がんぎ小僧

@ninomaehajime

がんぎ小僧


 鬼灯ほおずきめいた提灯が夜陰やいんに揺れていた。

 一人酒を飲んでいて遅くなった。暖簾のれんを仕舞った飲み屋から締め出され、覚束おぼつかない足取りで刀の鞘を打ち鳴らす。四ツ刻までには帰らねばならない。

 波打ち際に海水が押し寄せ、砂を洗う。夜闇に覆われた海は暗然としており、水平線の境目が隠されていた。浜辺に寄せる波の音だけが、大海の存在を主張している。

 着流しを着た男は、心地の良い自然の調べに耳を傾けていた。辺鄙な場所で人っ子一人おらず、手に提げた提灯の灯火が履き古された草履を照らしている。腰に差した刀の柄に片手を乗せ、鼻唄でも歌い出しそうな調子だった。

 引いては寄せる波の音に、ふと違和感が紛れこんだ。悠然なる海の呼吸を、何かがかき乱していた。濡れた衣を裂いて、固いものを細かく砕いている。これは咀嚼そしゃく音だろうか。

 野犬でもいるのか。不審に思った男が提灯を砂浜に向けると、波打ち際のごく限られた範囲が朦朧もうろうと映し出された。

 濃密な暗黒に白い背中が浮かび上がった。

 一瞬で酔いが醒めた。どうやら小柄な人影は着物を着ておらず、老婆のような白髪が臀部でんぶを隠して砂浜に垂れている。両膝を突いているらしく、砂にまみれた足の裏をこちらに向けていた。

 前屈みになっており、頭と肩が上下するたびに粘着質な音が耳にこびりつく。闇に目をらせば、細長い形をした物体の横腹に齧りついていた。何をしているにせよ、かような夜更けに全裸で浜にいるなど正気の沙汰ではない。

 男は刀の柄に手をかける。怪談奇談好きの酔客すいきゃくから聞いた話を思い出した。川の岸辺にはがんぎ小僧という妖怪がいて、しばしば魚屋から魚を盗むのだという。この近くには漁港があり、そこから掠め取ってきたのかもしれない。

 何にせよ、妖怪変化の類を捨て置けない。自分も侍の端くれであり、民の生活を脅かす怪異ならば成敗せねばならぬ。

 緊張で喉仏が上下する。刀の柄を握り締めた手が震えた。揺れる提灯の動きが動揺を表している。幸い、白い人影は魚を食べるのに夢中だ。今なら一太刀で斬り伏せられよう。

 静かに土手から下りた。草履の底が砂に沈む。息を殺して近づくと、彼奴きゃつが何を貪っているのかを提灯が仄暗く映し出した。

 魚などではない。顔の横から突き出ているのは、力なく垂れた人の手だ。

 此奴こやつ、人を食ろうておるのか。

 戦慄が全身を駆け巡り、足が震えた。臆病風に吹かれ、今にも逃げ出しそうになる。かろうじて踏み止まったのは、その瞳に映る腕が細く、小さい手だったからだ。

 おのれ、幼子を取って食ったか。怒りが恐怖を塗り潰した。男は臆病なれど義侠心には欠けてはいなかった。かえって冷静になり、静かに刀を抜き放つ。片手に刃先を垂れ、引き締めた顔の横に提灯を掲げる。

 波が打ち寄せる浜辺で、白い人影が一心不乱に人肉を貪っていた。男は慎重に歩を進める。その草履の底が、何かを踏みつけた。

 波の音が止んだ。

 思わず片足を上げ、足元を照らした。そこに落ちていたのは一本の矢だった。白い矢羽に、尖ったやじりが血に塗れている。これは、狩矢かりやだろうか。

 気づけば、一切の物音が消えていた。圧倒的な静寂に覆われ、自分の息遣いだけが耳朶じだに触れる。凝縮された暗黒の向こうから、白い顔がこちらを振り向いていた。口元が赤い血で汚れている。

 男は気づいた。彼奴には肘から下の右腕がなかった。片腕で、同じ皮膚の色をした手を握っている。つまり、あれは自分の右腕を食べている。

 何より不可解だったのは、あの者が泣いていたことだ。口に血を飛び散らせながら、赤い歯を剥き出しにしている。痛みに顔を歪めているのではない。嬉しそうに口角を上げているのだ。

 その光景を目にした男は、侍の矜持きょうじを捨てて逃げ出した。どうして自分の腕に齧りついているのか、感極まったように泣いているのか、何もかもが理解に及ばず、不気味で仕方なかったからだ。

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