2048:CANNIBALIZED

諏訪野 滋

2048:CANNIBALIZED

 雲一つない空にも、黄昏の気配が少しずつ忍び寄ってきている。時おり吹いてくる強い風は澄んでいて、その中に現代科学を持っても除去することの叶わない大量の発がん物質が含まれているなどとは、とても信じる気にはなれない。


 非常階段を見上げた恭也きょうやは、ヘッドセットから漏れてくるノイズ交じりの女性オペレーターの声に小さく舌打ちした。あいつの足音を聞き逃すことはすなわち、狩るつもりのはずが狩られる側に回ってしまう事を意味している。


「……須黒すぐろ警部補、現状で待機願います。国道八十七号線から北上中の多脚装甲車六両、あと十五分でそちらと合流出来ます…聞こえますか、須黒警部補…」


 頭の中でメリットとデメリットを素早く天秤にかけると、恭也はヘッドセットを投げ捨てた。途端に廃工場のまだ死んでいないモーターの唸りが重量をもって彼を包む。その中から革靴が立てるわずかな金属音を拾い上げると、恭也はためらうことなく非常階段に飛び込んだ。

 怜司れいじは俺を誘っている。本気で俺の追跡をまこうと思えば、あいつが足音など立てるはずがない。公安で彼と八年にわたりチームを組んでいた恭也には、かつての相方の考えが手に取るように分かった。

 公安の上層部からは、怜司に対する射殺命令が出ていた。破滅願望遺伝子ダムドを発現した者は、潜在的社会破壊者として処分することが許されている。弁護人を付けることも許されず、裁判もなしに。そのこと自体がこの国に正義などないことを証明していたが、かといってそれが怜司のテロを正当化する理由にもならなかった。

 狼のような短い髪を揺らし、いわおのような鋭い顎を階上に向けながら、恭也は二段飛ばしで螺旋階段を駆け上がった。黄色の回転灯が金属むき出しの壁に影を躍らせ、焦げたタールの匂いが強く鼻を刺す。思わず覚えた喉の渇きに恭也は細いネクタイを緩めると、黒いスーツの内側を探り、左脇に吊るしたホルスターから大型の銃を取り出した。選択した弾丸は「細胞死アポトーシス」。遺伝子犯罪を犯した怜司に、公安は皮肉にも遺伝子破壊作用を持つ細胞死弾の使用を許可してきた。

 恭也は一度深く息を吸い込んだ。身体とは裏腹に、頭の中が冷えてくる。問題ない、俺の中には俺一人しかいない。俺が奴を撃つ。操作された遺伝子などではなく、俺自身の意志で。


 屋上へと通じる扉はわずかに開いていた。隙間から漏れる逆光が放射状の帯となって恭也の目を鋭く刺す。グリップの底で扉を押して少しずつ視界を広げていくが、コンクリートを打たれた廃工場の屋上に人影はない。階段室から半身を乗り出した恭也は、首筋に冷たいものを感じるとためらわずに前方に跳んだ。ひりりとした痛みを感じる間もなく、背後から押し寄せる気配に向けて振り返りざまに銃を向ける。その恭也の右手首を、やはり黒いスーツに身を包んだ男が放った鞭のような蹴りが正確に叩いた。恭也の手を離れた銃は大きく宙を飛び、屋上の端にあるフェンスに当たると重く硬質な音を立てて止まった。

 片膝をついたままの恭也を、少年の面影をわずかに残した若い男が、やや離れたところから黒フレームの眼鏡越しに見つめていた。今しがた恭也の皮膚をわずかに削ったバタフライナイフが、その右手には握られている。

 沈黙を最初に破ったのは、眼鏡の男の方からだった。


「……やはり恭也さんが来てくれたんですね」


 恭也はゆっくりと立ち上がると、襟元を指で広げながら憂鬱そうに言った。


柏木かしわぎ怜司、遺伝子改変罪およびダムド保持罪で極刑を執行させてもらう。お前には親族に対する伝言を一分以内で残す権利が認められている……が、お前には縁者は一人もいなかったな」


「公安にいる人間はすべてそうでしょう。恭也さん、あなたも含め」


 恭也とは対照的にきちんと首元まで締めたネクタイの位置を空いた左手で直しながら、怜司は押し殺した声で言った。明らかに怒りを含んだその言葉に、恭也は小さくうなずいて見せる。

 銃を打つことにもわずかなためらいを見せていたかつての怜司は、もうそこにはいなかった。公安に属する人間としてはやや適正に欠けるその性格を、恭也は密かにうらやましく思っていた。非人間的な組織には、人間的な個性を持つ奴が異物として必要だ。画一的な群れはやがて共食いを引き起こして自壊する、今のこの国が静かに進んでいる道と同じ様に。

 目の前にいる怜司は、恐らく俺と同じ考えを持っているのだろう。ただそれを社会に当てはめようとした結果、自分よりも純粋で情熱的なあいつは極端な行動に走ってしまった。


「怜司、何が理由で無関係な人たちの遺伝子を改変した? しかもよりによってダムドを組み込むなんざ、正気じゃない。破滅願望にとらわれた彼らが原因となった犯罪で、少なくとも二百人以上が死んだ」


 怜司はフェンス越しに見える遠くの都市を眺めると、うっすらと笑った。


「国がやっていることを真似ただけですよ。僕たち、胎内ですでに遺伝子操作されてから生まれてくるでしょう?」


「なるほど、当てつけか。遺伝子を改変することで起きる悲劇を演じて、啓蒙活動を行ってるわけだ。どうしてそんな思想に至った? 遺伝子改変を受けなかったら、とっくの昔に俺たちは小児がんで死んでる」


「……遺伝子操作は僕たちを守るものじゃない。僕たちを縛る鎖だ」


「どうしてそう考える」


「あなたが僕を見てくれないのは、僕が遺伝子をかき混ぜられたからだ」


 怜司の眼鏡の奥で燐光が燃えているのを恭也は見た。お前の気持ちには応えられない、とかつて怜司に答えた恭也はしかし、その結論をだれの責任にするつもりもなかった。


「……遺伝子運命論か。言葉通りに堕ちたなダムド、怜司」


「遺伝子操作は、僕からあなたを奪った。もし僕が本来の僕だったら、恭也さんは僕を愛してくれていたはずだ。国は僕の、僕たちの運命を捻じ曲げた。らせんの回転数を変えられてしまえば、二つの運命が架橋を作ることは叶わない。もつれた挙句に無理やりほどこうとして、お互いにばらばらになってしまう未来しかない」


 陰謀論者が陥りがちな誤謬ごびゅうだ、と恭也は思った。だが聡明な怜司がそれにとらわれているとするならば、鈍感だった俺にも責任の一端は確かにあるのだろう。それならば俺は、奴の信仰にけりをつけてやらなければならない。


「お前の理屈から言ったら、俺も生まれた時点で本来の俺ではなくなっているわけだ。それならば巡り巡って、結局は自然の成り行きってことになりはしないか?」


 恭也の言葉に拒絶を感じたのだろう、怜司は右手のナイフをゆっくりと持ち上げた。


「修復できないのであれば復讐するしかない。僕が堕ちた、と恭也さんは言いましたね。こんなにも奪われ続けていれば、あなたもきっと、そうなります!」


 恭也が幾度も助けられてきた怜司のナイフは、いざ相手にするとそのまま最大の脅威であることがわかった。左の二の腕に痛みを感じてちらりと見ると、シャツごとスーツが大きく切り裂かれている。毛細管現象によって、シャツにしみ込んだ血液が意志を持った生物のようにみるみる広がった。

 見ろよ、怜司。俺の骨髄から生み出されたこの赤が偽物か? 俺を切ったお前の痛みはあらかじめプログラムされていたものか?

 身体を大きくひねった恭也は、真っすぐに突き出されたナイフの内側をすべるようにすり抜けると、怜司の空いた脇腹にこぶしを叩き込む。くぐもり声と共にナイフがはじけ飛んだのを確認した恭也は、しかし砂袋で殴られたような硬い衝撃を左ほおに感じて膝が落ちかけた。口中に鉄の苦みが広がり、鼻の奥が詰まる。恭也の顔面をとらえた怜司の左ひじは、黒いスーツでもはっきりとわかる赤黒いしみをつけていた。


「恭也さん、僕はあなたを恨んでなんかいません。僕が愛されていないのは、僕のせいでもあなたのせいでもないとわかっているから。そんな行き場のない僕が自分にダムドを組み込むのは当然でしょう? こんな社会、壊れてしまえばいい。すべての人に遺伝子改変が必要になった時点で、すでに世界は僕たち人間を拒否しているんだ」


「御託は……沢山だ」


 低く吠えながら踏み込んだ恭也は、両腕を怜司の右腕に素早く巻き付けた。ごきりと鈍い音がして、その肘がありえない方向へと曲がる。苦悶の表情でうずくまった怜司のそばに落ちたナイフを蹴り上げてフェンスの向こう側へ落とすと、恭也は素早く銃を拾った。自分を見上げる怜司のスーツの襟をつかんで引き上げた恭也は、その眉間に銃口を突きつける。

 観念したように目を閉じた怜司の耳にはしかし、トリガーを引く音ではなく金属同士のぶつかる音が響いた。恭也の銃身は、怜司の眼鏡を下からすくい上げて宙に跳ね飛ばしていた。

 驚愕に目を見開いた怜司に、恭也は自分の顔を近づけた。


「レンズ越しなんかじゃなく、自分の目で俺を見ろ。お前自身の角膜と水晶体を通して、俺をお前の網膜に映してみろ。お前には俺が見えているか? 俺はお前を見ていないか?」


「……どうして。どうしてそこまで言ってくれるのに、僕を愛してくれないんですか」


「怜司。お前は、理由のないものに理屈を欲しがっている。それが結局憎しみを生み出していることになぜ気付かない? 俺の答えは決まっている、二つに一つなら俺はお前を殺して生きていく」


「……共食いですか。ああ、嬉しいなあ」


 恭也は怜司の頭をかき寄せると、唇を強く重ねた。差し込まれた怜司の舌をかむと、自分の血液とは違う新たな味を恭也は感じる。混ざり合う遺伝子。お前のダムドを喰らうことで、運命なんてものは最初から存在していないことを俺が証明してやる。


 怜司を押し離した恭也は、銃口を今度は怜司の左胸に向けた。教本通りに二発。スーツを貫通して怜司の胸郭を吹き飛ばした細胞死弾が、心臓を物理的に破壊すると同時に周囲の細胞を侵食し崩壊させていく。


 手が汚れているのは、生きたいという意思があるから。淘汰の果てに何が待っているとしても。


 微笑を浮かべたまま仰向けに倒れている怜司を、恭也は黙って見下ろした。近づくヘリのローター音、多脚装甲車のサイレン。銃をホルスターに戻した恭也は、レンズが割れた黒フレームの眼鏡を拾い上げてスーツの内ポケットに入れると、それきり振り返ることなく階段室へと歩き出した。

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