凍花に添う

薮 透子

凍花に添う

 ドアを開けた途端に入り込んだ冷たい風に身震いをする。マフラーをしても隙間から忍び込んでくる冷気に声を漏らす。助手席に座っていた喜美も腕をさすっていた。僕は一度出るのをためらったけれど、喜美はそのまま車から降りていった。閉まりきった車の外から聞こえた声は少し曇っていて、これから向かうのは海だということを思い出させられた気がして、彼女の後に続いて慌てて車外に出た。


 駐車場に他の車はもちろん停まっておらず、夏であれば多くの人が訪れるこの場所も今は閑散としている。家を出たときには暗かった空は、冬特有の透き通った青に変わっていた。夏の空よりも目に優しい淡い青は、〝見られている〟感覚が無いから、少し落ち着く。

「カイロとか持ってくればよかったね」

 手をポケットに隠しながら言う喜美に目を向ければ、頬が赤く染まっていた。車内の暖房が効きすぎていたのか、この一瞬で寒さに打たれたのか。ポケットに忍ばせておいたカイロを握った手で喜美の頬に触れる。

「なんだ、持ってきてたんだ」

「一応な」


 受け取ったカイロを落とさないようにさっと出てきた指には、いくつも絆創膏が貼られている。元々洗い場の仕事で指は荒れていたのだが、家事もするようになってからその数が増えていた。絆創膏の消費量が増えたことを指摘すると、喜美は笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。一度だけ、

「勲章だよ」

と、誇らしげに見せてくれたことを覚えているが、その時は結婚して間もないことだったから、絆創膏よりも指輪に目が行ってしまった。きっと彼女もそのつもりだったと思う。今もお互いの指にはまっている指輪は、風を受けてきんと冷えている。きっと喜美の指輪もそうだと思う。


「やっぱり誰もいないね」

「冬だし、朝早いからな。今日平日だし」

「あ、そっか。月曜だったね」


 新婚旅行から帰ってきた翌日から仕事に行く気にはならないだろうと事前に取っておいた有給だ。体を休めるため早めに布団に入ったせいか、日が昇る前に目を覚ましてしまった。どうやら喜美も同じだったようで、目を覚ましたと同時に目が合った。

 海に行きたいと言ったのは、その時だった。

 カーテンの隙間から入り込むのは雪明かり。青っぽい明かりで見えた顔に触れると、喜美はそれに答えることなくするりと布団から体を起こす。白い服も淡く青に染まり、まるで凍っているようだった。

 準備しよ、それは僕に言うでもない、喜美自身に言ったような言葉。部屋から出て行く喜美を追って、僕も準備を始めた。

 氷点下の中にいた車のフロントガラスは凍っていた。しばらく車の中で旅行中に聞いていた曲を流して思い出話をしていた。だから、どうして急に、なんてことは車の中で聞けなかった。車が走り出しても、彼女は絶え間なく口を動かしていたから。それを止める気にはなれなかった。良かった、楽しそうで。海に行く理由なんてどうでもよくなった。


「なんか、誰もいないと、変な感じがするね」

「変な感じ、って?」

「寂しいわけじゃないけど、なんか、世界に私たちしかいない、みたいな」

 渡したカイロをポケットで温めながら、彼女は先に歩いて行く。潮風を防ぐためか、駐車場と砂浜の間には木が植えられている。その隙間から見える海は穏やかで、しかし耳ではしっかりと波の音を感じ取れた。


 砂浜に伸びる細道を跳ねるように歩く度、喜美の髪の毛が左右に揺れる。

 いつも喜美は先を走って行く、それが癖なのかわざとなのかは分からないが、そのせいで何度も置いて行かれそうになったことがある。新婚旅行の最中も何度もはぐれそうになり、喜美を探していることが多かった気がする。電話をしても出ないから出店を見ていると、

「それ、瞬くんに似合いそう」

と、ひょっこり現れる。

「どこに行ってたんだよ」

「あっちにこないだテレビでやってたせんべい屋さんがあって。好きなものを挟んでくれるって言うから、たい焼きを挟んでもらったんだ」

 たい焼きをせんべいにするなんて聞いたことないけれど。喜美が案外いけるよこれ、と言って勧めるので食べてみたけれど、僕はそのままの方が好きだった。


 たまに変わったことをする喜美だから、急に海に行きたいなんて言ったのも、その延長だと思った。でも、目を覚ましてすぐに見えた喜美の顔が今でも引っかかっている。眠たそうな瞳の奥に、寝起きとは思えない何かが宿っていた。何かを決意したような、鋭いものが、一瞬。眠気を吹き飛ばされるほど強いものだった。

 喜美から目を離してはいけない気がする。でも彼女はいつもと変わらず、僕の前を先に行ってしまう。

「滑らないように気を付けろよ」

「だいじょーぶ!」

 構わず歩く喜美は先に抜けると、僕を待たずに砂浜へと降りて行った。一瞬消えた、僕は歩く足を速めたが、すぐに、海へと走って行く喜美の頭が見えた。いつの間にか脱いだのだろう、履いていた靴を両手に持って小さくなっていく。

「喜美!」

 思わず名前を呼んだ。ぴたりと足を止めて振り返った喜美と、目が合った。

 道を抜けた途端、潮風が顔を打つ。髪を全てさらってしまいそうな風は、僕だけではなくて、喜美の髪も揺らしている。上着が見つからないと言って僕のスカジャンを引っ張ってきていたが、やはり彼女には少し大きい。

 石階段を下りたとき、こちらに戻って来ていた喜美と合流する。喜美は階段に脱いだ靴を置くと、ポケットからカイロを返してくれた。

「寒くない?」

「寒いよ。でも瞬くんも寒いでしょ」

 僕の手にカイロを握らせると、再び背を向けてしまった。若干砂に足を取られながら海に向かっていくのを見て、

「喜美!」

と、名前を呼ぶが、今度は足を止めなかった。


 急いで靴を脱いで喜美の後を追う。その際も何度も喜美の名前を口にした。砂浜を撫でる波の音が煩わしくて、この時だけは消えてくれないかと願った。海もろとも消えてくれれば、この不安は消え去るのだろうか。

 そもそも、喜美がこれから何をしようとしているのか、分からないはずなのに。その先の展開が分かっているかのように、足が止まらない。

 砂で体勢を崩しそうになりながら、喜美の背中を追った。そこまでの距離がずっと遠くに感じられて、でも、喜美の背中はすぐに大きくなっていく。波の音が大きくなるほど心臓が痛かったけれど、揺れる髪を越えて喜美の体に腕を回した時の方がずっと苦しかった。

 ここにいるのは、喜美だろうか? そんな不安が、一気に押し寄せる。

 海は目前だった。つま先まで迫る波を避けるように後ろへ下がると、自然に腕に力がこもった。温かい、確かに形がある。


「ふふ、捕まっちゃった」

 こちらに向けられた笑みがあまりにも柔らかかったから、喜美にキスをした。温かい唇を求めたけれど、彼女の唇は離れてしまった。

「どうしたの」

「急に走って行かれるとびっくりするから」

「だって、海が見えて気分上がっちゃって。瞬くんも海、久しぶりじゃないの?」

「誰かと海に来ることなんてないから。今日が初めてだよ」

「えっ。じゃあ記念じゃん!」

 喜美は僕の手を掴むと、「ほら、おいで」と、海へと引っ張った。喜美の足が波に当たって、水しぶきが跳ねる。水の重さを感じさせない足取りで静かに海へ引き寄せていく彼女になされるがまま、一歩二歩と海へと足を浸らせる。

 雪が降った日の空気みたいにつんとした冷たさが足を包み込む。ズボンの裾はすぐに海水を吸い込んで、濃い藍色に変わっていく。ズボンが重たくなって、吸い込まれるように前へと歩みを進めてしまう。


 僕の両手を引きながら海へと歩みを進める喜美は、まるで冷たさを感じていないみたい。ほらほら、とどこか楽しい所へ連れて行ってくれるような気がして、彼女から目を離すことができなかった。

 押し寄せた波が足を叩いたとき、彼女の顔が海に隠れた気がした。

 目の前で僕の手を引いていたはずの喜美はいなくなって、その先に見える空と海の境界が僕を見つめてくる。

 ──喜美。

 手に残った喜美の感覚だけを頼りに腕を引っ張る。

 押し寄せる波も加わって、喜美は軸を失ってふらふらと僕の胸にぶつかった。それを離さまいと強く抱きしめると、今度は僕がバランスを崩して少し後退する。海が足首まで引いた辺りで、ゆっくりと受け入れるように尻もちをついた。

 喜美は笑っていた。楽しそうに笑っていた。

 びしょびしょになっちゃったね、そう言う喜美に僕は、「今日はもう帰ろう」。そう言っても聞かないことは分かっていたけれど、言葉にせざるを得なかった。こうせずに、どうやって胸の渦を晴らせばいいのか、今の僕には分からなかったのだ。

「風が吹いたらめっちゃ冷えるね。風邪ひかないようにしなきゃ」

「喜美、帰ろう」

「もうちょっとだけ」

「風邪ひくから」

「おねがい」

 冷えると言いながら僕の上で膝をつく喜美は、浮かべていた笑みをすっと落とした。打ち寄せる波の音が繰り返し聞こえるだけで、喜美はそれ以上言わなかった。僕の返事を待っていることは分かったけれど、どちらだとしてもすぐに返事できない自分は甘いのだと感じた。


 嫌な予感はしていたのだ。突然海に行きたいだなんて言う前から。


 入籍前は、式も旅行もしなくていいと言っていたけれど、「やっぱり結婚式、挙げない? 今からじゃ遅いかな?」と、ショウウィンドウに飾られたウェディングドレスを見ながら言ったとき、じんわりと心が温かくなるのを感じた。夫婦らしいことを一つもしないまま一年が過ぎようとしており、周りにもしないのかと言われていたから、喜美が良ければする気概でいた。

 しかしそう思ったと同時に、高校生の頃の僕がなにかを察知した時のように、「目を離すな」と言った。

 誰も気づかなかった喜美の気持ちに気づいた僕だからこそ、あの時の違和感を感じ取ったのだと思う。当時一緒にいた喜美の友人は笑っていたけれど、僕には、どうして友人の自殺未遂を笑って過ごすことができるのか分からなかった。

「喜美のことだから、そうなるって分からなかったんでしょ」

「変わったことするもんね」

「喜美らしいわ」

 まるで喜美のことを分かっている風な口をする友人らは、それを徐々に笑い話に変える。しんみりとしていた空気を笑える空気に変えることで、自分たちがこの空間を支配しているのだと思い込んでいるようで、あの時の教室は気色が悪かった。

 誰もが自分の世界を持っているのに、喜美の世界だけを〝変わっている〟と言う。その一言で済ませてしまう彼女らは、本当に友人なのだろうか。変わっているから明るい、変わっているから一緒にいて面白い、変わっているから自殺しようとしてしまった。

 いつか喜美が本当に自殺してしまった時、同じように「喜美らしい」と言うのだろうか。

 ──周りがおかしいのか、僕がおかしいのか。これに僕が飲み込まれてしまっていたら、喜美は今目の前にいなかったかもしれない。

 あの時から、喜美には〝そういう思い〟がきっとあったのだ。あの時に一度摘み取ったけれど、何かのきっかけにまた芽吹いたそれは、養分を蓄えながら大きく成長していく。

 今朝布団の中で喜美から見えたのは、それの蕾なのかもしれない。そうなれば、花が咲くときは近い。──変わり者の彼女の言葉に合わせて言うのであれば、「死への好奇心」だろうか。死に対する興味、憧れ。それらが、喜美を死へと引き寄せるのだ。


「喜美」

 俯いた彼女の頬に手を伸ばす。砂で汚れた指先を避けて手の甲を頬に寄せると、彼女の頬は潮風で乾燥していた。顔を洗っただけで保湿もせずに出てきたから。帰ったらちゃんと保湿をしないと。そういう疎い所も、死に興味を持っていかれたせいなのかもしれない。

「……冷えるから、海には入らないで。見ているだけにしよう」

 そんな女性になってしまったのは、甘やかしてきた僕のせいなのかもしれない。

 ちぇ、と声を漏らすが、帰ろうと言われなくて嬉しいのか喜美の表情は柔らかかった。喜美は落ちていた木の枝で砂に絵を描いて、それが波で消されるのを見てけらけらと笑っていた。少し離れたところにいても、すぐ近くで彼女が笑っているように感じられるほど、彼女の声はよく通る。


 一緒に過ごすようになった学生時代も、人混みの中でも名前を呼ばれればすぐに分かった。振り返れば彼女がこちらを見ているのがいつものことで、当たり前のように彼女の方へ歩みを進めるのだ。

「今日はバイト入ってないの?」

「テスト期間だから入れてないんだ」

「そっか、来週だったっけ」

「……大橋さんも受けるんだよね。まるで、自分は違うような言い方」

「いやあ、もしかしたらうちのクラスはテストなかったかも」

 高校二年生、クラスが離れても僕は喜美と交流があった。クラスが離れれば消えてしまう縁、そう思っていたけれど、喜美は僕の名前を呼んでくれる。

 同じ名前のクラスメイトが反応してしまった時、クラス内が動揺したことがあった。

「鍋島俊は俊で、矢渕瞬は瞬くん。紛らわしいから、そう呼ぶことにしたんだ!」

 全員に宣言するような大きな声、理由を聞くと生徒はするりと納得した。だから喜美は、僕のことだけ「くん」をつけて呼ぶ。

「瞬くんってラーメンとか好き?」

「好きだよ、嫌いじゃない」

「この間ラーメンの半額券貰ったんだ。来週のテスト終わりに食べに行こうよ」

「……いいけど。友達と行かなくていいの? 高田さんとか、妹尾さんとか」

「半額券、二枚しかないんだよね」

 他にも友人はたくさんいるはずなのに、その中で僕を選んだのはつまり、僕がいつも一人でいるから都合が良かったのだろう、と捻くれた考えを巡らせた。

「瞬くんとご飯食べに行ったことなかったしさ。飯を囲むことで深まる仲もあるよ。温泉とか行ったら裸の付き合いとかよく言うじゃん。それと似たようなもん。瞬くんが良ければ裸の付き合いも」「ラーメン食べに行こっか」

 反射的に口から出た言葉は早口で、同じく帰宅しようとしている数名の生徒の視線を集めてしまうほど声を張っていたらしい。セリフもあって肩を縮こませていると、それをかき消すように彼女の声が昇降口に広がった。

「へへへっ」


 そんなことを思い出したので帰りにラーメンでも食べに行きたい気分だけれど、こんな朝早くからやっているラーメン屋を知らないので、大人しく家に帰ってから食べるしかなさそうだ。

 既に顔を見せている太陽の日はまだ空気を温めるには至らず、海から吹き付ける風で体は凍ってしまいそうだ。それに加えて濡れた下半身は体温を奪うには十分だ。明らかに僕よりも濡れている喜美が楽しそうに笑っているのは、深夜に若者がバイクを吹かせているのと似ているのかもしれない。それで誰かに迷惑が掛かっていたとしても体に傷が残るとしても、その時にしたいことをしていく、彼女はそういう世界にいるのだ。

 ふふふ、ふふ。

 波に紛れて聞こえる喜美の声は、人魚のように感じた。波を友人と呼ぶ人魚は岩場に座り、それと戯れる。帰りの時間が来ると久しぶりに会った友人にさようならを告げて、海に帰っていく。──喜美もその流れでまた海に入って行かないだろうか。長く一緒にいても、結局彼女の思考がまともに読めたことは無かったから、絶対にそんなことは無いとは言い切れないのだ。むしろ、彼女ならそんなことをしてしまいそうで、ずっと、怖い。

 喜美の笑い声が波で聞こえなくなるたびに、彼女がいなくなってしまったのではと視線をそちらに向けてしまう。僕の考えなんてつゆ知らず、喜美は楽しそうに波を踏んで踊っていた。


「喜美」

 振り返った彼女は僕と目が合うと、ゆっくりとした足取りでこちらに歩いてくる。大きくなる喜美を見上げると、頬は彼女の冷たい両手に包まれた。

「冷えてるじゃん」

「夜の海も朝の海も変わらないね。ただ空の色が違うだけ」

「いつ来たの?」

「いつだったっけ、忘れた。空気の味とか、冷たくてどっちも変わらない。あ、でも、朝の方が静かで良いね、誰もいないから」

「世界に二人きりみたい?」

「うん、ずっとこのままならいいのに」

 木の枝を二つに折って差し出された片方を握る。隣に腰を下ろした喜美は短くなった小枝で砂に文字を書いていく。彫られた部分とそこからはみ出た砂のせいで、書いたのが喜美という文字だということに気づくのに時間が掛かってしまった。じっとこちらの砂を見つめる喜美の視線に気づいて、目の前に自分の名前を書く。

 瞬

 画数が多いと、どうしても文字がぼやけて見えてしまう。喜美の方へ視線を向けると、周りにネコやクマの絵を描いていた。耳の形が違うだけの彼らは、文字からひょこりと顔を覗かせている。


「瞬くんはさ、どうして私と結婚しようと思ったの?」

 砂浜に視線を向けながら、喜美は突然問うてきた。波に消されることのなかった言葉は、耳を直接刺すようにはっきりと聞こえたのだ。

「こういう話、そう言えばしたことなかったよね」

「確かに。聞かれなかったからな」

「どうして私と結婚しようと思ったの?」

 同じ質問を再び口にされる。視線をこちらに向けられてしまったのが、相手の期待に答えなければいけないと思わされてしまって、少し申し訳なくなる。

「ロマンチックなことは言えないよ」

「ロマンチックじゃなきゃ結婚しちゃいけないの?」

「そんなことないけど。期待されるようなことは言えないから」

「大丈夫。ちゃんと期待してるから」

 逸らされた視線に多少救われた。喜美の目元を隠した前髪が、僕と彼女の間に小さな仕切りを作ってくれたみたいで、はっきりとしない曖昧さが口を滑らせた。

「……放っておいたら本当に死ぬと思ったから、その延長」


 結局卒業まで友人たちに分かられることのなかった喜美の世界は、僕だけが知っている。喜美は変わり者、喜美は不思議な子、そんな簡単な一言で済ませるだけで、彼女のことを知った風に言った。卒業してから会うことのなくなった友人は、元クラスメイトに変わり、徐々に繋がりが薄れていく。喜美の友人とは、そういうものだった。

「一緒にいれば、もしまた喜美が死にたいと思った時、寄り添うことができるから。高校生の時からずっとそう思ってる」

 過保護だとか重たいだとか思われたくなくて言ってこなかったこと、それを伝えても喜美は笑うことはしないだろうとこれだけは確信できたけれど、言うべきなのかは分からなかった。

 好きか嫌いかで聞かれれば好きだけれど、どう思っているかと聞かれれば、嫌いじゃないと言うのが一番近い。これを恋と呼べるのか分からないまま、ずっと喜美の隣にいた。

「じゃあ瞬くんは、私が死のうとしたら止めてくれるの?」

「……結局どうするかを決めるのは喜美だから。僕は、喜美の隣にいるだけだよ。止められた方が良いけれど、僕と一緒にいた方が楽しいよ、なんてことを言えるわけじゃないし。ただ、喜美が勝手に一人で逝くことが、嫌なんだと思う」

「なに、瞬くんも一緒に来てくれる?」

「行かない、と思う。死ぬのは怖いから。あ、でも、納得のできる理由を言ってくれないと困るな。喜美の父さんや母さんに何て言えばいいか分からないや」

「そっかぁ、結婚しちゃったもんね」

「そう、結婚しちゃったから」

 もう一度同じ言葉を繰り返した後、喜美は視線を落とした。木の枝で砂をつつきながら小さな山を作る喜美の次の言葉を待った。何度も折れる枝は鉛筆みたいで、小さくなりすぎたそれで何かを書くには不十分だ。

「喜美が結婚してくれたから、僕には権利ができた。寄り添える権利が、それも正当な。恋人とはまた違う。近くにいるのが当たり前で、力を合わせるのが当たり前。今の夫婦には、まだそんな考え方が残っている気がする」

「うん、たしかに」

「病める時も健やかなる時も近くにいると約束をしてくれたから、勝手にいなくなられると、少し、どころか、とても悲しい」

「でも、わたし、」

 そこまで言って口ごもった彼女は、僕が持っていた小枝をひょいと掴んで、また砂の山を作り始めた。だから僕は彼女の言葉を待つしかなくなって、荒くなり始めた波に耳を研ぎ澄まして待っていた。

「……今日って、帰らなきゃだめかな」

「遅くとも日が落ちるまでには。ズボンが濡れたから凍る前にしてくれると助かる」

 いつの間にか喜美は何も持っていなくて、ロケット鉛筆の残骸のような小枝が砂浜に落ちていた。


 じっと見つめる先には海があって、徐々に波打ち際が迫ってくる。ここにいればいつか海が連れ去ってしまうのなら、いなくなってしまうのは喜美だけかもしれない。認めているわけではないけれど、興味だけで喜美に声を掛けたあの時とはもう違うから、逝っちゃった、の一言で済ませられるわけがなかった。

 見るからに人生を楽しんでいる人でも、死にたいと思うことがあるんだと知った。喜美が自殺未遂をしたことで、周りに喜美を心配してくれる人がいないことが明確化され、それが喜美に存在していた淡い希死念慮を強く成長させた。みんなを笑わせる言葉しか口にすることができず、覆い被された本心が透けることは無い。最近残業が多い理由も「大きな仕事を任されたんだ」の一言だけで、詳しい仕事内容や一緒に仕事をしている人の話は全くしない。

「この間そこに子猫が歩いてたよ。もしかしたら毎日歩いているのかも」

「職場の人にお土産で貰ったチョコ、これめっちゃ美味しい。どこのチョコだと思う?」

「今日は流星群だって、どっか見に行く?」

 そんな会話で、僕の知らないところで喜美がどう過ごしているかしっかり理解できるかと言われれば分かるわけがなくて、だから、喜美が会社にうまく馴染めていないことを知ったのは新婚旅行の前だった。


 ──なんで急に、式をあげたり、旅行に行ったりしたいって思ったの?

 ピースがそろった途端、急に喜美の心が読めたような感覚がして、少し気持ち悪かった。なんで今なんだ、もっと早く知っていたら。

「喜美、今日は帰るよ。冷えるから。温かいものでも食べよう」

 ──式も旅行もそれを育てるための栄養で、全てを蓄えた喜美は満たされた幸福のまま終わってしまおうと考えているんじゃないか。喜美はそういうことをすることが何ら不思議ではない世界を持っている。僕の世界にそれはない。

 着々と近づいているその時があると思いながら過ごした旅行は、あまり落ち着かず、彼女の横顔を焼き付けることが精いっぱいだった。消えてしまうかもしれない、そう思うと彼女から目を離せないのだ。止めてほしい、このまま落ちていく彼女のことを、誰か。

「帰ったら、明日が来ちゃう」

「うん、そうだよ」

「明日が来たら、休みが終わっちゃう」

「終わるよ」

「そうしたら、タイミングが……」

 喜美、僕は彼女の名前を呼んだ。こちらを向かない彼女の肩を叩けば目が合って、……キスはしなかった。

「僕は、まだ喜美を手放せるだけの強い心は持ち合わせていない。急にいなくなられたら困るし悲しいよ。でも、今の僕はまだ君を追って飛び込むことは出来ない、だって死ぬのは怖いから。喜美が海に来たいのは構わないよ、ただ、僕が海に飛び込む勇気ができるまで待っていてほしい。僕を置いていかないでほしいんだ」

 遠くから聞こえる汽笛の音が、朝が浅くなってきたことを知らせる。車の走る音で人々の起床を感じられ、二人だけの世界は間もなく終わってしまう。喜美の世界にずっと入っていられないのは、僕がまだ喜美と一緒にいたいからかもしれない。

「…………ごめん瞬くん、わたし、分からないや……」

 喜美の世界に、僕はいない。だから、こうやって寄り添うことしかできないのだ。

「瞬くんは、私のことを否定せずにいてくれたから、今日のことも何も言わずに見ていてくれると思ってた。でも、違うんだね。瞬くんは、私が死ぬのが嫌なんだ」

「嫌だよ。だからずっと近くにいた。人が死ぬのを見過ごせるほど、僕はまだ腐っていないから」

「私が死んだら、瞬くんも一緒に来てくれるの?」

「今はいけない。怖いから。だからまだいかないで」

「いきたくなかったら来なくていいのに」

「もう遅いよ。何年一緒にいると思ってるの? じゃあいかない、って簡単に言えるほど喜美のこと嫌いじゃないから」

「瞬くんは、私がいなくても生きていけるよね」

「もう無理だよ。言うのが遅かったね、高校を卒業した時にいなくなっていたら一人でも大丈夫だったのに」

「なんでそんなに引き留めるの」

「なんでだろうな、時間のせいかも。一緒に居すぎたんだ」

 海を飛ぶ白鷺の鳴き声に顔を向ければ、一面青だった空には雲が浮かんでいた。白鷺は小さくなり、雲の色と同化して見えなくなる。人の声が聞こえ出す午前八時の海は、もう喜美を連れていこうとはしない。

「分かんないなあ、わたし」

「喜美は、僕が死んでも構わない?」

「分からない……、でも、大丈夫な気がする。だって、私は海が怖くないから……」

 弱々しくなった喜美の声は、海が静かになったことを悲しんでいるようだった。


 帰りの車の中で眠るとき、いつも窓側に顔を向けるのが喜美の癖だ。声を掛けても返事をしなくなったころにこちらに顔を傾かせて、僕は帰路までの道を走って行く。

 もしかしたら、これからまた何度もするかもしれない話を噛み締める。成長しきったものを取り除くのは難しい。喜美はそれを大切に、ちゃんと抱えて生きているから、きっと無理やり取り除くのは喜美を不安定にさせる原因になってしまうだろう。もとより、根付いてしまったそれを取り除くことが僕にはできない。

 いつか僕も海が怖くないと感じられたら、喜美と一緒にどこかへ行けるのだろうか。多分きっと、無理だと思う。

 海までの道は覚えた。だから、何度でも喜美を迎えに来れる。

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凍花に添う 薮 透子 @shosetu-kakuko

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