ハイパーリファレンスガール

@antedeluvian

ハイパーリファレンスガール

言葉というのは便利で簡単で大切で、時に軽率である。


いかようにでも偽ることができる。偽らざるとも、真実とはかけ離れたりずれたりしてしまうことも少なくはない。


自らが発した言葉を担保するものは己の行動それのみで、だからこそ、言葉の軽率さを我々は痛感する。


考えが変わった、とか、方向性が変わったのだ、と言い訳がましく、自らの放った言葉とは相容れない自分を正当化してしまいがちだ。



かつて彼女はアイドル人生について「太く短く」と書いた。


後に雑誌のインタビューでファンを心配させるから、という理由で取り消すことになるのだが、彼女の言葉の本質は今でも変わっていない。


一片の後悔もなくアイドルとして燃え尽きる……命を懸けるという意味である。


命を懸けるとは、言葉では誰もが発することができる。

その意味に反して、実に軽率にその辺のテーブルの上に無造作に転がっている。



彼女はその言葉を決して比喩的に使っているのではない。


『新・乃木坂スター誕生』──初めて人目に触れる場所での振る舞い方は、彼女の中のアイドルを体現していた。

過去の、そして、普段の自分を胸の中に押し留め、アイドルとして生きることを表明した。


いつもの自分とかけ離れた姿を体現し続けることは、たとえカメラやファンの目に触れる場でだけであっても、計り知れないエネルギーを要する。

そのエネルギーが自分自身を蝕むこともあるだろう。それでも彼女はその道を行くことを決めたのだ。


「(命を賭す)覚悟はできている」と、舞台の上のセーラーヴィーナスは言った。

私には、演じる彼女の真髄がその言葉に表れていると感じた。


「乃木坂46"5期生"版 ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』2024」の初日は彼女にとって試練であった。

本人はあまり語りたがらないし、なんでもないように振る舞っているから、ここでも多くの筆は費やさない。


だが、その試練を前にした彼女の姿に命を燃やす彼女を私は確かに見た。


『トラペジウム』の主人公・東ゆうはアイドルを初めて見た時に思ったという。

「人間って光るんだ」と。

その光の正体はもしかすると、命を燃やす炎なのかもしれない。


賀喜遥香さんを前に珍しく涙を浮かべた彼女は口にした。

「キラキラしてるじゃないですか」、だから好きなのだと。


アイドルは光り輝くもので、それが自分には足りないのではと彼女は思っている。

だから、乃木坂46に入る前の自分を全て捨てようとしてきた。


ところが、乃木坂46という場所はそんな彼女を丸ごとすべて受け入れようとした。

それが結実したのが2022年、東京藝術大学への入学だった。


長年抱き続けてきた人間の彼女自身としての夢の実現も、彼女はグループのためになるならと公表に至った。

すべてをアイドルへと注いだのだ。


そこに命の輝きを見ずにいられるだろうか。


彼女はアイドルの理想像としての山下美月さんを語る。

「乃木坂46──アイドルを体現している存在だ」と。



ところで、我々が発する言葉は期せずして過去の誰かが、あるいはなにかの著作物が発したものと重なることがある。


時には、意図的に過去に存在した言葉を引用することもあるし、自分の胸中に漂う言葉にならないモヤモヤの代弁者としてそれらを呼び出すこともある。

「私が言いたいのはこう言うことだ」と。


彼女の言葉やパフォーマンスの多くには引用元がある。

漫画、アニメ、そして、乃木坂46……。


挨拶の「ん~、てれさぱんだ発見!」は、その仕草から西野七瀬さんを想起させるし、奇しくもお見立て会で履いていたスニーカーは西野さんとおそろいであった。

そもそも「てれさぱんだ」は小川彩さんがつけたあだ名だ。


2023年の新参者ライブでは、伊藤万理華さんの「まりっか’17」をオマージュした「てれっさ’21」を披露した。


乃木坂46のメンバーとして燃える=生きるために、彼女はことあるごとに過去の乃木坂46の文脈を浚っているのではないかと思う。

それが彼女に乃木坂46として生きる指標を与え続けるのだ。


別に、10年前の言葉でなくてもいい。

数年前、数か月前のものでもいいのだ。


乃木坂46のメンバーが発したもの、歌詞が物語ったもの、ほんのちょっとしたノリで誰かが放った言葉、仕草や行動……。


それらをなぞることによって、彼女はより乃木坂46になろうとする。


彼女に倣って、私はある作品を引っ張り出して説明を加えたい。


川上稔による『境界線上のホライゾン』という作品では、滅亡に瀕している人類は過去の過ちを繰り返さないため、過去の栄光の歴史を「聖譜」として、それを再現する「やり直し」を遂行している。


温故知新という言葉があるように、彼女もある種過去の一部分を再現することによって、今をより良くしようとしている。

あるいは、自分自身による発信で乃木坂46という形が歪に変化してしまうことを危惧しているのかもしれない。

乃木坂46の歴史は彼女にとって「聖譜」なのだ。


それは言い換えれば、彼女を追いかけるということが自然と乃木坂46の歴史を追体験する形になっているということである。


そこには、彼女の脳から染み出したアイディアや創造性、そして、他のメンバーたちによる味付けなどが加えられ、継承だけでなく、確かに乃木坂46というものが絶えずアップデートしていることも教えてくれる。


乃木坂46を体現する、あるいは乃木坂46の深部への水先案内人として、彼女の存在はかけがえのないものになっている。


彼女の「引用元」は多岐にわたる。あらゆる文化の俎上に乗り、彼女が触れたものすべてだ。


それは、乃木坂46にあらゆる文化の断片が取り込まれていくということ。

ミックスカルチャーによって、乃木坂46はその枠を拡張していく。


そしてそれは可逆的に、あらゆる文化の文脈に乃木坂46が姿を現す可能性を示唆している。


例えば、これから乃木坂46はアートの世界の文脈に深く関連していくだろう。


池田瑛紗による究極のリファレンス性が、乃木坂46がその枠から外側に向かって浸透していくことを明示している。


彼女は枠を拡張するのでも破壊するのでもなく、そこを自由に行き来する存在なのだ。


インターテクスチュアリティ(間テクスト性)とは、

ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照したりすること

を意味している。


文化の俎上にあること自体が文脈の相互関係に立ち現れるであるが、さらに能動的に言葉を発することがインターテクスチュアリティを高めていく。



命を燃やす彼女は、自分がそのように必死に生きていることを悟られたくないように私には見える。感情が漏れ出るのを必死にこらえてきた。


自分自身の感情を表に出すことが、アイドルとしての自分に反すると考えているのかもしれない。


しかし、それは変わりつつある。


人間としての彼女の悲願が乃木坂46という場所の存在によってサポートされ、自分自身でいることをアイドルの文脈の中で、ある程度は許容できるようになったのだろう。


そして、初めての舞台演劇の中で感情の表現方法やコントロールを学んだ。

演劇というのは、必然的に自分自身の感情を向き合う場だ。


だから、同期のメンバーたちは言う。

「ようやく感情を見せてくれるようになった」と。


かつて生駒里奈さんは乃木坂46を「自分を人間にしてくれた」と表現した。


池田さんもまた乃木坂46で、より人間らしくあることができるようになっていくのだろう。


静謐な水面の奥底に燻る数々の感情。

その水は沸き始めている。


沸き立ち、水面が波立つほど、そこを照らす光は乱反射してキラキラと輝く。



池田瑛紗は輝きを増していく。



written by antedeluvian

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