黒い鞄

水原 治

黒い鞄


     壱 

 

 おれがいま陥っているのは、要するにというやつなのであった。

 果たしてこれまでに何度、原稿を丸めて屑籠に放り込んだのか、それすらももうわからないでいる。

 おれはついに諦めて筆をくと、書きかけの原稿から顔を上げた。

 視線を、庭に向けてみる。と、正面に植わった肥後椿の葉の緑が、うららかな初春の日を浴び、つやつやと照り輝いているのが目に入る。

 その能天気、かつ鮮やかな色が、またことさら、この尖りきった神経に触るのだ。

 おれはその庭の光景から顔を背けるようにすると、あらためてもう一度、いま取り掛かっている新作小説の原稿の、その末尾の一文を眺め見た。

 そこには、こうあった。


 ……おれはそれぎり永久に、中有の闇に沈んでしまった。……


 ……失笑。

 嗚呼ああ失笑、失笑。また失笑。

 おいおい。その「中有の闇」とやらは、いったいなんのことなのだ?

 このように、書いたその当人にしてからが、こんなものはただの戯言ざれごとの書き連ねであるとしか、思えないのである。

 おれはすっかり伸びきってしまった蓬髪ほうはつを、両手でがりがりと血も出さんばかりに搔き毟った。大量の白い雲脂ふけが、バラバラと文机の上に落ちてくる。

「……」

 とにかく、不愉快なのだ。

 無性に腹の立ってきたおれは、やおら手元の万年筆を手に取ると、思い切り振りかぶってそのまま原稿用紙に向かい、真垂直に振り下ろしてやった。その筆先から迸った青インキの飛沫が、原稿の上に派手に飛び散り汚す。

 これでスッキリした。そう思って、一人その場で悦に入ってニタニタ笑っていると、背後に人の気配がした。ギョッとして振り返ると、さいあやが書斎の硝子戸の向こうからひょっこりと顔を出し、このおれをジッと眺めている。

 いまおれのしたことを文は目ざとく見つけると、

「アッ!」

 と声をあげ、急いで床をきしませながら書斎の中にずかずかと立ち入ってきた。

「……チョッ。ちょいとあなたッ。いまいったい、何をしたんですッ?」

 文はただただ驚いたような顔で、あたかも富士山の峰かなんぞのように大袈裟に眉根を寄せている。おれは黙って万年筆の蓋を閉めると、そのまま筆置きの上に放り投げた。

「どうなんです」

「……どうもなにも、べつに何もしちゃいない」

「ああああもう、こんなにしてしまって……これじゃあせっかくのお原稿が台無しじゃあありませんか……アッ! ちょいと見てくださいなッ!」

 いちいち癪に触る金切り声でそう言われ、仕方なく手のひらをひっくり返してみると、あちこちさっきのインキのほとばしりで汚れている。その下の着ている浴衣まで、派手にインキは飛び散っている。

 しかしただ、それだけのことだ。

 文はおれのかたわらに両膝を下ろし、ドスンと座り込んだ。大柄な体格だけに、やけに威圧感がある。

 何か自分が、一息に幼児帰りでもしたような、そんな気分にさせられてしまった。まるで夜中に布団に粗相そそうをした幼い子供が、翌朝恐い母親に見咎みとがめられてでもいるような。

 一人その場で内心、いろいろと自嘲していても、当然妻は納得しない様子でいた。むしろ変わらず眉をひそめたまま、心配げに、小さく傴僂せむしのように背を丸め、顔をそむけているこのおれを見下ろしている。

「せっかくのお仕事をそんな風に台無しにしてしまうなんて。それが芥川龍之介のやることでしょうか?」

「フン」

 さもこちらを詰問きつもんでもするかのような口振りで、机の上に飛び散ったままのインクの溜まりを忌まわしそうに指で拭いながら文は言う。

「くだらんことを言うんじゃない」

 おれは吐き捨てるようにそう呟くと、そのまま書斎の絨毯の上に身を投げ出し、仰向けにごろりと横になった。両手を枕にすると、じっと天井の木目模様を目で追う。

 とたんに文が、呆れた顔をしたのがわかる。

 まったく大した学問もなく、世の中のことなど、これっぽっちもわかっていないくせにーーこの女は折にふれ、のような低俗なことを訳知り顔でのたまう、そんなくせが往々にしてあるのだ。

 さらにずいと、このおれに向かって膝を進めると、その文は続けた。

「ねえあなた。いったいぜんたい、この頃どうなすったというんです」

 おれは黙って、天井の木目を目で追い続けていた。

「なにが」

「なにがって……なんだか最近、いままでとずいぶん様子が違うようですよ」

 おれは何も答えなかった。答える気にすらなれない。

 自身のいま抱える、作家としての苦悩を赤裸々せきららにその妻に向かって披歴ひれきすることほどおろかな行いがほかにあるだろうか。

 黙って肘で枕を作り直すと、妻に背を向けた。そのときついでに、屁でもひり出してやろうかと腹に力をこめたが、減った腹がかすかに鳴ったばかりで、見事不発に終わる。

「ちょいと、聞いてるじゃあありませんか」

「……おれはもう、やめるかもしれんよ」

 ふいに口のから漏れ出た、そんな言葉を文は聞くと息を飲んだ。

「やめるって、何を?」

「仕事だよ。決まってるだろう」

 文に対して背を向けたままでいながら、おれはその言葉に対する妻の反応を慎重に伺っていた。といって直ちに振り返って、その正解を確かめる、そんな勇気もないのだが。

「お仕事をやめて、いったいどうなさると言うんです?」

「そんなものは知らん」

「……チョッ」

 文がさらに膝を進め、それがおれの背に突き刺さるようにぶつかると一瞬息がつまる。

「なんだよ痛いな」

「お腹に二人目の子を授かったばかりだと言うのに、それでどうやってこのわたくしどもを養っていくと言うんです?」

 おれは黙って、顎のあたりをぽりぽりと指の爪で掻いていた。途端に書斎の中が暗鬱とし、じめじめ湿っぽくなったような、そんな気がしてくる。

「ああもうわかったから。おまえは向こうへ行っていろ」

「ほんとにわかってくだすっているんですか?」

 かような夫をそのままそっとしておいて、立ち去ってくれれば良いものを、いまだにおれはその背中に妻の気配をありありと感じていた。

 一寸ちょっと違和感を覚えたおれは、振り返ると妻に顔を向けた。

「なんだよ」

「なんだって、さっきからあなたにお客様なんですよ。それをいま、伝えに参ったんですから」

 途端に脳髄に電撃の走ったように感じたおれは、寝ていた体をガバリと起こした。

「客だと?」

 文は急に、このおれを置き去りにでもするかのように床から立ち上がると、その対応をどうするべきか、冷ややかな目を向け主人のいらえを待っている。

 おれは心から寒々とするような、そんな怖気おぞけを覚えだした。

「おい」

「なんですよ」

「いくら紹介状を持参してこようとも、いまは訪問客はいっさい断れと、そうたしかに言っておいたはずだろう?」

 おれの声は、知らず裏返っていた。心臓がちょっと尋常でない、そんな拍動を始めている。

「知っていますよそんなことは」

「だったら客とはなんなんだ?」

 もしいま、こんなひどい状態の時にどこかから新たな執筆依頼でも持ち込まれようものなら、それは惨憺たる結果になるのは目に見えている。

 このおれの、いままで築き上げてきた作家としての名声もーーそのすべてが淡雪あわゆきのように儚くも溶けてなくなってしまうのだ。

 ……嗚呼ああ。考えるだにみじめだ。

「なんなんだも何も、お待ちなのは久米さんですよ。断ってよろしいんですか? 何か折り入ってあなたに頼みがあるとかで、さっきから玄関先でお待ちなんです」

「頼み?」

 おれは頭を必死に働かせようとするのだが、その脳味噌はまるでただいま切り出したばかりの寒天のように、ただぶるぶると頭蓋の中で震えるばかりで、一向に働いてはくれないのだ。

 久米が、自分に折り入って頼み。

 いったい、なんのことだろうか。

 しかしいずれにせよ、もしそれが仕事の依頼ならば、いまこのおれに受け入れる余裕など、いっさいないのだ。それは日々の日月星辰の運行と同じほどに間違いないのである。

「ホラちょいと。どうしますよ」

 妻が小馬鹿にでもするように、細い目をしてこのおれを見下しながら言った。

「それだったら……ひとまず客間に通すがいい」

「アッ。そうだ。いいことを思いついた」

 言って文は、ポン、と両手を叩いた。

「ちょうどいい機会だから、ついでに久米さんに、さっきのあなたのことを叱っていただこうっと」

「何?」

 その文は止める間も無く、非常な早足で玄関先に向かって消えていってしまった。おれは激しく舌打ちすると、慌ててその後を追おうと立ち上がりかけた。

 と、

「アアいや、一寸ちょっと菊池からの伝言を、ご主人に伝えに立ち寄ったというような、まあそんな次第なんですがね」

 などと、久米の耳馴染みの空元気な大声が、玄関先から書斎のここまで明瞭に響いてきた。

 おれは地団駄を踏みながら、机の上の煙草を引っ掴むと震える手で一本抜き取って火をつけた。しばらく耳を澄ませていると、今度は急に何か、妙に気になる沈黙が尾を引き始める。

 おそらく、いままさに文が、我が旧友の久米に向かいさっきおれが口走ったあれこれを、ヒソヒソ告げ口しているのに相違ない。

 おれは煙草を灰皿に押しつけて揉み消すと、机の上のそのインクの迸った原稿を破りとって丸め、思いきり屑籠に叩き込んだ。

 妻を、叱ってやらねばならない。おれはそう考えると書斎を飛び出ていった。



 縁側の廊下を音を立てながら大股で客間に入っていくと、予想していた通り、妙にしゃちこばって背筋を伸ばし、あぐらをかいて蒲団の上に座った久米が、さも頼りなげに眉根を寄せ、こちらを心配そうな顔で眺めていた。

「おい。芥川」

 おれはその場で大きくため息をついた。着物の袂から煙草の袋を取り出しつつ、一人そそくさと黙って客間から出て行こうとする妻を、横目で睨みつける。

「おいこら、文」

 妻はそんなおれのことを一切無視しつつ、

「……ほらあなた。久米さんからこんなおみやを頂きましたよ。虎屋の羊羹です」

 などど、その菓子折りを軽くこちらにかしげながらそう言った。

「いま、お茶を入れてきますからね」

 そんなわれわれ夫婦を、いぜん心配顔のまま久米はオロオロと見交わしている。奴の手前、いつものように妻を叱り飛ばすげきも口にできん。

 あまつさえ彼は、自らも中腰になってわれわれの間に割って入ろうとしているのだ。

 おれは懸命に理性を働かせた。これ以上、旧友の久米に向かってみっともない内輪喧嘩を開陳かいちんすることもできん。

「……おい」

 喉に絡んだ痰を飲み込みながら言った。

「なんですよ」

「いいか、よく聞け。これからお前が淹れて持ってくる茶は、とびきり濃く、かつ煮えたぎるほどに熱い茶だ。わかったか? さっきから頭がひどくぼんやりしてかなわんのだ」

「はいはい承知しておりますよ。濃くして差し上げますからね。いますぐにでもこの頭のボンヤリした旦那様には、しゃんとしていただかなくっちゃあ」

「……」

 文はなにやら真剣な顔で、繰り返しおれにはわからぬような合図を、久米に向かって送っている。久米がまた、眉根を寄せてにわかに困り顔になる。

 おれは心底、嫌な心持ちになった。

 のしのしと縁側を軋ませ、台所に向かっていった文の後ろ姿を舌打ちして見送りながら、おれは両切りのバットに火をつけ嘆息と共に煙を吐き出した。それから久米に向かって苦笑いすると、どっかりと薄いせんべい蒲団の上に腰を下ろす。

「……やれやれまったく。あいつには困ったものだ。いつものことだが」

 取り繕うように、しかしあくまで苦々しげに言ったつもりだった。が、依然、久米はおれの顔を心配げに眺めている。

「おい。もうやめてくれないか。その辛気臭い顔は」

「えっ? ああいや、だってお前……」

 煙草の灰を、かたわらの火鉢を手元に引き寄せ軽く落とす。

「どうせ文が、また余計なことをお前に言ったのだろう」

「だって貴様が、折角せっかく書き上げた新作小説の原稿を、いまさっき狂ったようにめちゃくちゃにしてしまったんだ、なんて言うもんだから」

 なんだか頭の奥の芯の方から、ズキズキと痛んでくるようだった。おれは大きく咳払いすると、

「まだ書き上がっちゃいない。結末の処理が、どうしても気に入らんのでな」

「で……もうこんな辛くてひどい仕事は金輪際やめてしまいたいなどと、男らしくない泣き言を言ったとか」

「……」

「ひょっとしたらうちの人も、ついにあの夏目先生のような、ひどい神経衰弱に罹っちゃったんじゃないかしら、って、真っ青な顔をしていたぞ」 

 ずいぶんいろいろと、余計なものを盛りつけてくれたものだ。まるでその話は、赤の他人事のようにさえ聞こえてくる。

 とはいえ、馬鹿を言え、などと即座に否定する気にもなれないのだから、余計に困るのだった。

 そんなおれをさっきから、久米は潤んだような瞳でじっと、その真実を推し量るように見つめている。いったいに一高からの同窓であるこの久米正雄という男は、明治の元勲風に髭を生やし、いかつい面貌つらがまえであるくせして、性格や心情は茶飲み話に花を咲かせるそこらの辻端の女房ばばあどもと変わらない、そんなところがあるのだ。

 うちの文のいうことをすぐ鵜呑みにして、結句二人できれいに同盟を結んでしまう、そんなくせがある。

 おれは黙って煙草をくわえると、火鉢の中をのぞいてみた。入れたばかりの新鮮な切り炭が、小さくおこっている。

 その上に両手をやると、擦り合わせて軽くあぶった。東京の春の訪れは、ようやくうっすらと聞こえてきたところとはいえ、まだまだ肌寒い。

「……別に原稿を丸ごと反故ほごにしたわけじゃないんだよ。そんな愚かなことはしないさ」

「ナニ? そうなのか?」

 にわかに久米の表情が変わった。

「いやもう、俺はてっきり……」

「だからあの文の言うことを間に受けるなと、いつも言っているだろう。まだこれから少し手直しする必要はあるが、まあほぼ脱稿したと言っていい」

 しかし、それならば何故、というような疑いの色が、依然久米の顔には確かに宿っていた。

「や、それならまあ、別にいいのだがな。それでこそ当世随一の作家、芥川龍之介というものだよ」

 おれは火鉢の切炭の上に、狙いすましたように煙草の灰を幾度か落とした。それから鉢の縁に頬杖をすると、黙って大きな欠伸あくびをする。


 ……やれやれまったく。どいつもこいつも、すぐにこういったくだらないことを口にするものだ。


「しかし、前作から大して日もてずに、もう書いてしまったのだな。今度のは、いったいどんな表題なのだね」

 心から興味津々、といった、そんな顔をして久米がそう聞く。

「『藪の中』、というんだがね」

「ほう。それは確か『新潮』に渡すのだったな? いや、是非楽しみに拝見させてもらうよ。筆力旺盛、まことに結構結構」

 彼は背広のポッケットから自分の煙草を取り出すと、咥えて火をつけ二、三度ふかした。そして正午にほど近い、日の当たる庭に向かって、なにやら嬉しげに目を細めている。その煙草の先端が、チリチリと微細な音を響かせている。

「で、久米よ」

「なんだ」

「その、菊池のおれへの伝言とは、いったいなんなんだ?」

 ……ところへ妻が、切って盛り付けた羊羹の皿と煎茶の入った湯呑みを二ッつ、盆に乗せて持ってきた。それらを机の上に並べると、またじっと、盆を抱えながら久米の顔をお願いでもするかのように、まるでお祈りかなにかのように、じっと見つめていく。

 久米は幾度か咳払いをしながら、去っていくその文の後ろ姿を目で追っていた。それから煙草の灰を、ポンポンと灰皿に落とす。

「いやナニ、そりゃあもちろん、貴様への新作小説の原稿依頼だよ。決まっているだろう……」

「……」

「今度の菊池の「文藝春秋」創刊号の巻頭にな、ぜひとも芥川龍之介の新作を載せたい、と奴は息巻いているのだ。そこでおれが、その言付けを仰せつかってきた、という次第さ」

 そんなそぶりは、おれは久米に対して決して見せずにおいていた。が、畏友菊池寛が、いよいよこの頃自身で雑誌を創刊するという事実をーーおれはこのときまで完全に失念していたということに、強いショックを感じていた。

 それほどまでにこのときのおれは、自身のことにかかりっきりだったのだ。

 何かひどい嘔吐感のようなものと眩暈めまいを覚えながらおれは、ただ煙草をふかすことしか出来なかった。冷や汗のようなものをかきつつ、そのもうもうとした紫煙の中にじっと佇んでいると、久米の顔がまた、だんだんと釈然としない、そんな表情に変わっていく。

「なあおい、いったいどうしたんだ。さっきからそんな浮かない顔をして」

 おれは軽く鼻をすすると、吸い終えた煙草を火鉢の灰の中に投げ入れた。

「その『藪の中』という新作は、ほぼ書きあがったのだろう? 脱稿の酔いとでもいった、そんな晴れ晴れとしたものが、今のお前からは微塵も感じられないようじゃないか」

 おれは黙って、久米から顔をそむけた。

 ……嗚呼ああ、いったいどうやって、このおれのいまの心からの窮状を、久米に伝えてやればいいというのだろう。

 というのも、いまのこのおれのというのは、何かたった一つの決定的な要因がーー厳然とどこかに存在しているがために始まった、というようなものでは決してないからなのだ。

 かつまた、これまでに幾度も経験してきた、仕事における筆の渋りなどという、単純素朴なものでもない。

 むしろそれは、非常になのであった。

 強いていうならば、


ただぼんやりとした不安」


 とでも言い現すべき、不可解極まりない代物なのである。

 火鉢に頬杖したまま、じっとそんなことをぐるぐる考えているこのおれを見、久米がまた顔全体を疑問符にするような、そんな表情をし始めていた。

「なあ、久米よ」

「なんだ」

「今からおれが聞くことに、正直に答えてくれないか」

 いっぱいに開け放した硝子戸の向こうから、雀の鳴き声がしきりに聞こえている。おれは鉄箸を手に取ると、手元の火鉢の中の炭をひっくり返した。その割れた隙間から、わずかなおきが、あたかも化身した一匹の小さな蛇の鮮やかな舌のように、ちろちろとかすかな煙と共に立ち昇ってくる。

「おれのこれまでに書き散らしてきたものはーーすべて退屈ボアダムなんじゃあないだろうか」

退屈ボアダム? いったいどういうことだね」

 久米の持っている煙草の灰が、今にも落ちそうになっている。机の上の灰皿をそっと勧めてやっても、彼はそのことに気がつかないでいる。

「つまりさ。作者たるこのおれ自身が、何をどう書いても、ちっとも気分がれないのだよ。今現在、まさにそうなのだ」

 いわゆる、というやつだよ、とおれは、てらうことなく言ってやった。、と久米が、まるで子供のように繰り返す。

「そんな作者の物した作物さくぶつは、畢竟ひっきょうはつまらない、と言うことに、なりゃしまいか」

 くわえ煙草で、ただざくざくと火鉢の中を鉄箸でかき回しながらそのような言辞をろうしているこのおれを、どう扱ったものか久米は困っている様子だった。庭の方に目をやってみると、生垣の向こうを、留袖姿の婦人を乗せたくるまが、ゆっくりと通り過ぎていくのが見える。

「なあ、久米。お前はあの日の木曜会でーー夏目さんが俺たちに、唐突に『則天去私』ということを言いだしたときのことを、覚えているか」

 あぐらをかいた膝の上に両の拳を置いた久米が、大げさに何度もうなずいた。

「むろんさ。自分はいまでも、あの日の漱石先生の我々への神々しいそのお言葉とご様子を、はっきりと覚えているよ」

「でも、今となって考えてみると、そんなもなあ、実は嘘っぱちだったんじゃないのかなあ」

「なに?」

「『天にのっとり、私を去る』だなんてさ」

「……」

「つまり」

 おれの言いたいことが、正しく久米に伝わるのかどうかはわからない。しかし、ここまで言ってしまった以上は、もう最後までいくしかないのだ。

「あの人も本当は、おれたちみたいな弟子ににわかに偉大な作家扱いされて、実は迷惑だったに決まってるんだよ。そして、いまおれが痛切に感じている、自嘲を込めたこの倦怠アンニュイにーー終始悩まされ続けていたに決まってるんだ」 

「……」

 その後は誰もが知っているように、夏目先生のその神経衰弱ナーバスブレイクダウンは歯止めが効かないほど亢進しーーおかげで胃のに大穴を開け、大量の喀血をし、苦しみに苦しみぬいた挙句、亡くなってしまわれたのだ。


 となるといよいよ次はーー先生の弟子たるこのおれに、


 なにかソワソワとした様子で、久米が廊下の方を振り返っていた。妻にさっきの合図を送り返してやりたいのだろうが、あいつが今、どこで何をしているのかもわからない。

 二本の火箸を握りしめたままで、大きなため息をついてから見ると、その久米がいつしかニヤニヤと笑いながら、このおれを見返している。

「なあおい、芥川よ」

「なんだ」

「実は今回のその、菊池の依頼なんだがな……」

 久米はそのニヤニヤ笑いを堪えるのに、終始必死な様子だ。

「今のお前の話を聞いていて、もしかしたら今回のこの菊池の依頼は、お前のその倦怠アンニュイとやらを、綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれる、そんな契機になるかもしらん、と思った」

 おれは一瞬、眉根をひそめて聞いた。

「どういうことだ」

「なあ、お前は当然、漱石先生の『三四郎』という作品を、覚えているよな」

 笑止千万なことを言うな、とばかりにおれは、久米の思惑を推し量るようにその顔を覗きこんだ。

「『三四郎』は先生の作の中でも大変褒めそやされるものだが、おれにしてみれば『それから』あるいは『道草』の方が数等上だ、という、そんな認識だが」

「さあ、そこでなんだ。ここからが、菊池の依頼の内容だが、よく聞けよ。どうやら今回、お前にはあの手のを執筆してもらいたい、とこう言うんだよ」

「……ナニ?」

「まあよく聞け。というのもな、菊池の言うには、今回の作品に関しては、、ということなのだ。どうだね、そういえばないだろう、芥川龍之介には、あの手の小説が」

 久米は言って、楽しげに煙草をまた一口吸った。

 おれは開いた口がふさがらなかった。顎の関節が外れてしまったごとくだ。

 しかしまたよりによって、どうして恋愛小説なのだ?

「……ん? や、それはまあ、何より菊池は漱石先生の『三四郎』が好きだからじゃないかなあ」

 途端にさっきの眩暈がぶり返してきて、強い吐き気を催してきた。おれは思わず、口元を手で押さえ込む。

「その菊池の傑作な提案を聞いてな、このおれもぜひ、お前の書く本格恋愛小説とやらを読んでみたいと、心から思った次第なのだ」

「……」

「だいたい、さっきからおまえのグズグズ言っていることはーーまあ創作家の普遍的な苦しみとしてわからんでもないが……しかし案ずるより産むが易し、とも言うじゃないか? しかもその発表の舞台は、菊池念願の雑誌の創刊号巻頭だぞ。さあ当然、世人は一斉に我々に注目するだろうな。どうだ、まさにおまえの作品世界における新規軸を打ち出すには、うってつけの場じゃあないか」


 ……ああ。これはまずいぞ。


「なにも漱石先生の『三四郎』を、強いて彷彿とさせないだっていいんだよ。これはあくまで一つの例えで、おれたちの欲しいのはお前なりの解釈による恋愛小説、ということなんだからな」

 おれなりの解釈による、恋愛小説ーー。

 すると、おい、なんだか喉が渇いたな、などと久米は、空になった自分の湯呑みの中を覗きながら、文をしきりに気にし出した。

 このとき確かに、おれは気がつくべきだったのだ。

 互いに手をつけないでいた、黒光りする虎屋の羊羹が乾き始めていた。きっと庭先から冷ややかかつぬるい春先のそよかぜが、終始入り込んできているためだ。

 おれはすっかり冷めきった渋茶をひとくち、口に含んで飲み込んだ。

「あのなあ、久米」

 おれが口を開きかけた矢先、勝手の方から文の大きなくさめをする声が聞こえてきた。それから、長男の比呂志ひろしのしきりに母に向かって何か愚図ぐずるような、そんな声も。

「ああそうだ、言い忘れていたが、菊池はもうすでに、あちこちでおまえの新作小説が読めるぞと、挨拶がわりに言いふらしているそうだぞ」

「……」

「これから起こす会社への出資者にも当然な。そこまでしておいて……その雑誌巻頭にもし大穴があいたなら、それがどんなことを意味するのか、おまえなら考えないでもわかるだろう」

「……」

「つまり、社主たる菊池の信用はガタ落ち。結果、作ったばかりの会社は即倒産、ってことだ」

「ちょっ。おっ、おい久米」

「そんな、おれたちの親友に引導を渡すようなことが、貴様に出来るわけはまさかあるまいよなあ」

 久米は勝ち誇ったように、またニヤリと笑った。

 ……万事休した。そんな感じだった。

 そこへ妻が、盆に茶のお代わりを乗せて持って、呑気にふたたび姿を現した。

 久米はその文と目を合わせると、黙って笑いかけ、やあ、ちょうど茶の代わりを所望しょもうしようとしていたところだ、などと軽く手を上げてみせた。それから人差し指と親指で、しっかりと輪を作る。

 妻は、一瞬驚いたように目を丸くさせるとおれたち二人を見交わした。


     弐


「それじゃあ、よろしく頼むぞ? 菊池新社主には、お前の依頼、責任持って伝えておくからな。楽しみにしているよ。ああちなみに、締め切りは今日からきっかりひと月だ。ぜひ守ってくれなければ困るぞ」

 久米はおれの肩に手をやると、繰り返しそう念を押した。そして中折れのつばを軽く傾けると、意気揚々と引き上げていった。

 玄関先で彼を見送ったあと、おれはよろめきながら書斎に戻ると蒲団の上に崩おれるように腰を下ろした。

「ああ……」

 なにか狐につままれたような、そんな気分がしてならない。

 いやいや、妖怪変化どころの騒ぎではないぞ。

 ああ畳み掛けられれば、無理だと断りきれるわけもなかった。

 そして久米の言っていた、菊池が周囲に言いふらしている云々うんぬんも、おそらく本当のことだ。

 つまり、それは畢竟ひっきょうこういうことだ。

 おれを半分、自身の立ち上げる会社の広告塔として考えているのだ。

 あの男は昔から、平気でそういうことをする人間であった。

 そうである以上、もしこの締め切りを落としたなら、奴は烈火のごとく怒り狂うであろう。

 一人、書斎の中でそうやって呻吟しているあいだにも、視界の中には例の書きかけで放置したままの、不愉快千万な『薮の中』の原稿がチラチラと入っていた。

 おれは文机を両手でバンと叩いて立ち上がると、札入れと煙草をわしづかみ、着物のたもとに放り込んで書斎を出た。

 玄関で下駄に足を入れながら、家の奥に向かい、

「……おい。一寸ちょっと出かけてくるぞ」

 と声をかける。

 文が手ぬぐいで手を拭いながら姿を現して、

「どちらへ?」

 と聞いた。

 ……まったく。どちらへ? もなにもないものだ。

「仕事の材料を、これから探してくるんだよ」

 引き戸に手をかけながら言うと、文の顔がにわかに晴れやかなものに変わった。

「そうですか」

「お前にも一応伝えておくが、いいかこれは、あの狡猾極まりない菊池の策略なんだ」

「策略?」

 文が訝しげに首を傾げる。

「奴はおれに、これまでにない、耳目をひくような物珍しい小説をあえて無理して書かせることで、自分の雑誌、および会社の広告宣伝に用いようとしているのだ」

「……」

「つまり、おれは騙されたんだよ。だからもう仕方がないんだ、わかったか」

 文は心から呆れたように、小さく嘆息してみせた。

「何もそんな穿うがった見方をせずともいいじゃありませんか。ありがたく、菊池さんのご依頼を受ければいいだけのことで」

「なにがありがたいものか」 

 しかしいずれにせよ、そうやってまた、お仕事への情熱を取り戻してくれたようで私は本望です。そう文が、ホッと安心したように呟いた。


 ……馬鹿なことを言う女だ。


「だから、いま言っただろう? べつに好き好んで、そうするわけじゃないんだよ」

「……」

「そして、きっとこれが最後だ」

 おれは呆れ顔のままの妻をおいて、ガラリと引き戸を開けた。外はそろそろ暮れ時の時間で、家の門の向こうを、練り飴を握りしめた近所の子供わるがきたちが、歓声をあげながら次々駆け抜けていく。

「ああ、ちょいと。おかえりは、何時くらいになるんです?」

「そんなものはわからん。何か使えそうなものにまでだ」

ったって……そんなに都合よくいくものなんですか」

 このおれの癇癪かんしゃくを、ついに文のその言葉が直撃した。

「もしいかないのなら……おれもお前も比呂志も腹の中の子もーーみんなおしまいだよ」

 おれは引き戸をぴしゃりと閉めた。と文が、ふたたびその戸を開けて、

「ねえあなた」

「なんだよ。まだあるのか」

「でしたらそのついでに、だけ駅前で砂糖を買ってきてくださいません? どうやら夕餉ゆうげの煮付けに足りないようで」

「……」

「おわかりに、なりました?」

「ああああわかったよ。砂糖をだな?」

 おれは吐き捨てるようにそういうと、下駄を鳴らして門扉の外へ出た。



 苛々しながら、たもとから煙草を取り出すと、火をつけけぜわしくふかした。家の中を振り返ってみると、わずかにかげり出した日の光の当たる縁側に、人影はない。

 おれは煙草を目一杯、肺の底の底まで吸い込むと、深いため息と共に時間をかけて吐き出した。

 目の前の開いた台所の小窓から、飯を炊く湯気のようなものが上がっているのが見える。どうやら文が、夕餉ゆうげの支度を始めたものらしい。

「まったく」

 おれは足元に吸いさした煙草の吸殻を投げ捨てると、下駄の歯でぶつ切るように踏み消した。

 さっきから、からすの鳴き声がカアカアと、このおれをあざけるように空に響き渡っていた。途端になにか、寄る辺ないような、そんな不安な気持ちになってくる。

 それにしても、ただの勢いだけで飛び出してきたがーー本当にこんなことがうまくいくのだろうか。

 いまのこのおれにーーなるものが、書けるというのだろうか?

 確かに振り返ってみれば、このおれのキャリアには、ほんの些細な姉弟の情愛を書いた掌編などはあれ、男女間の濃密な色恋沙汰を活写したような作品などは、その片鱗すらないと言ってよかった。

 この事態は、例えるなら、海辺ですなどる一介の漁師を捕まえて、無理矢理江戸に出てこさせ、いきなり人前で落語をさせる、そんなようなものなのだ。

 おれはあらためて、菊池のこのおれを弄ぶかのような思惑に、ちょっとした戦慄すら覚えた。

 なにも夏目さんの傑作「三四郎」に拘泥する必要はまったくないのだ、と久米は言った。貴様なりのものに仕上がっていれば、それでよいのだと。

 しかし……それこそがまさに問題なのだ。

 そもそも、おれなりの恋愛小説とは、いったいどんなものなのか。

 台所から、大根か何かを俎板まないたの上で切るような、そんな音が聞こえていた。うっすらとした出汁だしの煮えるような香りも、こちらまで漂ってくる。

「……まったく、呑気に飯なんぞ食えるいとまはないかもしれんのに」

 着流し一枚では、一寸ちょっと肌寒さを感じる。しかし羽織りを取りに、もう一度家の中に引き返して文とふたたびあいまみえる気には、到底なれなかった。

 おれは着物の袂をかき合わせると、新たな煙草に火をつけ、田端駅の方角に向かって懐手をしつつ、足早に歩きだした。

 


 家から駅までの道のりは、たいした距離でもないのだが、さっきまでの鮮やかな夕暮れの空も、その間に少しずつ、宵闇に移ろおうとしている。

 おれはようよう、駅前までやってきた。正面にある、大きな柳の木の枝が街灯の光に妖しく照されている。その下には駐在所があって、いつも大仰な警棒を持った警察官が、いかめしい顔で仁王のようにちょりつし、こちらを睥睨へいげいしている。

 この日もそうだった。手前の地面からは、目の前をくるまが通り過ぎていくたび、もうもうとした土埃が舞い上がる。

 いつもの暮れ時の、いつもの田端駅前の風景である。

「とにかく、なにか材料だな」

 おれは両手で口を抑えると、繰り返し咳き込んで絡んだ痰を足元に吐き出した。

 毎日の仕事のあとーーおれはたいがい、日課として晩飯までの時間、ぶらぶらと散歩がてら、こうやって駅前まで出てくる。

 好物の煙草を切らさないよう、路地端の角のいきつけの、とある煙草屋で補充するため、ということもある。

 ときに、その煙草屋の親父に引き止められ、勧めてくる茶を飲みがてら、あれこれと話し込み、つい長居してしまうこともあった。

 その煙草屋の親父とは、おれが田端に越してきてからずっとだから、もうかなりになる。親父は新聞小説を読むのが何より好きでーーそれこそ朝日の漱石先生の連載も、すべてかかさずに読んでいたほどだ。

 そしてむろん、このおれの作品も。

 それだからまあ、彼とはいろいろと、話が合うのだ。

 ついでに言うと、彼はこの田端近辺のでもあってーーそのたいていは、どうでもいいような市井しせいのいざこざ話が主なのだが、ときにはひどく感興をそそられる、そんな話が聞けるときもあった。

 一筋の藁にもすがるような思い、というのは、まさにこのときのようなことを言うのではないだろうか。

「……よし」

 おれの足は、だからまずは自然、その煙草屋に向かっていた。



 駅前から少し外れた、暗い路地の角にその店はあった。ガラスの引き戸を開け、中を覗いてみると、いつものパイプ椅子にちんまりと座って、まるで地蔵のような格好で新聞の夕刊を熟読しているはずの、親父の姿がない。

 おかしいなと思っていると、

「や。これは芥川さんじゃないですか。毎度どうも」

 などという声が、突然横ざまから聞こえてきた。

「なんだよ松田屋さん。職場放棄かね」

「え? ハハ、ああいやナニ……」

 親父は被っているベレー帽をいざらせると、その中に手を突っ込んで、禿げ頭をポリポリと掻いた。

「どうも失礼しやした」

 親父はおれを伴って店の中に入ると、いつものバットでよろしいですかね、と言って、煙草の詰まった棚に向かい、指を舐めて茶袋を取り出すと、品物の準備を始めた。

「でーーどうです先生? 近頃のお仕事のほうは?」

 おれは何も答えずに、顎の下を掻いた。

「ほほ。てこたぁ……調子がすこぶる悪い、ってこってすな」

 ……相変わらず、小賢しい親父だ。しかしいつものことである。

「ところで、なんだい。なにか、あったのかい」

「え? いやナニ、ちょいと今そこで……ずいぶんはた迷惑ながおっぱじまったもんでね。あんまり五月蝿うるせえもんだから、軽く注意しに行ってたところだったんで」

 まあ、どうです先生、一杯いっぺぇ茶でも、と親父は言い、おいおまさ、茶だ茶の用意をしろい、と家の奥に向かって叫びだした。お正さん、というのは、親父の妻君のことである。

「それで、無事それは収まったのか」

 ならばーーちょうど今しがた、こちらもしてきたばかりだと嘆息しつつ、おれは袂から最後の一本の煙草を取り出して火をつけると、勧められたパイプ椅子に、礼を言って腰を降ろした。

「ナニナニ収まるも収まらねえも……あっしら外野の言うことなんざ、てんで耳に入っちゃいませんでねえ。ですからもう、だんだんこっちも馬鹿らしくなってきやして、仕方なくほっぽってきたところなんですよ」

 おいお正、茶を早くしろい、と親父はもう一度叫んだ。

「どういうことなんだ?」

「いやね。ついさっきまで、あっしは普段通り、ここで店番してたんですよ。そしたらば……裏の路地から、急に金切声がするじゃねえですかい。しばらくほかっておいたが、これがなかなか収まらねえ。仕方ねえ、ってんで、様子を見に出てみましたらば……なんだか一対の男と女が、そこでひどく揉めてるじゃねえですかい」

 の奥から、暖簾をくぐってお正さんが、茶の入った湯呑みを盆に乗せて出てきた。おれは笑顔を作ってそいつを受け取った。

「それで?」

「で、しばらく話を聞いていたんだが、どうにも腑に落ちねえんで。いっくら話を聞いてても、一向にその事情が判然としないんでさあ」

 親父は痰の絡んだ咳払いを二度ほどしてから、さらに続けた。

「いやま、単純にあれぁ、夫婦めおとなのかなあ……きっとそのいさかいなんでさ。しかしこれがなかなかに、女の方が猛烈なもんだから……」

 これはちょいと、うまい「事件」の香りがするぞ、とおれは、その話に少し興味を引かれた。

「……おや? どうしたんです芥川さん」

 ふと気づくと、自分も受け取った茶で口を湿らせた親父が、ジッとこちらを見つめていた。

「えっ。ああいや、なんでもない」

 すると親父は突然膝をパン! と打って、

「あっしにゃいま、ピンときやしたぜ? どうせ芥川さんのことだ……即座に次のお仕事の材料になるな、なんて、お思いになったんでしょう?」

 おれは心中舌打ちをしつつ、ただ黙って軽く咳払いをした。それから知らぬふりをして茶を啜る。

「しかしそうさな……ありゃ確かに、ちょいと面白いかもしれやせんな。なんせどうにも奇妙なんでねえ。小説になるならんは別としても、一見の価値ありだ」

「ときに、松田屋さん。その喧嘩はまだ」

「いやいやまだも何も、いままさに真っ最中なんですよ。そうだ、なんなら先生、これからそこまでお連れして差し上げやしょうか?」

 素直にうん、と答えるのが少し業腹で、躊躇ためらっているあいだにも、親父は自分の湯呑みの茶を飲み干して立ち上がっていた。見ると暖簾の向こうから、お正さんが何やら心配げに、こちらの様子をジッと伺っていた。



 親父とともに店を出、路地のさらに奥の方に行ってみると、確かに二、三人の見物に取り巻かれ、一人の女が、道のど真ん中に立ち尽くしている後ろ姿が、目に飛び込んできた。

「……ほら先生。あの女でさ」

 親父がおれに、そっと耳打ちした。

 後れ毛のひどく乱れた、古びた藍染の浴衣一枚の姿で、向かい合っている一人の小柄な男と、互いの鼻先をひっつけあうかというほどの剣幕で、何ごとかを激しく言い争っている。

 確かに、なにかただならない雰囲気が、その周囲一帯には色濃く漂っていた。

「ひどく揉めているようだな」

「そうでがしょ? まあ察するに……あの女はおそらく、赤線の女でしょうな。玄人ですよ。あっしにゃその風体ふうてえですぐにわかりまさあ」

 おれの正面に立ち尽くしている、島田に結ったその女は、ひどくで、よくししがついているようだった。後ろ姿ではあれ、おれたち野次馬の視線をものともしないような、そんなはらも根っから持ち合わせている、そんな風にも見える。

「先生、どうしやした。さっきからなんだか固まっちまって。そうか、文学的な感興がーーもうムラムラと湧き起こってきやしたか?」


 ……どうもこの女の後ろ姿、どこかで見覚えがあるぞ。


 と、その女と向かい合っている男がやおら、

「……なあ。どうしてわかってくれないんだ」

 とそう大きく声をあげた。

 こちらの方は、汚い中折れをかぶった、わりに誠実そうな顔をした、乱杭歯でスーツ姿の、女よりもひどく小柄な若者であった。

「なんだかね、あんなことをさっきから、ずっと繰り返しているんで。奇妙でしょう? しかも事情はまったく判然とはしません」

 おれと親父を含めた周りの他の野次馬も、しきりに首をかしげたり、ヒソヒソ小声でささやき合ったりしている。

 とそのとき、目の前の女が、われわれ野次馬連の方を振り返った。その女の顔を見て、おれはつい、声にならない、そんな声を上げてしまったのだ。


 ……その女は、ちょっと呆れてしまうほどに、


 いや、似ているどころか、まったくの瓜二つなのだ。

「どうしたんです? 芥川さん」

 親父がひどく動揺しているおれを横目で見、不思議そうな顔でそう聞いてきた。

 おれたちのいる、裏路地の真向かいの方向には、さっきの駐在所が小さく見えた。その前には依然、例の駐在が立っているが、どうやらこの揉め事には気がついていないらしい。

 とにかくおれは、この目前の出来事に釘付けになっていた。

 どうしてここに、文がいるのだ?

 しかも、赤線の女として。

「……なあ、松田屋さん」

 おれはふたたび男の方に向き直った、その女の着物の帯を見つめながら言った。

「もし、あの女が赤線の女だというのならーーあの相手の男の方は、いったい何者なんだ?」

 聞くと親父は、ニヤリと不敵に笑い、腕組みをしてしばし考えこんだ。

「ほほ。もうお仕事に入ってらっしゃるようですな? そうさな……強いて言うなら……陸中りくちゅうあたりの田舎から出てきた、左翼の活動家くずれ、ってところでしょうかな」

「……」

「あるいは、その顛末を小説に仕立てあげようとしている、作家志望者……

「要するに、二人はおそらく、同郷の夫婦めおとなんでしょう。しかし、何らかのわけがあって、女はいま赤線なんぞの境界に甘んじている、と」

 親父は軽く興奮しながら、履いてる股引きの中から煙草を取り出すと、一本咥えて火をつけた。

「しかし、芥川さんは正真正銘の作家先生なんだ。あっしのいま言ったことなんかより、もっと面白い筋立てができるんでしょうに?」

「……なあ、だから、どうして受け取ってくれないんだ」

 男がまた、その女に向かって不平そうに叫んだ。

 途端に文の身内としてのこちらが、なにかあの男に対して申し訳のないような、同時に妙に馴れ馴れしいような、そんな不愉快で不思議な気持ちが襲ってくる。

 と突然、男はそれまでずっと手にしていた黒い鞄を、その女に向かって押しつけた。女が払い落とすようにする。いや、実際、それは二人の足元に払い落とされてしまった。

「あれはいったい、どういうことだ」

「イヤ、ですからああやってーーあの荷物を、ずっと互いに押し付けあっているんでさ。だから余計に奇妙なんですよ」

 するとその青年は、その鞄を女の足元にさっと置き直すと、そのまま駅の方角に向かって一目散に駆け出して行ってしまった。

 途端に女は、

「……ちょっとッ!」

 と金切り声を上げると、堪え難いような顔をして、ふいにおれたちの方を見た。

 その女は、何かこちらの胸を鷲掴んでくるほどに悲しげなーーそんな目つきでこのおれをじっと見つめていた。

「……ねえ。ちょいとあんた」

 女はずいとおれの方にむかって歩を進めると、おもむろにそう言った。

 声まで、文に似ている。

「な、なんだね」 

「あんた、名前なんていうのさ」

「名前?」

 おれの声は、知らず上ずっていた。

「芥川だ」

「芥川? 変な名前ね」

「……」

「ねえ、芥川さん。もうなにもかもーーぜんぶあんたに任せるわよ。だからどうとでもして頂戴」

「なに?」

 と女は自分もくるりと反対方向を向くと、そのまま逃げるように、と走り去っていってしまった。

「あっ。ちょっ。おっ、おいーー!」

 すると驚くべきことに、おれと煙草屋の親父の二人を残し、周囲の野次馬はそれを塩に、するするとまるで糸を解いていくように、三々五々散って行ってしまったのである。

 親父は隣で口を開け、黙ってこのおれを見上げていた。

「こいつはーー面倒なことになりましたな」

 面倒なこと、などと言いながらも、親父はどこか楽しげであった。

「ときに、芥川さん。どうするおつもりで」

 おれはその打ち捨てられたままの黒い鞄の元まで歩んでいくと、取っ手を持って取り上げてみた。

「……どうしやした?」

 その荷物には、やけにとした、そんな重みを感じた。

 もう一度、周囲を見渡してみてもさっきの二人の姿はどこにもない。

「しかしこいつぁ、もしかしたら色恋沙汰の、いや、ひょっとすると刃傷にんじょう沙汰の訳ありですぜ? 芥川さん。悪いことは言わねえ、小説の材料なんぞと言わずに、そのまんま早く警察にお持ちなせえ」

 親父が、妙に真顔になってそう言った。

 黙り込んでいると、

「ようがす。そんならあっしもこれから、一緒に交番まで参りましょう。そもそも先生を巻き込んじまったのは手前てめえなんですから」

 それにしても、だ。

 あの、文に瓜二つの女のことが、そしてあの男のことが、さっきから脳裏に焼き付いたまま離れないでいた。

 あの二人は、いったいなんだというのだ?

 周囲を見渡すと、いつしかもうとっぷりと日が暮れていた。おれはもう一度、その手にした重たるい黒い鞄を持ち上げた。


     参


 その痘痕あばたづらの無愛想な駐在は、なかなか要領が得ないでいた。 

 煙草屋の親父と、駐在所までその荷物を持って出向き、これこれこう、といきさつを説明しても、さも預かり知らんとでも言いたげに、しきりに首を傾げるばかりなのだ。

「しかしそれは、またずいぶんおかしな話じゃないかね」

 ひどく面倒くさげに、駐在は同じことを繰り返した。

「だからさっきから、そう言っているんじゃねえですかい。他の野次馬連も、きっとみんなそう思っていやしたよ。あっしらは、その代表なだけだ」

「フン。代表ねえ」

 馬鹿にするようにそう言うと、駐在はさも不愉快そうに大きく咳払いをし、そのぎょろりとした目でじっとこちらを見据えた。

「それはまあ、ご苦労なことだったが……しかしその夫婦めおとは、おたくらの知り合いではないのかね」

 親父が途端に目を丸くした。

「なんですって? もちろん会ったこともねえや。ねえ、芥川さん?」

 急にドキリとした。

「えっ? ああ……いや、そうだな」

 なんとなく歯切れの悪い答えをしてしまったおかげで、駐在のこちらを疑う目は、ますます色濃くなっている。

 自分のさいに、あの赤線の女は瓜二つだった、などと答えられるわけもない。駐在はただ困ったように、髭を指先でねじり上げている。

「知り合いでもなんでもないんなら、こんな荷物、ほかっておけばよかったろうによ」

「いや、だから向こうから勝手に、よろしくと頼まれちまったんで」

「頼まれたからってーーはいそうですか、と素直に鵜呑みにする必要もあるまい。ただの厄介払いで持ち込まれても、こちらは困るんだよ」

「……」

「だいたい、その二人がおたくらの知り合いでないと、どうして証明できるのかね? 知り合いでありながら、その責任を放棄するかたちで、われわれ警察に持ち込んだわけではない、と? ええ? こっちはその現場にいて、逐一観察していたわけじゃないんだぞ」

 途端に何も言えなくなったおれたちを、駐在は勝ち誇ったように眺め渡すと、大きなため息をついた。

「だったらまあ、仕方ないから、落し物として処理するかね」

 しごく面倒そうにそう呟くと、木製の椅子にどっかと腰掛けた。丸縁の眼鏡をかけ、指先を舐めて手元の帳簿をめくると、そこに細かな字で記録をつけ始める。

 親父がおれの隣で、呆れた顔で肩をすくめてみせた。

「ええと、おたく、名前は」

「……私か?」

「ああ、もうどっちでもいい」

 さっきからひどく横柄な態度のこの駐在に向かって、おれは素直に聞かれたことを答えるのを業腹に思った。しかし、無駄な意地を張ってもたいして意味などはない。

「芥川龍之介」

「……アア? アクタガワ? 奇妙な名前だな。本名かね」

「そうだよ。貴様失敬だな」

「住所は」

「滝野川町字田端、四百三十五番地」

「……それにしても」

 まるで地獄の底からそよいでくるような、そんな強い口臭を吐き散らしつつ、その駐在は帳簿から目を離すとおれに向かって顔を上げた。

「そもそもその夫婦めおとは、なぜそんな言い争いをしていたのかね? 何度も言うように、厄介物なら困るんだ」

 言って駐在は、足元にある鞄に向かって目を細めた。途端に親父が、

「知りませんよそんなこたあ。だいたい、そのために警察があるんじゃねえんですかい? だったらちっとは世のため人のために働いたらどうなんで」

「……おい、いいか」

 駐在が、拳でドンと机を叩いた。

「街場の男女の痴話喧嘩に、警察がいちいち付き合っとるいとまはないんだよ。そんなことをしておったら、いったい警察官が何人おればいいんだ。そんなのは、三文小説家にでも任せておけばいいんだ。わしは小説など、くだらんから読まんけどな」

「……」

 隣の親父が、申し訳なげにおれの顔を見上げている。

 おれの気分は、いまや変わりつつあった。

「なあおい、駐在さんよ」

 そう口を開くと、隣の親父が軽く心配そうに顔を向けた。

「なんだ」

「ちょっと、尋ねるがね」

「言ってみよ」

「さっきの……あの持ち主らしき夫婦の所在がもし判明しなければ、この荷物はいったいどういうことになるんだね?」

 かけていた眼鏡を外すと、駐在は軽く肩をすくめた。それからこちらに首を傾げ、帳簿を机に音を立てて投げ置く。

「どういうって、そりゃあ当然、いずれ廃棄することになるわ」

「廃棄」

「ああ。でもきっと、そうなるんじゃないのかね」

 駐在はふいに椅子を降りると、その鞄の前に屈み込んだ。

「そんなら一寸ちょっと、こいつのを、確かめてみようかね」

「ああ、確かにそれは、あっしもさっきから気になってやした」

 にわかに親父も同調すると、ともにその荷物の近くに寄り集まった。

「……ちょっと待った!」

 おれはその駐在を押しとどめるようにしてその荷物を取り上げた。と、ひどく色の悪い舌を見せながら、駐在はこちらを怪訝けげんな顔で見つめた。

「芥川さん。いったいどうするおつもりなんで」

「気が変わったんだ。この荷物は、自分がしばらく預かることにする」

「なんですって?」

 途端に駐在は、呆れた顔で立ち上がると、胸をそらせてこのおれと対峙した。例の耐え難い口臭が、おれの顔全体にふきかかる。

「……おい、貴様。警察をなめとるのか」

 ドスの効いた声でそう呟いた駐在と、おれはじっと目を合わせた。

「そいつはお互い様だろう。あんまり小説家をなめてもらっては困るな」

「ナニィ?」

 おれと駐在の間に立っていた親父が、オロオロし始めた。

 外の柳の木の枝を揺らせ、少し肌寒いような風が、しきりに駐在所の中に吹き込んできていた。

 鞄を持って、親父とともに外へ出ると、ポツリと雨粒が頬を打った。空を見上げてみると、うっすらとした雨雲が、いつしかその全体を覆っている。

 おれはもう一度、駅前のあたりを見回した。しかしあの二人の行方は、ようとして知れなかった。


     肆


 家に帰り着くか着かないか、といった頃から、降り出した雨は霧雨に変わっていた。

 軒先の向こうの闇の中で、細かい雨がみっしりと降り続いている。

 冷たいような雨風が入り込むのを嫌って、文が縁側のガラス戸を閉めた。

「……でもなんですよ。そりゃまたずいぶんおかしな話じゃありませんか」

 おれの隣でちゃぶ台に向かって正座をし、ゆるい粥をすすっていた息子の比呂志が、すぐに後ろを振り返る。

 その視線の先には、雨に濡れた、例の黒革のボストンバッグが置かれてあった。

「何もわざわざ、うちに持ち帰って来なくたって……」

 呆れた顔でひつの前に腰を下ろすと、文はおれの碗に飯を盛り始めた。

「そんなら、どうすればよかったと言うんだ」

 差し出された碗を手にとると、大根と生姜の添えられたかれいの煮付けに箸を入れた。食ってみると、その切り身の味がやに塩辛い。

「……おい、なんだこれは」

「なんだもなにも、あなたが頼んでおいた砂糖を買うのを忘れたからでしょうに」

「……」

 不機嫌そうに言って、文は比呂志の隣に座る。

「まあ、おかげでご飯が進んでちょうどよいでしょう」

 おれは黙って切り身を飲み込みながら、じっとその文の顔を見つめていた。

「それにしてもこんなもの、ただ警察にお届けになれば、それで済んだんじゃないんですか?」

「無論、そうしたさ。しかしそれでは、いずれ廃棄処分されてしまう運命だ」

 黙って聞いていた文は、やがて大きくため息をついた。

「それならそれで、べつに構わないでしょう……どうせただの他人事ひとごとなんですから……」

 

 ……他人事ひとごとだと?

 どの口で、そんなことが言えるというのだ。


 おれは飯を食い始めた文の顔を、まじまじと注視し続けた。


 ……やはり、まるで二人はだ。

 おれより先回りをして家に帰り、着替えを済まし、再びまた目の前に現れ、飯を盛った、としか思えん。


「……ちょいとなんですよ、さっきから人の顔をジロジロ見て」

 おれは何も答えずに、大根の葉の浮いた味噌汁を啜った。

「どうせ例の、菊池さんのお作の材料にする、とでもいうのでしょう?」

「……だったら、なんだというんだ」

「いずれ作家は廃業なさるおつもりのはずなのに、ずいぶんご熱心なことで」

 おれは舌打ちして、飯を口に入れた。いつものように炊き具合が水気が多く、粘ついている。

 おれは粒が立つほどに固めに炊いた飯が好きなのに、いくら言っても文はそうしようとしないのだ。自分の実家の飯はこうだった、の一点張りだ。

「それであなた。いったいその荷物を、いつまでうちで預かるおつもりなんです?」

 心から面倒げな顔で、自分も飯を口に入れながら文が平たい横目でそう聞いた。その頬骨のあたりに、頭上のか細い灯りの影が落ちていて、後れ毛の乱れたその風貌は、生活のあれこれにもう心から疲れ切った、そんな様子に見える。

 すると急に、あの薄幸そうな赤線の女のことが、ふたたびまざまざと思い出されてきたのだ。


 ……もうなにもかもーーぜんぶあんたに任せるわよ。


「第一、その荷物のは、いったいなんなんですよ。二人して押し付けあっていたのでしょう」


 ……


 そんな言葉が、喉元まで出かかっていた。しかしなんとか押し留める。

「ああ恐ろしいことだ。何やら物騒なものだったなら、いったいどうするんです」

 確かにそれは、軽く不安に思わないでもなかった。

 煙草屋の親父も、しきりに指摘していたことでもある。

 あの男には、どこか少し、ある組織からやむなく脱落し、結果進んで面倒を抱え込んだ者のような、そんな印象があったからだ。


 ……この女は、確かにそういう男に惹かれるところがある。


「ねえあなた。お願いですからそんな厄介物は、早く片付けちまってくださいましよ」 

「なに大丈夫だ。心配せずとも、このおれにまかせておけばいい。それに、その夫婦の風貌は、ようく記憶しているのだから」

 皮肉たっぷりな言い方をしていると、我ながら思った。

「まあたそんな剣呑けんのんなことをお言いだ」

「ああ、それと言っておくが、このおれに黙って、決してこの鞄に触れたり、中身を覗いたりしないこと。いいかわかったな」

 文はいまだ釈然としないような、そんな顔をしていた。おれがそれ以上気にせず、鰈の身を乗せた飯をかきこんでいると、隣の比呂志が、

「ねえ」

 と言って、指先でつまんだ何かを得意げに差し出した。それは煮付けの鰈からほじくり出した目玉だった。

「これ比呂志、行儀が悪い!」

 言って文は、比呂志の手をぴしゃりと打った。その白い目玉が、ころころとちゃぶ台の上に転がっていく。

 おれはその目玉を指先でつまみ上げた。

「なあ、文」

「なんですよ」

「お前は……この荷物の持ち主の二人は、いったい何をしていたのだと思う」

 途端に文の顔が、またひどく疑わしげなものに変わった。

「何って、知りませんよそんなもの」

「どうして……あのときあの女は、この荷物をそこまで忌避していたのだ」

「……」

「確かに、あの男は、幸徳秋水の弟子筋にあたる、国家転覆を企てる、極左のアナキストかもしれないな」

「えっ」

 おれは身のうちに、ある強いが、あらためて強くせり出してくるのを感じていた。

「そしてあの女は、組織から脱落した自分の男を守ってやるため、の二階の四畳半にかくまってやっていた」

「……」

 様々な妄想が、次から次へと、あたかも散る寸前の桜が最後に見せる狂い咲きのように湧いてくる。

 おれの脳内では、無数の小説の筋立プロットが、絢爛豪華けんらんごうか希臘ギリシャ神殿パルテノンの如くに、組み上げられては壊され、また組み上げられてを繰り返していた。

「……パパア。なんだか嬉しそう」

 そう比呂志が、家中に響くような大声で答えた。

 碗の中の飯を平らげると、

「随分今日は、たくさん召し上がるじゃありませんか」

 と、そんなことを何も知らない文が呆れた顔で言った。煮付けの塩辛さだけではない、とでも言いたげだ。

 ……おいあやよ。

 お前のおかげで、どうやらこの小説は面白くなりそうだぞ。

 おれは妻に向かって空になった碗を突き出した。

 外の雨がーーかすかに激しくなったようである。どこか不吉な雷鳴の音が、天井の向こうに繰り返し不気味にこだましているのが聞こえていた。


     伍


 庭に植えられた白木蓮の花が大輪に咲いて、その大きな花びらが、地面のいたるところに散り敷かれているのが書斎から垣間見えている。

 おれは机に向かって、ある一通の封書を広げていた。

 鎌倉に遊んでいるという久米から、せんだって届いた手紙だ。

 それは以下のようであった。


 ……拝啓、先般お申し越しの貴殿の作『藪の中』落掌。直ちに拝読致候。

 嘘偽りなく、、心より堪能せしこと、感佩かんぱいあたわず。まずは平に平に深謝申し上げ候。

 さて、更に昨今、懇望こんもうせし菊池の「文藝春秋」への新作、『黒い鞄』なる表題にて稿を起こされたよし聞き及び候て、噫噫あああに図らん哉、正に貴殿の筆力、鬱勃うつぼつとして天蓋にまたた綺羅星きらぼしごとし。先日の弱音など、呵呵大笑かかたいしょうして直ちに唾棄すべき贅言贅語ぜいげんぜいごに過ぎぬことは必定と、甚だ勝手僭越至極乍ら、ここで判然はっきりと確言させて頂きたく存じ候……


 久米からのその手紙を最後まで読み終えると、封筒にしまいこんで机の上に置いた。

 小さくため息をついて、煙草を手にとり火をつけると、一口蒸した。庭の方から聞こえるうぐいすの鳴き声に、しばし耳を傾ける。

「……ええい、糞ッ」

 おれは伸び放題に伸びた蓬髪を、両手で思い切り掻き毟った。

 『黒い鞄』の執筆は、四十枚前後まで進んだあたりで、ぴたりと止まってしまっていた。

 机の前に座ったまま、滅多めった矢鱈やたらにただ煙草をふかしていると、そのもうもうとした紫煙の中を、文が縁側の廊下をまっすぐ、右から左へと洗濯物を抱えてせわしげに歩いていく。そして突然、ジロッ、とおれの顔を睨みつけたかと思うと立ち止まった。

「ねえあなた」

 悪い予感のしたおれは、吸い尽くした煙草を火鉢の中に捨てると、文から顔を背けた。

「なんだ」

「例の荷物は、どうなったんです」

 おれは黙って鼻から煙草の煙を長く吹き出すと、素知らぬ顔で尻をいざらせ大きな屁をひった。途端に文が、鼻を両手で押さえる。

「もう、汚い」

 続いて二発目を繰り出してやろうと思ったが、弾がもうない。新しい煙草を手に取ろうと思ったら、それもない。

「どうもなっちゃいないさ」

「それはぜんたい、どうしてです?」

 書斎の中に文はずかずかと入ってくると、絨毯じゅうたんの上に正座した。床がその勢いで、大袈裟でなくミシミシと鳴る。

「どうしても何も、あの夫婦の姿が一向に見つからないのだから、仕方がないだろう」

「本当にちゃんとお探しになってるんですか?」

 ちゃんと探しているさと言ってやっても、文はいまだ納得しかねるような、そんな顔をしている。

 『黒い鞄』の執筆の合間合間、おれは頃合いを見計らって、あの荷物を持っては散歩に出、田端の駅前までおもむき、二人の姿を探すことを続けていた。

 まずは松田屋に行って、親父とこまめに情報交換をする。しかしあれ以来、とんとその姿を見ていない、と親父はいう。

 あの駐在所にも立ち寄って、改めて訊いてもみたが、夫婦が尋ねてくるどころかその問い合わせすら皆無らしい。

 ……こうなってくると、残された手として、おれの取ることの出来る行動といえば、たった一つしかなかった。

 おれは、目の前の文の顔をじっと見つめた。化粧っけのない顔についた両の目を丸くして、こちらを見つめ返してくる。

 ある日おれは、ちょいと買い物へ行ってきます、と言って夕刻ごろに出かけていった、文の後を尾行つけた。

 尾行とはいえど、そもそも文の行動半径というのは、極めて狭いものだった。というか、今回初めて自分の妻を尾行してみて、あらためておれは、そのことを知ったのである。

 二人目が腹の中にいる身重である、ということもあろう。が、ほとんどは家と駅前へ買い出しに行くのとの往復なのだ。その間、どこかへ立ち寄るなどということも一切ない。

 呆れ返る一方で、余計におれは考えこんでしまうことになった。

 しかし一点だけ、一寸ちょっと妙に思うことがあったのだ。

 ほんの一日だけのことであったが、その日、文は買い出しを終えたあと、買い物かごを待ったまま、なぜか決まった普段の道を外れ、大川の方に向かったのである。

 その後、すぐに文は引き返してきた。おかげで慌てて手前の路地に、身を隠さねばならなかったほどだ。 


 ……あれはいったい、なんだったのだろうか。


「いいか。お前はおれのやることに、いちいち口出しするんじゃない。悪いくせだぞ。それから、久米などを巻き込むこともやめろ。迷惑でかなわん」

 目を合わせずにそれだけ言うと、文は大いに不満げな顔で、何か聞き取れないことをぶつくさ言いながら立ち上がり、そのままツンと顔を背け、書斎を出て行ってしまった。

 しばらく経ってから、頃合いを見計らい、書斎からそっと顔を出してその様子を伺った。しかしもう、そこにさいの姿はない。

「……」

 壁の時計を見ると、そろそろ執筆を一段落させ、日課の散歩に出る時間になっていた。せめて形だけでもそうしてみせないと、いよいよ文は納得せずにヒステリイを起こすかもしれん。

 おれは書斎の中に戻ると、部屋の押入れにしまっておいた、例の黒革の鞄を取り出した。

 文机の前の、絨毯の上にその鞄をそっと下ろす。それからもう一度、背後を振り返った。様子を伺いつつ、静かに耳をすませる。

 庭のいたるところに、うららかな午後の春の日差しが柔らかく落ちかかっていた。二羽の雀が、白木蓮の落ちた花びらのもと、しきりにくちばしを動かしチュンチュンと声をあげながら羽繕いをしている。

 すっかり革の光沢の落ちてしまった、目前にある鞄の表皮は、庭先から入るその日の光を吸い込んで、あたかも押し黙るように、漆黒に暗く落ち込んでいる。

 おれは意味もなくもう一度、鞄から離れると縁側に顔を出して外の様子を伺った。見上げてみると、ぽかぽかとした春先の日の光が、少し翳ったり、また雲間から現れたりを繰り返している。

 鞄の前に戻ると、絨毯の上にあぐらをかき、背筋を伸ばして軽く咳払いをした。

 先日おれは、仕事の途中でふと思い立って、この荷物のを確かめてみた。

 鞄のファスナーをゆっくりと引き開け、まずは中を覗きこんでみた。と、いきなり新聞の三面記事の文字が、目に飛び込んできた。

 どうやら、あるが、その新聞に包まれて入っている様子なのだ。そしてその上に、一通の茶封筒が置かれてある。

 おれはその茶封筒を取り出してみると、息を吹き入れ中の便箋を抜き広げてみた。

 そこには、単簡にこうあった。


「……僕の妻たる君に、本当に悪いことをしたと、今では思っている。これは、仲直りのしるしです。受け取ってください」


 よく見てみると、その新聞の覆いのかかったものは、何かうっすらとを帯びている様子でもあった。

 しかし、果たしてそれが何なのかまでは、いまだおれは最後まで確認していないのだ。

 いずれにせよこの荷物は、あの若者の妻たる女に対する、なんらかのの表現なのだ、ということらしい。

 それが結局、女に拒否され果たされないままーーこうやって今は見知らぬ人間の手元にある、ということになるのらしかった。

 いや、見知らぬかどうかはわからん。おれはこのことに、何か強い『えにし』のような、そんなものを感じていた。

「それにしてもいったい……これはなんなのだろうな」

 他人の私物をこうして覗き見ることに、一抹の罪悪感はむろん、感じないでもない。しかしまさにいま、『黒い鞄』の執筆の停滞の原因になっているのは、ひとえにこの謎なのである。

 あの女は、いや、文はーー? なぜこの夫の和解の気持ちを、ああまで拒絶したのだろう。

 おれはやおら、その場に四つん這いになると、そっと鞄に耳を近づけてみた。何も聞こえない。

 それから掌で、軽く鞄の腹を撫でてみた。どことなく、なにか硬いもののような、そんな印象を受ける。

 おれはあらためて、その鞄のファスナーを開けると鼻を近づけて、その匂いを嗅いでみた。

「おや? これは」

 そのとき玄関の方から、

「ごめんくださーい」

 という、男の声が聞こえた。

 おれはビクリと体を震わせて立ち上がった。

 勝手の方から、文が応対に出たようだ。やがてその男の聞き覚えのある声で、誰だかわかった。

「……あなた、久米さんですよ」

 縁側を音を立てて歩いてきた文が、ふたたび書斎に顔を出して言った。帰京したなら、一度すぐに小説の進捗状況を伺いにゆく、と、さきの手紙にもあったのだ。

 おれが一人、ファスナーの開いた鞄を目の前にしていると、

「ああ、これからお探しに行こうとされてたんですね」

 と文が、ホッとした様子で言った。

 文の背後に、久米がやあ、と言って手を上げながら姿を現した。心なしか、少しばかり日に焼けたようだ。

 おれは鞄の前で腕組みしながら、彼と目を合わせた。その荷物に気づいた久米は、一瞬驚いた顔をしてみせた。

「おや? その鞄は……」

 文が呆れたように頭を繰り返し振って、そそくさと台所に茶の用意をしに行く。

 おれはただ黙って、彼に向かって苦笑いし肩をすくめた。


     陸


「……ナニィ? その夫婦の話は、まさか本当のことだったのか?」

 二人で家を出、その後久米を駅まで送りながら、おれは彼に、それまでの経緯いきさつを、あらまし話してみた。

 さっきまで、うちで茶を飲みつつ二人で語らっていた時は、すぐ端にいた文をはばかって、このことについては何も話をせずにおいたのである。

「実はそうなんだ」

 久米は、驚きとも何ともつかない、そんな妙な感じに眉根を寄せ、このおれをじっと見つめていた。

「おおまかな粗筋プロットを聞いた時点では、まったくの創作とばかり思っていたぞ……それで結局、おまえはその鞄の中身を、いまだ確認せずにおいている、っていうわけなのか」

 おれは腕組みをしたまま、黙って歩いた。下駄の砂利を踏み締める音だけが聞こえている。

「そこでおまえに、ひとつ聞くんだがな」

 おれはしばし間をとって、その考えをまとめてから、ふたたび口を開いた。

「自分はあの鞄の中身を、確かめるべきなのだろうか」

 久米は歩みを止めた。つられて立ち止まったおれは振り返る。

「それはつまり、こういうことか? その中身が何なのか、そもそも作者がわかっていなければーー小説を書きようがない、と」

 おれは大きく息を吸うと、吐き出して黙り込んだ。ものを考えるときの癖で、顎のあたりを指先で軽く触る。


 ……いや、それだけではない。


「や、まあ、こっちとしちゃあ、その素材がノンフィクションであれなんであれ、ひとえに面白い小説をお前が仕上げてくれれば、それでいいわけなんだがな」

「そんなことはわかっているよ」

 軽く苛立ちながら、おれはそう答えた。久米が途端に肩をすくめる。

「でも確かに、その話は面白いぞ。なにせその赤線の女がーーなんとあのあやさんとという点が、また実にケッサクじゃないか」

「……」

 結局、おれはあれこれと考えたあげく、今回の小説のプランとしては、ある日絶望的なに陥った、おれと名乗る一人の作家に起きた(つまりそれは、この芥川龍之介のことである)、その通りのことを、そのまんま小品風に書く、という手法をとることに決めていた。

 その原則を守るのであるなら、久米がいま言ったことも、たしかに嘘偽りなく書かねばならないわけだ。

 そして久米の言ったとおり、

 おれはふたたび、前を向き直って歩きだした。慌てて久米が、後ろから追いかけてくる。

「とにかく何かが、妙に引っかかるんだよ」

 そう言うと、久米はしきりに首を傾げた。

「何かって、要はあれか? 他人の私物を黙って覗き見る、ということがか」

「いや、違う」

 違う。そうではないのだ。

 しかし何かが……何かが、とてつもなく引っかかる。

「なあ久米よ、大変すまないが、『黒い鞄』の締め切りを、もう少しだけ伸ばしてはもらえないかと菊池に尋ねてみてくれないだろうか」

 久米が目を丸くしてみせた。

「いや、まあそれは構わんと思うが、筆が渋ることのほかに、なにかあるのか」

粗筋プロットでも説明したように、あの鞄の中身が、その男たる亭主の、妻君へのお詫びのしるしなら……彼の思いは、ついに果たされないで終わってしまった、ということになるだろう。それは、やはりこちらとしても忍びない」

「そりゃまあな」

「だからなんとか、あの持ち主を探し出せないかと思ってな、努めているんだよ」

「確かに、その顛末まできっちりと書いてこそ、お前のその小説は、完結するのかもしれないな」

「あれから何度も、あの鞄を持って駅前に行ってはいるんだが、まったく音沙汰なしだ」

 と久米が、

「おい、ちょっと待て。よく考えてみろよ」

 と呟いて、ポンとおれの肩を叩いた。

「お前のその小説は、いずれわれわれの『文藝春秋』創刊号に掲載されるんだぞ。それを読んで、これは自分です、あるいは私ですと、名乗りを上げてくれるかもしれない、ということはないか?」

 そのことに関しては、当然考えはした。

 しかしそんなにうまくいくだろうか、という疑念は残る。

 芸術至上主義者と世間で目されているこのおれが、革命を煽るプロレタリア文学の左翼作家ならばいざ知らずーー。

「でもなんだか、その小説の仕上がりが、おれは楽しみになってきたよ」

 なぜだかさっきから、久米が妙にのあるような、そんな顔でニヤニヤ笑いを続けていた。

 それが、気に障ってしかたない。

 半丁ほど歩いたところで、駅まで足を伸ばさなくともいい、今日はここで失敬する、と久米が言った。

「お前には、早く戻ってその『黒い鞄』の続きを書いてもらわねばならんしな」

「……」

「なあ、芥川よ」

「なんだ」

「お前のその顔は……今すぐにでも、その鞄の中身を見たくてしょうがない、そんな顔だな?」

「……」

「お前も実は、文さんにいろいろ伝えたいことがあるんじゃないのか」

 ドキリとして、おれは久米から顔を背けた。

「なあ。お前に一つだけ、教えといてやろうか。あの日……おれがお前に、この小説の依頼をしに行った日だな。あのとき、玄関先で文さんが開口一番、おれに言ったのは、お前のこの頃の疲弊した心身への、優しい心遣いだったのだぞ」

「……」

「そのことを忘れるなよ。しかし菊池も、この話を聞けば、絶対に興味を持つと思うな。その点は、まずこのおれに任せておきたまえ。では文さんによろしくな」

 おれはその場で久米と別れ、曲がり角まで来、ふと振り返ってみると、まだそこに久米は立って、こちらに向かって笑いながら、楽しげに二、三度手を振った。


     漆


 その日の夕刻、おれは仕事をする気がまったく起きずに、「黒い鞄」の原稿ははたにうっちゃって、身を入れずにぼんやりと洋書に目を曝したあと、縁側に腰を下ろし、夕闇の中片膝を抱えて煙草をふかしていた。

 と、そこに文がやって来た。

「あなた」

 言って妻は、おれの傍に妙にかしこまって正座した。

「……なんだ」

 少し、違和感を覚えたおれは、ちらと文の顔を見た。

「ちょっとお話があるんです」

 おれは、眉をひそめた。当の妻はひどく真剣、かつ深刻な顔をしている。

「何だ、話とは」

 文はやがて決心したように、

「比呂志の様子が、おかしいんです」

 と言った。

「……比呂志が? どういうことだ」

 文は鼻を軽く啜ってから言った。

「昨晩から、水のような下痢が止まらないんです」

「……」

 足元の敷石の上に、長くなった煙草の灰を落とした。庭に植えられた南天が、か細い暮れどきの光とかげの中、こちらに向かって何か言いたげに、ひっそりと押し黙っている。

「医者を呼んでやればいいじゃないか」

 急に煙草が苦く感じ出した。喉に絡んだ痰を吐き出すと、黄色く粘ったものが土の上に飛ぶ。

「もう呼びました」

「……流行の、感冒じゃないのか?」

 文はため息をつくと、何かひどくもどかしげな、そんな顔をし始めた。

「ねえあなた。なんだか……三年前のお義父とうさんのことを、思い出しませんか?」

 突然文は、そんなことを言い出した。

 おれの実父、新原敏三は、三年前、流行性感冒が原因で死んでいたのだ。

 おれは幾度も咳払いをすると、煙草を足元に投げ捨てた。

「……何が、言いたいんだ?」

「それに」

「なんだよ、まだあるのか」

「今日の朝、勝手口のところに、突然見たこともない黒の野良猫が一匹、横になって舌を出して死んでいたんです」

「……」

「なんだか私、気味が悪くって」

 おれはじっと、文の顔を見返した。向こうも負けずにそうしてくる。

「だからおまえは、さっきから何が言いたいんだよ」

「ですからきっと全部ーーで御座いますよ」

 毅然とした顔で文は言った。おれはその途端に吹き出してしまった。

「なにをバカなーー」

「笑い事じゃあございませんよ。考えてもみてください。この出来事が全部、あの晩あなたが、あの荷物を持ち帰ってきた日から始まっているんですから。私はちゃんと、日めくりで数えて勘定しているんです」

「……」

「それに、いくら菊池さんのためのお仕事だからって、いつまでたってもあの鞄の持ち主を見つけだしもせず……」

 おれは何度も舌打ちした。いくらしてもし足りないくらいだ。

「だったら、おれにどうすればいいというんだ?」

「そんなことは、女の私にはわかりません」

 おれと文は、しばらく黙り込んだ。気詰まりな空気が広がる。

「あの鞄を、お前は今すぐどこかにやってこい、と、そう言いたいんだな」

「ええ、そうです」



 おれは縁側を立つと、裏の勝手口に向かった。

 戸を開けて外をのぞいてみると、空の醤油の一升瓶などと共に、汚い油紙に包まれたものが地面の上に置かれてある。

 日当たりの悪い、苔のうっすら生えた湿った土の水分が、その紙の塊の下半分の乾きを奪ってしまっていた。おれはその場に屈み込むと、その包みを指先で少し広げてみた。

「ウッ」

 口元を手で押さえると、すぐにその包みを打ちやって、家の中に戻った。

 台所で手を念入りに洗ってのち、今度は奥の六畳間に向かう。

 薄暗い、部屋の中央に敷かれた布団の上に、濡れた手ぬぐいを額に乗せた比呂志が寝ていた。

 比呂志は、苦しそうに顔をしかめていた。額にじっとりと脂汗がにじんでいる。何か小さく、うなり声のようなものも上げている。

 おれは息子の熱い額に手をやりながら、その様を見下ろした。



 黒革の鞄をひっつかみ、玄関に向かい下駄の緒に乱暴に足を入れていると、裁縫しごとをしながら文が、居間から軽く顔を覗かせた。

「……あなた。そのお帰りに、ついでに湯にでも行ってらしたらどうですか? 石鹸シャボンと手ぬぐいが用意してありますので」

 おれは文と、じっと目を合わせた。

 黙って家を出ると、戸を激しく音を立てて閉めた。

 下駄を踏み鳴らしながら、田端の駅まで向かった。夕刻の日の翳りの中、か細い街灯の光の下を、ぽつぽつ人が行き交っている。

 角の煙草屋の前まで来ていた。今日は休日のようで、店の中に灯はともっていず、松田屋の親父の姿は見えない。

 足元に手にしていた鞄を下ろすと、根元まで吸い尽くした煙草を放り捨てた。

「……仕方ないな」

 おれはその場にかがみ込むと、鞄に手をかけた。ファスナーを開け、中に入っていた手紙を取り除くと、覆いの新聞紙をはぐってみる。

南無三なむさん

 見るとそこには、何か黒々とした丸いものが二つ、入っていた。

 手を差し入れ、一つを取り出してみた。

 それは小ぶりの西瓜すいかだった。土塊つちくれでもついていそうな、いまさっき収穫したばかりのような、野趣あふれるものである。

「……」

 そのとき、背後から突然、

「泥棒!」

 という、そんな金切り声のようなものが聞こえてきた。

「なに」

 驚いて振り返ると、一人の見も知らぬ洋装姿の中年の女がーー目を見開いて狂ったように、なぜかこのおれの方に向かって指を差し、駐在所の、あの例の年寄りではない若い屈強そうな駐在にしきりに声をかけていた。

「あの人ッ。泥棒です! あの人ーー!」

「なっ?」

 聞きながら繰り返し頷いていたその駐在が、突然こちらに向かって全速力で向かってきた。

「おい! そこのお前待て!」

「……冗談じゃない」

 おれはその西瓜の入った鞄を、そのままうちやろうか迷った。

 結局、おれはそれを取り上げると、反対の方角に向かって全力で走り出した。

「おい貴様! 止まれと言ってるだろう!」

 駐在は、しきりにうるさく警笛を吹きながら、猛然とすごいスピードでおれを追い始めた。周囲の人々が、一斉にその様子に目を丸くしていた。



 ……おれは、これまでの三十年の人生で、おそらく初めてじゃないかと思うくらいに、その後本気で走った。

 果たして自分が風になったんじゃないかと、そんな風に感じるくらいに。

 走っているうち、なぜだかだんだんと、腹の底から深い、何か哄笑に近いような、そんながこみ上げてきて、いつまでも止まなかった。

「ははは」

 おれは走りながら、大いに笑った。

 可笑しくて、仕方がないのだ。

「いったい何だというんだこれはーー」

 そのうち着ていた着流しの肩がはだけ、ほとんど諸肌脱ぎの状態になりながら、おれは目の前に道の続く限り、ひたすら駆け続けた。



 あの女が、今どこにいるのかはわからない。しかし、この中身を見てしまった以上はーーおれはこれを必ず届けてやらねばならない。

 全力で、駐在の追手から逃げていると、大川のあたりまで来た。そこで一人の女とすれ違った。

 すぐに振り返った。その後ろ姿はーー確かにあやに間違いがなかった。

 しかし、例の屈強そうな駐在をまいてやるためには、そこで立ち止まることはできなかったのだ。



 ここに書き連ねたことは、すべて事実だ。創作の意図は、いささかも入ってはいない。


          この小説を、菊池寛大兄に捧ぐ 

                芥川龍之介しるす

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黒い鞄 水原 治 @osamumizuhara

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