本をお貸しします

水無

読切

今日は災難だった。理不尽に怒られながらの業務を終え、フラフラとおぼつかない足取りで、駅にたどり着く。ちょうどホームに降り立った頃、いつも自分が乗る電車が滑るようにはいってきた。ようやく家に帰れると思いながら電車に乗りこんだ。

人が多い。車内に1歩足を踏み入れればたちまち、まだいけるだろうと入ってくる人たちにぎゅうぎゅうと押され、反対側の扉までたどり着いた。人に埋もれ、狭い車内で体をよじらせ、扉の方に体を向ける。扉のガラスに貼ってある広告が目に入った。

『本をお貸しします』

真っ黒な背景に白い文字。それ以外何も情報は無い。普通こういうのは社名や電話番号を載せるものじゃないのか。そうぼんやりと考えていると、いつの間にか何駅か過ぎていたらしい。先程までぎゅうぎゅうだった車内は、立っている人もまばらでいくつか座席も空いていた。まだ自分の降りる駅には遠い。変な広告のことなどすっかり忘れ、1番近い空席に腰をかけた。


理不尽に怒られてから数日後、結局あれは上司が間違ってたということで謝罪された事で、足取り軽く帰路に着く。少し待ってからきた電車に乗りこむ。たくさんの人にぎゅうぎゅうと押され、奥に押し込まれても、今の気分の良さなら苛立ちもない。明日からは三連休だし、久々にお酒でも飲んでしまおうか、なんて考える余裕すらある。入ってきた扉とは反対の扉にたどり着き、体をよじらせて扉に顔を向ける。ふと、扉の窓に貼られている広告が目に入った。

『本をお貸しします』

真っ黒な背景に白い文字。何となく見覚えがあるような気がした。でもこんな変な広告、見ていたら記憶に残っているだろう。気のせいかな、そう思いながらぼうっとしていると、何駅か過ぎていたらしい。車内は立っている人がまばらで、座席もいくつか空席になっていた。お酒は家にあるものを開ければいいだろう。つまみを何にしようか、なんて考えながら近い空席に腰をかけた。


今日は数年ぶりに再開した友人と酒を飲んだ。最終電車の時間になり友人と再会を約束しつつ別れ、いい気分で電車に乗った。最終電車ということもあり、車内はガラガラだ。椅子にどっかりと腰掛け、顔を上げる。下を向いてると酔いが回りそうだった。網棚の上にある広告がふと目に入った。

『本をお貸しします』

真っ黒な背景に白い文字。前にも見たことがあった気がする。いつだっただろうか。こんな変わった広告、そう簡単に忘れるはずがない、なのに思い出せない。先程までのいい気分は何処へやら。酔いは覚め、必死に記憶を辿るが思い出せない現状に、少し焦りを覚える。まだ記憶力に不安を覚えるような年齢じゃないはずだ。思い出せ、思い出せ、焦りか緊張か、背中に冷や汗が流れた。気がつくと自分の降りる駅に入るところだった。慌ててカバンを持ち直し、広告のことなどすっかり忘れホームに降り立った。


会社が繁忙期に入り、いつもより多い残業をこなしてヘトヘトの状態で駅にたどり着いた。なんだか最近、嫌に憂鬱な気分だ。いつからだろう。そうだ。友人と飲んだ日からだ。友人との飲みは楽しかったはずなのに何故こんなにも憂鬱な気分なんだろうか、ホームで電車を待ってる間、頭をふらふらと揺らしながら考える。そうだ友人と別れた後、何かがあったはずだ。それを観て嫌な気分になって。それから気分が落ち込んでいるんだ。何があったんだろうか、思い出せない。思い出せない?そうだ、何か思い出せないことがあったんだ。それで気分が焦って、それで、それで?どうしたんだ?覚えていない…

電車がホームに入ってきて扉が開く。纏まらない頭を揺らしながらゆっくりと扉を潜り、偶然空いていた席に座った。頭を上げる。中吊り広告に真っ黒な紙がぶら下がっていた。

『本をお貸しします』

あぁ、そうだ思い出した。飲みの後、この広告を見たんだ。それで、それで、何か不安な気持ちになって、それで。心臓がいつもより速く動いている。何をそんなに焦っているのか分からないが、何か凄く不安なことがあるのは確かだ。何時もはあっという間な筈の電車の時間が、永遠にも感じられ、速く、速く、と半ば祈るような気持ちで自宅の最寄り駅に到着するのを待った。


駅の改札を抜け足早に自宅へと向かう。ゆっくり歩いて10分程度の距離にあるアパートは駅が近いのに築年数が経っているせいか、ワンルームの上に部屋が狭いせいか、相場より安めの家賃だ。家賃と駅へのアクセスの便利さに惹かれて借りた部屋は、扉を開ければ直ぐに部屋だ。部屋の作り的にどうしても玄関扉の真正面に位置する場所にTVを置くしか無いため、夜中に帰ると自分の影にびっくりすることがある。

今日は焦っていたせいか、余計に自分の姿にびっくりした。扉を開けた瞬間に真っ黒なTV画面に映る自分の姿に驚き、思わず持っていた鞄を取り落とした。鞄の落ちる音で、ハッと我に返った。自分の影に驚いただけだ、落ち着きを取り戻そうとゆっくりと鞄を拾い上げ、玄関に入り、靴を脱いだ。そのままゆっくりと奥へ進み、電気をつける。ほっとひと心地着いたような気分で、今日は久々に湯船に浸かろうと、スーツを脱ぎながら風呂場の蛇口を捻った。湯船が溜まるのを待つ間、テレビでも観ようかと、電源を入れる。古いTVを使っているせいか少し間を置いてパッと画面が明るくなった。今の時間だと何をやっているだろうか。クルクルとチャンネルを回していると、お笑い番組をやっている局があったようで、芝居がかった笑い声が聞こえてくる。笑えるような気分ではなかったが人の笑い声があれば落ち着くような気がして、そのままTV前の座椅子に座り、頭に残る不安を消すように、TVの笑い声に合わせてわざとらしく声を上げて笑った。


あの日からよく電車内で、あの黒い広告を目にするようになった。周りは気にしてる風もなく、最近の広告は変わったものが多いしなと、自分を無理やり納得させ、なるべく視界に入れないよう、足元を見ながら電車に乗るようになった。眺めていると気がおかしくなりそうだった。

家に帰っても心が休まることはなく、ずっと不安な気持ちが付き纏う。不安が募りすぎて、帰ってすぐ、TVをつけ、大きめの音量で気を紛らわすようになった。TVの位置も変えた。光を取り込む唯一の窓を半分潰すことになるが、玄関を開けて直ぐに自分のシルエットが目に入りびっくりするよりマシだ、しょうがないと自分に言いきかせた。


不安な気持ちがどんどん膨らんで、常にビクビクした気持ちで過ごすことになっても、日常は変わらずにやってくる。日に日にやつれていく自分を見て、周りも心配になったのかよく声を掛けられるようになった。しかし、周りに相談することもできず、大丈夫、大丈夫と周りに答えていた。自分に言い聞かせてる様な気分だ。

最近は行きの電車でも広告を見かけるようになった。毎日、毎日、少しづつその広告が車内に増えているような感覚だ。いやいや、気のせいだ。自分の足元を睨みつけるようにしながら、つり革を強く握った。

最近は、仕事の疲労より、通勤の疲労の方が大きい。ふらふらになりながら家に着くと、染み付いた動作でTVをつけた。自宅で過ごす際、無音が怖く部屋全体に声が響くようTVをつけているが、つけているだけで、大抵スマホやタブレットで動画やSNSを眺めている事が多い。偶に内容が気になってTVに目線を向けることはあるが、それでもすぐに手元に視線が戻る。そんな日々を過ごし始めてから、幾ばくか経った頃、TVの音がふと、途切れるようになった。最初は気のせいかと思ったが、確実に音が途切れている。気のせいでないなら、回線の問題かとも思ったが、違うようだ。気にして音を聞いていると、番組が進行している間は途切れず、CMの時だけ音が途切れるのだ。最近は無音のCMもあるらしいし、それかなと気にしないようにしていたが、無音の時間が短く、気にしないようにすればするほど、気になるようになってしまった。気のせいであることを確認しようと、ちょうどCMが始まったTVに目をやる。TVは途切れることなくいつも通りCMを流し、ほら気のせいだったと安心しかけたその時だ。画面がパッと暗転し真っ白な文字が浮かび上がった。

『本をお貸しします』

3秒にも満たない短い無音時間。しかし永遠に感じる程の恐怖が体全身を駆け巡った。全身から汗が噴き出し、心臓がばくばくと大きな音を立てる。目の前がグラグラと揺らぎ、気がつけば床に突っ伏すように倒れ込んでいた。何故この広告がTVに…いやもしかしたら本当にある会社で、電車の広告のお陰で売上が上がってTVのCMが出せるほどになったのかもしれない。そうだ。きっとそうだ。言い聞かせながら、本当かという気持ちが頭を占める。いやそうに違いないと、もう一度心に言い聞かせ、震える手でSNSで同じものを観た人がいないか探してみた。

検索結果は0件。どんなに検索ワードを変えてみても、同じような人は居なかった。

心臓が激しく暴れ、頭が恐怖で支配される。とうとう自分は狂ってしまったのか。いやもしかしたらみんな当たり前に受け入れてるからSNSに話題を上げないのかもしれない。明日同僚に聞いてみようと、覚束無い動きで布団に潜る。あのCMがまた流れたらどうしよう。でも無音は怖い。悩んだ末、タブレットで動画サイトの自動再生機能を使うことにし、音量を上げて、頭まですっぽりと布団を被り、強く目を閉じた。


結局、一睡も出来ずに、危ない足取りで出社する。電車内は怖くて下を向くどころか、降りるまでずっと目を瞑り続けていた。乗り降りする時もなるべく車内は見ず、扉に近い位置を陣取り、駅に到着したらすぐに降りられるようにした。

何時もより少し早く、会社に到着し、自分のデスクに向かう。同僚はいつもと違う様子に気がついたようで、心配そうにこちらを見つめ、どう声をかけていいか悩んでいるようだった。

意を決して、あの黒い広告について聞いてみた。焦りからか恐怖からか、あまりに唐突に聞きすぎたせいで、同僚は少し困惑していたが、改めてゆっくりと説明をしたら、内容は理解出来た様だった。

同僚は記憶を探る様に少し黙った後、そんな広告やCMは知らないと答えた。偶然にも、昨日自分が見ていた番組を同僚も見ていたらしいが、そんなCMは一度も流れなかったと、はっきり答えた。

自分がイカれてしまったんだ。自分が狂ったんだ。よたよたと倒れ込むように椅子に座りデスクに突っ伏す。見かねた同僚が上司に声を掛け、休む様、半ば強制的に、会社から追い出された。

会社から出て、ふらふらとどこに行くでもなく、歩く。これは精神病院に行けばいいのだろうか。精神病院でどうにかなるものなのか?頭の中でぐるぐる考えながらとりあえず近くの精神病院に行ってみようかとスマホを取り出した。近くの精神病院を調べてみると、会社に程近い場所に予約なして行ける病院があった。そこに行ってみようかとHPをスクロールしていると急に画面が真っ黒になった。固まるのもつかの間、真っ黒な画面に白い文字が浮かび上がる。

『本をお貸しします』

なりふり構わず、スマホを投げた。周囲の人間は急に挙動が可笑しくなった自分をジロジロと見つめてくる。もうどうしようもない。精神がイカれたんだ。自分が狂ったんだ。自分の中で何かの糸が切れたように、涙が溢れ出す。自分で投げたスマホをゆっくりと拾い上げ、画面を確かめる。ヒビは入っているようだが画面は動く。あの黒い画面はもうなく、近くの病院までの道のりを指し示していた。

病院で少し待ったあと、診察を受けると、心が疲れているのだろうと、遠回しな表現で説明された。実家があるなら一度、そちらに帰って心が安定するまで休んでみたらどうかと提案され、少しの薬を処方された。

そうか、最近実家に戻っていなかったものな。もしかしたら、随分遅いホームシックに襲われているのかもしれない。病院で言われた事を反芻しながら、実家に電話を掛け、戻りたいと希望を伝えた。声があまりにも疲弊していたせいか、親は何も聞かずに、戻ってこいと快諾してくれた。家の更新月まではまだあるが、少しでも早く実家に帰りたくなり、更新月を待たずにあの家を引き払うことにした。

とりあえずこの家のために揃えたものや、生活していく上で増えたものは、売れそうなものを全部売ろうと、リサイクルショップに持っていくため、整理した。本を纏めている際、真っ黒な背表紙の本がある事に気がついた。引っ張り出して表紙を見てみるもタイトルや著者名などなにも書かれておらず、ただただ、真っ黒であった。こんなもの買った覚えはないぞと思いつつ、とりあえず他の本と一緒に纏め、他のものと一緒にリサイクルショップへと持って行った。リサイクルショップでは、纏めて色々なものを出したからなのか状態が良かったからなのか、そこそこいい値段で買取をして貰えた。最後の確認の時、あの謎の黒い本が見当たらなかった気がしたが、気のせいだと思うことにして、足取り軽くリサイクルショップを後にした。

もう家も引き払い、この足で実家に戻ることになっている。今までの不安はほぼ掻き消え、安心して電車に乗ることが出来た。電車内にはあの変な広告は一つもない。あぁ、やっぱり精神の不安が見せる幻覚だったんだと納得し、薬が効果てきめんだったのか、実家へ戻れる安心感からか、などと余裕さえあった。


実家に戻ってからは、不安になることも無くなり、あの時の精神の不安定さは何処へやら、以前と同じように暮らせるようになった。薬も少しづつ減り、病院に通う回数も減り、とうとう病院に行かなくても、薬を飲まなくてもよくなった。あの変な広告を思い出すことさえなくなった。

同僚含め、会社には多大な迷惑をかけた為、謝罪をしたが、全員安心した様に、謝罪を快く受け入れてくれた。

これでもう、大丈夫だ。



___



あるアパートの空き部屋に一人の青年が入居した。

そのアパートは駅から徒歩10分という好立地に建っているのにも関わらず、築年数のせいか、ワンルームで部屋が狭いせいか、相場よりも安い価格で貸しに出されていた。前の入居者は更新月を待たずに引っ越してしまったらしく、引っ越しシーズンでは無い、中途半端な時期にも関わらず、すんなりと入居することができた。運が良かったと、新しい生活にワクワクしながら家具家電を運び込む。間取りの関係上玄関を開けて真正面にTVを置く形になってしまうのは、些か気になったがそれでも別に生活に支障はないと、気にする事はなかった。本棚を設置し、本を詰めていく。並べ終えた本たちを眺める。まだ隙間はあるが、これからたくさんの本でこの本棚は埋まるだろう、そう考えていると、ふと視界にあるものが入った。真っ黒な背表紙だ。そんなもの並べた覚えはおろか、買った記憶すらない。不思議に思いつつも、これからの新生活への期待の方が勝り、その本のことなど、すぐに忘れてしまった。

一段落したし、時間もちょうどいい。晩御飯は外食にしようと、青年はそそくさと着替え、部屋を出た。

扉がしまって暫くすると、本棚の中でことりと一冊の本が倒れた。閉め忘れた窓から風がふわりと舞い込み、倒れた本の表紙を捲る。

『本をお貸しします』

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本をお貸しします 水無 @mizunasi25

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