人魚が還って行った水平線

西しまこ

満月の夜に

 私は恋人と別れて、海に来ました。家に一人でいるのは怖かったのです。マンションの一室ですが、彼の荷物がなくなっても、存在がそこここにありましたから。部屋にいると、彼の幻影が私を悲しくさせるのです。だから、マンションからいつも眺めていた海に来たのでした。海はとても広くて、押し寄せては返す波が、彼との想い出をさらっていってくれる気がしたのです。


 碧い海に、その美しい人魚がいたのです。

 私は、最初は幻かと思いました。本やアニメの中でしか見たことのない人魚がいるのです。混乱しました。マンションの一室では去ってしまった彼の幻影を見て、紺碧の海では人魚を見るのです。自分は悲しみのあまり、どうかしてしまったのではないかと震えました。


 人魚は、優しい北欧系の顔立ちをしていました。真っ白な肌に海と同じ色の瞳。そして、流れるような金色の長い髪。まるで人形のような、或いはCGで作られた麗しき人外のものであるかのような、儚げなようすで、海の中にいるのです。そして私をじっと見ていました。人魚の瞳に吸い込まれてしまうような心持ちになりました。


 私はついに言いました。

 ぴちゃぴちゃと尾鰭で水音を立てている人魚に、うちへ来るかい? と。それは人魚を見た瞬間から、なぜか頭に浮かんだ台詞で、どうしてもそれを言わずにはおられない焦燥感のような気持ちを私にもたらしたのです。


 人魚は海の瞳を濡らし、愛らしい唇で、次の満月までならいいわ、と言ったのです。

 そのときの私に湧き起こった歓喜の感情をあなたは分かりますか? 恋人との別れの悲しみも日々の鬱屈した思いも、全て吹き飛ばすような喜びなのです。


 私は人魚を、恋人のいなくなった室内に連れて来ました。人魚はまるで初めからそこにいたみたいに馴染んで、浴室や大きなたらいでぴちゃぴちゃとわたしの心を和ませるのでした。私は、思いました。恋人ではなく、人魚の方がよほどこの部屋にぴったりだと。それほど、人魚がうちにいる光景は、まるで月に兎が棲んでいるのと同じように、とてもしっくりくる素敵なものだったのです。


 私は月が満ちて来るのを不安と共に眺めました。人魚は次の満月までならいいわ、と言ったのです。満月になったら海へ還るのです。


 どうしても還らないといけないのかい? 

 そうよ。だって満月の晩、わたくしたち人魚は卵を産むんですもの。月が丸く大きくなった、群青色の夜のもと、月明かりがわたくしたちに落ちると、産卵が始まるの。満月の晩に卵を産むのは、大人の人魚のだいじな使命なのよ。


 私は満月が近づくにつれ、涙が出るようになりました。人魚は私の涙をそっと舐めてくれました。涙は潮の味がするでしょう。懐かしい味だわ、と人魚は微笑みました。


 満月の晩、私は約束通り人魚を海辺に連れて行きました。人魚はぴちゃんと音を立てると、するすると海へ入って行きました。海の波と一体化して、あっという間に沖へ沖へと行ってしまったのです。波の音なのか人魚が泳ぐ音なのか、私には分かりませんでした。


 家に帰り、人魚が使っていたたらいを見ると、そこに満月の光が降り注いでいました。

 よく見ると、小さな小さな、真珠のような卵がありました。それは乳白色の輝きを見せながら、でも少し透き通っていて私の心を慰めるのでした。


 私はマンションから、人魚が還って行った水平線を眺めました。





           了

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