記念写真

洞貝 渉

記念写真

 よく空を見上げている子がいた。

 なにか面白いものでもあるの、と尋ねてみたら、高度3万6000kmから常に見下ろされているからと返事がある。


「何の話かわかりかねるが、空からこの場所を観測するのは不可能なのではないかね?」

 カエル氏が白黒写真を私に返しながら言う。

 この場所、とは井戸の底のことだ。私たちは今、井戸の底でお茶会を開いている。

 カエル氏の淹れるコーヒーは格別だ。濃厚なエソプレッソに、キャラメルを溶かして泡立てたホットミルクをたっぷりと加える。甘くほろ苦い香りが立ち上り、私はうっとりとマグカップを抱え込んだ。

 ひんやりとした井戸の底で、私とカエル氏はこじゃれたテーブルを挟んで向き合っていた。

「それが今回の相談事、ということで間違いないかね」

 カエル氏は優雅にコーヒーカップを持ち上げ、くいっと傾ける。

 私はいつもながら器用な真似をする蛙だな、と感心しつつ、カエル氏の質問に肯定の意を返した。

 

 カエル氏は相談役だ。

 何か特別なことが出来るわけではない。甘くておいしいコーヒーを入れてくれることと、話していて気持ちが和むということを除けば。

 ふうむ、とカエル氏が空を見上げる。

「全くわからんね」

 私もカエル氏にならって空を見上げてみる。ぽかりと切り取られた、井戸の外の丸い青空。どこかで鳥が鳴いている。

 白黒写真には上を向く私と同じく上を向く誰かの二人が写っていた。場所は外。街路樹が写っているし道も舗装されている様子なので遊歩道かもしれない。白黒なので天気はよくわからないが、なんとなく、今日と同じで晴れていたのではないだろうかと思う。

「これがいつ、どこで撮影され、共に写っている人物が誰なのか、吾輩には難題が過ぎるのだがね」

 カエル氏はぎょろりとした目玉で私を見据えた。それはそうだろう、なにせここに写っている私自身でさえわからないのだから。

 何かの記念に撮影した、ような気がする。でも、何の記念だったか……。


「その、コウドなんたらというのが謎を解く鍵なのかね」

 高度3万6000kmですよ。ふうむ、そうかね。人工衛星の高さらしいです、この高度。ふうむ、ジンコーエセかね。はい。ふむ。

 私はマグカップに口をつけ、脳がとろけそうな甘みと、その奥にどっしりと存在する微かな苦みにうっとりとする。

「しかし、そのジンコーエセは、我々の姿はとらえてはおらんのだろうな。なにせここは吾輩の居住地なのだ。何人も吾輩のテリトリーを犯すことなどできはしないのだよ」

 得意げにゲコと鳴くカエル氏。

 でも、私は侵入しちゃってますけど? お前さんはティータムをより楽しむ為に吾輩が招いておるのだよ。ティータイム、楽しいですか、私がいると。ふうむ、偶には客人がいた方が楽しいのだがね。

 気難しいカエル氏が、目を細めてカップの中身を啜る。

 私はなんだか、ほわりと胸に和やかな気持ちが広がった。

 私も、楽しいですよ。カエル氏の淹れてくれるコーヒー好きですし。



 1999年。ノストラダムスの大予言では、世界は滅亡したということになっているし、事実、ある意味滅亡したのだ。

 とはいえ、私たち人間は滅んでいないし、地球は今日も平和に回り続けている。

 滅亡したのは人間の高度な文明だ。ある日突然、人間の知性や記憶が一斉に低下した。そして人外の生物たちが一斉に知性や記憶力を向上させた。そうして地球上の生物たちが平等に知力を手に入れて、もう何年になるのやら。

 カエル氏のようにお喋りする生物は一般的で、中には未来予知する梟や念動力を発動する蛸なんかもいたりする。


 私は白黒写真を眺めて、うっすら寂しいような心持を抱いた。

 大切な記念写真だったような気がするのにな、全く思い出せないな。

「思い出せない大切なことよりも、今目の前にある一杯のコーヒーに目を向けてみてはどうかね」

 カエル氏の言葉に、私は一つ頷く。

 ひんやりとした井戸の底で甘くほろ苦い香りが立ち上り、私はうっとりとマグカップを抱え込んだ。

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記念写真 洞貝 渉 @horagai

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