あの子が見た水平線

幸まる

飛べ

銀行の入口を出た途端、賑やかな雛鳥達の声が聞こえた。


見上げれば軒下に、この建物には不釣り合いの下敷きサイズのベニヤ板が吊るされている。

その途端、細い影がそこからスイと飛び下りて、澄み切った空を梳くように去って行く。


ツバメだ。


ベニヤ板の上の巣には、餌を貰えなかった雛鳥達が、まだ諦めきれずに大きく口を開けていた。



この姿を見る度に、私はあの子を思い出す。

十五年前の、あの小さくて力強い生命を―――。




  ◇ ◇




「この子、助けてやれないかな?」


仕事の昼休みに突然帰ってきた夫は、そう言って紙コップを差し出した。

受け取って中を覗き、私は仰天した。

紙コップの中には、クシャクシャのティッシュと一緒にツバメの雛が入っていたのだ。


「何!? どうしたの!?」

「会社の駐車場で拾ったんだ。カラスがそばで狙ってて、見てられなくて……」


夫の話を聞けば、会社の軒下には少し前からツバメが巣をかけていたらしい。

しかし、数日前から出入りしていた外壁の塗装業者が、塗装が完了して撤収した時、ツバメの巣がなくなっていたのだ。

作業中に誤って巣を落としたのだろうか。

業者に問い合わせてみても、分からないという返事。

外壁を破損した訳でもなく、仕方がないとしたところで、駐車していた社員の車の下で、この雛を発見したのだという。


「鳥好きだろ? 何とか助けてやってよ」

「ええ?」



野鳥はむやみに拾ってはいけない。

簡単に人間が手を出せば、親鳥の子育てを邪魔することにもなるし、子が人間に慣れてしまえば野生には戻ることは難しい。

感染症の恐れだってある。

何より野鳥を拾って育てることは法律違反でもあるのだが、その頃の私はそれを知らなかった。


突然拾ってきて助けろと言われ、困惑と苛立ちが募る。

しかし、小さな生命を見捨てられなかった夫が誇らしくもあり、何より、まだ生きているのに放り出せなかった。


結局私は仕方なく雛を引き受け、夫は丸投げして会社に戻った。




一人になった私は、まず使い捨てカイロを敷いた紙箱に雛を移しながら、餌をどうするか考えた。

去年、飼っていた文鳥が老衰死してから、鳥の餌など家にない。

そもそもツバメと文鳥では、食べるものだって違うのだ。

虫を食べて大きくなるツバメには、タンパク質が要る。


考えて、家にあった亀の餌をぬるま湯でふやかした。

マスクと使い捨てのナイロン手袋を着け、雛の嘴に消毒したピンセットで餌を近付ける。

しかし雛は、決して嘴を開かなかった。

当然だ。

弱っているし、警戒しているのだ。

だから無理やり嘴をこじ開けて、ふやけた餌をねじ込んだ。



この子はまだ生きている。

でも、今日餌を消化出来なければ、きっと明日死んでしまうだろう。



夫にLINEをして、帰りに生き餌ミルワームと鳥用ビタミン液剤を買ってくるよう指示する。

その夜は、ミルワームをさらに口に突っ込んで、祈るような気持ちで朝まで様子を見た。



雛は生命を手放さなかった。

奇跡的に夜を越したのだ。



私は翌朝も無理やり餌をやり、箱ごとベランダに出した。

外の空気を感じ、野鳥の声を聞かせる為だ。


一日に数回、ビタミン剤に浸したミルワームを雛の口に無理矢理入れ、食べさせたらすぐに離れた。

マスクと手袋を必ず付けて、餌をやる時以外は近付かずに見守る。

カラスの声に怯え、風に身体を震わせる雛の姿が健気で、抱き上げたい衝動に駆られたが、必死で我慢した。


その内雛は、私が近付くとジャージャーと鳴いて口を開くようになった。

愛しさは増し、愛着が湧く。


しかし、可愛がって人間の生活に馴染ませてはいけない。

この子はツバメ野鳥

ペットにしてはいけないのだ。



私のそんな葛藤を知ってか知らずか、ツバメはいつしか、ベランダを少し動き回るようになった。

その頃には、ホワホワだった灰色の羽毛は、張りのある黒い大人の羽根に変わっていた。

成長過程としては、巣立ちが近い。


ふと、頭をよぎる。

果たしてこの子は、飛べるのだろうか。

飛び方を教える者は、ここにはいないのだ。


しかし、そんな心配を他所に、ある日雛は自らベランダを飛び出した。

覚束ない羽ばたきで屋根に降り、その後で少し離れた電線に止まった。

けれどもその後は動くことができず、チュイ、チュイと鳴き続けた。


私はカーテンの影から、何時間も見守り続けた。

母にはなれず、傍観者にもなれず、中途半端に手を出した愚か者は、ただオロオロとして見守るだけだ。



どのくらい経った頃だろう。

雛の側に、他のツバメがやって来た。

おいでよ、と呼ぶように、近付いては離れ、また近付く。

何度も何度も繰り返し、やがて雛は、そのツバメと飛び立った。



飛べ。

強く。


行け。

水平線の彼方へ。

そしてまた、来年必ず戻って来るんだよ。



あの子は強く強く飛んで、すぐに空に溶けた―――。

 



 ◇ ◇




銀行の軒下に、親鳥が戻って来て、再び雛達に餌をやる。

その成長を願い、私は微笑んで空を見上げる。


あの子が見たであろう水平線のように、青空に一筋の飛行機雲が走っていた。



《 終 》

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