檸檬

フィステリアタナカ

檸檬

 あの日はとても暑かった。


「ただいまぁ!」

「お邪魔します」


 中学三年の一人娘の香苗かなえが帰ってきて、同級生の沙希さきちゃんもリビングに姿を現した。


「パパ。檸檬買ってきたから」

「お前、本当に買ってきたんだな。そこまでして見せたいか」

「だって沙希が見てみたいって言うから」


 娘が小さい頃から、檸檬を使って娘にマジックを見せていた。初めて見せた時のあの驚いた表情は今でも忘れていない。


「ちょっと待ってろ」


 娘が持っていた檸檬を受け取り、バレないようにポケットにあった小銭を左の袖の中に仕込む。キッチンにあった小型の包丁を持ってきて、テーブルの上に置いた。


「香苗。千円札ある?」

「はい、これ」

「普通の千円札だよね。いいかな。これを折り曲げていきます」


 娘から千円札を受け取り、両面を沙希ちゃんによく見せた後、いつものように小さな筒になるよう折り曲げる。


「はい。消えました」


 両手を開き、彼女達に見せる。娘はいつものようににやけているが沙希ちゃんは驚いた様子だった。


「この檸檬の中に瞬間移動したから、切るよ。よく見ていて」


 檸檬を半分切り、すぐさま小銭を移す。そして残りの部分を切って断面を見せた。


「はい、百円玉が出てきたね。どうだったマジック?」

「パパ、千円は?」

「ん? 手数料九百円だから、百円であっているよ」

「はっ? ありえないし!」

「じゃあ、これも切ってみるか」


 もう一つの檸檬を半分切る。折り曲げた千円を移し、残りを切った。


「凄い」

「ねっ、あたしのパパ凄いでしょ」

「香苗ちゃんは包丁さばき危なっかしいもんね」

「そこ?」

「うん。お父さんに似ていないね」


「そろそろ、百円返してもらっていい?」

「パパが反則したから返しませんよ~」


 娘に百円を取られてしまったが、今度沙希ちゃんの前で披露する時には、娘の小テストの紙でも見せてやろう。一点のヤツあったよな。


 ◇


「じゃあ、帰ります。お邪魔しました」


 日が沈んでまもなく、沙希ちゃんは家へと帰っていった。最近、帰りの遅い妻のことを思い浮かべ、夕飯の支度に取りかかった。

 その日の夕飯も娘と二人きり。食事の後、娘に皿洗いを任せ、風呂に入る。風呂から上がっても、まだ妻は帰ってきていない。


「香苗! 風呂上がったぞ!」


 ◇


「ただいま」


 妻の声が聞こえた後、彼女が姿を現す。


「おかえり。遅くまでお疲れ様」

「本当、疲れたわ」

「夕飯のおかずは冷蔵庫の中にあるから」

「大丈夫。会社の人と夕飯食べてきたから」


 何となく嫌な予感がした。確か先週も先々週も会社の人と食べてきたよな? 家庭があるのにそんなに頻繁に食べに行くか? そんな疑問を持ちつつ妻の様子をしばらく見る。そして妻は風呂に入るようなそぶりも見せず自分の部屋へ戻ってしまった。


(疲れているんだよな。それとも)


 最近の妻の行動。いろいろなことが頭を巡る。埒が明かない。いっそ興信所に頼んで白黒つけるか。そう思い、スマホで信頼できそうな興信所を調べた。


 ◇


「それでは、奥様の浮気調査ということで、よろしかったでしょうか?」

「はい、お願いします」

「承りました。一週間ほどで結果をお知らせできると思いますが、その間は普段と変わらずに過ごしてください。それとこちらに連絡もしないでください。怪しまれると警戒され浮気の現場を押さえることができなくなる恐れがあります」

「わかりました。よろしくお願いいたします」


 五日後、興信所より結果の報告があった。結果は黒。男と待ち合わせをしている写真。ホテルに入る写真と出てきた写真。娘のことがよぎり、これからどうすればいいか悩んだ。覚悟はしていたがショックだった。


 ◇


「今後、どうなされますか? 慰謝料を請求してもよい案件ですが」


 興信所の結果を弁護士事務所に持っていき、弁護士の先生と相談をする。先生は証拠を確認し終えた後、俺と向き合い、俺は予想もしなかったことを告げられた。


「申し上げにくいのですが、娘さん、あなたの子供では無い可能性があります」

「えっ」

「この音声データはまだ聞いていないと伺っておりましたが、この中に浮気相手が本当の父親だという旨の会話がありました」


 頭を鈍器で殴られたような感じがした。まさか、娘が? 俺の子ではない? どういうことだ。十五年間気づかずに過ごしてきたというのか。


「あなたと娘さんの父子関係が認められない場合。慰謝料を上乗せして請求することができます」


 ◇


「ただいま」

「お帰り。帰ってきて早々悪いんだが大事な話がある」


 妻と二人でテーブルに着き、クリアファイルの中にある離婚届をテーブルの上に置く。


「これって?」

「見ての通り、離婚届だ」

「何で急にこんなこと」

「自分の胸に聞いてみたらどうだ?」


 妻は狼狽えながら、俺と会話をする。俺は極めて冷静に話を進め、浮気の証拠も出した。


「さっき香苗にDNA鑑定をするように言った」

「えっ」

「疑いたくは無かったが、父子関係もはっきりさせるつもりだ」


 娘のことを考えて、そのことは言わない方が良かったのかもしれないが、十五年という歳月。疑惑に満ちた心のまま、娘と向き合うことは俺には出来なかった。


「浮気は認める。でも、娘はあなたの子よ」


 人生とは非情なものだ。妻の言い分すべてを信じることができない。それから俺は娘と共にDNA鑑定をしてもらって、結果を待つ。結果は99.9%父子ではないというものだった。


 ◇


「ママ。パパと離婚しちゃうの?」


 聞くのは俺じゃないんだな。娘のその言葉を聞いて、ただ目の前を見続けた。


「香苗。俺はママと離婚する。俺が本当の父親で無いことはわかっただろ」

「うん」

「親権はママに譲るつもりだが、香苗はどっちについていきたい?」

「パパ、ごめん」


 あの会話の後、俺は家を出る支度をし始めた。マジックに関係する物などどうでもいい。必要最小限の物をまとめて、すぐに家を出ようとすると娘から声をかけられた。


「パパ」

「俺のことは気にするな。何か困ったことがあったら連絡してくれ。これでも一応お前の父親なんだから」


 泣いている娘の姿を見て、玄関のドアノブに手をかけた。


「ごめん」

「お前が謝ることではない。悪いのはあの女だ。じゃあ、元気でな」


 それが一緒に暮らした娘との話した最後のセリフだった。


 ◇


 三年後の冬。香苗から電話が来た。


「もしもし」

「どうした? 香苗、元気にしていたか?」

「うん。元気にしている」

「何か困ったことでもあったのか」

「パパあのね」


 話を聞くと、香苗は大学に受かり進学するそうだ。奨学金を借りるが、借りることができるのは五月からだそうで、入学金などを支払うお金が無く困っていると。


「来月中に入学金を払わないと、私、大学に通えないんだ。いろいろ受けたけど、ここしか受からなくて――ごめん」

「そういうことなら、会って相談しようか。大学の資料を持ってきてくれ」

「わかった」


 手を付けていなかった、元妻から貰った慰謝料三百万。浮気相手からの慰謝料三百万。それと、追加請求した慰謝料。これを合わせれば、大学の授業料、生活費もきっと困らないだろう。

 でもそこまでやる必要があるのか? アイツと浮気野郎の子供だろ? あいつらが責任もって面倒見るのが当然だろ。

 俺はいろいろ考えた。幼き頃の娘の姿。あの笑顔。友達と楽しく過ごしている様子。俺の人生、娘の人生。一番良い方法は何なのか? お金なのか?


 ◇


「ごめんパパ。待たせた?」

「パパじゃないんだけどな」

「ごめん」

「困ったことがあったら言えって言ったのは俺だから、すまない」


 どうしてもあいつらのことを考えるとムカついてしまう。香苗には何も罪がないのに、当たってしまった己を反省した。


「資料持って来たか?」

「うん、ちょっと待って」


 結論を言うと、俺は香苗の可能性を潰したくなかった。話を聞いて、入学金およびその他諸々の費用を立て替えるつもりだ。


「これ借用書な。書面で残さないといけないからな、書いてくれ」

「ありがとう。ごめんパパ、利子は……」

「そうだなぁ、大学を出て就職したら利子は無しでもいいかな」


 ◇


 大学生になった香苗は週に一回連絡をくれるようになる。今まで、俺にどう接していいかわからなかったらしい。本当の子供ではないと負い目も感じていたのだろう。まあ、養育費を払っていなかったからお礼を言うこともできなかっただろうし、彼女の気遣いが心の中で響いた。


「もしもし」

「おう、今週はどうだった? 就職活動は順調か?」

「うん。内定を貰えたよ」

「おめでとう。一番目に希望してた会社か?」

「うん。パパのお陰で。ありがとう」

「俺は何もしとらんぞ。香苗がずっと頑張ってきた証じゃないか」

「そうだね」

「じゃあ、利子は無しだな。その代わりにボーナスが出たらよろしくな」


 そんなやり取りは彼女が大学を出てからも続いた。実の親以上に会話をしているんじゃないかと思うほど、現在の彼女を知ることができた。


「あのね。今度、結婚することになったの」

「結婚か。一度してみることは大事だな」

「根に持っているの?」

「最近はそれほどでも無いかな。ちゃんと良い人なんだろ?」

「うん。沙希の従姉弟」

「ほう。沙希ちゃんと親戚になるのか」

「うん、そう。それでね――」


 娘との会話が止まる。何か言いづらい事があると感じた。


「結婚式なんだけど。パパは招待できないの」


 声は震え、彼女が泣いている様子が伺える。


「ずっと育ててくれたのに、大学のこともあったのに」


 しばらくの間、彼女の言葉を黙って聞くしかなかった。


「それは仕方ないだろ。親戚の事もあるし、それと俺はあいつらに会いたくないから気にすんな」

「ごめん――ありがとう」

「子供ができたら教えてくれな。忙しいから、またな」


 虚しさ。俺はそれを悟られないように、早めに電話を切った。


 ◇


 三か月後、無事に結婚式が終わったという連絡を受ける。その直前、部屋の片づけをしていて「これは香苗に渡したいな」という物が見つかり、そのことを彼女に伝えようかと思ったが、今は伝えないことにした。

 そしてその日から二週間後、玄関のチャイムが鳴る。


「はい、どちら様で」

「香苗です。時間大丈夫ですか?」


 おいおい、来るなんて聞いていない。連絡を前もって寄越せ。玄関の扉を開けると、香苗の他に旦那さんらしき青年がいた。


「パパ、この人が私のダーリン」

「ダーリン? まあいいや。中に入ってくれ」

「お邪魔します」


 彼女達をリビングに通し、たわいもない話をする。その中で渡したい物のことを思い出し、彼女達にテーブルに着くようお願いした。そして、キッチンにある檸檬を持ってきて、香苗に言う。


「香苗。千円札ある?」

「ちょっと待って。はい」


 香苗から千円札を受け取り、千円札を折っていく。


「パパ。このマジックが得意なの」

「そうなんだ」


「よく見とけよ、一回しかやらんぞ」


 檸檬を切り、出てきた物を香苗に渡す。彼女はそれをまじまじと見て、俺に言う。


「これって、ママの指輪だよね?」

「そうだ。俺がヤツに贈った結婚指輪だ。この前掃除していたら出てきたんだよ。この呪いのアイテム貰ってくれないか? あの日々を思い出すかもしれんが」


 香苗の目には涙が浮かんだ。


「結婚式呼べなくて、ごめん」

「気にすんなって。それより香苗をよろしくな。一応こいつの親父だから」


 ◇


「パパ、またね」

「おう、気を付けて帰ってな。ここに来るときは予め連絡寄越すんだぞ」


 彼女達を見送り、リビングに戻る。冷蔵庫から酎ハイを取り出し、グラスの中に氷を入れる。そして俺は、あの頃の暑かった日々を思い出し、檸檬を絞ってグラスに注いだ。

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