一ノ瀬 薫

 女の声がした。

 どうしたの、とせわしなく言った。

 ちょっと出てこないか、と男は言った。

 どこにいるの、と女はたずねた。

 男は女と以前行った店の名を告げた。

 女はこれから用意するから三十分くらいはかかるわと言った。

 待っていると言って男は電話を切った。そのまま、ボックスを出ると近くのベンチに腰を降ろして最後の一本になったタバコに火をつけた。

 男は立ち上がり、歩き始めた。

 そして見上げた薄明るい空に翻る黒い軌道に目を奪われた。


 ビールが男の前に置かれた時に、後ろのカップルは映画を見に行く話をしていた。

 男はそれを聞きながら、十年前に女と見に行った映画を思い出した。

 イタリアの映画だったが、がら空きだった。広い客席が映画の巨大な邸宅のロビーの場面と重なって面白いなと思ったことを忘れられなかった。

 店には長いカウンターが伸びていた。

 男は右手に広い空間があるのをなんとなくぼんやりと眺めていた。目の前の酒瓶が黙ってこちらを見ているような気がした。

 バーテンはシェイカーを振り、それ以外の時はグラスを磨いていた。

 女が男の肩に手を置いた。

「遅れたわね」

「かまわないよ」

 女はバーテンを呼ぶとわずかに微笑み、ウィスキーソーダをちょうだいと言った。


「雨が降ってきたの。ちょうど出ようとした時に」

「そうか」

「あの時計合ってる?」

 店の時計は小振りな柱時計だった。

「あれが進んでいるか。君のが遅れているんだ」

 女は可愛く笑いながら、時計の針を合わせた。

「今日は機嫌が悪い?」

「ご機嫌だ」

 男はまぶたの上の傷をはね上げるように笑った。

「聞いたのね」

「何のことだ」

 男は女の方をむいて訊ねた。

「いいのよ、別に」

 女は、あなたのせいじゃないから、とささやいた。

 少しの沈黙の後、女は明るく男に言った。

「今日は飲むんでしょ」

と男にそう言ってにっこり笑った。

 男はそれを見ると、なぜか少し哀しくなった。


「君はほどほどにしておけよ」

 女はかぶりを振ったが男はダメだといって女の手を握った。

「でも、ひどい。」

 女は言った。

「なにが」

「連絡してくれなかった」

「理由はないよ」

「何か嫌なことがあったの?」

「そんなことはない」

「変われないかしら、私たち」

 男は、じっと酒瓶を見ていた。

「変われないことはない」

「もうだめなのかと思って」

「君が、そう思っているだけだ」

 バーテンを呼んで男はアレキサンダーをたのんだ。

 雨は止んで後ろのカップルは映画を決めて出て行った。

 男はゆっくり時間を待っていた。

「どうしてなのかしら、今日はなんだかいい気分だわ」

「そんな日もあるよ、最低なことがあっても」

 バーテンがこちらにきてコースターを変えた。

 男はグラスを受け取った。きれいな褐色が氷を泳がせていた。


「その氷綺麗ね。透明な魚みたい」

「君も時々そんな表情をするよ」

「冷たい?」

「そうじゃない」

 そうじゃないんだと言ったまま男は黙った。

「忘れてないんだろう」

「なにを?」

「忘れるはずがない」

 女はあきれたように首を振った。

「バカなことを言わないで」

「どうしてだ」

「なんで、こんな時にそんなことを言うの」

「だめだな」

 女は不安そうに男の横顔を見詰めた。男の表情は変わらなかった。

「電話があった」

「彼から?」

「君のことを心配していた」

「そう」

「嬉しいだろう」

 女は男の肩にふれた。

「終わったのよ、少なくとも私にとっては」

「君は幸せじゃない」

「あなたがそんなことを言わなければ」

「もう言ってしまった」

「だから言わないで」

「わかった。もう言わない」

「だったら幸せだわ」

 女はうつむいてそう言った。

「ここで泣くのかい?」

 黙って、と女は言い

「飲んでいい?」

と聞いた。

 男は苦笑した。そしてグラスを磨いていたバーテンを手招きした。

「なんにしましょう」

「体にこたえないやつにしてくれ」

「いいのよ、気にしないで」

 バーテンは、静かに笑みを浮かべ、奥の若い男に南米産のリキュールの名前を告げた。


 女は男のグラスを手にとって一口飲んで少しむせた。

「気が済んだか」

「あなたこそ」

「これでも懲りないか」

 女は軽く男の頬を撫ぜ、カウンターに頬杖をついた。

「何で懲りなきゃいけないの。私はあなたが好きなのよ。若い子みたいに誰でもいいわけじゃないの」

「若い子でも誰でもいいことはない。好みくらいある」

「みんな同じだけどね」

 それを聞くと男は小さく声を上げて笑った。バーテンがこちらを見て微笑した。

「臆病よ、あなたは」

「今に始まったことじゃない。物心ついた時から何かにつけてビクビクしてた」

「いくぢなし」

「それなら、あいつのところにいけよ」

 女は少し不機嫌そうな声で言った。

「別れ話に呼んだの?」

「忠告だ」

「あなたの気持ちはどうなの?」

 バーテンはそっとカクテルをコースターの上に置いた。

「これでどうでしょう」

 女はニッコリして一口含みゆっくり飲んだ。


「若返るわ、ありがとう」

「かわいい頃の君に乾杯」

「それはこっちのセリフ」

 あなたの気持ちが聞きたいの、言ってと女は言った。

 男はタバコをくれと言った。

 女はバッグからケースを出すと一本渡し、男が咥えるとタバコに火をつけてやった。

「俺から別れる気はない」

「じゃあ、いいわね」

 男はそれには答えなかった。

 店の明かりは暗くなり、カウンターも半分以上埋まっていた。

「ここは、いいところだ」

「私が連れてきたのよ」

 男は、カウンターの真鍮の縁を爪で弾いた。微かに高い鈍い音がした。

「ねえ、なんで私を呼んだの」


 店には恋の歌が流れていた。アステアが映画で歌っていた。ホットな君とクールな僕というやつだった。

 男はハミングしていた。女はカウンターに頬杖をついてそれを聞いていた。

「そろそろツバメがいなくなるな」

「そうね。もうすぐ秋だもの」

 窓の外は風の音が唸り、木の葉がアスファルトにたたきつけられていた。暗い中を車のヘッドライトが掠めて行った。

 男は女の方をすこし見て、白い首がきれいだと思った。

「もしかして誰か好きな人でもいるの?」

「君が好きだ」

「ほかには何かいうことない?」

「いい気なものだ」

 男は今日の女のワンピースはいいな、と思った。黒い地に深い赤とブルーの花が咲いていた。

「夏は終わりになるとゆっくり暗くなるような気がする」

「わたしは好き。いろんなものを時間をかけて眺めることができるから」

 あの人はだれ?と女は少し小声で飾ってあるレコードジャケットの写真を見て言った。

 男は目を凝らして見た。

「エリック・ドルフィー」

「真面目そうな感じ、ああいう感じの人はいいな」

「本当にそうだ」

「そう?」

「誰もが彼のようなら世の中はもう少し良くなる気がする」

「いい人なのね」

 男はあともう一杯でやめようと思った。そしてバーテンに声をかけ、同じやつを、と言った。どういうわけか男は眠くなっていた。


「疲れたの」

 女は男を覗き込んだ。

「今日は変だな」

「ねえ、具合が悪いの?」

 男は首を振り、女は心配そうに見ていた。

 バーテンが男の前にグラスを置いた。氷は静かに回っていて男はこんなものだろうとそれを見て思った。

 それから、それを一口飲んで深く息をした。

「ねえ、どうして今夜は私を呼んだの」

 女は首をかしげて男を見ていた。

 男は、だまってグラスを口に運びながら、あのツバメはどこに行くのだろうと考えていた。

                 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一ノ瀬 薫 @kensuke318

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ