お気に入りの水平線

鳥尾巻

きれいな奥さんは好きですか?

 私は水際に立ち、真夏の太陽光を反射して揺れる水の波紋を見つめていた。市民プールは塩素の匂いと様々な人間の体臭が混じり合う。そこかしこから上がる嬌声や飛沫の音が渾沌こんとんとした空気を作り上げていた。

 軽く体を解し、おもむろに水に足をつける。ここの流れるプールが好きだ。この市民プールは遊具の種類が豊富で、毎年夏になるとたくさんの市民が訪れる。私と妻のお気に入りの場所だ。

 私は人工的に作り出された生温い水流を楽しんでから、水中で足の指を動かしてみた。処理し忘れたムダ毛がドクターフィッシュ (ガラ・ルファ)に齧られているようなこそばゆさをもたらす。どのみち男性である私がムダ毛処理をしてもしなくても、世間は気にしないと思うが、私は脛毛を見せて歩くのが気になる性質なのだ。同様に日焼けを気にする訳でもないが、大して逞しくもない上半身を人目に晒すのも気が引けて、サーフパンツの上にラッシュガードを身に着けている。


「ねえ、いつまでそこにいるの?」


 ぼんやり物思いにふけっていると、不意に足首を掴まれて、水中に引き摺り込まれた。悪戯っぽく瞳を輝かせた妻が、ずぶ濡れになった私を見て笑っている。人目を惹く美人ではないものの、垂れた目尻とぽってりとした唇が色っぽい。

 結婚して5年、子供はいない。私より5歳年下の妻は、そろそろ中年の域に差し掛かっているが、水に濡れた艶やかな肌は熟れた女の魅力を存分に放ち、周りの男共の視線を集めている。そういえば、お腹周りが気になるから、今年はワンピースタイプの水着にしたと言っていた。元々スタイルが良いのだから気にする必要はないと思うが、そこは微妙なオンナゴコロというやつなのかもしれない。

 しかし、その水着は全体が黒でところどころシースルーになっていて、肌が淡く透けているのが逆にイヤらしい。その中身はもちろん知り尽くしてはいる。けれど見えるようで見えない方が却って想像を掻き立てるものだ。

 私は特に腹を立てていなかったが、わざと怒ったフリで濡れた前髪をかき上げた。本音を言えば、こうしたおふざけを仕掛けてくる妻のことが好きなのだ。彼女もそれを分かっているから悪びれた様子はない。


「危ないな。いきなり足を引っ張るなよ」

「だって1人じゃ寂しいじゃない。早く来て」


 そう言いながらも、妻は売店で借りて来たらしいフロートマットに乗って、どんどん流されていく。子供が駄々をこねるように足をパタパタさせ、そのたびに上がる水飛沫に可愛らしい悲鳴を上げている。そのなだらかな足の曲線から続くヴィーナスの丘、水と光を弾き返す瑞々しく白い胸が私を誘って止まない。はしゃいだ後の気怠い午後の姿にまで想像が及び、水中に隠れた下半身を包むゆとりのある水着に感謝した。

 私は深呼吸で不埒な妄想を追い払う。そして大きく水を掻き、青い水平線に浮かぶ、愛しい妻の豊かに実った双丘を目掛けて泳ぎ始めた。

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