第2話:出会い


 春、四月の始まったばかり。

 僕は桜が散ってしまう前に花見をしようと丑三つ時の街を歩いていた。

 昼間にすればいいじゃあないか、そう言われるかもしれないけれど、人の少ない静かな夜の時間が僕は好きだ。

 昼は不快なものが多すぎる。


 そうして僕は、木の下に死体が埋まっていると錯覚してしまう程の綺麗な桜が並ぶ通り道を歩いていた。

 桜が散り始めていたのに加えて、風が強いものだから、雨のように桜の花びらが舞っている。

 雲一つない漆黒の夜空を背景に、街灯の光を浴びる桜雨はとても幻想的で綺麗だから、僕はしばらくの間、道路の中央でそれを浴び続けていた。

 この時間、車が滅多に通らないことは下調べが済んでいる。


 そうして三十分も経った頃、静かだった空間が異音によって乱された。

 コツコツコツコツ。

 革靴の音だ、こちらに向かってくる。音が軽いから相手は女性だろう。数は一人。

 どうしてか僕は恨みを買うことが多い、だから人の足音には敏感だったりする。

 

 いつもならば立ち去るところだけれど、今は桜をまだ見ていたい。

 バリツを使う探偵ほどではないけれど、少しばかりの護身術の覚えならあるし、武器も持ってきている。

 素人の不審者が一人なら何とかなるだろう。

 僕は桜を見続けながら足音の主を待つことにした。

 

「……っ」


 そうして僕の前に現れたのは非日常の塊だった。

 サーチライトのような街灯に照らされて、踊るように優雅に歩いてきたのは少女。

 僕より年下だろう彼女は完璧に整った顔立ちに透き通るような白い肌、夜の闇に溶けるような漆黒の髪は腰に届く程に伸びている。

 そして何よりも綺麗なのは満月のような黄金の瞳だった。舞い散る桜が映るそれはどんな宝石よりも価値があるに違いない。


 そう、彼女の魅力は空間を支配していた。幻想的で綺麗だった桜の花びらも、彼女の装飾の一つに成り下がっている。それほどに人外的な魅力があった。

 思わず呼吸も忘れてしまう。


「はぁっ……はぁっ……」

 

 そして僕の心臓は痛い程に高鳴っていた。息が苦しい。顔はお湯が沸かせる気がする程に火照っている。

 初めての経験だ。頭も脳髄が茹ったみたいでまともに思考が働かない。

 僕の今までの人生で最も刺激的で衝撃的な経験だ。

 たぶんこれが恋なのだと思う。僕は今までに人を好きになったことがないから、わからないけれど、何となくにそう思った。


 ――――だけれど、僕の初恋の相手は僕を見ていなかった。

 漆黒のワンピースを揺らしながら、少女は僕なんてまるで存在しないかのように夜を歩いていた。

 

 せっかくの初恋なのだから、声でもかけたい。相手がこの少女でなければ声をかける程度のことに僕は何の躊躇いも覚えなかっただろう。


 僕の口を閉じさせたのは脳髄が発する警報だった。

 明らかに危ない、こんな美少女が深夜に出歩くのか?

 という問題もあるし、そもそも彼女が人間の女の子なのかも怪しい。

 何故なら――――影がない。

 街灯の光が強く彼女を照らしているのに、影が少しも発生していない。

 おかしい――これは目の錯覚じゃあない。

 だって、同じ光を浴びている僕の影はある。

 化物だ。関われば確実に僕の命は危険に脅かされる。遊びじゃ済まされない。絶対に足を踏み入れてはならない危険地帯。

 

 けれど、けれど、今を逃したらもうこんな出会いはないだろう。

 もう二度とないチャンス。これに命を賭ける価値はあるか? 

 ……ある。あるはずだ。

 僕の脳髄は少女の魅力を浴びてしまった。もうこれから出会うすべてが色あせて感じるかもしれない。いや、そうに違いない。

 そうなれば僕はこの出会いを逃したことを一生悔いるだろう。

 悔いるような人生は幸いとは言えない。そうだ、ならば行くしかない。


「――――っ!」


 少女が歩き続けて、僕の目の前に辿り着いたとき、僕は宝石を掴むかのように彼女の瞳に手を伸ばした。

 何か理由があって手を伸ばしたわけではない。

 挨拶でもしようと思っていたのに――――どうしてだろう。

 もしかしたら食虫植物に羽虫が飛び込むように、本能で動いてしまったのかもしれない。

 けれども、僕はこの行動を一生後悔することはない。

 

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