舌を震わせて文字たちが語り始める

あじさし

舌を震わせて文字たちが語り始める

 凍てつく東に親を残して、エルマーク家に連れてこられたのは十五の時だった。罪人として流刑された父親と母親はパンにさえ事欠く生活の中で教育を受けさせてくれた。たとえ金で身柄を見知らぬ西の貴族に買われたとしても、私は恨むことはなかった。高い金がなくては、いい医者に母親を診てもらうことができない。

 父親は、帝国の多くの人が使うものとは違う言語を使う村の出だった。故郷の人たちのために帝国の聖典や書籍を翻訳していた。けれども、それによる糧では治療はおろか、生活もままならなかった。

 当主は声が大きかった。汽車の中で私があたりを気にしながら何回か彼にうなづいていると、笑いながら私に菓子を渡して食べさせた。

 メイドが部屋に私を案内した時、エルマーク家の当主が自分の娘の家庭教師に私を抜擢ばってきさせようとしていることを初めて聞かされた。

「そんな。てっきりメイドか、農園で働くものだと思っていたのですが」

 エルマーク家は領地にとても広い農園を持つという。

「そちらの方がいいですか?」

「いいもなにも、私に教えられることなんてそんなにはないですよ」

 メイドは、十歳になったお嬢様を机に縛り付ける役が欲しかったこと、たまたま訪れた流刑地で年が近くて教養のある人間を見つけたことを当主が言っていたと告げる。

「十歳なので、あなたならばそれほど難しいことはないと思います。ただ、お嬢様は大変、その、言うことを聞かせるのは難しいですよ」


 メイドがやや気の毒そうに言った通り、エルマーク家の娘、アイーダには骨が折れた。

 まず、時間になっても部屋にやって来ないから探しに行く羽目になる。そして、近くの池で魚を釣ったり、野で兎を狩ったりしている所を連れ戻さなくてはいけなかったのだ。

「ほら、どうしたの?そんなんじゃ私に追いつけないよ、先生」

「こら、行っちゃだめったら」

 最初はなんとか丁寧に諭そうとしていたのに、逃げる上に煽られて、半ば本気で怒鳴るようになるのはすぐだった。

 挙げ句の果てには、よくつるんでいる近所の男の子との取っ組み合いを止めに入ることもあって、せっかく支給された服がボロボロになった。

「ねぇ。先生怒ってる?」帰り道に疲れて黙っていると、アイーダが尋ねる。

「怒るって何をですか?お嬢様。これもお館様からいただいたお仕事ですから」

「ふうん」とアイーダは言った。金色の癖っ毛が麦の穂のようにそよぐ。

「じゃあ、エパカシマ(私の名前だ)は私が机に座らなくても仕事にはなるんだね」

「どうでしょう。私はお館様からはお嬢様を机に縛り付けるよう仰せつかっていますからね。もし、ずっとこんなことが続いたら東の方へ連れ戻されてしまうかもしれません」私は吐き捨てるように言った。


 ある日、アイーダの帰りが遅いと思っていたら、警察に連れられて帰ってきたことがあった。近所の子供と一緒に店から物を盗む競争をしていたという。エルマーク家の奥方はいつも以上に娘に対して冷淡だった。それに対して、父親の当主はいつも以上に大声で嘆き、何回も娘のほおを張った。アイーダは目の色を変えずに父親を見て、時々血の混じった唾を床に吹き飛ばした。

「お館様。それ以上は」

 声の大きい男の前に入ると、アイーダは駆け出して部屋を出ていった。

「子供はああいう遊びが好きなもんだよな」

 当主の独り言に奥方と私は驚いて顔を上げた。

「俺だってガキの頃は農園に忍び込んで仲間と砂糖大根を盗んで齧ってたもんさ」当主は煙草に火を付けると窓を開けた。

「どうしたらいいか分からんもんだな。女の子ってのは」

 私はアイーダを屋敷の物置の中で見つけた。

「私が悪いんだからクビにはならないよね」

「さあ、どうなんでしょう。さあ、ほおを冷やしましょう。痕になったら大変ですから」

「エパカシマはさぁ。病気のお父さんのためにここに来たって聞いたよ」

「あら。聞いてしまいましたか」

「なんでそういうこと私には言わないの。私がそれを知っててこういうことしてたと思った?」

「と仰いますと?」

「私はあんたのこと嫌いじゃないよ。だから、信じてもらえないかもしれないけど、クビにされちゃうのは嫌」

「そうですか。困りましたねぇ。」

 顔を見上げたアイーダは穴の中に取り残された人みたいな表情で私を見る。

「でも、最近はきちんと机にもお座りになりますし、分数の足し算引き算だって得意になったじゃありませんか。お館様も分かってらっしゃいますよ」

「だといいんだけど」とアイーダはうつむいた。

「お母様が死んじゃってすぐにお父様が新しい奥方様を迎えたけれど、仕方ないと思う。世継ぎが必要だもの。でもね、それはお母様のことを忘れちゃうことな気がするんだ。まして、使用人のことなんて、必要がなくなったらすぐ切っちゃうんじゃないかって」

 私はたった今聞いた諸事情を頭の中で反芻しながらうなづく。

「お母様のことを覚え続ける方法がありますよ」手紙で母親の治療がうまくいきつつあることを聞いた私には少し余裕が出てきていた。

「それはお母様のことを言葉で綴ることです」

「お母様から言われたこととか、撫でてくれたときのこととか、髪の、いい匂いとか私覚えてるよ。でも、もう心の中にしかない」

「そう。心の中にしかない。それだからこそ、それを留めておく手段が必要なんです。それはどんな花の匂いに似ていますか?それはいつのことで、どんなに暖かかったですか?書いてみて。口にしてみて。それは小箱の鍵で開くように、思い出させてくれるに違いありません」

「本当?本当に忘れない?」

「えぇ。私はそう信じます」


 それからもアイーダのお転婆な行動はなくならなかった。けれども、以前よりも机に向かう時間が増えた。私はアイーダに応えるために新しい本や教科書を更に読んで、彼女に西側の進んだ国々からもたらされる科学の新しい発見や思想を噛み砕いて教えた。彼女は興味津々で話を聞いた。

 アイーダは学業成績が伸びていった。成長すると彼女は西側の国にある名門校へ進学することとなった。務めを果たした私は東にある流刑地という名の故郷へ帰ったが、アイーダとは文通をしていた。


 アイーダとの文通が途絶える前後、帝国は大きな戦争でかなりの痛手を受けてその数百年の歴史に幕を下ろした。皇帝やその一族・貴族たちが処刑された。地獄の釜を閉じるものが無くなったように、人々は怒りを旧体制を象徴するとされるあらゆるものにぶつけ、火を放つ。私の故郷の少し先では革命軍と帝国軍の残党が陣取り合戦を繰り広げた。

 ある日、私が井戸へ向かっていると、革命軍の兵士数名が私を見つめる。この街にも革命軍が凱旋したのだ。私は気が付かないふりをしてその場をやり過ごそうとするが、井戸の前に先回りされてしまう。自分の身に起こるであろう最悪の事態が頭の中を駆け巡る。

「どうしたのそんな固まって。私が逃げたらそんなんじゃ追いつけないよ」

 顔を上げると、見知っていた笑顔が煽る。

「お嬢様」

 軍帽から短い金髪がのぞき、赤く焼けた肌がさんさんと輝く夕陽に照らされていた。けれどたしかにそうだ。

「同志、これは逢引かな?」と横の男が囃し立てる。

「うるさい。そんなんじゃないよ」

「俺たちゃお邪魔虫だな」

二人の男がその場を去ると私はアイーダを抱きしめた。

「そんなに泣かないで」

「ごめんなさい。お嬢様。軍服が濡れてしまいますね」

「ずっと会いたかった人の流す涙で服が濡れることを気にする人なんていないよ。それからね、私のことはアイーダって呼んで」


 アイーダを家に上げると、留学先の話、『同志たち』との出会い、内戦で何度か死線をくぐり抜けたというおどろおどろしい話まで聞かされた。

 私たちは蒸留酒を呑んでいたので、外に涼みに出た。父と母はとっくに寝てしまって、日が再び昇って辺りが明るくなりはじめていた。

「それにしても、生きててくれて本当によかった」

「運がよかったんだ。私は決して優秀なんじゃない」

「ご謙遜を。私が教育してたんだ」

「そうだね」

 アイーダはそう言うと私を後ろから抱きしめた。

「どうしたの?この酔っ払いは。えぇ?」

 私がおどけて見せたのは、留学先で彼女の周りで繰り広げられていたというロマンスの話を急に思い出してしまったからだ。

「私はこの変革を通じて、皇族も貴族も誰も誰かを虐げることのない国作りに加われたらと思う」

「そう」

「でも、それは決して全てが薙ぎ払われて真っ平らになるのとは違う」

「と言うと?」

「私ね。この前自分の故郷に行って来たんだ。目的は貴族の財産の没収。もちろん、私の父の農地もだ」

 それはかつての帝国の至る所で繰り広げられていたことだった。

 かける言葉が見つからない。

「あんだけ寡黙な父の姿を見たのはあれが最初だし、たぶん最後になるんだろうな」

 私のおなかを捕まえるうでに力がこもる。彼女と私はほぼ同じ背丈だから、彼女のおとがいが肩に当てられる。

「お願いがある」

「なぁに?」

「この村はこれからこの辺りの自治州に編入される」

「聞いたわ。どんなことになるのかしらね」

「自治州ではこの土地の言語が正式に公用語になる。これからは帝国の言語を押し付けられないで、それぞれの言語が読み書きできるようになるんだ」

「でも、『私たち』の言語では正書法は確立していないのよ」

「そこで、自治州の党教育委員会は『あなた達』の言語の専門家(教師や元宣教師)を集めて方向性を決めたいと思っている」

「ふうん」

「もし、エパカシマがよければ推薦を出したい」

「えっ?」

 私は彼女のうでをそっと掴むと彼女から離れた。

「そんなのできないよ。私は専門家じゃない」

「専門家とは言っても西側諸国と違って学者先生だけのことじゃない。それに、エパカシマは文学のこと特に詳しかったでしょう」

「それほどではないわ」

「私の先生だったじゃない。これからの時代は一人一人が奴隷にならないはずなんだ。あんたならきっとできると思う」

 私はアイーダに両手を握られる。スコップや銃剣を握った手とは思えないほど柔らかくて熱を持っている。

 私は彼女との連絡が途絶えてしまってからずっと顔を一目見たかったし、生死が知りたかった。

 けれども、私は急な話にはっきり言って戸惑いを隠せなかった。私には考える時間が欲しかったけれど、それはいくら残されているのだろうか?まるで一月で季節が一巡りするような目まぐるしい世界において。

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