ヌヌの湖

丸膝玲吾

第1話

 『視界の上部には松の尖った葉がのぞいていて、それ以外は全て青空だった。

 ヌヌは湖に体を浮かべていた。浮かべている、といっても白いシャツと青い綿のズボンが水を吸って下へとひきづるから、足は湖の底につけて上半身だけ浮かべている、といった風だった。靴は湖の淵に置いて、裸足で泥を掴んだ。

 そこは街の南西にある、学校の裏の大きな森で、自分の背丈ほどの草木をかき分けて進んだところにある小さな池だった。適当な木の棒を拾って手を伸ばせば向こう側の岸に届くほどの大きさの池だったが、ヌヌはそれを湖だと言い張っていた。尤も、そう誰かに主張したわけではなく、彼の頭の中でそう言い聞かせているだけだったが。

 五月中旬、気温は初夏と初冬を反復横跳びするみたいに、暑かったり寒かったりする。今日は夏の気候。ヌヌは湖に来る前に、暑いからアイスでも食べよう、と小銭袋から100円玉を取り出してコンビニに寄ったのだけど、100円で買えるものはガリガリくんのサイダー味と梨味しかなかった。

 ヌヌは氷が嫌いだった。去年の1月、しんしんと雪が降る中、遠回りだが整備された道を使って池へと向かったヌヌは、池が氷付けになっているところを見た。

 ヌヌは怒った。自分の家ともいえる池を、勝手に氷付けにされたのだ。寒いから水に浸るということはなかったが、水に浸ることができる、というのがヌヌにとっては何よりも大事だった。

 ヌヌはそれから氷が嫌いになり、100円では氷以外買えそうになかったから何も買わずに湖まで来た。100円はポケットに入れたままだったが、ヌヌは特に気にする様子はなかった。

 ヌヌはしばらく池に浸かっていた。揺れる水面が耳に押し寄せてくすぐったかったが、ヌヌは口角をあげることも身を捩ることもなく、樹齢100年の杉のようにでんと構えた。波紋はそんな彼の様子が面白くなかったのか、やがて互いに打ち消しあって降り注ぐ日差しに消えていった。

 ヌヌは上半身を折り曲げて起き上がった。ザバァ。水面から体を引き剥がすと、水滴が背中から滴り池に大雨を降らせた。水面に浮いた若葉やアメンボが驚いて池の端へと避難した。ヌヌはそのまま池の淵に体をあげて腰をつけた...』


 「それから?」

 男は肩をすくめて言った。

 「まだできてない」

 「でも結末は考えてるでしょう。口頭でいいから教えてよ」

 「だめだ。小説は書いてこそなんだ。口頭で魅力を伝えることができる小説は小説じゃないよ」

 「ケチ」

 女は椅子から立ち上がり、冷蔵庫からピッチャーを取り出してコップにレモンティーを注いだ。

 「できたら読ませてよ」

 「もちろん、一番最初に読ませてあげる」

 女は嬉しそうに笑った。

 男も微笑んだ。

 今日は、春にしては暑い日だった。

 

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ヌヌの湖 丸膝玲吾 @najuna

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