五月晴の空に羽搏いて

わだつみ

五月晴の空に羽搏いて


 「カナリアバス」の愛称で親しまれている、カナリーイエローの塗装が特徴のボンネットバスが、谷底に転落し、多くの乗客が死亡した‐。


 とある地方で起きた、その事故の報を、私が新聞で読んだのは、196X年の五月初旬の事だった。

 「カナリアバス」という名称は、私の記憶には強く刻み込まれていた乗り物だっただけに、私は、セーラーの制服に着替え終わって、高校に行く時間が迫っているのも忘れ、その記事を読んだ。

 

 この事故の記事から、私の目を離させなくしていたのが、「カナリアバス」の事故で死亡した女学生が一人いる、という報道だった。

 何か、虫の知らせというか、とてつもなく不吉な予感がした。


 『一華(いちか)は、あのカナリアバスに乗って、大きな町に帰るのね…。いいな…。私も、あのバスに乗って、そのうち、絶対、一華の元に逢いにいくわ』

 父の祖父母が元気に暮らしていた頃、よく帰っていた、父の田舎の、あの村。

 そこで出会った、とある少女の言葉が、声が、私の脳裏に蘇る。

 「まさか…、そんな筈は…」 


 新聞でその記事を見てから、数日した頃の事。

 私の予感は最悪の形で、的中した。


 私が高校から帰るや否や、青ざめた顔の母が、玄関に駆け寄ってきた。

 

 「一華…。本当に、悲しい知らせだけれど…、この前、お父さんの郷里の方の『カナリアバス』が転落事故に遭って、女の子も一人、亡くなったじゃない?その子…、向こうへ一家で里帰りした時に、一華が遊んでいた、莉子(りこ)ちゃんだったみたい…。今日、あの子のお宅から、うちに、それを知らせる手紙が来たの。貴女と莉子ちゃん、文通もしていたでしょう?だから、どうしても、貴女には知らせたかったって…」


 母が、震える手で渡した手紙を、私はひったくるように受け取り、文面に目を通す。

 一目で、莉子の文字ではない事が分かった。

 彼女の文字は、このように堅苦しい字体ではなく、もっと優しい、丸文字だった筈だ。

 恐らくは莉子の両親のどちらかが、書いたものだろう。

 

 「莉子の遺体は無事に焼骨まで済ませる事が出来ました。一華さんには、生前、あの子と仲良くして頂いたので、せめて、手を合わせて、お別れに来てほしいと思っています」

 その文章を読んだ時、私の脳髄は、完全に、痺れてしまっていた。

 莉子が死んだなどという事実を、この紙きれ一枚で、到底、受け入れられる筈がない。

 つい先月も、莉子の手紙をもらったばかりなのに。


 私は急ぎ、荷物をまとめて、私の父の郷里であり、そして、莉子の家もある、あの村へ、向かう事にした。


 『莉子…!どうしてよ…、どうして、必ず、私の元に、会いに来るって約束を果たさないまま、死んでしまったの…。そもそも、あの日、カナリアバスに乗っていたのは、何故…⁉』

 道中、汽車の中で、その問いを、何度も繰り返していた。

 窓外を流れていく、濃さを増す新緑も、今の私の心を癒す事はない。

 村について、莉子の家に行き、彼女の両親に会うのが、待ち遠しかった。

 事故が起きた日、何故、莉子は『カナリアバス』に乗っていたのか。

 

 『それに…莉子が死んでしまったら、セキセイインコのあの子だって、寂しい思いをしているわ…。きっと、莉子の部屋で』

 銀色の籠の中、パタパタと小さな羽搏きの音を立てていた、黄色の鳥を、私は思い出す。

 莉子の家族で、かつ、あの村で同年代の子から、浮いていた莉子の、私と会うまでは、唯一の友達だった存在…。


 事故に遭ったのとは別車両のボンネットバスの、『カナリアバス』に乗って、村へと向かった。

 早く、あの村へ。莉子の家へ。その一心だった。


 「カナリアバス」を降りて、着いたあの村は、既に初夏を感じさせる、汗ばむくらいの陽気に包まれていた。

 五月上旬の、春から夏へと移り行く季節-「立夏」の空は、爽やかな五月晴を誇っていた。

 人間の世界の悲劇など、知らないというように。

 村の家々を囲む生垣も、眩しい陽光を受けて、その緑は、目に眩しいばかりだった。

 村の農道を歩いていくと、やがて、私の目指していた、莉子の家が見えてくる。

 それは、一見して、この村の、一般的な農家とは違う、モダンで、和洋折衷の空気を感じさせる文化住宅だ。

 白く鋭角の西洋風の屋根を伴う建物が、日本家屋にくっついた独特の形の家だった。

 

 「一華ちゃんね…、待っていたわ。さあ、お上がりなさい」

 玄関のベルを鳴らすと、莉子の母親が、私を出迎えてくれた。

 昔、ここに遊びに来た私を、もてなしてくれた、洋風の客間に通された。

 記憶の中と、何も変わった光景はない。

 ‐ただ、私の隣で、はしゃいだ顔になっていた、莉子がもういない事を除けば。


 祖父母がこの村を離れ、この村に里帰りでくる用事もなくなってから、ここに来るのは、久しぶりだ。

 父親は仕事に出かけていて留守らしかった。


 冷たい麦茶を飲んで、一息ついた後、私は、深く溜息をつき、両手で顔を覆った。

 「どうして…、莉子がこんな目に」

 もう何度も、頭の中で繰り返した、この理不尽な死への言葉を、私はまた零す。

 莉子の母は、そんな私に、一枚の手紙を差し出した。

 「これは…?」

 「莉子が、この家を出た時に、残していった書置きよ…。あの子はね、家出したのよ。そして、駅まで行く、カナリアバスに乗って、あの事故に…」

 「家出…?どうして…」

 莉子の母は、目頭を押さえ、しばらく俯いていた。

 涙を堪えているように思えた。

 「あの子が、体が弱かったから、ここの村で静養する為に私達が、村に移住してきていたのは、一華ちゃんも覚えてるわよね?それで…、あの子に何かあったらどうしようと案ずるあまり、私達はあの子の自由を、過度に奪ってしまった。あの子ね、一華ちゃんの住む町に、一人で一華ちゃんに会いに行きたいって、ずっと言っていたのよ」

 「え…」

 「だけど、私達がそれは駄目。文通だけにしておきなさい。と、頭ごなしに言ってしまったから、怒って、『もういい!それなら、私はもう、自由にするから。いつまでも箱入り娘扱いしないで』と言ってね…。それで、ずっと溜めていたお小遣いをはたいて、家出したのよ…、一華ちゃんに会う為に」

 

 金槌で頭を、殴られたかのような衝撃だった。

 私の為に、莉子は、村を無理に出ようとして、『カナリアバス』に乗ってしまった。

 その為に、あの事故に遭った…。


 仏間に通され、まだ、新しい白木の匂いの残る箱の中、陶製の壺に眠る彼女に、私は手を合わせた。

 「莉子…、どうして、そこまでして、私の元へ来ようなんて…!代わりに、私が事故に遭えば…!」

 その後、部屋を出る時、思わず、私は、涙を零して、そう言ってしまった。

 莉子の母は、私の背をそっと擦って

 「そんな事を言っては駄目よ、一華ちゃん」

 と慰めた。

 

 それから、莉子の部屋に通された。

 ここに来るのも2年ぶり程になるか。

 そこには、昔、ここに通っていた時と変わらず、銀色の鳥籠があり、その中で、黄色の一羽の鳥が羽搏いている。

 その、昔に比べ弱った、羽搏きの中、莉子の声が蘇る。

 『紹介するわ。一華ちゃん。私の家族で、友達の、セキセイインコのカナちゃんよ』

 『何故、カナちゃんなの?』と尋ねると、

 『お店で、カナリアを買ってきたぞって、お父様が連れてきてくれたのだけど、調べたらセキセイインコだったの。お父様も抜けているでしょう?』

 そんな笑い話のような経緯でこの家に来て、カナリアの名からカナちゃんと名付けられたこの鳥も、元気を無くしているように見えた。

 それは老衰によるものだけでなく、この部屋に主人が帰ってくる事はないのを、悟っているからのように見えた。

 今のカナちゃんの目は、濁って、生気を無くしていた。


 「莉子が死んでしまってから、カナちゃん、すっかり餌も食べなくなってね…。籠の中で、最期の時をただ待っているように見えて…」

 莉子の母親が、籠に近づき、殆ど減っていない餌を指し示して、言った。


 自由を求めて、飛び立とうとした、莉子は死んだ。

 そして、莉子と共に生きてきたカナちゃんも、籠の外を、何処までも広がる空を知らないまま、命尽きようとしている。

 それが、私には遣る瀬無く思われた。

 

 「お願い、一華ちゃん。貴女は自分を責める事はないから…。寧ろ、悪かったのは私達なの…。あの子の腺病質を理由に、自由を奪ってしまって…、それで、こんな結末に…」

 莉子の母は、顔を覆って、泣き崩れる。

 今度は、私が彼女に言葉をかける。

 「どうか、自分を責めないでください…。莉子だって、本当は、莉子の事を心配して、お父さん、お母さん達が言っていた事は、分かってると思うので」

 莉子の最期について、誰も悪くはない。

 どれ程に理不尽な形でも、生死に関する運命は、誰にも選べないのだから。


 「カナちゃん、私が貰ってもいいですか」

 私の申し出に、莉子の母親は、快く応じてくれた。

 「あの子のいない部屋で余生を過ごすより、きっと幸せだと思うわ…。カナちゃんをよろしくね」

 莉子の家に、一晩止めてもらった翌朝。

 私は、バス停には真っ直ぐ向かわずに、カナちゃんを小さな木籠に入れて、森の方に向かった。

 途中、木陰に腰を下ろして、五月晴で熱くなった体を、涼しい風で冷やす。

 

 その時だった。

 「ワタシハ、イチカヲ、アイシテル…」

 ハンケチで、額の汗を拭いていた私は、風に乗って、莉子の声を聞いた気がした。

 驚きに、ハンケチを取り落として、森の中を見回す。

 周りに誰もいない。

 また、「イチカ、アイシテル…」という言葉が響く。

 「マタ、カナラズ、アエルヨ…」とも聞こえた。

 

 それらの言葉は、すぐ隣から発されている事に気付く。

 「カナちゃん…?」

 木籠の中の、カナちゃんから、それは発されていた。

 セキセイインコは、人の言葉を覚える鳥…、そう聞いた事がある。

 カナちゃんが、一番近くで、声を聞いていた人は、たった一人しかいない。

 

 カナちゃんを通じて、私は受け取っていた。

 もう、この世にいない人からの告白を。

 あの部屋で、一人。

 きっと、私との再会の時の為、莉子は告白の練習をしていたのに違いなかった。

 それをカナちゃんは、横で聞いて、覚えて…。

 私にこうして伝えてくれた。

 

 この時、私は、莉子の魂が、カナちゃんに乗り移っているように、本気で思われた。

 生と死の境を越えて、私に言葉を届ける為に。

 籠を握りしめ、体を折って、莉子の名前を呼びながら…私は声をあげて泣いた。


 「莉子の魂が、カナちゃんの中に宿っているなら…、私は、ここで貴女達に自由をあげるわ。この、何処までも広がる青空へ、どうか羽搏いていって。カナちゃんも、莉子も、何にも縛られない、自由な世界へ旅立ってね」

 私は、死期が近いカナちゃんを、この森で逃がすつもりで、ここまで来た。

 だけど、今は、カナちゃんの中に、莉子の魂が宿っているように‐馬鹿げた考えかもしれないけれど、本気で信じている。

 だから、カナちゃんの目を通して、莉子も、その瞳に、自由な世界を映してほしい。

 

 私は、カナちゃんの入った箱の、蓋を開けた。

 籠の中、顔を上げた、カナちゃんは、立夏の陽光を、その黄色の羽毛に浴びるや、淀んでいた目に、みるみる、生気を取り戻し始めた。

 そして、その翼を力強く動かして、籠を飛び出ると、小さな、黄色の羽を巻きながら、抜けるように青い、五月晴の空へと、真っ直ぐに飛び立った。

 それは、やがて、小さな、黄色の点となり、空の青の中に消えて、見えなくなった。

 『ありがとう。必ず、会いにいくわ、一華』

 また、木立の間を吹き抜けてきた風が、私の髪を揺らした時。

 確かにそう聞こえた。

 それは、カナちゃんというよりも、莉子の声に聞こえた。


 あの後、カナちゃんは何処まで行ったか、知る術はない。

 ただ、あの風と共に聞こえた約束を、莉子は果たしてくれた。

 

 カナちゃんが飛び立って、数日が過ぎた頃。

 その朝、目覚めた私は、朝日に照らされた机の上に、一枚の黄色の羽が落ちているのを見つけた。

 飛び起きて、それを手に取る。

 見間違う筈もなく、それは、カナちゃんの黄色い羽だった。

 

 『莉子…。会いに来てくれたのね…。約束を果たして』


 その羽を大事に胸に抱き、涙を零す。

 そして、カーテンを薄く開ける。

 眩しい朝の空高くへ、黄色の鳥が、羽搏いていく姿を、私は、確かに見た。

(了)


 

 

 

 



 

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