第3話:下僕

「起きろ!」


 脳髄が蕩けるような甘い声が響いて、意識が覚醒した。

 けれどもその声をいつまでも聞いていたい気がして、瞼を閉じたままにする。

 

「い゛っ……」


 頭に鋭い痛みが走った。声の主に殴られたのだろう。

 これ以上に頭を殴られて脳細胞を殺されるのはたまらない。仕方がない、起きるとしよう。


「やっと起きたか。お前は自分の状況がわかっているのか?」


 真っ先に僕の視界に入ったのは丈の長い漆黒のワンピースを来た童女だった。

 夜の闇のような長い黒髪、黄金の瞳に整った顔立ち。舞い散る桜の中で夜歩く少女がフラッシュバックする。

 けれど、あの少女は中学生くらいだった。この童女はどうみても小学生の中頃くらいにしか見えない。

 別人――――いや、それにしては似ている。

 親族か?

 

「おい、人の話を聞け!」

「うっ……暴力はいけない……」


 童女が僕の腹を蹴りつけた。その際にスカートが思い切りに翻って、大人びた黒い透けた下着が見えた。

 中々の眼福だったけれど、これ以上に暴力を振るわれるのはつらい。

 僕は暴力が苦手だし嫌いだ。いい加減に素直に童女に従うとしよう。


 少しだけ顔を横にしてみると僕の手首が鎖に繋がれていた。

 そういえば四肢が冷たいし、背中に当たる壁の感触も冷たい。そもそも部屋が冷たい。

 見てみれば周りの壁は灰色のコンクリートで壁紙一つなかった。

 ナンカの映画で拷問されているスパイがいるような部屋だ。

 電灯もチカチカと不定期に光っている。


「最初から大人しくわたしの言うことを聞いていれば痛い目に合わずに済んだものを、まったく。

 ほら、名前を吐け」

「……名前は江戸川コ……いっ!」

「おい、次にふざけたら髪をむしるぞ、頭皮ごとな」


 童女にまた頭を叩かれた。

 ジョークのわからない子だ、それに舌を噛むところだった。

 そもそも何で僕はこんな状況になっているんだ。


「……名前は大神カオル。で、僕は一体どうして縛られているの?」

「ふん、お前がわたしの眼を抉ろうとしたからに決まっているだろう。マガンを狙う愚か者は昔からいる、眼だけを奪っても何の意味もないというのに」


 童女は呆れたように語った。

 けれど、ナンカ勘違いされている気がする。

 マガン、魔眼だろうか。そんなものは知らない。

 まぁ、眼を抉ろうとしたのはたしかだ。それほどに綺麗な瞳だったからある意味、魔眼といっても問題ないのかもしれない。

 ただ、僕が抉ろうとしたのはこの童女ではない。


「魔眼とやらは知らないけどさ。僕が何かをしたのは君じゃない。もう少し大人びた女の子だよ」

「今は力を抜いているから幼くなっているだけでそれもわたしだ」

「……ふぅん、人が力を抜くと幼くなるとは知らなかったね」

「わたしはバンパイアだからな――――おいっ、鼻で笑ったろう、今!」


 バンパイア、吸血鬼と突然に言われて嗤わないほうが不思議だとは思うけれど、また殴られたくはないから首を振って弁解する。

 嗤いはしたけれど、僕はそれほど彼女の言うことを嘘だと思ってはいない。僕が突然に意識を失ってこんなことになっているのがその証明だ。

 彼女が幻想の存在である吸血鬼だというのならば僕を刹那のうちに気絶させるのも容易いだろう。


「で、だ。わたしのことはいい。問題はお前だ、お・ま・え」 

「僕?」

「そうだ。お前が魔眼を狙ったのでないのなら本当の目的を言え。素直になれば苦しまずに死ねるぞ」

「え、死ぬの?」

「うむ」


 童女は微笑んで頷いたけれど、僕は微笑むことができそうにはない。

 というか、普通に笑い事じゃない。

 死ぬのは困る、何としてでも回避しなければならない。

 それに――どうせ死ぬのなら言いたいことがある。


「君が好きになったんだ」

「えっ」

「だから、君のことが好きだ。一目惚れしたんだ。僕と結婚を前提に――――いや、僕と結婚して、一緒に暮らそう」


 言い切った。初めての告白だ、少しだけ胸が高鳴る。

 簡素すぎる気がしたけれど、こんな状況だし無駄に盛るよりはマシだろう。

 シンプル・イズ・ベストという名台詞を僕は知っている。


 狙い通りに効果はあったらしく童女は顔を真っ赤にして固まっている。

 そんな彼女をじーっと見ながら僕は五分ほど返事を待っていた。

 とてもワクワクする。


「お、おおお、おまえ、助かりたいからって適当なこと言ってるな!」

「そんなことはないよ。僕は君のことが好きだ」

「な、なら、なぜわたしの眼をえぐろうとした! 好きな人にそんなことはしないだろう」


 これには僕は少し返答に詰まる。

 彼女の言う通り、普通の人はそんなことはしないのだと思う。

 それでも僕はしたくなってしまったのだから仕方がない。

 本能だ、強いて言うなら――――


「君の眼が綺麗だったから、どうしても手に取りたくなって、そうしただけだよ」

「むっ……」


 彼女は難しい顔をして押し黙った。

 この反応は予想外だった、また照れて顔を林檎のように紅く染めてくれるか、バカにするなと頭を小突かれると思っていたのだけれど。

 凄い――真面目に考察されている。そんなにおかしな発言だっただろうか?

 自分で言うのは何だけれど、少し洒落ていたとは思う。ただ、それだけだ。


「おい、本当にそう思ったのか? 他の人間にも同じ想いを抱くのか?」

「いいや、他の大多数の奴らの眼はむしろ嫌いだね」

「そうか、決めたぞ」


 彼女はそう言うと――口の端を上げてニヤリと笑った。

 そして僕の顎を小さな手でぐいっと持ち上げて、瞳を覗き込んでくる。

 視界いっぱいに広がる彼女の黄金の瞳には僕の瞳が映っていて、それは何だか悪い気分ではなかった。


「お前とは付き合ってやらんし、結婚してもやらんが、一緒にいてはやろう」

「何で付き合ってくれないし結婚してくれないのさ」

「お前のようなヘンタイは好みじゃないからな。顔はともかくとして」

「ヘンタイ?」


 よくわからない。

 僕は少し変わっているかもしれないけれど変態と呼ばれるほどに突き抜けてはいない気がする。


「その服、何だ」

「僕の高校のセーラー服だけど」


 マニアの間では高値で取引されているという人気のセーラー服だ。 

 このセーラー服を目当てに受験を目指す女子もいるほどらしい。


「なぜお前が着ている」

「趣味と実益を兼ねた衣装だよ、気にしないでくれ」

「……それは難しい相談だな」


 女装をして夜を徘徊している人間なんていくらでもいると思うけれど、僕としてはやめろと言われればやめる。

 そもそも既にこの行為に意味はない。女装は変装の一種としてやっているだけだ。

 僕に恨みを持つ人間から逃げるための物であって――バンパイアが横にいるのなら必要はないだろう。安心して武力で迎撃できる。


「とりあえず……わたしの下僕としてお前を使ってやるということだ」

「下僕?」

「うむ、光栄に思えよ」


 満面の笑みで偉そうに彼女はそう言い放った。

 良いニュースと悪いニュースを同時に聞かされた気分だ。彼女の下僕という部分は嬉しい。

 しかし、バンパイアの下僕というのはどうにも嬉しい気分にはなれそうにない。

 僕のそんな気持ちが表情に出ていたのか、彼女はすぐに咎めるような視線を向けてきた。


「おい、何が不満だ。返答によっては今ここで始末するぞ」

「いや、バンパイアになるのは嫌だなって」

「ん?」


 彼女はきょとんとした。

 そんなに僕は変なことを言ったとは思えないけど。


「くくっ、わたしがお前なんかを眷属にするわけはなかろう。偉大なバンパイアは無闇に眷属は増やさんものよ。それをやるのは三流だ」

「へぇ」

「それは置いておくとして、なぜバンパイアが嫌なんだ?」

「ん。だって、バンパイアって弱そうだし。老けないのは魅力的だけれど、それ以上に制約が多そうだしさ」

「ほ、ほう……」

「っ!」


 右耳を引っ張られて壁へと頭が押し付けられる。

 理由を聞かれたから答えただけなのに酷い話だ。

 彼女と一緒に暮らせるのは嬉しいけれど、このままでは僕の肉体が保たないような気がしてきた。何とかして矯正してあげないと。


「な、なんで、弱いと思った? どう見ても漫画とかゲームとかで強キャラ扱いだろ、なぁ? 真祖とか神祖とかよくわからんが超つよい感じだろ?」


 漫画とかゲームをするのか。僕としてはそっちのほうが気になる。

 偉大なるバンパイアは一体どんな生活をしてるんだ。


「おい、早く言え」

「……バンパイアって新参者でしょ? カーミラとかドラキュラとかさ……あまり歴史がないというか。近世ヨーロッパって感じの……だから、弱そう」

「はんっ! お前はほんっとにバカだなっ!」


 思いっきり見下された。

 背伸びをして足りない身長を補ってまで見下そうとしてくるその様は愛らしい。

 もっと罵ってくれても構わないくらいだ。


「バンパイアはそのずーっと前からいるわ! わたしだってそのずっと前から生きている!」

「君は何さ―――い゛っ」

 

 頭を壁に叩きつけられた。絶対にタンコブができている。

 年齢はバンパイアでも気にするものらしい。

 というか、年寄りという割にはとても子供っぽい。

 すぐ手が出るのは子供の特徴――でもないのか?

 老人はすぐ杖を振り回しそうなイメージがあるからなぁ。


「まぁ、もちろん今のバンパイア像とは違うし、バンパイアとも呼ばれてはいなかった。ざっくりと言えば生き血を吸ったり、死んだ後に蘇ったりする奴だな」

「へぇ。弱点とかも、じゃあ、違うの?」

「うむ。わたしはニンニクは好きだし、十字架も何ともないし、川も渡れるし、家にも入れるし、木の杭で打たれた程度では死なん。鏡や写真は場所や撮影者によるな。太陽はあまり良くない、というより昼間がダメだ。灰になったりはしないが能力が全体的にかなり低下する。そのくらいだな」


 僕が思っていたより弱点はないみたいだし、起源は古いらしい。

 うーむ、興味深い。


「じゃあ、長所は?」

「まず、高い身体能力だな! それに不死者と呼ばれる程の再生能力! もちろん老けないし蛇や狼や蝙蝠とも仲は良いし……魔力もすごいぞ!

 魔眼を所持している者も多い、もちろんわたしも持っている。どうだ!」


 彼女はドヤ顔で言い放った。

 けれど、個人的にはあまり魅力的ではないなぁ。

 僕は超人になりたいわけじゃあない。強い力を持つ人は得てして面倒事に巻き込まれるものだし。

 ただ、僕は幸せに人生を過ごしたいだけなのだから。面倒事はできるだけ避けたいものだ。 


 そんなこと考えていたら表情に出たのか彼女が睨みつけてきた。


「……おい、お前もパンパイアになりたいか? あ?」

「僕もバンパイアになりたいです」

「そうか。ま、わたしはお前をバンパイアにするつもりはない、残念だったな!」


 楽しそうに童女は高笑いをしていた。

 それはそれで目の保養になるから良いのだけれど、いい加減に四肢が痛い。

 ズキズキする。

 

「おっと、そういえば忘れてた」


 そう言って彼女はティッシュでも破くかのように鉄製の枷を捻じり切っていく。

 その目を疑うような光景は彼女がバンパイアだということを強く裏付けるものだった。


「よし、お前にわたしの名前を教える前に確認をしておく」

「確認?」

「うむ、お前は下僕になるということはわたしの物になるということだ」


 彼女は壁に寄りかかっていた僕に詰め寄って続ける。


「裏切ることは許されないということだ。ご主人様には絶対に服従、わかったか?」


 そう言った時の彼女の瞳は――左右に揺らいでいた。

 自信がない、不安に苛まれる者の目だ。


「わかったよ」

「よし!」


 僕の返事に彼女は満足気に頷いた。

 裏切るつもりは本当にない、好きな子を裏切る理由なんてないだろう?

 少なくとも僕はそうだ。


「わたしの名前はさくらだ。ご主人様とかマスターとか師匠とか呼ばなくていいし、様もつけなくていい。特別だぞ」

「わかったよ、さくら」

「うむ、行くぞ」

 

 少し気恥ずかしさを覚えながらも名前を呼ぶと、さくらは嬉しそうに笑って、歩き始めた。

 僕も遅れて歩き始める。さくらは小さいのに歩くのが早くて、僕は何とか横に並ぼうとした。

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