屋上の狙撃手

鳥尾巻

屋上

 教室を抜け出して学校の屋上に出た。強い風がスカートを巻き上げ、乱れる髪を押さえながら見上げた空は、憎らしいほどに青く澄み渡っていた。


 あの教師の授業には出たくない。幸い私の席は廊下側の一番後ろなので、出席だけ取って空いていたドアの隙間からこっそり廊下に出た。他に行く場所が思いつかず、学校のある時間に制服で外を歩けば人目を引いてしまうから、屋上はサボるのに最適だといつも思っていた。

 不真面目なくせに悪い生徒のレッテルを貼られたくない自分の小心さが少しダサいと思うけれど、授業をサボるのはあまり抵抗がない。どうせ必修科目でもないし、単位は足りている。見つかったとしても、もうすぐ夏休みだから、せいぜい休みが少し長引くだけと踏んで実行に移した。

 ちょっとした特技を使って、立ち入り禁止の屋上のドアの鍵を開けた時は少しドキドキした。錆びて軋む両開きのドアを、極力音がしないように押し開き、誰もいないのを確かめて、防水塗料の塗られた緑色の床にそっと足を下ろす。フェンス越しの校舎を見下ろし、窓から見える授業風景に僅かな優越と罪悪感を抱く。誰かが窓の外を見上げれば、こちらの姿が見えてしまうかもしれない。だが従順な羊の如き彼らは板書に必死で、その視線が私を捉えることはないと分かっている。

 強い風に辟易しながら、少しでも風除けにならないかとドアの反対側に歩いて行くと、そこには先客がいた。

 口を利いたことはないけど、顔は知っている。確か私と同じ3年の女子だ。周りの幼げな女生徒たちとは違い、落ち着いた雰囲気の綺麗な子だった。バスケ部に所属していて、成績もよく生徒会役員なども務め、積極的で明るそうな子という印象だ。落第しない程度に勉強して半端にフラフラしている私とは大違い。

 そんな優等生の彼女が、制服が汚れるのも構わず床に腹這いになり、長い髪とフェンスの隙間から一心不乱に眼下を見下ろしていた。思いつめた横顔に不穏な予感が募る。

「ねえ」

 なんと言葉を掛けていいか迷った末に出た声は、間の抜けた響きで風に紛れた。それでも彼女は大袈裟に華奢な肩を揺らし、私を振り返った。そしてこちらを睨みつけながら人差し指を口に当て、黙って首を振る。

「何してるの?」

「静かにして」

 初めて聞いた声は冷たく、割れたガラスのように尖っていた。もう少し柔らかな美しい声を予想していた私は、呆気に取られて彼女を見つめる。この人見た目は落ち着いていても、実はとてもヤバいのではないだろうか。

 仕方がないので彼女の後ろに立ってボーッとしていると、スカートの裾を掴まれ引っ張られた。どうやら身を屈めろということらしい。

「だから何してるの?」

 静かにしろと言われているので、声を潜めてもう一度聞くと、彼女もひそひそ声で答える。

「あいつを撃ち殺す」

「あいつって?」

 私が尋ねると、彼女は黙って向かいの校舎の窓を指差した。ちょうど私のクラスで授業をしている若い男性教師が黒板に向かっているのが見える。

「撃ち殺すって、何も持ってないじゃない」

「いいの。フリよフリ。私はスワイパーなの。撃たれたあいつが脳味噌ぶちまけるところを想像して」

「スナイパーじゃないの?」

「そう、それ」

 スワイプしてどうすんの。それにしても物騒な話だ。人の事言えないけど、こんな時間に立ち入り禁止の屋上で、なぜ狙撃の真似事なんかしてるんだろう。

「なんで撃ち殺すの?」

「いいじゃない。人を殺したい気分の時ってあるでしょ」

「……別にないけど」

「幸せね」

 彼女は吐き捨てるように言うと、両肘をついて肩に構えた架空の銃を抱え直し、あるはずのないスコープを覗いて狙いを定めている。その体勢、足を開きすぎて、スカートの中が見えそうなんだけど。と、言いたかったが、あまりにも彼女が真剣なので、結局言葉を飲み込んでしまった。

 白いこめかみに汗が浮かんでいる。呼吸を整えタイミングを測る彼女を見ていたら、私の中にも緊張が生まれた。引き金と思しき場所に添えた指先がゆっくりと曲がる。彼女が小さな声で「バン」と呟くと、見えない弾丸は真っ直ぐに教師の頭を貫き、辺りに頭蓋骨の欠片と脳漿をぶちまけた……らしかった。彼女は満足げに頷いて、ごろりと床に仰向けになった。

 全く以て意味が分からない。しかし、晴れ晴れとした顔をした彼女がこちらを見て笑うので、暗殺は成功したのだな、と思った。私も謎の達成感を得て、彼女の隣に横になる。夏に近づいた日差しは眩しくて、2人とも歪んだ表情で青い空を見上げた。

 中年で既婚の男性教師が多い中、独身で若い部類に入る彼はモテていた。浮ついた気持ちは全くなかったのに、彼は私のような半端者の懐に入り込み、自分が特別だと思わせるのが上手かった。家庭環境が悪く、学校という逃げ場のない箱庭で親しい友人もいなかった私は、優しくしてくれる彼に恋していると錯覚していた。脳内麻薬の出まくった脳は、自分の恋だけが真実と思いがちだ。

 そうでないことに気付いたのは、先週の授業前に、彼の結婚報告がされた時だ。そして、本気でショックを受けたのが私だけではなかったことも、周囲の反応から伺えた。わざとらしい悲鳴や野次が飛ぶ中、青ざめて俯く女子生徒が何人かいるのを見て、私の心は急速に冷えていった。もしかしたら、いま隣にいる彼女もその中の1人なのかもしれない。私には殺したいほどの情熱はなかったし、方法が独特過ぎて共感するより奇妙な生き物を見つけた気持ちの方が大きい。

 もし、彼が本気で複数の女生徒に手を出していたら、教師として、いや、人間として失格だとは思う。けれど彼はただ期待させて自分に従わせるのが上手いだけだから、人望のある教師としか映らない。ずるい男だ。

 目元を手のひらで覆った彼女がポツリと呟いた。

「先生、目が死んでるよね」

「わかる」

「今殺してやったけど」

「ウケる」

「成仏しろよ」

「それな」

「あー、くだらない」

 そこそこの進学校なので、2人ともそれなりの語彙力はあるはずなのに、こういう時に適切な言葉は出てこないものだ。お互いろくに名前も知らないのに、短いやりとりの間に妙な連帯感が生まれた気がして、乾いた笑いが漏れる。私と彼女はしばらく空を眺めながら笑っていたが、そのうち本気で馬鹿馬鹿しくなり、授業の終わりを告げるチャイムと共に立ち上がって屋上を後にした。


 殺された教師は今日も元気に生きている。時々、生徒たちに囲まれてのろけ話を披露しているのを見かける。例の彼女とは時々廊下ですれ違うが、お互い目も合わせず挨拶もなく通り過ぎるだけ。青春とセットで語られるチープなエモさを、彼女も私も鼻で嗤い飛ばす人間だと分かりきっていたから、そこに友情など求めはしない。

 私はあれから授業をサボることはなかったが、ある時屋上への階段を登ってみた。普段は誰も近づかないその階段は昼でも薄暗いように思える。最後の段を登りきると、両開きドアの取っ手には太い鎖が巻かれ、完全に封鎖されていた。私は弾む息を整え、鈍色に輝く真新しい鎖を見つめた。

 あの日、恋心を殺した彼女と私の秘密が永遠に守られた気がして、私は静かに口元を緩めた。

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