タンスの上のネックレス

青いひつじ

第1話

「美味しそうだね。いただきます」


「どうぞ召し上がれ」


今日も気持ちのいい朝である。

きれいな丸をした目玉焼きの横には、手作りのふわふわフォカッチャが重ねられ、小皿にオリーブオイルと塩が添えられている。

まずは、弾けんばかりの真っ赤なプチトマトと、水々しいレタスのサラダからいただこう。



「行ってきます」


「気をつけて。あ、襟足に糸が」


「ありがとう」


「髪伸びましたね。今度切らないと」



そう言うと襟足に手を伸ばし、その首元がきらりと光る。

結婚記念日に私がプレゼントしたダイヤのネックレスだ。

妻は、朝目覚めると顔を洗い、それをつけ朝食を作り始め、夜、風呂の前にはずしている。

タンスの上には、ネックレスを引っ掛けてぶら下げる道具が置いてあり、絡まらないように大切そうに保管している。



私の妻は、専業主婦である。

正確には、前職で体を壊し、2年前から専業主婦になった。妻は何度か仕事に復帰したい言ってきたが、まだ少し様子を見ようと、妻の申し出を断った。

妻が専業主婦になった生活は、思ったよりも快適だった。

仕事から帰れば、玄関にはいつも鼻通りの良い新しい空気が漂っているし、シンクに食器が溜まっているのも見たことない。

この1年で、料理の腕もかなり上がってきているように感じる。

「そんなに頑張らなくてもいいから」と言うと、妻は「楽しいですよ」と笑った。

その笑顔を見て、狭い世界ではあるが、妻なりに幸せに暮らしているようで安心した。


最近は、パン作りにハマっているらしく、朝食には必ずパンが出る。

我が家のキッチンには、ベイキングパウダーやイースト菌なるものが増えた。

オリーブオイルや塩にもこだわりがあるらしく、高さの違う瓶、ピンク色や粒の大きい塩などが沢山並んでいる。

少々買いすぎではとも思うが、唯一の楽しみを奪うことはしないでおこう。


それにしても専業主婦というものは、よくパンを焼いたり、お菓子を作ったりする。

これはあくまでも私の考えだが、きっと、暇になると何かした方がいい気がして、新しいことを始めようと辿り着く先がパン作りなのであろう。




日曜日の朝。

それは、いつものように妻お手製のパンを頬張っていた時だった。



「あなた。私実はね、ここ1年くらい作ったパンやスイーツをSNSにあげてたの。そしたら、それを見たお友達から、料理教室のアシスタントとして働いてみないかって、昨日連絡が来てね」


「で、どうするんだ」


「とっても素敵な話だし、私の夢に一歩近づくことだから、お受けしようかなって」


「きょうこ、夢があったのか?」


「えぇ、前にも話したことあったけど。それで、働いてみてもいいかしら?」


「あ、あぁ!そうだったな!ま、いいんじゃないか。楽しそうだし、体に負担がかからない程度に、気楽にね」


「ほんと?ありがとう!週に3回、月水金と頼まれてるの!じゃあ、早速お返事するね!できれば明日から来て欲しいって言われてて」



妻は、洗いものを止めて急いで手を拭くと、嬉しそうに携帯を取り出し、返信の文章を打ちながら、時々上を見上げてはニコニコ笑っている。先生として働く自分を想像してソワソワしているのだろう。

妻のこんな喜ぶ姿を見たのは、初めてかもしれない。




次の日の朝。

朝食には、まんまるの目玉焼きとサラダと焼いた食パンがひとつのお皿に盛られていた。


「この食パンは、きょうこが作ったのか?」


「あ、ううん。これは買ってきたやつなの。ごめんなさい、お菓子のレシピ覚えたりで昨日の夜は色々忙しくて」


私と目を合わせることなく、カバンの中をゴソゴソと確認している。

「あれがない、これがない」と急ぎながらも、なぜか妻は幸せそうである。


「洗いもの、シンクにつけておいてね。3時ごろには帰って来るから、それから片付けます。

じゃあ、行ってきます!」


そう言うと、私の「いってらっしゃい」を最後まで聞かずに、出ていってしまった。




18時。仕事を終え家に帰ると、彼女はソファで横になっていた。


「おい、帰ったぞ」


「うわっ、あ!おかえりなさい!、、ごめんなさい。ちょっと疲れて寝ちゃってた」


「ご飯は?」


「、、、まだ」


「どうせアシスタントなんだし、そんな気張ってすることないでしょ。また体を壊したら大変だし、もっと楽にやれば?」


「ごめんね。気をつけます」


妻は目をこすりながら、いつものエプロンもつけずキッチンに立ち冷蔵庫を確認し、ものの15分ほどでチンジャオロース、卵の中華スープ、たっぷりの薬味がのった冷奴を作った。






妻が仕事を始めて、2週間が経った。

朝食に、妻お手製のパンが出なくなって2週間が経った。


「それじゃあ、行ってきます」


「いってらっしゃい」と妻の方をみて、私はある異変に気づいた。妻の首元にアレがない。


「おい、ネックレスはどうしたんだ」


妻はハッとして首元を触り、「忘れてた!」と急いでそれをつけると、バタバタと家を出ていった。


その日の昼過ぎ、妻から連絡があった。

夜の部までお願いされたから、晩御飯は各自でお願いしますという内容だった。



仕事を始めて2週間しか経っていないが、妻は、新しい職場でとても必要とされている。そして、妻自身もそれを嬉しく思っている。

大変だと言いながら毎晩料理本とにらめっこするその背中は、夢見る少女のように輝いて見える。

きっと専業主婦のままいたら、こんな姿を見ることはできなかっただろう。

しかし、喜ぶべきことなのに、私のこの気持ちは一体なんだろうか。




「襟足伸びたよな。そろそろ切ろうかな」


「あら、ほんとね。気づかなかった」


「あれ?ワイシャツは?」


「あ、アイロンまだなの。私明日のメニュー考えなくちゃいけなくて、おねがいしてもいいかしら?」


「金曜の夜、久しぶりに外食しないか?」


「あ、いいわね!楽しみにしてる」





金曜日。

私はいつもより早く切り上げ、プレゼントを買いにショッピングモールへ立ち寄った。

携帯を見ると妻から連絡が入っていた。

アシスタントの欠員が出て代役をするため、今日は遅くなるという内容だった。

私は、"分かったよ"と返信を送った。

今日は、私たちの結婚記念日だった。




私は、部屋に入ると電気もつけず、うっすら闇が広がる部屋で1人、ソファに崩れ落ちるように横になった。


「なんなんだよ一体。ただのアシスタントだろ、、、」


その時だった。



「おい、お前」


突然の声に私は起き上がり、頭をそーっと動かし、怪しい者がいないか見渡した。


「おい、ここだよ」


その声はタンスの方から聞こえてきた。



「なんだ!何者だ!」



「くっくっくっ、かわいそうに。まるで、懐いていた九官鳥が、ある日突然大空を夢見て飛び立ってしまうような感じだな。実に無惨だ」



「なんだと」



「お前の心を言い当ててやろうか」



「うるさい!」



「お前、本当は怖いんだろ?彼女がどんどん遠くなっていくのが。

彼女には自分が必要だと思いたいんだろ。

自分のそばにいるのが、彼女の1番の幸せだと思いたかったんだろう」



「お前に何が分かると言うんだ!妻がおかしいんだ!前は私の少しの変化も見逃さなかった。アイロンをかけないなんてこともなかった、、私との約束をすっぽかすことなんて絶対になかった、、どうしてあぁなってしまったんだ、、」



「彼女を手に入れたつもりで、いい気になっていたようだが、お前は彼女のこと何ひとつ見えてなかったんだ。体が弱い彼女を、自分が養って世話してやってるとでも思ってたんだろ」



「違う!うるさい!!黙れ!!」



「本当に依存していたのは、お前の方なんだよ」



「好き勝手言いやがって!卑怯者が!姿を見せろ!」



私は、声のするタンスの方を見ながら、部屋の電気をつけた。しかし、そこには何者もいなかった。

そしてゆっくりタンスの方に近づくと、上には、ネックレスが置いてあった。

それは、もう必要ないかのように、ぐちゃぐちゃに置いてあった。



妻は、とうとう、私の手の中から離れていってしまった。



私は、立ち尽くして、絡まったまま放っておかれたネックレスを、ただ、見つめていた。










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