後一年近く経って発表された公式な記録では、民間人死亡者は避難時などの混乱のなかで報告されたケースがほとんどで、その内は喧嘩による傷害致死が六件、老人の心臓発作が五件や交通事故が十件といったところ。


 まあ平時なら大きな規模の事件として取り上げられるだろうけど、戦闘による国防軍兵士の殉職者ですら三十名そこそこという、何処かの誰かが言っていた「スマートな武力的外交」と揶揄したくなるのもわかる。


 本当に、血なまぐさい戦闘はなかったのだから。一つの町が焼け野原になり多くの人死にが出た前世紀的な白兵戦闘という、僕が体験したことが事実ならもっと大きな問題になっているはずだった。

 そうでもなけりゃ、中学を卒業して安全確実な国防軍に入った奴らだって事実を知らされりゃ尻尾を巻いて逃げてるはずだ。


 それから僕は夢というか目標のようなものが定まらないまま、普通科の公立高校に入ってのうのうと高校生活を続けてきた。


 何か変わったことがあるとすれば十六歳の誕生日にすぐにバイクの免許を取りに行ったことくらいか。両親はやはり反対したが祖父にそのことを話すとすごく喜んで、自分の乗っていたバイクを僕に譲ってくれた。ただし夏休み一杯を祖父の家で過ごすという条件付きで。つまりは住み込みの漁師のアルバイトだ。


 だから高校一年生の夏休みは南洋の離島につめっぱなしで、新学期が始まったときには僕は誰よりも黒く、誰よりも逞しくなって、誰よりも成績が落ちていた。


 島では、時に漁を手伝いながら、時に海を眺めながら、何日も何度も祖父と話をし、いろいろと解った事がある。戦争があった後だから特にそんな話をすることが多かった。


 戦争の真実、その時代に身をゆだねるしかない人々の姿、狂気なる熱病、悲壮、現実に体験した者にしかわからない事実、現在教え伝えられていることとの相違。


 社会科の教科書には載っていない言葉が次々とつむぎだされた。永らく戦傷の癒えぬこの国にとって、六十年前の軍属の言葉に僕は改めて触れ、考えさせられた。


 話したくないこともあっただろう、しかし祖父は全てを僕に託すかのように、自分の先が長くないことを悟っていたかのように、全てを僕に伝えた。祖父が軍属だった時代の話は父もほとんど知らない、いや、話したくなかったのだと言っていた。


 だが、自分の孫がどういう形であれ再び戦争に触れなければならなくなった事実に、自らの責務を感じたのだそうだ。「人間は結局何年、何十年経っても変わらないが、何百年か経てば変わるかもしれんな」そう寂しくつぶやいて眠った祖父が小さく見えた。


 祖父が頑なに島を離れることを拒んだのは、解りやすい言葉で言うならば「組織に再び組み込まれることへの恐れ」からだった。自身の判断を見失い、自身を忘れ、社会の駒として、巨大な時計を動かすための歯車のひとつにはなりたくなかったからだと。


 自身の軍属時代を英雄美談としていた祖父だったが、自由奔放で快活なその言葉の裏には、ひた隠しにした深い後悔があることに気付かされた。だから僕には戦闘機の操縦士ではなく、整備士と語り続けていたのだ。


 誰も戦争なんてやりたくてやったんじゃない。誰も行きたくて行ったんじゃない。やらなくて済むならそれに越したことはなかったのだと。


 自分の家族と故郷を守りたい、その為にはこの国を守らなければいけないのだと、けしてそれを強制されたわけではない、そうすることしか出来なかったのだ。


 戦った相手国の兵士に対して悪いことをした、そしてその家族にも不憫な思いをさせた、しかしそれはお互い様なのだと。どちらが得をして損をしたという話ではない。どちらも正しくどちらも間違ったのだ。


 最後に祖父はこんなたとえ話をしてくれた。


 魚は川の流れに流されて生きているのではない、常に微力ながら流れに抗いながら安住の地を生涯をかけて形成し、子孫を残す。


 人も魚も、生れ落ちた瞬間から流されないように自己を保つ為に生きている。それのほとんどが苦痛に満ちていても、大抵は生きるささやかな喜びのためだと認められるだろう。だが、川が干上がってしまえばそんなものは全て吹き飛んでしまう。


(流れが変わったら抗う方向が変わる、だからわしは池に住む事にしたのさ。それは放棄だ、逃避だと言われても仕方がないがね)


 そんな風に祖父は言っていた。


 戦争に参加し経験した祖父と、戦争を事件として捉えた父と、戦争を歴史だと教えられた僕と。木田家に関わらずこの国のほとんど全ての家系がこのような認識の元で戦争と向き合ってきただろう。しかしそれは既に共通の認識を得られないことが確定しているばかりか、風化した古代遺跡から出土する不可解な物体の推察をする慣習に近かった。


 今や戦争を知る者は日々順を追って鬼籍に入ってゆく。残るのは事件という情報と、歴史という記録だけで、感情のような曖昧模糊としたものを残す技術を人類は携えていない。


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