もうないはない。

鈴ノ木 鈴ノ子

もうないはない。

もうないはない。


 目を覚ますと見慣れた電灯が見えた。

 安っぽいプラスチックのヘリか年月を経て少しだけ色を変えている。灯ったままの電灯は窓から差し込んでくる眩しい朝日に駆逐されて、用をなしてはいなかった。

 

 照らされたワンルームに置かれた全てが眩しく煌めき、まるで全てを真新しく揃えたかのように見える。

 この部屋に住み始めてから、ずっと動いている冷蔵庫。

 学生からなぜか捨てられず、健気に動き続けている電子レンジ。

 デザインを重視したせいで不便さが否めない食器棚。

 好きで集めてあまり使わなくなったアンティークの食器類。

 週一回だけ動く色褪せた炊飯器。

 ガラス天板の重たい小さな食卓。

 1人掛けの小さい対の食卓椅子。

 座面が色褪せて座布団て隠した2人掛けのソファー。

 部屋を圧迫するだけで、ただ広いだけのダブルベッド。

 その他のものも美しく色褪せて見えている。


 もちろん、私もだ。

 ソファーには脱ぎ散らかして投げ捨てた昨日の残滓、化粧すら落としていないひび割れたような顔にぼんやりとした皮膚、伸びた二の腕と長いこと愛されていない乳房と子宮、緩んで諦めざるを得ない四肢、ミネラルを失いグロスで隠した爪とひび割れた指先…。


 膝を折り両手で抱えるようにして引き寄せて体を丸める。額を押し付けるように膝につけて息を吐く。アルコールの匂いがまだ残っていた。


 昨日、熱を浴びた。

 猛烈で、そう、初恋のような揺るぎのない熱を、浜辺に降り注ぐ太陽のような熱を、確かに浴びたのだ。


 きっかけも分からない、なにがどうして、そうなってしまったのか、理解すら追いつかない。


「先輩、いえ、朱鷺子さん、好きです。付き合って頂けませんか?」


 営業先からの直帰の帰り道、立ち寄った居酒屋で契約に至らず、徒労ばかりと潰えた時間の鬱憤を晴らすかのように、一回り以上年下の孝明から真剣な眼差しで告げられた言葉に、理解が追いつかず、手に持っていたおしぼりを醤油皿の上に落としてしまった。

 ソファーの上にはシミのできた真っ白なブラウスと上着があるから出来事は間違いなく起こっている。


 飛び跳ねた醤油を誤魔化しに使って、自分でも驚くほどの深い鼓動に戸惑いながらも、加齢女の余裕を見せつけるように、話を誤魔化しながら、酔いの回りすぎるペースで飲んで、終わりの時間を早めた。


「本気ですから」


 足元が不安定なほどの酔い方を見せて、呆れてくれないかと思ったのに、呼び止められたタクシーの座席に介抱されるようにして座り込むと、耳元でそう囁かれて、久しく感じたことのないぬくもりが唇を優しく通り過ぎていった。

 ドアが閉まり動き出した車内は無言で、私は熱量に驚かされたまま、窓ガラスに頭をもたれかけガラスで冷やすかの如く、外の景色をぼんやりと眺めて帰路についた。

 一万円札で口止め料も合わせてとでも言うように釣りのない支払いを済ませて、タクシーを見送ると空を見上げる。真っ白な光を放つまんまるのお月様が静かな住宅街に降り注いでは、静寂の中に浮かんでいた。

 ぼんやりと見上げながら、唇に触れると、やがて、涙が溢れてきた。嬉しいとも悲しいとも怒りとも違う、無情の涙が頬を伝っては落ちてゆく。そのままエントランスを抜けて、自室へと辿り着くと朝を迎えたのだった。


 どれほどの時間をそうしていたのか、朝日はとっくに終わり、休日の朝の喧騒が外から聞こえてきた頃、不意に枕元のスマホがメッセージを告げた。


「「今、マンションの前に居ます、少しだけ会って話せませんか」」


 孝明からだった。

 昨日の今日で、と呆れたけれど、来てくれたのだと言う一抹の嬉しさもあった。だけれど、これで全てが終わるのだと言う寂しさに胸が痛んだ。コンビからバディーど呼べるまでに至った3年の月日、辛苦を共にし幾多数多の契約と挫折を味わったことが走馬灯のように記憶を回してゆく。


「「鍵開けたらから、部屋の前まで来て」」


 スマホでマンションのオートロックを解除して彼が入ってくるのを画面越しに確認する。ジャケットにスラックス、大人のコーディネートが様になってきた姿がそこに見えていた。


「私からは無理」


 断る勇気なんて持ち合わせてはいない。断ることすら烏滸がましくて、どうしようかと右往左往しながら思案した挙句、出た結論はあまりにも子供染みて馬鹿げていた。

 下着のままにブラウスだけを羽織って、ボサボサの髪に寝起きの酷い顔のまま、玄関先でインターホンがなるのを待った。やがてキンコーンと聞き慣れた音がなり、覗き穴から外を見つめれば若々しい姿の青年がだっていた。


 玄関の鍵に手をかけてゆっくりと回す。続いてドアノブに手を置き、ゆっくりとゆっくりと落としてドアを引く。

 

 これが幕引きだと言わんばかりに開くと、孝明の姿が見えた。


「ブハッ…」


 吹き出したような笑い声が聞こえる。ほら、と思いながらも、胸中はやはり辛い、顔を上げることすらできずに、下を向いて俯いたまま要件を聞こうとした刹那、心地よい香りのする肌触りのよいものが背中から前へと被さってきた。


「寝起きですね。準備してモーニングにでも行きませんか?」


 先ほど画面越しに見たジャケットが身を包んでいた。大柄な彼の肩幅の広く大きなジャケットに包まれる安心感に酷い顔を上げる。


「さ、行きましょうよ、先ぱ…朱鷺子さん」


 いつもと変わらない穏やかな微笑みに、ただただ顔を染めて私は頷く。それが嬉しいのだろう、更に頷いて笑った孝明も同じようにしっかりと頷いてくれた。


 もうないはない、と言うことを知ったのは、それから2週間後。


 あの日の家具達も場所を変えたが、今も一緒に過ごしている。中身だけは、ほんの少しだけ変わったけれど。

 

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もうないはない。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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