『PMC』(文学フリマ東京38新刊「闇の同人短編集vol.1」サンプル)

伊藤汐

PMC

■導入


 数多のコンカフェを出禁になった男――通称、蛇。

(キャストを盗み見る際の視線の鋭さが気持ち悪いことから付いた名)


 執拗にキャストのLINEを聞いて繋がろうとしたり、キャストの退勤を出待ちしたり、挙句の果てにカウンター越しに身体を触ろうとするなど、キャストと繋がることに関して異様な情熱を見せる蛇。


 その妄執にも似た愛憎の果て、ついに念願叶い、推しとの初の店外にこぎつけた蛇だったが……。


 期待に胸を膨らませ、呼び出された高級焼肉店でひとり待つ彼の前に現れたのは、行き場を失った少女たちの支援を行う団体「失楽園の女戦士パラダイス・ロスト・ヴァージン」の代表理事を名乗る女性と、任意同行を求める警官だった。


■本文


 まだ肉を載せていない網から、熱された油の匂いがつんと立ち昇った。


 一瞬、鼻の奥に辛子を塗られたようなひりっとした痛みが広がり、蛇は思わずぬるくなったウーロン茶を手に取る。


 グラスを傾けて中身を一気に飲み干す。二の腕を伝って、グラスから滴る水滴が蛇のシャツの裾を不快なほどに濡らした。


 それは、蛇の頬を伝う大粒の脂汗の不快さと酷似するものだった。


「あなた、伊藤宏いとうひろしさんよね」

 そう言って、煙の立ち込める高級焼肉屋のテーブルにひとりの女性が現れた。


 年齢は三〇代半ばといったところ。背は高く、ブラウンに染めた髪を両肩に流し、薄桃色のブラウスが印象的な女だった。


 女は蛇の返答を待たずして、当然の権利のように向かいの席へと腰掛ける。


「あんたは……」

 辛うじて、蛇はそう聞いた。


「わたしはこういうものよ」

 女は白いトートバッグから、紙を一枚取り出すと困惑する蛇の鼻先にそれを突き付けた。


「若年女性支援団体PLV 代表理事 舘穴美佐たちあな みさ……」


 ――名刺。


 女の差し出した名刺を蛇は条件反射で受けとり、そこに書いてある文字の羅列を見て訝しんだ。


「悪いが、ほかの誰かと勘違いしていないか?」


 そう言って、蛇はつっけんどんに名刺を突き返した。


 事実、蛇と女は初対面だったからだ。縁もゆかりもなければ、こうして名刺を渡されるような謂れもあるわけがない。


 しかし、女は「してない」とひと言。名刺を蛇のシャツのポケットに差し込んだ。

 そうして、蛇のことを正面から見て、もう一度――。


「ええ、していないわ」


 そうして、つかの間、最高品質備長炭の発する熱気の上で、蛇と舘穴の視線が交錯した。


 蛇はそこで女から異様なプレッシャーを感じる。それは自分のことをどこまでも見透かしているかのような薄ら寒いものだった。


「今日、おれはある人を待っている。間違ってもそれはあんたではない。わかるな?」


 蛇はきっぱりとそう言った。話の通じない相手には態度で理解させるしかないと考えたのだ。


「でしょうね」

「じゃあ、なぜ――」


「電脳喫茶『新論ニューロン』の『りま』。あなたが待っているのはその娘でしょう」


 瞬間、蛇の身体に電流が走った。


 ――なぜ、その名前を……。


 電脳喫茶『新論』。


 電脳空間サイバー・スペースを演出する、というコンセプトをもとに酒類を含む簡素な飲食の提供を行うカフェ&バー形式の喫茶店――いわゆるコンカフェ。


 そのコンカフェの給仕もといキャストのなかでも、蛇がここ最近、推しに推していた担当が『りま』だった。


 そして今日、蛇がこの焼き肉店で店外をする予定でもあったのも、その『りま』である。


「あんた、なにを知っている」

 蛇は単刀直入に聞いた。


 この焼き肉店にりまが来ず、代わりに女性を支援するという謎のコンセプトを掲げた団体の理事の女が姿をあらわした。そして、その女はどういうわけか自分の名前を知っている。それがまずい事態であるということは蛇にも理解できた。


「とりあえず、あなたがバレないと高を括っているようなことは全部知っているわね」

「おれと彼女のあいだのことに、外部の人間が口を差し挟む権利はない」


「そうもいかない。わたしの仕事はあなたみたいな性欲丸出しの男から無垢な女の子を守ることなんだから」

「もう一度聞く。あんた、おれとりまの関係の何を知っているっていうんだ」


「少なくとも、店外で未成年キャストと繋がろうとする男の末路は知っているつもりだけど」


 蛇はそこで押し黙った。


 単にりまが未成年キャストであることを知らなかったのだ。蛇は純粋な心の持ち主であり、りまが「わたし、お酒苦手なんです~」と言ったのを、本当にお酒が苦手な娘なんだなと信じ込んでいたのである。 


「男っていうのは、本当に哀れな生き物ね……」

 蛇の動揺を見抜いたのか、舘穴はため息をつき、言った。


「それにね。あなた結構な有名人よ、この界隈ではね。数多のコンカフェを出禁になった男……『蛇』。まさに生ける伝説ね」


「伝説か……」

 そう言って、蛇は口元を隠し笑う。


 蛇は知っていた。伝説なんてものがいかにあやふやなものなのかを。


 人々は蛇を見て口々に彼を伝説の存在と言って敬遠した。入店した店を五秒で出禁にされる男。キャスドリ入れてからの放置に生身で五時間耐えた男などなど……。


 しかし、蛇にとっては事態はむしろ逆だった。


 蛇は単に物事にまつわる手続きというものを簡単にしただけだ。

 思いを正直に伝える。体裁を繕わない。体面を気にしない。


 たったそれだけで嬢とのあいだにある澱のような不信感が溶解することを蛇は知っている。そんなこともわからずに、蛇を伝説の男に祭り上げ、自らは嬢とのコミュニケーションを放棄し、内輪に閉じこもった者たち。それが蛇の認識するコンカフェに身を置く人たちだった。


 つまるところ、蛇を見る人々の羨望の眼差しとは、言ってみれば、その不自由さに囚われた虜囚の眼差しでしかないのだ。


「伝説なんて、ただの称号――記号だ。おれは自らの心に従っているに過ぎない。それを伝説と称して、理解の埒外に追いやるのは人の勝手だが……。おれのりまへの思いをそういうふうに呼ぶのは許さない」


 蛇を見る舘穴の目つきが変わった。


「いえ、単にキャストの身体を執拗に触ろうとする客がいるってお店から通報を受けただけなんだけど……」


「……」


「ほかにも、店前で長時間うろつく、従業員を出待ちする、ほかのお客さんに対しての匿名掲示板での誹謗中傷する、そして極めつきは未成年従業員とアフターを行おうとする……。まあ余罪はほかにもあるけど、全部、監視カメラの映像や掲示板のログに残っているからね」


 蛇は咳払いを一つすると、震える手で空になったグラスに口を付ける。

「そういうことか……」


 何がそういうことなのか。舘穴はそれを聞くことはしなかった。というか、アホすぎて聞く気にもならんかった。


 蛇たちの居る高級焼き肉店は、繁華街の喧噪とは少し離れた国道沿いに面している。通りを一本は挟んだ向こうには、ローカルのテレビ局があり、その関係上、業界人の接待を目的にした個室完備の店が大量に存在している。


 権力を持った人間とそうではない人間とのあいだには、理不尽という名の支配への欲望がより下位の者――未成年や若い女性へと流れ落ちる傾向にある。そのため、接待を目的とした料亭や飲食店では常日頃、トラブルの発生には目を光らせている。何か通報があればすぐにでも警察が現場へと急行できるようになっていた。


 そして、この店を選んだのは蛇ではない、りまだ。蛇は「あたしとひろくん(蛇の本名『宏(ひろし)』から取ったあだ名)との内緒の場所だよ~」とりまに言われ、喜び勇んでやって来ただけで、そういう地理的な事情についてはまったくと言っていいほど無知だった。


 蛇はそういう感じでいままで人生をやってきた。初めてケータイ(死語)を契約したときも、エロサイトのサクラ相手に名駅の金時計前で五時間待ったことがある。そのあと親と塾の先生両方に死ぬほど怒られた。


「令状はまだ取ってないけど、念のためにね……」


 舘穴はそう言うと、個室の戸口を顎でさした。暖簾の向こう、おぼろげな輪郭だけを残して、ひとりの男が立っていた。


 蛇は最初、それを店の警備員か何かだと思って気にしていなかった。


 しかし、目をこらせば、胸のあたりに桜をモチーフにした金色の記章が付いているのが見て取れた。そして腕には防犯パトロール中と書かれた腕章を付けている。戸口に立っているのは紛れもなく警察官だった。


「わあ……」


 蛇の口から思わず、うめき声が漏れ出た。


うめき声以外もいろいろ漏れた。それをいまここに書くことは蛇の名誉に関わるし、何より不愉快なので割愛する。


 舘穴はそれを見て深く嘆息した。舘穴がこの蛇という男に共感するということは、まず天地がひっくり返ったとしてもありえないだろう。しかし多少の憐憫というものは感じる。


 具体的には、いままでこの蛇という男を育ててきた両親に対して感じる。かわいそうに、親の責任というものは、どこまでもついて回る。子どもが陰キャにならないためには、頭のおかしい受験塾に通わせてはいけないという話を聞いたが実際はどうなのだろう。


「どうしてかしら……」

 舘穴がポツリとそうこぼした。


「オタクにとって、推しは神聖不可侵なもの。なのに、なぜオタクはその幻想を神棚から引きずり下ろし、みずから捨て去るような真似をするのかしら……」


 蛇はそこで言葉につまった。

 当の舘穴自身も、今しがた自分が口にした言葉に驚いているらしく、はっとした面持ちで蛇を見つめた。


 蛇は一瞬、ドキッとする。


 蛇の守備範囲は、自分の性的魅力に気づきはじめ、TikTokでおっかなびっくりエロいダンスを投稿し始める女子高生ぐらいの年頃なのだが、それはそれとして、舘穴はよく見れば普通にエロい身体をしていた。


 顔さえ見なければ普通に抜けるレベルでエロかった。そこで蛇は、身体からいろいろ漏らすのを意志の力で制御し、居住まいを正し、ついでにちんポジも直しておく。


 そして考えた。


 自分にとって推しとはいったい何なのだろうか。

 なぜ自分は推しと平和に会話するだけでは満足できないのだろうか、と。 


 たしかにキャストとプライベートでことは、推し活においてタブー、禁忌とされる行為である。それはつまるところ、聖域をけがす行為に等しい。


 しかし、その禁忌を侵してまでも、蛇はりまという甘い毒に引かれてしまったのだ。


 りまという女は、ほとんど核兵器並みの無自覚エロをほこっており、キャスドリを頼んで喋っていると、無意識に後ろの壁に踵を付けて脚を休ませる癖があった。ヒールを履いて接客する関係上、立ちっぱなしの脚がむくむのだ。


 そのとき、絶妙にパンツが見えるか見えないかの位置までスカートが持ち上がるので、それがめっちゃ最高だった。しかも、それをほとんど生足でやりやがるので、蛇はオーウェルで言うところの『二重思考ダブルシンク』を使って、情動と理性を切り離して会話を行う必要があったほどだ。


 まあ、そういうわけで蛇にとっての推しとは、理性と情動の狭間にあるもの、肉と物質の中間物、キリストの聖母マリア、そしてちょっと頑張ればヤらせてくれるかもしれないサークル同期の女の子みたいな存在だった。


 間違っても、キャストにアフター目当てで群がるほかの下劣な男どもとは違う。違うもんと蛇は思っていた。


「つまるところ」

 蛇は言った


「おれとりまとの関係は極めてプラトニックな関係と言えるだろうな……」


 そうして顎に手を当て、ふむとそう独りごちる蛇を前にして、舘穴は絶句した。それはもう絶句した。なんも言えんかった。


 蛇の言動はまさに、人との距離感をはき違えた厄介オタクのそれであり、厄介オタクは人間ではなくモンスターであるからだ。獣に人間の言葉は通じない。


 自分という人間を客観視できない人間は総じて異様な人間像というものを自己の内側に作り上げてしまう。


 蛇喰らいスネーク・イーターとは、自身の尾を喰らったウロボロスの逸話である。それと同時に、グノーシス主義的な閉じた人間観の象徴でもある。そして『プラトニックな関係』なんて言葉はもう死語の死語である。


 舘穴はそれでも、蛇に対して懇切丁寧に、いい加減目を覚ませクソ馬鹿がという類いの言葉を掛け続けた。


 それは彼女の尋常ならざる胆力と忍耐力から生み出されたと言っても過言ではないだろう。生まれながらにして、舘穴という人間はその魂に善の輝きを刻み込まれて生まれてきた。若年女性支援という仕事に就いたのもそのためだ。


 舘穴はかつて大学生の頃、夏の長期休暇を利用してインドの貧困層へ向けて人道支援や援助開発を行っているNGOに参加したことがある。


 そこで舘穴が目にしたのは、想像を絶する世界の陰の部分だった。


 スラムでは目を切り裂かれた子どもたちが道行く人々に物乞いをして生活している。そして、その無心したお金のほとんどを、麻薬や人身売買などを行うならず者の大人たちが上納金として巻き上げてしまうのだ。


 むしろ、最初から観光客の同情を買うために、あえて子どもらに傷を負わせるような手合いもいる。


 まだ年若い舘穴の頭は、その光景を理解することを拒絶した。


 何事にも限度というものがあるのだ。日本という平和な国に生まれた自分が肩代わりできる苦しみの量には、残念ながら限界がある。


 それでも舘穴は諦めることをしなかった。


 それなら、わたしは、わたしの半径五〇メートルにも満たない世界を救おうと、あまねくすべての神々がその救いの手を伸ばしあぐねた者たちにこそ、わたしはこの手をまっすぐに差し伸べてやろうと、そう決意した。


 舘穴は、自分のやっていることが必ずしも道徳に適うものだとは思っていない。


 ある立場の人間を救済することは、ある立場の人間を救済しないことを意味するからだ。若年女性のぴえんを救うとき、独身異常男性のぴえんは自己責任と切り捨てられる。ニーチェはこの手の道徳律の欺瞞をごく単純に嘘と形容した。


 わたしが世界を救おうとしたとき、世界はわたしを潰そうとする。


 上等だ。どちらかが倒れるまでやってやる。


 これはどこまでも私的な闘争、戦争なのだ。わたしの救おうとする力と救わせまいとする力。その戦いだ。それが舘穴の戦士ヴォエヴォーダとしての矜持だった。


 そして、戦士であるからこそ理解できることもある。


 蛇という名の伝説。それがこの男を孤高にしている。孤独にしている。そのことに舘穴は気づき始めていた。

 

 ――あなたはね、勘違いしているのよ。

 ――なにを?


 ――あなたは良客ではない。あなたは痛客よ。

 ――おれは痛客ではない。


 ――いいえ、あなたは痛客よ。わたしにはそれがわかっていた。あなたは良客でもイケメンでもなくただの痛い客なの。キャスドリを入れなくとも、キャストが自主的に付いてくれるようなことはありえない。


 ――嘘だ。

 ――嘘じゃない。現に彼女はここに現れなかった。あなたは売られたのよ。だから、ここにいる。この大して美味くもない一皿三千円の肉を経費で落とす魂の墓場のような焼き肉店に。

 

 蛇はそこで嗚咽した。耐えられなかった。


 いきなり年上の女性にガチ説教をくらったことで、蛇は中学生のとき、じいちゃんの葬式中にPSPでモンハンやってたら、親戚の姉ちゃんに「お前ホントにわかっとんのか状況?」といきなり恫喝されたときのことを思い出した。


 なぜだ。おれはりまにすべてを捧げてきた。


 りまがインスタで好きだと言っていたコンビニスイーツは毎回、差し入れに持っていったし、バースデーイベントではりまが肌荒れが気になると言っていたので、家で母親が使っていたスピーディクレンジングオイルをプレゼントした。


 りまの好きだと言っていたV系バンドの曲も聞いたし、りまの趣味である廃墟撮影にも行ってみた。りまのようにカメラマンの友達はいなかったが、スマホでも結構いい画が撮れた。


 そうやって、りまと同じものを見て、りまと同じ経験をし、りまと同じように考えたいと蛇は願った。


 けれど、いまになって、蛇は良客ではないとこの女は言う。

 蛇のことを、女以前に人間とも関わったことがないようなきっしょい生き物であるとこの女は言う。


 ――痛客とは何だ。良客とはどう違うんだ。


 りまが望むなら、おれは良客になってみせる。だから教えてくれ。良客になる方法を。キャストに厄介認定されない方法を。そしてLINEも交換させてくれ。


 それは蛇の咆哮であった。あまりに気持ち悪い魂から発せられた、哀しき咆哮である。


 ちなみに、りまの太客は蛇だけではない。そもそも蛇はオリシャンどころか、高額アミュすら頼まない。頼むのは店でいちばん値の張らないキャスドリであり、しかも、それで何時間もキャストを拘束しようと粘りまくる、うんこ中のうんこ、正真正銘のクソ客であった。


 そうして、二人は時間を忘れて、激しい口論もとい人格否定バトルを行った。


 舘穴は蛇の人格を根本から否定することで、蛇がその身に纏う伝説という名の鱗を剥ぎ取ろうとしたのだ。


 元来、言葉の持つその不毛な性質ゆえ、人々は語らいによって引き裂かれる。舘穴は蛇が己の心を守らんがために纏っているその分厚い鱗にそうしてメスを入れることによって一種の暴露療法的措置で蛇の心を解き放とうとしたのだ。


 その向こうに、蛇ではないひとりの男の純潔バーチャスがあるはずだと、そう信じて……。


 そして、囲炉裏いろりに張られた炭はいつしか灰となり、ウーロン茶とお通しだけで二時間が経とうとしていた。店としては、お前らこそ真の痛客だよとブチ切れている可能性がある。


 そのとき蛇は気がついた。先ほどまで戸口に立っていたはずの警官がいなくなっていることに。どういうことだろうか。やはり通報はブラフ、おれを誘い出すための罠だったということか。


 蛇の態度を見ていた舘穴がそこで大きなため息をついた。


「本当なら今すぐしょっぴきたいところだけど……」

 そう言って、舘穴はバッグからアイコスを取り出した。


 そのまま慣れた手つきでスティックを装填すると、うまそうに煙を吸い始める。同時に蒸気の甘い香りが個室にも広がった。


 蛇としては電子だろうが紙だろうが、女性が喫煙することには断固反対の立場だった。なぜなら、タバコを吸う女の彼氏いる率は実質一〇〇パーセントであるからだ。


「彼らにも本来の仕事というものがある。通常のシフトに戻ってもらったわ」

「じゃあ、あんたがおれを捕まえるのか」


 蛇は笑いながら言った。国家権力の影が鳴りを潜めたことで蛇にも軽口を叩くぐらいの余力が戻ってきていた。


「いいえ、違う……」

 舘穴はそう言うと、自分のスマホを取り出し、蛇の目の前に置いた。


「これは……」

 画面にはひとりの少女が映っていた。


 それはりまだった。Fan○ia(R15+)にあげられた、りまの裏垢女子的なもののサンプル動画だった。


 りまはそこで、それはもう激エロペッラペラのチャイナ服を着て踊り狂っていた。


 指をくねくねと自身の浮き出た肋骨やギリ透け乳○に這わせては、扇情的な吐息をつき、まるで自身の痴態を見られることに歓びjoyさえ感じているかのごとき、踊りっぷりだった。


「これは……」


 その荒唐無稽なエロさに、思わず蛇は下半身をおっきっきさせることはせず、逆になんかスンッとなって落ち着いてしまった。


 気難しい処女厨でもある蛇にとって、いきなりこんなあざといエロを見せつけられても、「うわ」となって萎えてしまうのだ。


「罪を、そして過去を消すことはできない。唯一できることは、罪を新たな罪で覆い隠すことだけ……」


 舘穴が意味深に意味不明なことを言ってきた。


「それは、おれの罪のことか」


 蛇もよくわからず反応した。心の底では通報は嘘かもしれないと期待していた。


「あなたの罪は消えない。普通に、新論以外のお店からも通報がきているし、実際、各店舗のオーナーが情報共有してあなたを集団訴訟で訴えようと準備を進めている」


 蛇は普通にゲボ吐きそうになった。いやどう考えても一人の人間に対して投入していい戦力じゃないだろそれ。


 そのとき舘穴が信託の巫女のごとき深遠さで「けれど」とスマホの画面を指し示した。蛇としては若い大学生バイトぐらいの年齢の巫女さんが好みではあるが、いまの蛇は藁にも縋る思いだった。


「あなたには別の道も残されている」

 舘穴がそういった。


「別の道?」

「ええ、これを見てちょうだい」


「これは……」


 さきほど見せられたものとは違うが、今度もやはり、りまの画像だった。


 しかし、そこでのりまは先ほどとは打って変わって、しおらしい顔をしており、目元は潤み、全体的に、この娘を助けられるのはぼくだけなんだ!という情緒を呼び起こさずにはいられないような幸薄な感じだった。


 それはなにかのアプリのメッセージ画面のようで、相手は男性(ここでは仮にKと呼称する)だった。そして、その内容は一貫して金銭の遣り取りに関するものだった。


  K「しごおわした―。りま、暇なら少し通話しない?」

 りま「いまちょっとDVの気配あったから逃亡ちゅう汗」


  K「また? りま、大丈夫?」

 りま「お酒飲んでる日は高確率で殴ってくるから、もうパターン憶えた笑」


  K「そういうときはすぐ逃げて、ぼくのこと頼って。りまのこと、マジで心配してるから」


 りま「うん、ありがとう……。ただ、今週ちょっと調子悪くて出勤入れられなかったから厳しいかも……」


  K「それはお金がってことだよね?」

 りま「うん……。ごめんね、こんな話……」


  K「いいよ。ぼくもりまには元気もらってるし! あと前に話してた奨学金の件、とりあえず口座に二〇万振り込んでおいたから、それで何とか頑張って!」


 りま「うん! 本当にありがとう! りまのこと助けてくれるのはやっぱりKくんだけだね……。熱下がったらバリバリ働いてお返しします!ビシッ」


  K「了解!」


「りまはおそらく、ロマンス詐欺の常習犯よ」

 舘穴が言った。


「ロマンス詐欺?」

 聞いたことない言葉ではあったが、蛇は一瞬、その言葉の響き・・にうっとりしてしまった。


 ロマンスと詐欺、その二つの言葉が互いに結託して意味を為すとき、その言葉の持つ甘い響きと意味の内実は明確に反目しあっている。というより、あらゆる詐欺的行為のなかにロマンスや愛といった営為が内包されている……。


 そういった印象を蛇はその言葉から感じ取ったのだ。だから決してりまになら騙されてみたいとか思ったわけではない。


「むかし馴染みの言い方であれば、結婚詐欺といった方が伝わりやすいかしら。ようは結婚や交際の意思がないのに、それらを餌に相手から式代や高額ジュエリーなどの金品を騙し取る行為のことよ」


「あんたは、りまが人を騙す詐欺行為に手を染めていると言っているのか」


「いまはまだそういう疑いがあるとだけ言っておくわ。それに、あなただってターゲットの一人なのよ、蛇」

 舘穴はそこで蛇のことを過たず指さした。


「そんなはずはない」

「なぜ、そう思うの」


「コンカフェキャストは恋愛禁止がルールのはずだ。だからこんなふうに男とねんごろになれるはずがない」


 舘穴はひときわデカいため息を放ち、

「そんなお題目をまだ信じているとはね……」


「違うのか」

「当然、違う」 


「だが、りまは悩み事を相談できるのは、客のなかでおれぐらいだと言っていた。それに恋愛にもいまのところ興味ないと……」


「恋愛に興味がないっていうのは、もうイケメンの彼氏がいるってことよ」


「だがイケメンを彼氏にすると顔に嫉妬しちゃうから無理とも言っていたが?」


「それはね、顔の良い彼氏はほかの女と浮気するから嫌だって意味なの」


「……」


「理解できた?」


「なんだろうな、あんたと話していると話が噛み合わない。言葉が通じてないらしい」


「通じていないのはあなただけ。周りと通じていない奴だけが、自分の言葉が通じないと社会に違和感を訴え続ける。単に自分が、比較的空気が読めず、人に不快感を懐かせる、感性のおかしい人間であるということに気づかない」


 蛇は驚きに目を見開いた。いや、めちゃくちゃ言うなこいつ。


「結局のところ――」舘穴はそこで立ち上がる「言って聞かせるより、実物を見せる方が手っ取り早いわね……」


 そう言って、蛇の座る窓側の席へと近づいた。焼き肉店はビルの四階に位置している。そこから夜の繁華街の雑踏を一望することができた。


 舘穴は、まるで歴戦のスナイパーのように目を細め、獲物を探す鋭い視線を夜の盛り場へと走らせた。


 そして――


「あれがPYX、聖櫃よ」


 そう言って、舘穴は窓の外、蛇たちのいるビルから、三〇メートルほど離れた路地の一角をゆびさした。


 そこには、いかにも地雷系ですといった感じの服装をした若い女が、ビルの植え込み部分に体育座りでうずくまっていた。太ももどころか尻まで見えそうな(というか見えてる)超絶ミニスカを履いていること以外は一見、普通そうに見える少女だったが……。


 その女の様子がおかしいことに、蛇もすぐに気が付いた。


 女は、うずくまった状態からやおら立ち上がろうとして――立ち上がれない。正確には、お尻を突き出すようにして腰を持ち上げるが、上体がそれに追いつかず、前屈のような姿勢のまま、ぶらんとその場に固まってしまう。

 そうして何度も腰を持ち上げ、下ろしを繰り返し、その場で尺取り虫のような動きを続けていた。


「あの子、おそらくラリってるわね」


 蛇は驚愕した。ひとつにドラッグの類いがこんな身近に蔓延しているのかという事実。もう一つはそのことを階上から睥睨するだけで見抜いた舘穴のその観察眼。


「いわゆるODオーバードーズよ。聞いたことない?」

「ウナギと梅干しを一緒に食うなみたいな話か」


「ぜんぜん違う。せめて薬をグレープフルーツジュースで飲むな、ぐらいまでは近づいてほしいところだけれど……まあいいわ」


 舘穴はそう言うと、スマホを取り出し、どこかへ通話を掛け始めた。蛇が耳を澄ますと、


「彼女を保護して」という文言が辛うじて聞こえた。相手は警察か保護施設シェルターの職員だろうか。


 舘穴はスマホをしまうと、

「薬というのは、用法用量を守れば、病気の症状を和らげたり、疲れを取ったりと適切に働いてくれる。けど、悪用すれば、その限りではない。咳止め薬をお酒と一緒に一気飲みすれば、大麻や覚醒剤と同じような効果を簡単に得ることができてしまう」


 蛇はむかし見た昭和の学園ドラマやヤクザ映画で不良学生がビニール袋にガスを溜めて吸い込む遊び――いわゆるガスパン遊びの描写を思い出した。


「みんな、ここではないどこかへ飛んでいってしまいたいと思っているのよ。とくに若い子たちはね……」


「それがわからない。なぜみんな飛びたがる? なぜ陶酔したがる? そんなことをしても何も変わらないじゃないか。ただそこに、厳然たる自己が在ることを確認する営為に何の意味がある」


「自分の内面とまったく向き合ってきたことのない人間にはわからない悩みだろうね」


 おい、さっきから人格否定しすぎだろ。


「そんなに暇なのか。彼女たちは」


「これはね、あなたが思っているより根が深い問題なの。なにも、みんな気持ちよくなりたいからやっているわけじゃない。

 近頃は受験勉強のためにそういう薬を飲む子だっている。依存してしまうリスクを承知しながら、それでも使わないことには、周りにどんどん差を付けられてしまう。

 いまの受験のシステムでは、トップ校や受験塾に投資しなければ、志望校のレベルを落とさざるを得ない。これは死活問題なのよ」


 蛇はほへーっと聞いていた。蛇の学歴バトルの最終成績は中学受験で止まっているし、さらに言えば人生のピークすらもそこで止まっているので、まったく興味のない話だった。


「ほかにも内申点のために部活で記録を残さなくちゃならない。バイトをしなくちゃ満足に日用品も買えない。場合によっては、身内の介護や弟妹の世話をしなくちゃならないことだってある。


 誰もがそういう、しなくちゃならないをフルにこなせるわけじゃない。集中力が持たない子。生来の性質的にタスクを抱えられない子。そういう子たちが最後に手を出すのが――」


「薬というわけか……」 


 蛇はあらためて、植え込みに倒れている地雷系女子を見た。


 おそらくひどい酩酊状態にあるのだろう。ゴミの散乱する不衛生な路地に、自慢の長いハーフツインの髪を投げ出し、這々の体で歩くさまはまるで映画リングに出てくる貞子を彷彿ほうふつとさせた。


 そのとき地雷系女子がマジで貞子みたいにぴたっとその動きを止めた。


 つかの間、その場に凍りついたようにじっとしていた彼女だったが……。ひときわ大きく肩を震わせたかと思うと――次の瞬間、足もとに向かって胃の内容物をぶちまけた。


 そして地雷系女子のゲロが収束していく。地雷系女子のゲロビはシン・ゴジラの内閣総辞職ビーム並みの勢いで、浅田〇央の姉が通いまくっていたと言われるクラブを一刀両断し、蛇が学校帰りに毎日五時間ぐらい入り浸っていたブックオフが入っているスカ〇ルを瓦礫の山に変えた。


 ついでに名○屋のトー横と言われるが、実際はそんな大したことがないと見せかけて、夜半になると若い兄ちゃんが交差点のド真ん中でいつも何かしらの野焼きを行っているこの世の終わりみたいな世界観のドンキも破壊した。


 地雷系女子はすべてを焼き尽くすと、そのままカエルが引っくり返るようにコテンと仰向けに倒れ、その短い一生を終えた。


 ――終えてはいないが、もしそこらへんのYouTuberに動画とか撮られていたら社会的に死ぬのは確実ってぐらいにはマジですごい嘔吐だった。あそこらへん、くちゃいからもう歩くのには使えんな。


 一部始終を見ていた舘穴が、ほら言わんこっちゃないというように頭に手を当てた。直後、サイレンの音が鳴り響き、舘穴が手配したと思われる保護施設の職員が担架を持って、ゲボ吐きネキのところに駆けつけた。


「ああいう状態になった少女たちが二次被害に遭わないよう保護し回復させるのも、わたしたちPLV――『失楽園の女戦士パラダイス・ロスト・ヴァージン』の役目の一つよ」


「いい社会貢献じゃないか」

 まっとうな感想を言ったつもりの蛇だったが、舘穴は単にこれをキモいと却下した。


「さっきまで女の子のことを視姦同然に舐め回すよう見ておいて、よくそんなことが言えたわね。まあこの際、その倫理性の無さには目をつむるわ」


 そして舘穴は「話を戻すわ」と言うと、


「りまはね、孤児だったの」


「りまが……孤児?」


 舘穴はええと頷くと、またぞろ窓の外、眼下に広がる夜の繁華街のカオスを見下ろした。

 いつの間に現れたのだろう。路地には異様な数の若い女が、誰かと待ち合わせしているかのように所在なげに立っていた。


 さっきまで地雷系女子がぶっ倒れていた場所にも、すでに数人が陣取りをし、スマホに目線を落としていた。いわゆる立ちんぼというやつだろうか。


「りまだけじゃない。あの子たちもそう……。みんな孤児だった」


 舘穴はそう言って、目を細める。舘穴の視線の先には、ひたすら虚無の表情をした女たちが、まだ見ぬ男たちの影を群衆の合間に見出そうとしていた。


「遙に、あかね、それにくるみまで。あの子ったら、ホス通いからは足を洗ったって言っていたのに……」


 蛇はりまが孤児だとは知らなかった。


 彼女は、自身がそういう境遇であったことを決して蛇に匂わせることはしなかった。それはどんな種類の決心によるものだったのだろうか。あるいは、どんな種類の呪いによるものだっただろうか。


「困窮しているあの子たちが頼るべきは本当なら福祉であるはずなのだけど……。人として最低限度の生活を送ることで、彼女たちは女としての最低限度の人生を容易に失うことになる」


「そんなことを言われてもな。社会にもリソースというものがある」


「別にこれは、あなたや、あなたを含む男たちの原理で動くシステムを批判したくて言っているわけではないのよ。わたしが言いたいのは、彼女たちもまた、自身が幸福になるために最大限の手を尽くしていると伝えたかっただけ……」


 蛇は黙って舘穴の話を聞いていた。蛇がとうの昔に放棄してきた数々のものが、いまだ効力を持つ世界というのを蛇はうまく想像することができなかったのだ。


「コミュ力や頭の良さ、ルックスやスタイルの良さといった性的価値、そして何より若さ……。彼女たちは自分の武器をよく知っている。しかし、それでも独力で幸福になるというのは、女にとって梁に渡されたロープの上を歩くようなもの。


 どこかでベッドしなくてはならないときがくるのよ。自分が持ちうるすべてのものを、一つの山に賭けなくてはならないときが。


 それは女だけじゃない。男も同じ。みな配られたカードで戦うしかないのよ。それが、どれだけ弱かろうとカードの配り直しを要求することはできないのだから。


 そして、りまという子はなかでも抜きんでて、意志の強いプレイヤーだった。あなたも充分、承知していることだろうけど、あの子は馬鹿じゃない。自分がやっていることの意味をちゃんと理解している。


 だから止めないといけない。止めてやらなくちゃならない。それが大人であるわたしたちの義務なのよ」


 蛇はそこで頷いた。

 そうだ。りまという女の子は活発で、愛嬌があって、けれど人一倍負けず嫌いな娘だった。


 彼女は気高かった。だが同時にどうしようもなく孤高でもあった。

 しかしそれでも、その孤高を蛇は美しいと思った。なにより尊ぶべきものであると確信した。


 そんな彼女だったからこそ、蛇は彼女に惹かれ、彼女を推すオタクの一人となった。


 そして、蛇にはすでにこの話のオチが見えている。


「だから俺にりまを売れと……。そう言いたいんだな、あんたは」


 舘穴がそこで驚いた表情をして振り返った。

 まさか、こんなカスみたいな男に自分の作戦が看破されたとは――。 


 しかし舘穴もその道で何年もやってきたプロだ。市や自治体を相手に何度も補助金を勝ち取ってきた。言葉の――交渉のプロだ。


 舘穴はすぐさま表情を元に戻し、

「ええ、そうよ。わたしは今夜、あなたにある取引を持ちかけるためにここに来た」


「ある取引……」

 蛇はそうおうむ返しに言った。


「りまにはいま、ある犯罪――詐欺罪の疑いが掛かっている。それも単なる詐欺じゃなくグループを組織し、不特定多数から多額の現金をだまし取るような大型特殊詐欺犯の疑いよ……。あなたとりまの遣り取りを見れば、その尻尾が掴めるかもしれない」


「自分で言うのもなんだが、おれに情報源としての価値はないぞ」


 蛇は自分で言っていて悲しくなってきたが、現に蛇が持っている情報はカス中のカス、カスの極み乙女みたいなもんだった。


「そんなこと承知の上よ。仮に何の情報を得られなくとも、りまがあなたに接触してくる可能性がある限り、あなたの利用価値がなくなることはない」


「おれにスパイの真似事をやれと?」

「真似事じゃない。あなたには蛇を喰らう蛇――スパイそのものになってもらう」


「……」

 蛇はそこで押し黙った。どうやら事態は大胆にもその風向きを変えようとしているようだった。


「もちろん強制とは言わない。けれど、わたしたちに協力すれば、あなたの量刑が軽くなるのは間違いない。事によっては、恩赦が出るということもある。いち被害者であるとわかれば、これまでの奇行にも情状酌量の余地が生まれる……」


「なるほど、だんだんあんたのやり口ってのがわかってきた。それにいままでどんなふうに生きてきたかもな」


「言うじゃないの。まともな社会経験も積んでこなかった社不のくせに。たった一回のお喋りで女という生き物を理解したつもり?」


「そこまで傲慢になったつもりはない。だが、こんなおれにも一人の女を信じて待つことぐらいはできる。そうは思わないか?」


 舘穴はそこで身を乗り出して、

「思わない――。それにあなたはわかっていないのよ。事の重大さってものが」


 舘穴の放つ圧に気圧され、蛇は椅子に座ったまま、思わず後ずさってしまった。


「あなた、PMCという言葉を知っているかしら?」


「PMC?」


 聞き慣れない単語に蛇は虚を突かれた。


「PMC――prostitution売春 market市場 cartelカルテル、つまりは個人売春産業のことよ」


 舘穴は続けて、


「いまの時代、出会いといえば、マッチングアプリを通じて行うのがセオリーとなっている。けれど、そのマッチングアプリのなかでも、実質的に売買春の斡旋所として機能しているアプリがいくつかある。それがPMCの温床になっている」


「りまもそのPMCとやらの一人だと?」


「りまだけじゃない。内閣府の直近の報告では、アプリ全体をみたとき、その利用者のおよそ半分が何らかの形で性風俗産業に関わりがあるというデータが上がっているの」


 舘穴はそこで語気を荒げた。

「もはや、これはりま一人だけの問題じゃないのよ。すべての女性が同様の被害に……。そして同様の加害行為を行う可能性がある。

 PMCの温床になっているアプリ運営会社のなかにはキャバや性風俗店を専門とした求人サイトやスカウトの派遣を行っている企業もある。

 女の子たちはみずからの裁量でP活のリスクをコントロールできていると思っているけれど、それがいつの間にか、お膳立てされた性風俗産業の入り口になっていた――なんてこと、いまや珍しくも何ともない」


 舘穴は話ながら、ふたたび視線を夜の街へと落とした。本番一万五千。それが彼女たちの平均価格である。ゴム無しなら二万。買われる女たちの相場は、驚くことに日に日に下落の一途を辿っているという。


「彼女らはみんなコンカフェやガルバのような半夜職の業界で働いて、大きくなるとPMCに入りたがる。

 ――別の商売女に取られた推しメンの指名を取り返すために……。その稼ぎで弟や妹も養えるしね。PMCのなかにはそんな女の子たちが沢山いるわ」


 りまもそうだったのか、と蛇は思った。

 人間が行いうる最低の行為だと思っていたものが、まだまだ序の口だったと思えるどん底に、子供時代のりまは囚われていた。


 そして大久保公園に渡って立ちんぼの列に入り、会員制ラウンジに入会すると、そこで受けさせられたのは際限ない仮想現実VRトレーニングの連続だった。


「電脳に入れば接待訓練は誰にでもできる。若者に人気のLIVEチャットなら、PMCが無料で配信しているから。


 勿論、仮想訓練だけど――彼らは手軽にエロい配信でオタクを釣ったり、赤スパチャを投げ銭させたりと、みずからの身体を性的資本に変えていくマネタイズしていくゲームにのめりこんでいく」


 人材を集めるためには、まず文化の地ならしが必要なのだ。


 性風俗の世界へ躊躇なく飛びこんでくれる若年女性たちを育てること。そうした文化を『育む』こと。それこそがPMC業界の将来を担う人材の確保につながる。


「気がつくと彼女らはPMCで本物のち○ぽを握っている――。

 そして自分たちの人生とは何も関係ない代理性交を演じている。


 鬼出勤を重ねることがクールだと思い込み、そのお金をメン地下やホスクラ、美容整形代につぎ込むことが自分たちの人生なんだと思い込んでいる」


 そこで舘穴は蛇を見つめ、


「自問自答する意味など不要なのさ。彼女らの頭にはローンで組んだ美容整形費のことか、ホスクラの売り掛け額のことしかない」


 ――色恋経済だ。


 蛇は嫌悪に顔を歪める。


 かつての自由恋愛には純愛があった、などと言う気はない。男と女の性が絡むとき、それはいつだって性欲のためだった。


 蛇が嫌悪するのは、その言葉が金をむしり取られた男の傷心や、体よくヤリ捨てされた女の憤怒を、きれいに覆い隠していることだ。色恋と言いながら、その内実はどちらか片方がATM扱いされているだけだというのに。


 彼女たちは盲目になっているのだ――選ぶのはいつだって自分たちの側だという自惚れた現実によって。


 そして推し活やマチアプといった全貌の見えない言葉のイメージがひとり歩きして、「全人類が性風俗産業に加担する」ための下地を整えていく。


「だから、りまを逮捕するだけでは駄目なのよ」

 舘穴が力強い声で言った。


「詐欺グループ自体を止めなければ、この連鎖は終わらない」


 蛇はそこで口を開いた。


「アプリの方を規制するという手はないのか。PMCの温床になっているというのなら、その土壌であるアプリを撲滅する方が手っ取り早いんじゃないか?」


 蛇のその指摘に舘穴はただ首を横に振った。


「無理ね。人と人の自由な出会いというのが、自由権の名の下に保証されている以上、同じく自由の名の下に経済活動を行っているアプリ企業や、アプリのアルゴリズムを規制することはできない。


 アプリがどれだけ、人と人の仲介に選択的なフィルターを科しているのだとしても、富を最大化するという資本主義の基本原理に異を唱えることはナンセンスだわ」


 蛇も一時期、短大生とヤれるとの言葉に惹かれてアプリに登録したことがある。


 だが、プロフィールに掲載できるようなまともな写真がないという出会う以前のところで躓いた記憶しかない。


(蛇のスマホにはソシャゲのスクショか二次元エロ画像しかなく、唯一ある顔写真は高校卒業時にいやいや母親と一緒に撮った写真だけだった。)


「思えば、マッチングアプリという言葉自体がおかしなものだな……」


「それが流通する言葉の力なの。もしくは言葉を流通させる力と言った方がいいかしら……。

 男と女が出会い。肉体と肉体、粘膜と粘膜の交接がある。そんな現実をマッチングアプリという言葉はレトリック一つで意識下に追いやってしまった。その時点で、わたしたちは一歩出遅れていた」


 そして、その言葉の後ろには『出会い系』や『援助交際』、『デートクラブ』など、死んでいった言葉たちの亡骸がもはや無限と思える列をなしていて……。それは未来にもおいても同様なのだという諦観が蛇の脳内に去来した。


 蛇はそのとき、舘穴との対話にも終わりが近づいていることを悟った。


 もはや、ウーロン茶だけでここにもいるのも限界だった。さっきから青筋をピクつかせた営業スマイルの店員がやたら蛇たちのいる個室の前を横切っていた。


 舘穴はそこで蛇の方へと振り返ると、


「だから、わたしとしてはあなたにりまの犯罪を証言してほしい。レトリックの支配する世界ではひとりの人間の声が何より力になる。りまを止められるのは、もはやあなたしかいないの」


 そう言って、蛇に向かって深々と頭を下げたのだ。


 蛇は一瞬、そのことに動揺した。しかし、頭の冷静な部分ではこの言葉もまたレトリックの一つでしかないと蛇は判断していた。


 ある意味ではすべてがレトリックなのだ。そのことを蛇は身をもって知っている。


 蛇という伝説がもたらしたものは決して栄光などではない。それは『伝説』というものでさえ、代わりの利く、歴史上、何度も再生産されてきた逸話に過ぎないという冷たいリアリズムを蛇にもたらしていた。


 そして、蛇が舘穴の提案を受け入れ、いち当事者としてこの現実に向かい合うとき――。


 その伝説は幕を下ろす。


 そのとき蛇はすべてを失うだろう。

 伝説だけではない。推しという象徴イコンをも喪う。


 蛇のなかで、いままさに一つの信仰が終わりを告げようとしているのだ。


 おれがりまへと捧げた献身は全部、無意味だった――?

 りまがおれに見せてくれたあの笑顔はぜんぶ嘘だった――?

 わからない――?


「神を信じるには神が必要よ……」

 舘穴が言った。


「推しもまた同じ。推しを推すためには、まず推しの存在がなければ……」


「それが、ああしてODをして好奇の視線を集めるメンヘラを生むことになってもか」


「わたしたち団体の目的は……議論ではなく行動よ。

 将来的なリスクを勘定してばかりでは、いま目の前にある危機を救うことはできない。いま苦しんでいる女性を助けなければ未来においても行動を起こすことはできない。

 りまの色恋営業は超えちゃいけない一線を越えた。わたしたちは彼女を罰することで、ほかの女の子たちを救う」


「蛇の道は蛇……ということか」

 蛇はそう言って嘆息した。


「そういうこと。そして、あなたもまた『蛇』よ。だから自分が何をすべきか分かっているはず……」


 舘穴が蛇に選択を迫る。


 蛇の脳内で、これまでりまと過ごしてきた数々の思い出が浮かんでは消えていく。


 どれもまともな思い出ではない。チェキを撮ると大抵、蛇は目を瞑っていた。


 りまがネッシーはいるけど、ツチノコはいないと急に言い始めたので、蛇がいやどっちもいないよと突っ込むと「じゃあてめぇ証明できんのかよ!」と急にブチ切れられたこともある。


 正直この娘、情緒大丈夫かなと思ったことも何度もある。


 それでも、りまと過ごした日々は蛇にとって、かけがえのないものだった。


 蛇はりまが手が隠れるくらい丈の長いパーカーを着て、自分の入れたキャスドリをストローでちびちび上目遣いに飲んでいる光景が好きなのだった。


 蛇はそこでX(旧:Twitter)のアカウントを更新する。三日前の新論の投稿を辿れば、そこではりまが変わらぬ眩しい笑顔でおきゅおわ報告をしていた。


 蛇の心は決まった。


「答えは出たようね」

 舘穴が蛇を見て言った。


「ああ、俺はりまを売ることはしない」

 蛇は力強くそう答えた。


 舘穴が「は?」と顔を曇らせた。


「……あなた、話聞いてた?」


「聞いていたさ。自由、平等、友愛……さもなくば社会的死か? 本当にそんなことで人間一匹が下劣な密告者に成り下がると、そう思っているんだな、あんたは」


 あきれ顔で固まる舘穴をよそに、蛇は渾身の力を込めて宣言した。


「おれは彼女に救われた! 彼女の未熟なその愛情に! その微笑みはおれへの赦しだったんだ! だからこそ、俺は彼女を売ることはしない!」


 瞬間、狭い個室のなかに大量の警官が映画のワンシーンみたく雪崩なだれ込んでくる。もみくちゃにされる蛇。ぽかぽかと頭を警棒でぶっ叩かれるたび、蛇のもともと少ない脳細胞が死滅していく。


 舘穴がそこで「蛇!」と叫んだ。


「最後に聞かせて。なぜ、りまを推そうと思ったの?」


 洪水のような人波にさらわれながらも、舘穴はそこに恥ずかしそうに目を細めるひとりの男の姿を見た。


「いや、おれオタクに優しいギャルがめっちゃ好っきゃねん」


 蛇はそこでりまとのチェキを見せるためにジーンズのポケットに手を突っ込んだ。


 しかし、それがまずかった。警官にはそれが凶器を取り出そうとしているように見えたのだ。


 警官はすぐさま拳銃を引き抜いて、蛇に向かって構える。


 そして、オタクに優しいギャルなど存在しないと躊躇なくその引き金を引いた。


 あとには乾いた銃声だけが、夜のしじまに響き渡っていた。


――――

――


 後年、この事件はひとりの哀しいオタクの伝説として語り継がれることになる。


 りまは事件のあと、こんなキモいオタク共を相手にしてたら精神持ちませんわとコンカフェを辞め、すぐにイケメンと結婚した。


 ロマンス詐欺グループの主犯格はまた別におり、それも逮捕された。


 しかし、いまもなお蛇の伝説はコンカフェ界隈にとどろいている。

 

 伝説は死なず。


 蛇は唯一、そのことを見誤っていたのだ。



(了)

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『PMC』(文学フリマ東京38新刊「闇の同人短編集vol.1」サンプル) 伊藤汐 @itoh_siooo

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