10

 辛いし苦しいし憎い。そんな感情をぶつけられるのは悲しいし、逃げ出したくなる。世界は広い。わざわざ傷つけようとしてくる不快な人の前に立つメリットなんてない。自分にとって大切な人は、自分で選ぶべきだろう。だから、ヴィーの指示に従ってここから逃げるのが一番賢い選択のはずだ。でも、騎士団の人たちやイースも、自分にとって大切な人なのだ。見捨てて逃げても誰も責めないだろうし、人間の感情は磨耗していくからそのうち俺自身の罪悪感も薄れてしまうのだろうけど……それでも。ここにいてください、とだけ繰り返す彼の前に立つ。

 手を伸ばす。



 「おい、ノーチェ?」

 「ちょっと、調べるだけだから」



 ここにいてください、と呟く彼の頬に触れる。仄かな暖かさ。生きている人間となんの遜色もないし、俺がここにいると言いさえすればハームキアは今まで通り麦の名産地として変わりなく穏やかな毎日が始まるのだろうか。


 頬に手を添えて、ゆるく吸われていく力を意識しつつ、うつろな瞳を覗き込む。んー、あ、いけるな。瞳を合わせたまま額を相手にコツンとくっつけた。どうせやるなら美人のお姉さんがよかった、こんなおっさんじゃなくて。言っても仕方ないけど。



 「アドルフ、この村に何があったのか、見せなさい」





 初めは子供だった。美しい緑の草原が広がりる小さな村で、晴れやかな青空の下、子供の手足が黒ずみ、やがて腐り落ちる。痛い痛いと泣きながら死んでいき、半狂乱になった若い母親が川に落ちて溺れ死んだ。悼み親子の葬式を始める前に、今度は倒れ幻覚を見る人、激しく痙攣し嘔吐して窒息する人、同じように手足の末端が腐り落ちていく人が次々と……流行病かと協議の末、隔離して死体を火に焼べても止まらない。

 やがて病は家族にも及んだ。妻が遺した息子のディルクが虚空を見据え悪魔がやってくると叫び怯える。幻覚を見ているのだろう、自傷に走るので押さえつけるものの、息子とはいえ成人男性だ、年を取り始めた自分には辛い。

 暴れるディルクに腕を蹴られてたたらを踏む。ぼとり、と何かが落ちる音がしたので何かと見てみると自分の指だった。とうとう落ちたか。すでに感覚のない真っ黒になってしまった残りの指を見る。手首のあたりが燃えるように痛い。涙は出ない。痛い。苦しい。寒い。熱い。死にたくない。


 もう、どうにもならない。


 ガリガリと自分の顔をかきむしるディルクから目をそらし、窓の向こう、幾つかの死体が重なり落ちる手前に、女の子が立っている。ふわりと広がるピンク色の艶やかな髪。あんな子が、この村にいただろうか。元気そうで妬ましい……あの子だけ、なんであの子だけ無事に綺麗なまま立っているんだ憎い許せないお前も苦しんで死ね!


 声に出ていたかもわからないが女の子が振り向く。空より深く煌めく青い瞳が、自分を……


 自分ではない、アドルフを、見たのだ。



「……見たことが、あるような」

「何かわかったのか」



 いつでも切り捨てられるように、剣をアドルフに向けているヴィーが聞いてくる。

アドルフには見えていなかったようだが、あの女の子はは恨みや妬みや苦しさのような感情を、自分のもとに集めていた。めんどくさそうな顔をして、ゆっくりとゆっくりと。地面に染み込んでしまった怨嗟を集めて貯めて……あ、そう。この、地下に。



 『そう、貯めたの。頼まれたから応えたのよ』



 軽やかに声が響く。ヴィーが息をのむ気配がしたから、聞こえたのは俺だけじゃない。



 『アドルフは、この村のの日常がずうっと続いて欲しかったみたい。なら、村人を再生すればいいと言えば飛びついたわ。……もうだいぶ再生できた。村人の三割は生きて動いている。この世界の法則として、無から有は生み出せない。村人の怨嗟は、村人全員を再生するには足りなかった』



 「だから、植物からも力を抜き取った……?」



 奇妙に空っぽで、食べても満たされない果物たち。



 『正解!枯らすほどに抜いたらアドルフの願いである変わらない日常は満たされない。だから枯れないギリギリまで。でも、そうね。愛し子一人と元気な成人男性

15人。死ぬまで吸い尽くせば残りの村人全員、揃えられると思うわ……だから』



 ぱちくり、と笑えるくらいキョトンとした顔でアドルフが瞬く。にっこりと笑ってお願いします、と呟くや否や形が崩れてぱしゃりと液体に戻る。まずい。ぐっとヴィーを引き寄せて、腹の辺りをすくい上げ肩に担ぎ、言葉にならない声をあげるのには構わず、走る。ヴィー一人くらいなら軽いものだ。間に合え、とまっすぐで暗い道を走り、残してきた騎士団の人たちが目に入るところまできた。円形を組み、中心に顔をこわばらせて立っているのがイースだ。皆外を見てじわじわと流れてくる黒い液体をみ睨みつけている。剣で牽制しているが切れない上に触れたらアウト、結構手詰まりだよ、ねっ!


 足を踏み出すのに合わせてぐっと力を練り上げ、散れと念じながらとろり、とレンの近くに流れてきていた液体に向けて投げた。ばしゃりと弾かれたように液体は後退する。



 「ノーチェ!ヴィヴァルディ……なんですかその情けない格好」

 「知る、かっ!ノーチェがいきなり……」

 「急がなきゃいけなかった、から」



 駆け寄ってヴィーを降ろす。

 手短に状況を伝えるために、大きめの声でレンとヴィーに言った。



 「流行病かなにかでこの村の人は全員死んでる。死ぬ前に、死にたくないって思って、誰かがその想いに応えて蘇生させてる……本当に蘇生させてるのかはわからないけど人格は再現されてるみたい。死ぬまでの記憶もしっかりある。力が足りないから、俺たち全員分の力を吸うつもりになってる。吸い尽くされたら死ぬ、ここで核になってる想いの凝りを散らすしかない」


 痛みや幻覚に対する恐怖や、そういったものが集まってるからこそ、ここまで大事にできたんだろう。アドルフの記憶にあったあの少女は、そこにある力を操ってはいたが、自分から何かを発してはいなかった。


 死ぬことに対する恐怖や、病の苦しさ、無事で健康な人に対する妬心なんかが集まって形をとるだなんておぞましい。散らせるなら、散らそう。俺一人でやりたいかといわれると微妙だけど、今のこの状況で躊躇してもいいことなさそうだし。



 「ノーチェ、無理は……」

 「したくないけどしなきゃいけないならする」



 いきなり覆いかぶさるように持ち上がった液体を避けるために、意識して力をドーム状に広げた。結構吸われる感覚があるし、吸われたぶんで液体から村人……モドキが生み出されるのだと思うといい気はしない。目をつぶって、光によらない感覚を広げていく。周りを取り囲む黒い液体、吸われていく俺の力、吸われた先にある核といえるような塊。さっきまでの、勢いよく流し込んで散らす感覚を思い出しながら、俺自身にも意識を向ける。

神殿で、カルサーに教えてもらったあれこれ。自分の心の中に箱を作り、そこに力をしまい込みなさい、しっかりとふたを閉じて。人目があれば丁寧に、なければえらくざっくばらんな口調で繰り返し言われた言葉だ。ありがとう、先生。あなたの教えてくれた通りに、俺の中には箱ができてる。



 「ヴィー、レン」

 「なんでしょう?」

 「なんだ?」



 目を閉じたまま呼びかけたら、すぐに二人が返事をしてくれる。過保護だなぁ、と感じていたけれど、こんなことのある世界なら過保護ってわけでもなかったのかな。



 「団長さんか、カルサー……たぶんカルサー、さま、のほうが後始末には向いてる」

 「いきなり何を……」

 「俺は、ほかの愛し子を知らないから。愛し子じゃないと、いろいろわからなくて大変、風蛇騎士団だけだと……ちょっと眠くなりそうだから、説明はお願いします」



 優秀な騎士団の人たちなわけだし。黒い液体さえどうにかしたら事態を収拾するだろ。実体はない、けれど確実に俺の中にある箱のふたに手をかけて、一気に開け放った。散らすだけだと生ぬるい、飲み込んで、すべて上書きしてしまえ、存在を許すな――!






 「お兄さん」



 ふんわりとピンク色の髪に、きらめく青い瞳。ああ、アドルフの記憶にあった少女だ。



 「ええと、うん。君が……作ったの?」

 「そう望まれたからよ。お兄さんは邪魔をするのね」

 「だって、みんなを傷つけようとしてた。俺は俺で、仕事で国を巡らなきゃいけないし……なんか、不自然だ」



 ふぅん、と唇を尖らせて少女はそっぽを向く。



 「消しちゃうのね?彼らは必死で、あとがないのに」

 「必死であることは、他人を傷つける免罪符にはならない、と思う」

 「貴方がそれを言うの?」



 ぷー、とわかりやすくほほを膨らませる少女はかわいいし、なぜか敵対する気にはならない。すごく怪しいんだけど。というか、俺あの黒い塊を消そうとしたところだったじゃん!どうなったのさ!

 慌て始めたのに気付いたのか、少女はため息をついてこちらをしっかりと見上げて口を開いた。



 「お兄さん。あの黒い塊を散らして消すくらいならあなたにはたやすいわ。失敗なんてしない。ねぇ、でも、黒い塊だけでいいのかしら?」

 「何を言いたい?」

 「薄くどこかに存在する『黒』を、消してしまうなんてどうかしら。世界から一掃することだって、お兄さんならできるのよ」

 「すべて?」

 「ええ、すべて。悲しみも苦しみも何もなくて、みんながいつまでも幸せに暮らせる世界にしない?」



 幸せに暮らすの、温かくて優しい人々に包まれて永劫を。




 響く声に目をつむった。きっと幸せなんだろう、だって負の感情が存在しないのなら幸せ以外の感情などないわけだし。きっと、とてもとても楽しく、ヴィーやレンや団長さんやカルサーやエスター先生や、そんな人たちと、


 俺、の求めるものはそれだったっけ……?誰かほかにあいたいと思っている人たちが、いなかっただろうか。何か、忘れているような。何かをうっかり失念しているような。でも、忘れているなら大切なことじゃないのかもしれない。……忘れていても、生活に支障はきたさないくだらないことなのかもしれない。



 「悲しみか苦しみか何かで、死ぬほど後悔するようなことがあったら、そうするかもしれない。……この村の人たちは苦しんだ。死んだ後も苦しい感情を抱えて餓えていた。俺が世界から死を奪えばこんな人たちは今後生まれないのかもしれないね。でも、俺は、それは嫌だと思う。……なにか、あったはずなんだ。俺にも、なにか、悔しいとか悲しいとか、怒りとか、そういうものを感じさせた何かが。それを思い出すまで、消せない。そのために、どれだけの人間が悲劇に見舞われても」



 温かく大切に優しく接してくれるみんな、ごめんなさい。




 ひと肌程度の、緩やかなぬくもりが心地よい。流れ込んでるのは熱だけでなく、心を落ち着かせるなにかだ。かすかに感じる乾きを、さらに遠ざけていってくれる。体の芯から冷えているようなこわばっているような、そのこわばりが徐々にほぐれていくような安堵。

 ほぅ、と軽く息をついた。大きな掌がゆっくりと頭を撫でて、柔らかく唇が開かれ甘く滋味にあふれたものが流れ込む。



 「ん……」

 「起きましたか?」

 「……ええと、はい」


 鮮やかな、それでいて濃い青。夜明け直前の空の色だ。


 多少ぼやけたような視界に誰だっけ?と思っているとゆっくり唇を合わせられる。甘く濃いものが流れ混んでこくりと喉がなった。


 「まだ、少しぼんやりしてますか。初めまして、私は青の愛し子、名はルーテントリスです。頑張りましたね、ノーチェ」


 そうだった。俺の名前はノーチェで、さっきまで、ええと、そう、ハームキアで、不気味な黒い何かに相対していたのだ。

 ぼんやりしている場合じゃない跳ね起きると頭の奥に軽く痺れるような痛みが走る。


 「ヴィー!レン!」

 「あ、落ち着いて大丈夫ですから。おーいノーチェさーん。おにーさんの言うこと聞こえてますかー」


 大丈夫なんだったら会いに行って良いよね!?なんかあっちに二人ともいるような気がするんだ、ってあれ?団長さんとカルサーも近くにいる?


 何がどうなってるんだ?ってかここどこだ!ばしゃり、と顔に冷たい水がぶつかる感覚、その後ちゅるるとさえずり髪を引っ張る。痛い痛い痛い……さくらさん!



 「……え?さくらさん?」

 「さくらさんが今回一番の功労者かもしれませんねー」



 落ち着きました?とかなり短い瞳と同色の藍色の髪をぽりぽりと掻きながら、もう一度自己紹介しときますね?と男性は言った。


 「ルーテントリスです。よろしくお願いしますね、黒のノーチェ」

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勘違い珍道中 海津木 香露 @kaitugi

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