傘を持たない雨の夜

丹路槇

傘を持たない雨の夜

 終演から五分後、ロビーは既にエレベーターを待つ観客であふれかえっていた。成人して二年経った今も小学生みたいだと揶揄われている身丈をいっぱいに伸ばして、廊下の奥にある鉄扉を必死で探す。折り重なるひとの頭の間からのぞく非常灯の緑色をかろうじて見つけたが、今は到底そちらへ渡ることができない。

 前に進めなくなってから身動きが取れずに焦れていると、後ろから肩をつつかれた。

「あ、八木崎さん」

 先輩の顔を見つけて思わず安堵の声が出る。私の頭よりも上に肩がある八木崎さんは、毛足の短いはっきりした眉を訝しげに上げながらこちらを覗き込んだ。

「帰るの、荒井」

「あ、えっと、いや、楽屋に挨拶行こうと思ったんです。でも、お邪魔かも」

 そう答えながら、紙袋ごとトートバッグに入れている差し入れが果たして開演前と同じ状態を保てているのかが心配になり、咄嗟に持ち手を開いて中を確かめる。薄茶の紙袋は角が折れてほど良くくしゃくしゃといった感じ、でも一応、本体は無事のようだ。和食が好きな先生のためにデパ地下で選んだふりかけが中に入っている。軽くて嵩張らない、日持ちもするから安心。ナマ物を手土産にする時は、特に花束が嫌いな男性奏者は意外に多いのでリサーチは必須だ。

「邪魔っていうか、見に来てる学科生、打ち上げこいって言ってるよ」

「えっ」

「えっ、って」

「……誰がですか」

「そんなの、ナオに決まってるだろ」

 ほら、と促されて、そのまま鉄扉の方までむりやり歩かされる。楽屋に入ると既に演奏者たちは撤収した後だった。空の通路を抜け、楽屋口から外階段へ出る。

 8階の店舗に併設されたヴェルデ楽器のコンサートサロンでは、隔月で管楽器奏者のリサイタルが行われていた。バロックからコンテンポラリーへ。BtoCと謳われたテーマに演奏会はリレー方式で、前回の奏者が今回の、また今回の奏者が次回のプレイヤーへバトンを繋ぐ形式になっている。あくまでも演出として、ということだろうが、誰が相手でも大抵は顔見知りという、狭きクラシック演奏家業界だからこそなせる業だ。

 今日はフルート奏者の姫宮尚宏さんのソロリサイタルで、客席から彼の演奏を聴く機会はこれで三度目になる。音大のフルート科を受験する前から何度かレッスンに通っている私にとってのはじめの師であり、いつかこうなりたいと思っている〝生きる憧れの人〟だ。海外の名演奏家や往年の天才たちの数々の演奏はもちろん動画でたくさん見たけれど、目指すものが目の前に存在しているという実感は、努力するうえで最も必要なことのひとつだと思う。

 実際、今日の演奏もとんでもなく素晴らしいものだった。もともと歌うように楽器を吹く人だが、二部構成のリサイタルに緊迫感は微塵もなく、観客がまるでここへ休憩しにきたと思わせるような、悠々とした時間をつくり出していた。

 明るいステージにひとり立ち、譜面も置かず客席との間に何の隔たりもない所で、とりとめのない話をしながら、その合間に楽器を吹く。楽譜は数世紀前の近代曲なのに、つい今しがた会話に出たばかりの、数日前に起こった彼の散歩道での出来事と連関しているように聞こえるのが面白かった。

 特に二部での姫宮さんは、リラックスしているというよりも、やや浮足立つような楽しさが溢れたという様子で演奏しているように思えた。ピアノ伴奏の人も終始黙ってお喋りを見守っているし、彼が吹き始めると焦る様子もなく自然と音を合わせていく。器楽ソロで伴奏するひとはなんとなく女性ピアニストが未だに大半を占めている印象だが、その日は珍しく男性奏者だった。プログラムの略歴には、現在はバレエ団のレッスンピアニストの傍ら、オーケストラピットの指揮代行を行っていると書かれている。木管の学科出身の先輩であれば大体の名前や世代を把握していたが、毎年各大学に膨大な履修生がいるピアノ科は完全に未知の世界だ。

 演奏中、奏者の指に嵌められた指輪がステージライトに反射して光っていたのが印象に残っている。普段はソロやコンチェルトを聴くことが多いから、ノーカラーの黒シャツ姿で手指に装飾を着けているピアニストの出で立ちが珍しく思えた。

 二部が終わり、アンコールまでピアノ椅子から動かなかった指輪の人は、最後に拍手で溢れるステージを横切り、姫宮さんの腕を引いて舞台袖までゆっくり向かっていった。観客に手を振ろうとする主演者に耳打ちしたのは、きっと方向を伝えるためだろう。

 姫宮さんは天才フルート奏者で、生まれつき両目を失明していた。その姿は憐れみを誘うような儚さも、妬みを呼ぶような尖りもない。響きの中に優しさがあるのは、彼の音色がどこか雨音に似ているからかもしれない。

 

 八木崎さんに連れられ、ヴェルデのビルの地下にある居酒屋さんに入る。しゃぶしゃぶが食べられるという店内の長テーブルの席は既に半分ほどが埋まっていた。乾杯の音頭を待たず、二、三人で飲み始めている一角もある。様子から察するに、主催の楽器店がいわゆる〝先生〟と呼ぶ演奏家たちの招待を兼ねての、半公式で開かれる宴会のようだった。

 やはり来てはまずかったのでは、と尻込みする私の、まさに尻を叩いて仕切の中へ促す先輩に「最低、本当に最低」と連呼していると、柱の影から朗らかな声が飛んできた。

「荒井ちゃん? 来てくれたんだ、よかった。こっちこっち」

 席から姫宮さんが手を振ってくれている。騒がしい居酒屋でも私たちの話し声を聞き分けた先生は、見えないはずの両目をぴたりとこちらへ向けている。今から三年前、レッスンスタジオの通路で迷っている私を呼んでくれた時、こちらが近づいていっても下ろされない手に何か意図があるかと思い、間違えてタッチしてしまったことがあった。触れられて一寸驚きを垣間見せた姫宮さんは、私の手をぎゅっと握ってからすぐにそれを解いて言った。

「小指が長くて羨ましいな。ピアノ弾きみたい」

 体に触れられて(先に触ったのは私だけど)、身体的特徴に言及されたのに、私はそれを嫌だとは思わなかった。手招きで呼ばれた今も、小走りに席まで向かって軽く手のひらを合わせる。いつも通り短い握手をしながら、黙ってにこにこしている先生に拙い感想を伝えた。

「すごかったです」

「ふふ、嬉しいな。わりに緊張したから」

「全然。いつもの姫宮さんでした。今日、すごい音鳴ってましたね。楽器替えたりしたんですか」

「あれ、そんなに違った? ちょっと借り物なの。吹きたくなって、使っちゃった」

 そういえば私もそろそろ楽器を買い換える予定で、学科の教授から姫宮さんの都合を聞いてこいと言われていたことを思い出した。メーカーから販売店に新納品が数台入る時期に選定をさせてもらえそうなので、立ち会いをお願いしたかったのだ。でもそれを相談するのは今日じゃなくていい、来週のレッスンの時に。それよりも差し入れを渡さなくては、と鞄に視線を送っている僅かの間に、姫宮さんはヴェルデ楽器のひとに連れられて席を立ってしまった。八木崎さんもいつの間にか誰かから渡されたワインを片手に、数人の音校出身者と談笑している。ひとりでおろおろしている私が長身の先輩の目に留まったのか、あちらに行けば食事があるからゆっくりしてこいと、テーブルの角の空いているところを指さされた。

 荷物を足下の籠に入れ、配膳されたサラダと揚げ物、重なったままの取り皿のそばに着席する。やることがないので皿の数だけ適当に取り分けた。間に飲み物が届いたのでまとめて受け取り、ジョッキに貼りついたレシートを読み上げながら頼んだ人に渡す作業をする。ひととおりの話を終えた先輩たちが少しずつ腰を下ろし始めた。向こうが私を知っているのはだいたい半分くらいで、フルート科二年の云々、と名乗っては会釈を繰り返す。

「姫宮の弟子?」

「えっ、あ、はい」

「そっか、今はどこの門下なの?」

 ひとり、場繋ぎのつもりだったのか、親切に話しかけてくれた女の先輩とそのままお喋りをしていると、そこをたまたま通りかかった姫宮さんに再び呼ばれた。

「荒井ちゃん、今あっちに赤ちゃんいるよ。よかったら顔出しておいで」

 赤ちゃん、という悩殺ワードにふらふらと立ち上がる。「行きます」と返事すると思いの外威勢の良い声が出てしまった。今し方話しかけてくれていた先輩に「いい返事」と笑われて、口を手で塞ぎながら小さく詫びる。

 近くに姫宮さんや八木崎さんがいるので忘れてしまいがちだが、フルートという楽器コミュニティはほぼ完全に女性社会だ。彼らの同世代で結婚・出産がきっかけであっさり引退してしまうひと、はじめから職業演奏家を考えていないひとは一定の割合で存在する。いちばん多いのが学校の音楽教諭、次が楽器店の営業、ごくまれにオケのライブラリアンを選んだ先輩もいた。

 その赤ちゃんを連れた参加者も、姫宮さんたちの世代で今はプレイヤーを〝お休み〟しているひとかもしれない。もしかしたら学生時代の先生を知っていて、少し話をしてくれるかも。根拠のない期待を胸に、さし示されたところへいそいそと向かう。

 

 小さな顔いっぱいに見開かれたつやつやの双眸がこちらへ向けられた。赤ちゃんは茶髪の女性に抱えられていて、真顔のまま、両腕を突き上げた恰好でのけぞっている。私に背を向けていた女性はこちらに気づいて振り返ると、短く笑ってからすぐに視線を落とした。肩に乗せていた赤ちゃんを下ろし、慎重に近くにいた男性へ渡している。

「ありがとう、めっちゃかわいかったぁ」

 受け取った男性の手は、ベビー服の柄がぜんぶ隠れてしまうと思えるほど大きくて、同じ人間ではないくらいの指の長さがあった。中指の付け根に金の輪が見える。さっきの指輪、と思っているうちに、向こうから声をかけられた。

「赤ん坊に触りたいひと?」

「あ……そうです、はい」

 じゃあここ、と言って、彼は自分の隣にある空き椅子を顎でしゃくる。太腿に跨るように赤ちゃんを座らせた彼は、本番衣装の黒シャツ姿のまま、ソフトドリンク片手にひとりでここにいるようだった。持ち上げたジョッキを飲もうとすると、分厚いガラスの底に赤ちゃんがかじりついてちゅっちゅっと吸いつく。それを数秒見守ってからゆっくり取り上げ、ウーロン茶を口に含んだ。ふうと浅い溜息をつく横顔を盗み見ながら、どうして彼がここで子守をすることになったのだろうか、と思いを巡らせる。

「お待たせ。髪とか、袖のひらひら、すごい好きだから、食われないように気をつけて」

「気をつけ、え、はい、わっ」

 膝の上に乗せかえられた赤ちゃんは思ったよりも重心がしっかりしていて、密度と質量を感じる印象だった。持つ時の感覚が、犬や猫を支えるよりもずっと強くて安心する。ただ、本人が腕を振ったり頭をぐらぐらとさせると、バネじかけのようなぎこちなさに呆気なく均衡が崩れるので慌てて両腕で押さえた。再び目が合うと、驚いているのと笑っているのが半分ずつの顔をして、口端からつーっと涎を垂らす。

「あ……かわいー……」

 思わず漏れ出た感嘆の声に、隣のピアニストもふっと相好を崩した。

「こいつ、バズイングできるんだよ」

「えっ、うそ」

「本当。なあカエ、カーエ、ブーして、ブー」

 指輪を嵌めた長い指が赤ちゃんのはち切れんばかりの円い頬をつつく。ブー、という言葉に反応して、小さな体がはくっと息を吸った。どこにも蟠りのない、純粋で綺麗な腹式呼吸。次の瞬間、強烈な振動音と共に、指示をした男性の手のひらが赤ちゃんの顔を覆った。

 バズイングは金管楽器の吹奏でなくてはならない口の動きだ。リードのある木管楽器は振動帯を震わせるが、金管楽器は自分の体の一部を震わせて音を作る。よく、空き缶に息を吹き込んで鳴らすイメージと言われるフルートに比べて、日常行わない動作ではあるけれど、ひとたびコツを掴めば困難な技術ではない。ただそれを、まだ歳を重ねたことのない乳児が難なくやってのけたことに驚いて、思わず「ひゃっ」と声が出てしまった。赤ちゃんの顔に手を当てていたひとは、私の奇声に申し訳なさそうにしている。

「悪い、唾が飛ぶってまったく想像してなかった。……でも、すごいだろ」

「あはは、はい、すごいねえ、カエちゃんていうの。不動さんのお子さんですか?」

 名前を呼ばれたピアニストは、黙ったまま濡れた手のひらを近くにあるおしぼりで拭った。

 不動馨、今日のプログラムで見た彼のフルネームから醸し出されていた印象は、完全無欠、我が道を行く、調和より独立、そんな感じだった。だから終演後に姫宮さんの手を引いて歩く姿は強烈に意識を引きつけられたし、今も赤ちゃんに接する所作ひとつひとつが意外でとてもわくわくしている。不自然なだんまりは、きっとこの子が彼の娘ではないことを容易に想像させた。先の忠告通り、赤ちゃんは私のシャツの胸もとにある大きな折り返しの生地をちゅうちゅうと熱心に吸っている。

「俺の、ではないね」

「……ですよね。すみません。変なこと」

「別に」

「あの」

 脇の下を持って支えていた赤ちゃんがまたゆさゆさと上体を動かし始めた。夢中になっていた服が味気なくなってしまったのか、別の関心事を探しているのか、どこまで見通せているのか分からない黒い目をしきりにきょろきょろさせている。

「今日の会、すごく楽しくて。先生の演奏はいつも楽しいけど、ピアノあるとあんなにすごいんだなって。前は気づかなかったんです。不動さんを初めて聴いたかもしれないです」

 一気にまくしたてて、ああまた纏まりのない言葉を並べ立ててしまった、と瞬時に後悔した。後悔しても、今の私にはこれしか出せないから、後々になってこれが荒井の第一印象として語られても仕方なし、言わないよりはましだと開き直る。躊躇いを捨てて「素敵でした」と言い添えると、指輪だらけの大きな手が薄毛の赤ちゃんの頭を丁寧に撫でた。

「自分の先生の演奏は、そりゃよく聴こえるだろ」

「そうなんですけど、今日はブラボーが足りないほど最高で」

「若いのに語彙が古臭いな」

「……すみません」

「姫宮さんの邪魔しないのが、今日の仕事だったから。あんたに褒められてよかった」

 ブラボー、という言葉に反応したように、カエちゃんがパチパチと拍手をしてくれる。短い両腕をめいっぱい振って送られる小さな拍手に、不動さんはそっと目を細めた。

「カエ、その調子でお父さんにもパチパチしてやりな」

 

 てっきり姫宮さんの隠し子だと思われたカエちゃんは、実は八木崎さんの娘で、皆にも知らされていない去年の授かり婚が暴露されたのは、宴も闌の頃だった。小さなアイドルは既に不動さんの腕の中で気持ちよさそうに眠っている。別れが惜しくなり、最後に頬の柔らかな膨らみを触らせてもらった。

「また会おうね」と小声で言う間、先輩たちは変わらぬ調子で雑談している。

「ナオは二次会行くって?」

「さあ、八木崎さん帰るなら終わりそうですけど」

「勿体無いな、どこか寄って飲ませてやってよ。お前明日は?」

「六時からG(ゲ).(ー)P(ペ).(ー)かな。……忘れた。まあ、平気です」

 まだ何か言おうとしている八木崎さんを遮るように、不動さんは私の手のすぐ近くに人差し指を伸ばして、カエちゃんの頬をつついた。ホワイトゴールドのなだらかな曲線が指の付け根で光っている。長い指のだいたいどこも嵌められている指輪の中で、それだけ目につくのはなぜだろう、そう思っているうち、不動さんはその場を離れて歩き去った。

 リサイタルで聴いた鍵盤の音は、よくある器楽独奏を引き立たせるような慎ましさや嫋やかさはなく、発音がはっきりしていて鮮やかだった。きっと管楽器だったら明るい音色のひとなのだろうなと思う。私の知る限り、姫宮さんは普段から誰にでも厳しいし、言動はすべて矛盾がなく明け透けだ。今日は本当に不動さんに来てほしくて、その切望かなって演奏してもらったのだと察せられた。

 もしかして今夜の演奏会は、不動さんのためでもあったのかな。

 ふと浮かんだ子どもじみた推論をすぐに打ち消して、身近なところから挨拶を始める。うっかり八木崎さんの前でぽろっと言ってしまったら、気が済むまで揶揄われそうだ。

 店を出て階段から地上に出ると、鼻にかかる独特の匂いがする。少し前から雨が降り出しているようで、アスファルトはすっかり色を変えていた。時折ぽつぽつと大きな粒が上から落ちてくる。駅まで歩くのに傘がなければこころもとない。頭上に滴が降りかかる前に、慌ててショルダーバッグに手を差し込んだ。記憶の通り、折り畳み傘が見つかって安心する。

 袋から傘を出して広げる時、階段の下から不動さんの声が聞こえた。ついさっき、ようやく姫宮さんへ差し入れを渡し、ひととおり言葉を尽くしてお礼を告げてきたばかりだったので、今もう一度出くわした時の特に何も言うことが無い気まずさは避けたい。咄嗟に少し離れた電柱の影へ後退った。俯いて傘の骨を伸ばし、音を立てないようにゆっくり広げて頭上にさしかける。

 不動さんが先に立ち止まった。

「雨、予報じゃなかったのに」

 彼の腕に手を差し込んでゆっくり足を運びつつ、姫宮さんは穏やかに応える。

「本当、でも確かに、そんな空気の重たさはあったよね」

 階段をいちばん上までのぼると、爪先を軽く振ってから靴底をアスファルトに擦りつけた。今の地点を確認してから、先生は楽器を入れた大きなリュックを背負い直す。お腹の方で抱くように肩ひもをかけると、中から薄手のウィンドブレーカーを出し、リュックの上から袖を通してジッパーを上げた。フードを被って紐を締めれば雨の日の完全防備ができあがりだ。彼は普段も白杖を持たずに憶えた道をひとりで歩くけれど、雨の日に傘はけっしてささない。レッスンの帰りに何度かそれを見かけていて、手助けは要るかと尋ねても笑顔で固辞されるだけだった。

 顔の前でフードの裾を絞る手を止め、不動さんが恰好を整えている。もっと脆くて小さな赤ちゃんを抱く時でも平気な顔をしているひとだったのに、軒下で姫宮さんの世話をする今は、無言の内に隠し損なったおぼつかなさが端々に滲み出ていた。

 大きな手が丁寧に裾を引き、防水にむだがないか手早く確かめている。小さく息を吐いてから、不動さんが顔を伏せたまま謝った。雨にかき消えてしまいそうな言葉が辛うじて聞こえる。耳に伝って、ぼんやりと意味を理解できるようになるのを待たずに、私は慌てて踵を返した。

「ごめん、今日、さしてやれない」

 不動さんの声が震えている。雨足は静かではあるが徐々に強まっていた。緩やかな坂を進む自分の靴音が煩い。どうしてか分からないまま、祈るように傘の取っ手を強く握る。

「いいじゃない。予報にはなかったんだし」

「これしか、俺……あんたにしてやれること、他にないのに」

「馨、手を貸して。一緒に濡れて帰ろう」

 振り返ると、先まで歩いてきてしまった私と彼らの間には何人ものひとが行き来をしていて、きっと彼らの会話も聞こえているはずがないのだった。行き過ぎる背の間にふたりの姿がまたちらりと見える。姫宮さんは軽く背伸びして、不動さんの耳もとにそっと唇を寄せていた。

 ふたつの影はすぐに軒下を出ていく。二、三歩進んだところであっという間に見失ってしまった。

 姫宮さんのステージが終わるまで、最後までずっとピアノから離れなかった不動さんを思い出していた。雨が降る時までずっと期待しているのに、降ると逃げたくなるような気持ち。先生の演奏はいつもそう、誰も真似することができない不思議な音がする。それはきっと、こうして待っているひとが傍にいるから、優しくて心地の良い響きがするのだと、ようやく気づいた。

 

〈了〉

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