夜想

@sazare220509

夜想

 昼は人間の時間。夜は魔物の時間。

 だから、人は決して、夜に出歩いてはならない。

 もしも、それを破ったならば――


「じゃあ、またね」

「うん。また明日、学校で」

 図書館からの帰り道。チセはそう応えて、級友の少女カナに手を振った。

 初夏の風が吹き抜け、制服の襟やスカートをはためかせて通り過ぎる。少し火照った大地を吹き冷ましてくれるような、涼やかな風だ。

 肩あたりで切り揃えたチセの短めの髪を揺らし、街路樹の若葉を撫で、風は通り過ぎていく。

 鞄を肩に掛け直して、チセは目を細めた。

 この風はどこへ行くのだろう。ふと、そんなことを考える。

 昼の熱を抱えたまま、夜の世界へと渡っていくのだろうか。光の届かない、闇の世界へと。

 夜の世界。どんなところだろう、とチセは思う。

 太陽の出ていない時間、世界は魔物に支配される。影が蠢き、植物や動物は変容し、動かないはずのものが動き出す。

 初等学校の最終学年になるチセたちは、授業の一環で、夜について調べていた。放課後に図書館に行ったのも、資料を探してテーマを決めるためだ。

(昼は人間の時間、夜は魔物の時間……)

 資料を調べるまでもなく、このことは物心つく頃から知っている。大人たちから、繰り返し言い聞かされ教え込まれてきたからだ。

 日が沈んだら決して外に出てはいけない、と。

 それはたとえば、赤信号の時に道を渡ってはいけないという社会規範よりも、ずっとずっと強固な決まり事だった。

 誰もが知っている決まり事。誰もが逆らえない決まり事。お父さんだってお母さんだって先生だって、どんなに偉い大人にだって、人間である限り、決して逆らえない絶対の掟。

 子供だけではない。夜は、大人にも平等に牙を剥く。

 夜に囚われ、夜に呑まれ……変死したり、行方不明になったり、心だけを夜の世界に置いてきてしまったりした人は数知れない。ひとたび夜に踏み込んでしまったならば、無事に帰還できる可能性は非常に低い。

 夜は魔物の時間。

 人が迷い込めば、餌食になるばかり。

 チセはぶるりと身を震わせた。親や教師の言うことをよく聞く優等生のチセは、夜の恐怖から紙一重で逃れるような武勇伝は持たないし、持つつもりもなかった。

 恐ろしくも神秘的な夜の世界には何があるのだろう……そんな考えがちらりと心を過ぎることもあるが、そのたびに頭を振って打ち消した。

(早く帰ろう。外で夜を迎えるなんて、想像もできない)

 そう思っていた。

 この日までは。


 初夏のこの頃、日はどんどん長くなっていく。今も太陽はまだ高い位置にあり、街路樹の緑を明るく輝かせている。学校の授業を終え、図書館で数時間を過ごし、それでもまだまだ日は高い。

 公園の傍を足早に通り過ぎるが、人々が憩いの時間を楽しんでいるのが見える。冬ならとっくに帰っていなければならない時間だが、夏のこの時期なら安全だ。

 公園の木の根元にふと黒い影が見えた気がして、チセは思わずそちらを凝視した。だが、何のことはない、大きめの石の影が濃く落ちていただけだった。

 べつに昼間から魔物が出る心配をしていたわけではないが、こうした影には目を凝らしてしまう癖がある。チセは気を取り直すように軽く頭を振り、鞄を肩に掛け直して歩き出した。

 チセの住んでいるあたりは、高台に位置する閑静な住宅街だ。学校がさらに高いところにあり、その裏が山へと続いている。学校の近くを起点に県道が坂の下へと延び、坂の終わるあたりで国道と交差している。駅や商店街は国道沿いにあるが、図書館や児童会館などは県道の並びにあった。

 県道を少し上り、坂の途中で直角に折れる。このあたりは見晴らしがよく、昔からの家が多い。坂の下の方には新しいマンションが立ち並んでいるが、上の方は昔ながらの町の面影を残し、ちょっとした林や細い道などが見られたりもする。

 家路を辿り、近所の空き地を通ろうとして、チセの足はそこで止まった。

「………………クロ?」

 空き地に、一匹の黒猫がいた。

 黒光りする優雅でしなやかな毛並み、満月のような黄金の瞳。そして特徴的な、左耳の脇に一筋だけ混ざった白。

 それは、むかし飼っていた――迷子になって行方知れずになってしまった――クロに違いなかった。

「クロ!」

 感極まって声が震える。猫が俊敏に顔をこちらに向ける。

 会いたかった。いつか会えると信じていた。突然の別れから五年経った今も、物音に振り向き、黒い影に目を凝らすことをやめられなかった。

 そこらじゅうを探し回り、それでも見つけられずに泣きながら眠った七歳の夏を思い出す。

 迷子になってしまったクロが心配でたまらなかった。夜の世界に迷い込んでしまっていたらと思うといてもたってもいられなかった。

 夜が害をなすのは人間に対してばかりではない。愛玩動物や家畜、農作物など、人間の管理下にある生き物に対しても、程度の差はあれ変容の危険がつきまとう。

 昼は何食わぬ顔で優雅に枝を風にそよがせていた街路樹が、夜の世界ではけたけた笑って迷い人を追いかけまわしてきたなどという話は枚挙にいとまがない。再び日が昇ったあとに元通りになっていれば問題はないが、たまに枝葉がねじくれていたり、色が変わっていたり、ひどい場合は他の植物や動物と融合して奇怪な姿になっていたり。人間が手をかけた度合いが大きいほど、危険の度合いも大きくなる。

 人間の家の中で可愛がられて暮らしていた子猫が夜に迷い込んだらどうなってしまうか――想像すらしたくなかった。

 自分のことなんてどうでもいい。クロを見つけるまで、他のことを何もかも放り出して探し続けるつもりだった。

 しかし、それはできなかった。ろくに食事もせず、憔悴しながらも夜明けから日暮れまでクロを探し続けるチセを、両親が涙ながらに止めたのだ。心も体も、このままではどうかなってしまうと。お願いだからこれ以上心配させないでほしいと。

 自分がクロを心配するように、自分は両親に心配されている。しかも自分は一人っ子なのだ。そのぶん心配も大きいだろう。そう理解してしまうと、それ以上の無理を通すことはできなかった。

 食欲がないながらも我慢して食事を取り、寝付けなくても布団に入り、気もそぞろになりながら夏休みの宿題に手を付け……おおっぴらにクロを探すことはやめた。クロのことが心配でたまらなかったが、これ以上に両親を心配させることもできなかったのだ。

 それでもこっそりとクロを探し続けたが、手がかりひとつ見つからず、夏休みが終わって学校が始まり、秋が過ぎて冬に入り、クロを探し出すことが現実的ではなくなっていき、探す頻度は減っていった。

 それでも時折、諦めきれないと心が疼いた。五年も経ってしまったのだと数えながら、もしかして、今度こそもしかして、クロがひょっこりと現れるのではないかと、心のどこかで願っていた。がさりと風が葉を鳴らすたび、なにか黒いものが視界の端をよぎるたび、淡い期待を抱いてチセは振り返り、そのたびに苦い失望を味わってきた。

 それが、ついに報われたのだ。

「クロ!」

 駆け寄ると、猫はくるりと身を翻して逃げ出した。

「待って!」

 あの猫はクロに違いない。チセには確信があった。逃げ出すのはもしかして、チセのことを覚えていないのだろうか。

 そうだとしても、諦めることはできなかった。逃げる猫を追って、チセは走り出す。鞄は邪魔になるから、半ば無意識に空き地に放り出した。

「クロ!」

 走りながらチセが呼びかけても、猫は振り向かない。小道を駆け、角を曲がり、植栽の間に姿を晦ませようとする。

 見失わないように、チセは必死に猫を追った。

「待って、クロ!」

 猫は逃げ続ける。

 本当はクロではない別の猫なのかもしれない、その可能性はもちろん理解していたが、チセは直感で打ち消した。あれはクロだ、間違いない。間違えるはずがない。


 猫は駆け続け、やがて大きな公園の中に入り込んだ。山裾に位置する自然公園だ。

 公園のスピーカーからは、夕暮れ時を告げる音楽とアナウンスが流れている。

――日没まであと一時間です。繰り返します、日没まであと一時間です。お帰りの際はお忘れ物のないようご注意ください。夜間のご来園は非常に危険ですのでご遠慮ください――

 帰宅を促すアナウンスの警告の響きを聞き流し、チセは猫を追う。

 広場を抜け、水生植物園の橋を辿り、猫は逃げる。チセが追い続けられるくらいの速度ではあったが、坂が多いせいもあり、チセの体力はかなり削られていた。息が上がって、まともに声を出す余裕もない。

「待っ……て、クロ! 会い……たかっ、た……! ずっと、探し、て、たの!」

 息を切らしながら必死の思いで訴えかけると、猫は走りながら、ちらりと視線を寄越したようだった。

(クロ、クロ……! お願い、待って……!)

 ここで別れたら、もう二度と会えない。ふたたび見つけられたことは奇跡で、きっとこれきりなのだ。チセの勘はそう訴えていた。切羽詰まった声に、猫は振り向いて、それでも足は止めない。

 なぜか、猫はチセの視界から消えることをしなかった。誰かの家の庭に入り込んだり、側溝に身を隠したりなど、チセが追い続けられなくなる道は選ばなかった。速度にしたってそうだ。本気を出せばチセの足ではとても追いつけないだろうに、わざと本気を出さずにいるかのように。

 猫はどんどん速度を落とし、いつしか歩いていた。チセは必死に息を整えながら猫を追う。わずかに体力が回復して走って距離を詰めようとすると、猫も再び走り出す。こちらが走らなければ猫も走らない。チセはいつしか導かれるように、猫の後をついて公園の遊歩道を辿っていた。

 遊歩道はそのままハイキングコースに続く。チセはいつのまにか、山に入り込んでいた。日は傾いていき、道は暗くなっていき、世界の輪郭がおぼろになっていく。夜がやってくる。猫の姿が闇に溶け込むようにして、そして――

「きゃあっ!?」

 突然、チセの体が傾いだ。薄暗くなって気付かずにいたが、木の根元の出っ張りがあったらしい。足を取られてつんのめり、足元を見た、そして、

「いやあっ! 何、これ!?」

 木の根に足をひっかけたのかと見れば、自分の足首に、何かが巻き付いている。木の根の形をしたそれは、真っ黒な影だった。得体の知れないものが自分を捕まえ、引きずり倒そうとしている。背筋に震えが走った。

「魔物!? やだ、いやあっ!」

 足を振り回して逃れようとしたが、影は足に絡みつき、足が動くのは許しても、逃しはしない。掴まれている感覚がないのが余計に恐ろしくて、チセは悲鳴を上げた。

 黒い影と化した木が、笑ったような気がした。樹皮の裂け目がにやりと不気味な笑みを形作り、枝が黒い鞭のように伸びてくる。

 気付けば、辺りには薄闇の帳が降りて、木々が影絵のように闇に染まっている。明るさは残っているが、すでに日は沈んだのだ。

 夜。魔物の時間がやってくる。

 光の届かない世界で、魔物と化した動植物が、人に牙を向ける。

「…………!」

 その時、ようやく、チセは自分の身に起きたことを悟った。

 昼は人間の時間。夜は魔物の時間。だから、人は決して、夜に出歩いてはならない。もしも、それを破ったならば――

 ――人は、夜に囚われて帰れなくなってしまう。

 悲鳴は、言葉にならなかった。ひきつれたような音が喉から漏れるだけだ。

 恐い。震えが止まらない。

 でも、不思議なほど後悔はなかった。

 猫を追いかけなければ、追いかけても途中で諦めて帰っていれば、こんな目に遭わず、今頃はいつも通りに家で明るい食卓を囲んでいられたのだろう。

 それでも。

「クロ……」

 なんだか、いつかこうなるような気がしていたのも事実だった。弟のように可愛がった子猫を失ったときから。

 クロが失われたときから、チセの心の一部にもぽっかりと穴が開いていたのだ。

 心残りがあるとすれば、

(もう一度、クロを撫でたかったな……)

 柔らかくもつるりとした毛並みを、もう一度撫でたかった。

 美しい黒い毛並とは似ても似つかない、禍々しい枝の影が一直線に伸びてくる。ぎゅっと目をつむろうとした、その時だった。

 空気が、撓んだ。

 叫び声を上げるように、枝が大きくのけぞった。金属的な甲高い音が響く。

 見れば、誰かがチセを背に庇って、木の影を退けている。武器を持っている様子はないが、影と何かがぶつかり合って悲鳴じみた音を立てていた。

 どうやら少年らしきその人物は腕を薙ぐようにして、チセの足元に巻き付いていた影を断ち切った。足を掴んでいた影はあっけなく霧散し、その反動でチセは地面に倒れ込みそうになった。

 と、体に腕を回され、声を上げる間もなく抱え上げられた。

 何が起こっているか分からないのに、誰か分からない人に抱え上げられているのに、不思議と怖くはなかった。暗闇の中で光を探り当てたかのように安心感が灯る。

 少年の腕の中から、チセは自分を襲ってきた木の魔物を見た。枝や根が鞭のようにしなり、こちらを威嚇しているが、伸びてはこない。誰だか分からないが、助けてくれたのだ。

「あの……」

「話は後で」

 低い声がチセの言葉を封じる。そうして木から目を逸らさずに後ずさりし、十分に距離を取ったと見たところで身を翻し、少年はチセを腕に抱えたまま駆け出した。

 速い。チセは驚いて少年の顔を見上げ、さらに驚いた。

 暗闇に目が光り、金の月のように輝いている。

 間違いない、この目は、

(クロ……!?)

 夜目が利くのだろう、少年は暗くなっていく森の中を危なげもなく走る。枝も根もすべて見えているだけでなく、異形と化して襲ってくる動きにまで反応して避けている。人間離れした身体能力だった。

 小川に沿った遊歩道に出て、ほどなく小さな建物が見えた。森の分かれ道のところに作られた東屋だ。

 少年は東屋に飛び込み、屋根に設置されている蛍光灯――曇りや雨の日に使うためのものだ――の紐を引いて手早く明かりを灯した。

 その途端、波が引いていくように、闇が遠ざかっていく気配がした。人工的な灯りが点いて、ここだけ夜が薄くなっている。

 そうしてようやく、少年はチセを離した。東屋のベンチにチセをそっと下ろし、顔を背けるようにする。

 少年は、チセよりもいくつか年上のようだった。格好はとくに変わったところはない。普通のシャツにズボン、足元はスニーカーだ。それなのに人ひとりを抱えて森の中を飛ぶように走れるなど、普通では考えられないことだった。

 艶のある黒髪、その左こめかみのあたりに一筋だけ白が混ざっている。振り向けばきっと、その目は金色に光っているのだろう。

「……クロ?」

 チセは立ち上がり、呼びかけた。少年の肩がびくんと揺れるが、振り向かない。

 でも、その反応が否定ではないことは分かった。この少年が、かつてチセと姉弟同然に育った猫なのだ。

「クロでしょう? 隠しても分かるわ。お願い、こっちを向いて。お礼を言いたいの。助けてくれたのでしょう?」

「…………」

 逡巡する気配はあったが、それでも少年は背を向けたままだ。

 チセは手を伸ばし、少年の髪に触れた。少年が大きく震えるのにも構わず、そのまま手を滑らせて黒髪を撫でる。ゆっくりと大きく、次は手の甲も使って撫でつけるように。

 ゆっくりと撫で続けていると、次第にチセの心が落ち着いてきた。少年の体からも強ばりが解けていく。

 クロはこうして撫でられるのが好きだった。変わらない、とおかしくなり、チセは含み笑いをした。

 くぐもった笑い声が聞こえたらしく、少年がむっとしたような顔で振り返る。チセと目が合い、はっとしたように逸らそうとするが、チセはそうさせまいと視線をしっかりと絡ませ、金色の瞳をじっと見つめた。

 しばしの時が過ぎ、観念したように少年が息をつく。

「……そうだよ、俺がクロだ。あんた、俺を忘れていなかったんだな」


「忘れるわけなんて! ずっと探してたのに!」

 訴えると、少年――クロは疑うような表情をした。しかしチセがまっすぐに視線を向け続けていると、疑念は戸惑いを経て理解へと変わっていったようだった。

「そうか……そうなのか」

 その声には安堵と喜びが確かに滲んでいて、どこか刺々しかった態度が和らいだ。金色の瞳が穏やかにチセを見つめ、チセは少したじろいだ。

「ずっと、俺はあんたに捨てられたと思っていたよ。でも、そうじゃなかったんだな」

 え、とチセは瞬いた。あまりに意外なことを言われ、理解が一拍遅れる。

「捨てるわけないじゃない! クロが迷子になったんじゃ……なかったの……?」

「俺は捨てられたんだよ。あんたの親に。多分、あんたには知らせずに」

「………………そんな」

 チセは絶句し、ややあって掠れる声を出した。

 だが、そう言われてみれば思い当たる節はあった。

 クロは迷い猫で、チセが連れ帰ってきたのがそもそもの始まりだった。飼うことを懇願して両親はしぶしぶ折れたものの、チセほど熱心にクロを可愛がることはしていなかった。

 そして、チセにはクロのことで両親から怒られた記憶がある。クロは賢くてチセに懐いていたから、犬のように一緒に散歩することもできたのだが、つい時を忘れて遊んで帰りが遅れると心配されたり怒られたりしたのだ。

「……たしかに、クロと遊んで帰りが遅くなって怒られたりしたけれど……だからといって、捨てるなんて……」

 なおも信じられずにいるチセとは逆に、納得したというような表情でクロは言った。

「俺は分かる気がするけどな。あんたの親の気持ちが」

「……どういうこと?」

「あんた、考えなしで危なっかしいところがあるだろ。俺を追いかけて迂闊に夜に踏み込んだのがいい証拠だ」

 チセは言葉に詰まった。誰のせいで、と喉元まで出かかるが、自分の行動には自分で責任を持つべきだ。自分のせいだと認めざるを得なかった。

 行き場をなくしたチセの手をクロはやんわりと押し返し、むしろ同情的な調子で言った。

「そこで俺のせいにしないところが優等生だよな。誰のせいだと詰るのが自然だろうに」

「そんなこと……」

「あんたにはできないよな。分かってる。でも……ここは怒るべきところだろう? 俺はわざと、あんたを夜の中に誘い込んだんだから」

 チセは小さく息を呑んだ。薄々気付いてはいたが、はっきりと言葉にされると胸に刺さる。

(でも、どうしてだろう……)

 あまり、悪意や害意を感じないのだ。もちろん、それがチセの錯覚や願望である可能性は大いにあるが。

「でもクロ、私を助けてくれたでしょう? 迂闊に夜の中に入ってしまった私を、放っておけばよかったのに」

「それは…………」

 クロは言葉を探しあぐね、二人の間に沈黙が落ちるが、それが却って夜の音を際立たせるようだった。

 東屋を取り巻く闇は深く、人工の明かりがいかに貧弱で頼りないものかを思い知らせる。明りの届く範囲は心細いほど狭く、その向こうには無窮の闇が広がっているのだ。

 木々はざわめき、闇は蠢く。枝は風に揺れるばかりの存在ではなく、自ら意思を持って手を伸ばす。昼間は愛らしい囀りを響かせていた小鳥が奇怪な鳴き声を上げ、小動物は駆け回るだけでなく立ち上がったり伸び縮みしたり、虫は飛び回るかと見れば地に落ちて闇に溶け、無秩序で歪な光景が繰り広げられている。――夜の中で。魔物の時間の中で。

 そんな中、一匹の蛾が東屋の灯りに惹かれて飛んできた。端が少し黒ずんで古びた蛍光灯の周りを飛び回り、少し羽を休めるように器具の端に留まる。かと思うと、次々と蛾が飛び込んできた。まるで最初の一体が呼び水になったかのように。

 クロがはっとした顔をして、鋭く声を上げた。

「ここを出るぞ!」

 言うが早いか、チセを再び抱え上げて東屋から走り出る。

 いつしか東屋の中にも、夜が忍び込んできていた。昼間の習性を保ったまま飛んできた蛾も夜の魔物である点で変わりはない。光に引き寄せられるという性質のせいで東屋の中に入ることができたのだが――ひとたび入り込んでしまえば、そこにはもう夜が持ち込まれてしまうのだ。

 人造の建物の中や、人工の光が届く範囲は、いちおうは人間の領域だ。だが、こうした壁のない東屋は外との区別が曖昧で、たやすく夜に染まってしまう。ましてここは森の中。街中とは段違いに闇が濃く深い。

 蛍光灯に群がった蛾が灯りを弱め、落ちた影がどろりと溶けたように面積を広げる。その中で得体の知れない何かが笑うのを見たような気がして、ふと振り返ったチセの背筋に寒気が走った。

 もう東屋の中が安全な場所ではないのは瞭然だった。でも、

「どこに行けばいいの……?」

 クロの首にしがみつくように腕を回し、チセは途方に暮れて呟いた。

 あたりを見回しても闇がとめどもなく広がっているばかりで、昼間の静謐な森の雰囲気は欠片も残っていない。人に対する害意や悪意というよりも、人とは根本的に相容れないものが満ち満ちているようで、単純な怖れ以上のものを本能的に感じ、チセは身を震わせた。

 闇のなかから手を伸ばすものを躱すようにクロは道を走り続けるが、当てはないようだった。彼の息遣いや体の強張りから察するに余裕もあまりなさそうで、このままクロにばかり頼っていてはいけないとチセは頭を働かせた。

(東屋があるのはハイキングコースの分かれ道で、たぶん、そこから西回りに山頂へ向かう道に入ったはずで……)

 山の地理を必死に思い出す。東屋からどのくらい離れたか、どの道を辿ったか、そもそも何もかもが曖昧だが、それでもチセは懸命に推測してクロを見上げた。

「……川沿いに、小さい管理小屋があったはず! そこなら東屋よりも安全だわ!」

 クロの返事はなかったが、少し速度を落として川の方向を確かめたようだった。チセは知りうる限りの情報を伝え、クロはそれを聞いて道を選ぶ。やがてチセの耳に水音が聞こえてきて、暗がりの中に建物の輪郭が現れた。

「やった! あった!」

 チセは安堵の声を上げた。クロがチセを抱えたまま、小屋のドアノブをひねる。しかしドアノブは回らない。

「鍵がかかっているの!?」

 どうしよう、とチセは焦った。立ち止まる二人を包囲するように闇が迫り、その中に引きずり込もうとする何かが伸びてくる。

(窓を割るしかない……!?)

 魔物から逃れるためには、とにかく小屋の中へ入らなければならない。乱暴な手段だが緊急時だから仕方ないと割り切り、チセは窓硝子を壊すものを探してあたりを見回した。

 と、クロがチセを地面に下ろした。

「クロ、窓を割ろうと思うの!」

 チセは振り向いてクロに言ったが、クロは首を振った。

「普通にドアを開けて入ればいい」

「え、でも開かなかったでしょう!? 鍵がかかっているなら壊さないと無理なんじゃ……」

「いいから、開けてみろ」

 クロがなおも言うので、チセは疑問を棚上げして焦りのままにドアノブを回す。と、

「開いた……!?」

 ぎい、と軋んだ音を立ててドアが開いた。さっきクロが開けようとした時は開かなかったのに何故、と思いながらつんのめるように中に入り、あるだろうと思われた灯りのスイッチを手探りで壁に探り当てる。

 スイッチを押すと、数度瞬いてから蛍光灯が点き、ぱっと小屋の中が照らし出された。ほとんど何も見えない闇に慣らされた目に白々とした光は強烈すぎて、とっさに目を細める。眩しかったのはチセだけではないようで、濃い闇の気配が引き潮のように遠のいた。

 安堵で倒れ込みそうになりながら、チセはクロを振り返った。

「よかった……って、クロ!?」


「…………とりあえず、ドアを閉めろよ」

 不機嫌そうに、クロが――黒猫の姿をしたクロが――言う。

 驚きながらもきっちりとドアを閉めるチセを横目に、クロはすたすたと小屋の中を歩き、備え付けられていた椅子の上に身軽に飛び乗った。釣られるようにチセも近くの椅子に腰かける。切り株そのままの椅子には薄く埃が積もっているようだったが、そんなことはどうでもいい。

「ええと……クロ、なのよね?」

 お前はなにを言っているんだ、とでも言いたげな目で黒猫がチセを見上げる。足を揃えて座り、長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。

「この姿が本来の俺だろう。むしろ、なんで今さら驚いているんだ」

 言われてみれば確かに、黒猫だったはずのクロが人間になっていたときに驚くべきだった。

「そういえばそうかも。でも、夜の中ではそのくらいの不思議はありうると思ったし……どちらにしても、クロはクロだもの。人間になったり猫になったりすること自体に驚いたんじゃなくて……どうしていきなり? って思ったの」

 チセの答えに、クロはふにゃりと尻尾を垂らした。

「……そこかよ。もっとこう、他にあるだろ……」

 溜め息を漏らし、頭を抱えるように手をやる。その仕草が猫ながら人間じみていて、やっぱり人間でも猫でも変わらないとチセは心の中で思った。

「…………ここは人間の領域だから、俺は猫なんだ。意味は分かるか?」

 禅問答のようなことを言われ、チセは頭を捻った。

「人間の領域だというのは分かるけれど……」

 時間帯で言えば、今は夜――魔物の時間だ。

 だが、その中にあっても、外界ときっちり隔てられた人造の建物の中は安全な空間――人間の領域だ。人工の光に満ちていればなお良い。光の届く範囲、たとえば人家の庭などであれば、夜であっても少し歩くくらいなら問題ない。境界的だが、人間の領域でもあるからだ。

 その点、東屋ではいささか問題があった。建物ではあったが壁がなく、灯りも心許なく、人間の生活空間として作られていない。そういった場所では、夜の闇を遮断するまでには至らない。

「そういえば、東屋では人間の姿だったよね。ここは完全に人間の領域だから、昼と同じで、クロは黒猫の姿……ってことで、合っている?」

 昼間、クロがチセの前に現れたときと同じだと考えればいいのだろうか。猫だったはずのクロは、どういうわけか、夜の中でだけ人間になるらしい。

「合ってる。その通りなんだが……あっさり受け容れすぎじゃないか……?」

 クロは肯定したが、後半はぼやくような調子で尻すぼみに声が小さくなる。チセは首を傾げた。

 そのまま、なんとなく窓の外を見る。窓硝子が曇っており、蠢く木々の枝が視界を狭めてはいるものの、遠く低く瞬く無数の灯りがある。星々ではなく、街の灯りだ。この小屋の横には切れ込むように川が流れているが、小屋自体は少し高い場所に張り出すように作られており、遠景に街を眺めることができた。

 夜は魔物に支配される時間だが、人々はなにも息を潜めるように過ごしているわけではない。外に出ることこそ出来ないものの、建物の中では活発に活動を続けている。官庁や地方公共団体の庁舎などは大規模な建物が連結されているし、大きな街では地下街が発達していたりする。

 喩えるなら、蟻の巣のようなものだ。夜という広大な大地を穿つようにして、人々は活動空間を確保している。夜の中で人間は弱者だが、弱者なりにたくましく生きているのだ。

 夜は脅威だが、人間の技術は日々進歩している。その気になれば安全な空間だけで生活を完結させることができるが、かといって人々は外に出ることをやめられない。自然を相手にする第一次産業に従事する者でなくても、昼は外に出て太陽の光を浴びたいし、青空の下で新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みたいのだ。たとえそれが、夜には危険に満ちた暗黒の海に変貌するような空間であっても。

「猫は、人間よりは夜に親しいけれど……」

 チセは呟く。

 昼の世界に住むのは人間ばかりではない。愛玩動物や家畜もそうだ。人の手で管理されている命は、夜の世界に取り込まれればただでは済まない。異形と化したり、変死したり、行方不明になったり……人間よりも危険が低いとは言われているものの、可愛がっている犬や猫が夜に消えてしまえば、心配で気が狂いそうになるのが飼い主というものだ。

 動物よりもさらに危険は低いとされるが、植物も人間の管理下にあるものは夜の脅威に晒されると弱い。作物が駄目になったりすることも珍しくはなく、地域や時代によっては栽培よりも狩猟や採集の方が――野生のものを必要なときに求める方が――効率のいいことさえあった。

 そこまで考えて、チセははっとした。

「クロ……あなたは……大丈夫、なの……?」

 クロは飼い猫だった。そして、夜に消えてしまった。こうしてチセの目の前に元気そうな姿を見せてくれたのは本当に嬉しいし心から安堵したのだが、クロは本当に「無事」だと、「大丈夫」だと……言えるのだろうか?

「猫になったり人間になったりするくらいのことだったらいいのだけど。どこか痛かったりおかしかったりするところはない?」

 心配するチセを、クロは感情の読めない黄金の瞳で見つめた。体をしならせて床にすとんと降り立ち、窓枠に飛び乗る。チセと目線の高さが同じになり、距離が開いた。そして、平坦な声で言う。

「猫になったり人間になったりするくらいのことだったらいい……と言ったな? じゃああんたは、猫になれるか? 夜から生還するのにそれしか方法がないとして、猫として昼の世界に帰りたいと思えるか?」

「……っ……それは……」

 チセは言葉に詰まった。クロが猫であっても人間であってもいいというのは紛れもない本心だが、いざ自分のこととして考えてみると――

(…………それは、嫌)

 ――そう、認めざるを得なかった。

 自分という生き物の形を根本的に揺るがす変化。猫になったチセは、果たしてチセと言えるのだろうか?

 猫が嫌いというわけではない。それどころか大好きだし、猫になってのんびり日向ぼっこしたいなどと考えることもあった。だがそれは、しょせん空想の遊びに過ぎなかったのだ。

 人間でいるのが嫌になることもある、猫になりたいと思うこともある、だが、その、「思う」ことは……人間である前提によって成り立つものだった。

 無意識に、チセは首を振った。精神の奥底が掻き毟られるような忌避感。自分という存在を揺るがされることへの本能的な怖れ。

 夜の闇が、頭の中に染みわたっていく感覚がする。考えてはならないことに、触れてはいけないことに、手を伸ばしてしまったのだと意識が警鐘を鳴らす。

 ぐらりと体が傾ぐ。椅子に座っている感覚がなくなり、足を畳むようにして床に崩れ落ちる。クロの慌てたような声を聞きながら、チセは意識を手放した。


(……私は、誰……? 猫、そう、猫に導かれるようにして……それを見ている私は、違う、猫じゃなくて……)

「ちょっと君! 大丈夫か!?」

 慌てた声とともに体を軽く揺すられて、チセはぼんやりと目を開けた。ああよかった、と安堵する声が聞こえる。

 体が強張って痛いが、命の危険を感じるような痛みではない。硬くて冷たい床に寝ていたせいだと気付き、チセははっと目を見開いて体を起こした。

「クロ!?」

 あたりを見回すと、木の床に片膝をつき、チセを心配そうに覗き込んでいる壮年の男性と目が合った。

「クロというのは、君の飼い猫のことかな? 賢い猫だね。にゃあにゃあ鳴いて、見回りをしていた私をここに連れてきたんだよ。ほら、そこに……あれ?」

 男性が指さす方を見るが、クロの姿はない。首をひねる男性とは逆に、そうだろうな、とチセはなんとなく納得していた。

 まだ朝の早い時間だろうが、日が昇って小屋の中にまで夏の光が入り込んでいる。すでに人間の時間が始まった以上、猫になったクロは再び姿を消してしまうだろうという確信がチセにはあった。

「飼い猫……では、ありません」

「そうなの? だったら野良猫なのかな。責任を持って飼えないなら餌をやっちゃ駄目だよ」

「はい……」

 何か違う理解をされているが、説明のしようがない。チセは頷いておく。

 男性はほっとした表情で言った。

「床に倒れているからどうしようかと思ったけど、元気そうだね。眠かっただけなのかな? 部屋の隅に敷物が立てかけてあるから広げて使ってくれてよかったのだけど、気付かなかったかな」

「あ、はい……気付きませんでした」

 気付く気付かない以前に、使う余裕など無かったのだが、これもまた説明できないことだ。大人しく話を合わせつつ再び頷いておく。

「遊んでいるうちに夜になりそうだから小屋に避難してきたんだよね? 携帯は持っている? 親御さんは君の無事をご存知なのかな?」

「いえ、携帯はいま持っていなくて……」

 携帯だけでなく一切合切を鞄ごと空き地に放り出したままだ。今になって空腹や、それ以上に切迫した喉の渇きを思い出したが、飲み物も財布も鞄の中だ。情けない顔をするチセに、男性は気遣って自分の鞄からペットボトルを取り出した。

「いちおう水道の水は飲めるけど、あんまり使われていない小屋だからね。これを飲むといいよ」

 ありがとうございます、とお礼を言って受け取り、麦茶に口をつける。遠慮なんてしている余裕はなく、貪るように飲んでしまった。暑い中を走り続けたうえに冷や汗をかくような場面の連続で、挙句の果てに昏倒して床で眠り込んでしまったのだ。体中が水分を求めていた。

 半分ほどを一気に流し込んで人心地がつくと、その様子をにこにこと眺めている男性と目が合った。

「親御さんも君のことをさぞかし心配しておられるだろう。私から電話してあげようね。ああ私は市の公園管理課の者で、ノジという」

 そう言って作業着の胸ポケットから携帯を取り出した男性に、チセは慌てて言った。

「あの、無事なことは私から伝えたいです。お電話だけ貸していただければ……」

 下手にクロのことを伝えられてはたまらない。「分かった」と頷いたノジから携帯を受け取り、家に電話して両親に無事を伝える。そのまま説教が続きそうになったが市の職員の携帯を借りていることを申し添えると、お礼を言いたいから電話を替わるように言われ、チセはひやひやしながら大人たちのやりとりを聞いていた。

 幸いなことにクロの話題は出ず、ノジは電話を終えた。チセは再度お礼を言い、今さらながら謝った。

「あの、勝手に小屋に入ってすみませんでした」

「いや、緊急時に使ってもらっていいんだよ。鍵を掛けないでいるのはそのためもあるからね。私たちも使いたいときに鍵を忘れて入れないと大変だし、鍵は倉庫にしか掛けていないよ。それで充分だからね」

 え、とチセは瞬く。

「鍵、掛かっていなかったんですか……?」

「掛かっていたとしたら、君はどうやって入ったの? ああ、ガタついていたから掛かっていると思ったのかな」

 焦っていただろうし、そう思うのも分かる、と頷くノジとは反対に、チセは納得できずにいた。

(それならどうして、クロがドアノブを回したときは開かなかったの……?)

 鍵が掛かっていなかったのなら、チセがドアを開けられたのは当然だ。では、どうしてクロは開けられなかったのだろうという疑問が湧く。

 チセを抱え上げて走り、夜の魔物たちと渡り合えるほどの力がある彼が、チセでも開けられたドアを開けられなかったのはどういうわけだろう。おかしな話だ。

 考え込むチセの横で、ノジが困ったように苦笑した。

「しかし、よくここまで辿り着けたものだね。けっこう山の中の方まで来ちゃったみたいだけど、本当に気を付けなきゃ駄目だよ。夜が来る前に逃げ込めてよかったね」

「あ、あはは……」

 まさか夜の中を逃げてきたなどと言えるはずもない。チセは笑ってごまかした。

「元気なのはいいことだけど、夏だからって遅くなりすぎたら駄目だよ。山に泊まるならきちんとコテージを予約して、大人の人と一緒に来なさい。無事だったから良かったけれど、夜は本当に危険だからね」

「はい、分かりました」

 チセは神妙に頷いた。その様子に満足したようで、ノジは頷くと立ち上がった。

「さて、それでは君を送っていこうかな。まだ夏休みじゃないから学校があるよね?」

「はい。あの、一人で大丈夫です。色々とありがとうございました」

 チセも立ち上がり、怪我などがないことを示してみせる。それなら、とノジは頷いた。

「じゃあ、私は軽く小屋の掃除でもしてから行こうかな。何度もしつこいようだけど、遊ぶときはくれぐれも早く帰るようにね」

「分かりました。本当にありがとうございました」

 丁寧にお礼を言って頭を下げ、チセは外へ出た。

 何の変哲もない――どころか、美しい夏の朝だ。朝の光がやわらかく木々の緑を照らし、下草に降りた露がきらめく。川のせせらぎの音に鳥のさえずりが重なり、湿りを帯びた空気が辺りを潤す。

 美しく、穏やかで、平穏そのもの。命を脅かすものなど何もないような――人間の時間。

「クロ……いないの?」

 小さく呼び、あたりを見回す。黒い影はどこにも見えず、その代わり、夜の闇もまったく残っていない。

(いないだろうな……でも)

 クロは生きていたのだ。きっと、また会える――


「――と、思ったんだけどな……」

「え、何か言った?」

「ううん、何でもない」

 チセのぼやきを聞きつけて、友人のカナが振り返る。チセは首を振って否定した。あれから一週間、あれきりクロと会えていない。だがそんなことを友人に明かすわけにはいかなかった。

「そう? ならいいけど」

 チセとカナは調べ学習で同じ班だ。四月と五月は地域について調べて発表したのだが、それを導入として、六月からは夜について調べるようにとテーマが指定されている。

 大きなテーマではある。高等教育機関で専門の学生や研究者たちが取り組む難題中の難題ではあるが、この世界に生きる以上、誰しもが避けては通れない問題だ。初等学校の生徒が扱いきれるテーマではないが、表面的なところだけでも学んでおかなければならないことではあった。

「他の班のテーマって何だっけ? 決まってるとこあった?」

 カナが聞く。チセは思い出して答えた。

「たしか、六班は歴史だっけ。夜がいつから禁忌になったか、とか。あと、文学がテーマの班もあったよね。夜の魔物がどんなふうに文学の中で描かれているか、とか……」

「うーん、どこも本格的。気合入ってるねー。まあ、調べ学習の総まとめ的な位置付けだもんね。うちらもそろそろテーマ決めなきゃ。せっかくこうやって図書館に集まってるんだし」

 六月から来年の三月にかけての長期にわたる調べ学習で、カナが言うように初等学校の六年の総まとめ的な位置付けだ。確かにそろそろテーマを決めなければならない。

 チセたちは三班だ。放課後に集まるのも二回目で、初回は各自がそれぞれ資料を探してテーマを考える回だったのだが、結局決まらずに終わってしまった。

「夜について、かあ……そもそものテーマが広いから、難しいよね……」

 チセは唸った。自由度が高いだけに、かえって難しい。

「なあ、それなら『夜に歩いてみた』ってのはどうだ?」

 少年の声に、チセはぎくっとして振り向いた。

 そう言ったのは同じ班のトオルだ。いかにも腕白そうな外見で、日に焼けた肌をしている。

「あんたバカ! それをやった動画投稿者が亡くなったって、ニュースになったばっかでしょ!」

 カナは声を高くした。チセは慌てて辺りを見回したが、図書館の利用者から咎める声はない。児童向けに用意されたコーナーにいるとはいえ、一般書の並ぶ空間とは隔てられていない。それでも、

「カナ、ちょっと声を小さく」

「トオル、バカなことを言うな」

 チセの声と、少年の声が重なった。

 トオルを窘めたのは、同じ班のマナトだ。眼鏡をかけ、トオルとは反対に色白で落ち着いた雰囲気の少年だ。三班はチセのほか、カナとトオルとマナトで構成されている。

「えー……面白そうじゃんか」

 トオルが口を尖らせるが、マナトは抑えた声で否定した。

「面白い面白くないの問題じゃない。言ってなかったか? 僕の親戚にもいるんだ。――夜に呑まれた人が」

 しん、と辺りが静まり返った。抑えてはいたが、マナトの声ははっきりと通った。

「…………その人は……?」

 おそるおそる、カナが問う。

「見つからなかったよ。もう、何年も前の話だ」

 マナトが首を振る。何を言うべきか分からず、チセたちは沈黙した。

 夜に呑まれ、何年も見つかっていない……それの意味するところは明らかだ。その人が無事でいる確率は、万に一つもない。

「……だから、バカなことは止めておけ」

 マナトが言葉を結んだ。静かな説得力に、トオルも不承不承といったふうに頷いた。

 しばらく沈黙が続き、

「じゃあ……『夜に呑まれた人を助ける方法』っていうのはどう?」

 カナが小さな声で、おそるおそるといったふうに提案した。

「いいよ。気を遣わなくて」

 マナトが首を振るが、

「……私もカナに賛成」

「えっ!?」

 声を上げたチセに、マナトが驚く。

「私も知りたいから、調べるならそのテーマがいい」

「チセ……君の親戚とか、知り合いとかにもいるのか? 夜に呑まれた人が……」

「人というか……猫なんだけど。可愛がっていた猫がいて……いなくなっちゃったの」

 ああ、と思い出したような声をカナが上げる。

「そういえばチセ、猫をずっと探してたよね。うちも撫でさせてもらった覚えがあるような……黒猫だっけ?」

「そうなの」

 チセとカナは幼馴染だ。おたがい昔のことを知っている。

「それなら、そのテーマにしようぜ。つまんねーけど」

 頭の後ろで手を組んで首を反らせながら、つまらなさそうにトオルが言う。マナトは少し困ったような顔で釘を刺した。

「テーマにするのはまあいいけど……試そうなんて思うなよ?」

「分かったよ。まあ、俺らが方法を見つけられるとは思わないけどな。だって世界中の偉い人とか凄い人とかが探し続けてもダメなんだろ?」

「そうだな。見つかったら大ニュースだ」

 トオルとマナトが言う通り、夜に呑まれた者を探して助け出す方法は見つかっていない。

 それでも、夜に呑まれる前――人間の手の届く範囲で魔物に襲われている最中など――ならば、まだ助けられる可能性はある。魔物は光に怯むため、光を照射して魔物を退けつつ人間の動ける範囲を拡大し、救助対象を取り戻すのだ。

「……そもそも、夜って何なんだろうな」

 トオルがぽつりと言う。

「決まってるじゃない。日が沈んでから昇るまでの時間のことよ」

「そうだけどさ。そうじゃなくって……」

 カナの返しに、トオルがじれったそうに言葉を探す。マナトが助け舟を出した。

「夜を定義するのは難しいと聞いたことがあるな。カナの言うことはその通りなんだが。それだけじゃなくて……人間には理解できないものが夜なのだ、とか……」

「なんだそれ。わっかんね」

「だから、そういう……理解の外側にあるもの。死とか、難病とか、人には分からない理屈で変化するものとか。人は知ることによって昼の世界を決めて、夜の世界と分けてきたのだとか」

「余計わかんねーよ」

「僕だって、分かってるわけじゃないよ」

 トオルが呆れたふうに言い、マナトが困ったように応じる。チセも頭がこんがらかりそうだったが、なんとか考えて口に出した。

「大昔は昼も夜もひとつづきで、神様がいたり、動物が人になったり、植物が話したりしたけれど……今は違う。そういう不思議は全部、夜の世界に押しやってきたから。不思議なことを理解できないこととして、夜の世界に分けてきたから……そういうことじゃないかな」

(動物が人になったり……)

 本で読んだことを思い出しながら言った自分の言葉に、チセははっとした。

 それはまさしく、クロの存在だ。猫だったはずのクロは、夜の中で人になった。言葉を話し出したりもした。

(じゃああんたは、猫になれるか……クロは私に聞いた。人間には出来ないだろうと……夜とはそういうものなのだと……)

 考え続けていると自分の根本が揺るがされるようで、チセはくらりと眩暈を覚えた。

「やだ、大丈夫!?」

「……ごめん、ちょっと休んでいい? 貧血かも……」

「もちろんいいよ! 休憩にしよう」

 椅子の上でふらついたチセに、カナが心配そうに声をかける。なんとか言葉を返したチセに休憩を提案し、トオルとマナトも頷いた。

「いったん出るか。自販機あったよな?」

「そうだね。何か飲んだ方がいいかもしれない」

「ごめんね、ありがとう……」

 眩暈がするが、歩けないほどではない。チセは足元を確かめるようにそろそろと歩き、気遣われながら図書館のラウンジに出た。

 自販機でスポーツドリンクを選び、ソファに座って少しずつ飲む。糖分のおかげか休んだおかげか、眩暈はすぐに治まった。

 だが、急ぐこともないのでしばらく休憩を取ることに決まり、トオルとカナは同じく図書館に来ていた級友たちのところに行って何やら喋っている。マナトは自販機でコーヒーを選んで飲んでいたが、チセの具合がよくなったと見てとり、案じるように話しかけた。

「……あまり、夜のことを考えすぎない方がいい。無神経な言い方かもしれないが……」

「……ううん。ありがとう。言いたいことは分かると思う」

「夜は決して、時間と空間だけのものじゃない。人間の心の中にもあるものだから……」

 マナトの言う通り、心を壊すことも「夜に呑まれる」と言い表される。そして実際、夜から帰還できたはいいものの、心を壊してしまった人も多いのだ。

「……でも、考えずにはいられないじゃない? 私たちみたいな状況にない人でも」

「違いない。本当に、夜って何なんだろうな」

 マナトは苦笑した。自分で言っておきながら、とチセも笑ってしまう。

 ああそうだ、とマナトは思い出したように付け加えた。

「こうも聞いたことがあるな。夜を定義することはすなわち――」


 その日の夜。チセが自室でのんびりと過ごしていると、ノックの音が聞こえた。

「チセ、ちょっといい?」

「お母さん? どうしたの?」

 チセの母親がドアを開け、携帯を片手に部屋に入ってくる。軽く見回すようにしたあと、「まさかね……」と呟く。

「トオルくんって子が家に帰ってきていないらしいの。同じ班の子なのでしょう? ないとは思ったけど、やっぱりうちには来てないわよね」

「え!? 帰ってないの!? 夕方までは図書館にいたはずだけど」

 図書館で解散して、そのあとに寄り道でもしたのだろうか。夏だから日が沈むまでに猶予はかなりあったはずで、公園で遊ぶなり店で買い物するなりできたとは思うが、まったく見当がつかない。

「そう、図書館で一緒だったの。誰かの家で遊んで時間を忘れている、とかだったらいいのだけど……」

 母親は部屋を出ていきながら携帯を操作し、中断していたらしき会話を再開する。「ええ、うちには来ていないようです。図書館までは一緒だったらしいのですが……」

 ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかっていくのを聞きながら、チセは自分の心臓がどくどくと速い音を立てているのを意識した。

(家に帰っていない……!? まさか、まさかね……)

 そのとき、チセの携帯が着信音を立てた。びくっとして心臓が飛び跳ねたが、相手はカナだった。親しい相手だという安堵が半分、トオルではなかったという落胆が半分でチセは携帯を手に取り、応答のボタンを押した。

「カナ? チセだけど」

「あ、チセ、聞いた!? トオルが帰って来てないって……」

「たった今、お母さんから聞いたところ。カナも一緒だったのは図書館までだよね?」

「そうなんだけど……チセ、どうしよう。トオルは誰かの家にいるんじゃなくて、夜の中に行っちゃったかもしれない」

 切羽詰まった声でカナが言う。チセの頭が真っ白になった。

「…………どういうこと?」

「図書館のラウンジで休憩中だったとき、他の班の子と話してたの。テーマが決まったこととか、どんなふうに調べ進めているのかとか。そうしたら資料館に行ってきたっていう班があってね……」

 実際に行くことの意味は大きいという話になり、それなら資料館なんかよりも実際に夜に踏み込んでみた方がいい、いやそんなことが出来るものか、なんでだよ怒られるのが怖いのか……と売り言葉に買い言葉で熱くなり、それなら俺が行ってやる、とトオルは宣言したらしい。

「本気にしてなかったんだけど……図書館に電話してもいないって言うし。家にも帰っていないっていうから、もしかして……」

 じわじわと、チセにもカナの不安が伝染してきた。

「チセ、どうしよう。うちが本気にしなかったから? 止めなきゃいけなかったのに……!」

 カナの声はほとんど泣き声になっていた。チセもカナと同じくらい動転していたが、なんとか言葉を返す。

「トオルが夜の中にいるってまだ決まったわけじゃないから。夜になっちゃって帰れずにどこかの建物にいるかもしれないんだし」

「でも、携帯にかけても出ないんだよ!?」

「あー……それは……携帯が近くにないだけかもしれないし……」

 チセは目を泳がせた。クロを追うときに鞄を手放したときのことを思い出す。

「とにかく、落ち着こう?」

「うん……そうだよね。ごめん」

「謝ることなんてないよ。心配だよね」

 そう言ってはみたものの、彼が夜の中に行ってしまったかもしれないという考えは打ち消せなかった。彼の気質から考えても、テーマ決めのときの不満そうな様子から考えても。

 カナを宥めつつ話をし、通話を終えてチセは息をついた。

(バカなこと……だよね……)

 夜の中に行ってみたいと思ってしまうのは。

 好奇心、冒険心、見栄、裏返しの恐怖、その他もろもろ。人が夜へと誘われてしまう理由は数えきれない。

 それでも。恐ろしいものだとは知りつつ、それでも人は夜に魅了されてしまう。

 ――たとえその果てに待つものが、己の死であっても。

(トオル……無事でいて。友達の家で遊んでいて時間を忘れているだけだと、そう言って……)

 チセは強く願った。

 窓の外はとっくに夜の帳が下りている。庭の木々は人間の管理下にあるからだろう、森の木々のように魔物と化して襲い掛かってくるようなことは少ない。とはいえ絶対の保証があるわけでもなく、屋外にはどんな危険があるか分からない。夜になったら建物に籠る、これが人間の鉄則だ。

 だから外に出てはならないのに。

 こつん、とチセの部屋の窓を叩く音がする。規則的に、誰かが意思を持って。

 部屋が明るいせいで外の様子が分からない。チセは部屋の電気を消し、そっと窓辺に近寄った。そこにひょこひょこと動いているものが猫の耳だと見て取り、そっと窓を開ける。

「やっぱり、クロ……」

 囁くように、チセは声をかけた。窓枠に立ち、黄金の瞳をした猫がこちらを見ている。猫の左耳近くの毛並みには白が一房交じっている。

 予感していたのだ。きっとまた、クロに会えると。

「あんたも懲りないな。そんなに俺のことが忘れられないか?」

「ええ。ずっと会いたかったし、せっかく帰ってきてくれたんだもの。またいなくなったら寂しい」

 揶揄うようなクロの言葉に、チセは素直に頷いた。

「帰ってきてくれた、ねえ……」

 くっと、喉を鳴らすようにしてクロは笑った。明るい笑いではなく、自虐に近い鬱屈を含んだ笑いだった。

「無事に、とは言わないのな?」

「………………」

 クロの黄金の瞳を見つめたまま、チセは黙り込んだ。

 言葉にはしないが、チセにだって分かっている。クロが……とても無事な状態ではない、ということは。

 彼はチセを、夜の中に連れて行こうとした。夕暮れに現れ、朝日が昇るとどこへともなく姿を消した。魔物から庇ってくれたが、その際は魔物と同等以上に渡り合っていた。

 その意味を――分からないふりなど、できない。

 黄金の瞳が、妖しく揺らめく。人々を惑わす艶麗な満月のように、チセの心の中を掻き乱そうとする。チセは魅入られたように息を詰めた。

「俺に関わることが――俺と共にいることが――何を意味するか、分かっているよな?」

 目の前に、猫の形をした夜がいる。人を呑み込もうと、ぽっかりと口を開けた闇が見える。底知れない闇のなか、黄金の月がふたつ、チセを誘うように細められた。

「……分かってる。……ううん、ちゃんとは分かってないと思う。でも……後悔だけはしない」

 それがチセの本音だ。クロと――夜と――関わっていくことが危険だということは分かっている。夜の恐ろしさの本当のところは分かっていないだろうことも分かっている。

 それでも彼を――失いたくないのだ。可愛がっていた子猫を夜に見捨てて、自分だけ安穏と昼の世界で幸せに暮らすことなんて出来ない。

 チセのまっすぐな眼差しに、ふいとクロは視線を逸らした。そっけなく言う。

「なら、まじないだ。屈め」

「え、うん……?」

 とんとんと前足で窓枠を叩き、クロが促した。何だろうと少し身を屈めると、チセの額に柔らかいものが触れた。


「っ!?」

 とたん、後ろから突き飛ばされたような感覚に、チセの体がつんのめった。

 驚きのあまり、というわけではない。猫にキスされたくらいでそこまで動揺したりしない。そうではなくて、精神的なものではなくて、実際に突き飛ばされたような衝撃があったのだ。……チセの後ろには、何もいないのに。

 ひゅっと、背筋が寒くなる。振り向いたら部屋の暗がりに何者かが立っているのではないかと思いそうになってしまう。電気を消したとはいえ明確に人間の領域である自分の部屋なのに、今は妙によそよそしく感じる。

「何て顔をしてるんだ?」

「……クロ、何をしたの?」

 自分がどんな表情をしているかなんて知らない。揶揄われ、チセはむっとしてクロを睨んだ。

「何って、言わなきゃ分からないか? 額にキスしたんだ」

 チセの頬が赤くなった。明確に言葉にされると、いくら猫が相手でも意識してしまう。声は少年のそれだし、クロが人間の姿になれることも知っているのだ。

 だが、そういう問題ではない。

「絶対それだけじゃないでしょう!? だっておかしいもの、こんな……」

 言いながら、チセの体は押し出されるように前へ――外へ――進もうとする。窓枠の下部に膝を乗り上げた格好で、体はなおも前のめりに進もうとする。両手を突っ張るようにして窓枠の両側を掴んでそれをこらえながら、チセは涼しい顔をしているクロを睨んだ。尻尾をゆらゆらと動かしているクロは無害で呑気なただの猫のように見えるが、そんなわけはない。

「部屋にいづらいだろう? 人間の領域から出ようとしてしまうだろう? ――俺と同じように」

「……クロはもしかして、夕方や、小屋の中で……こんな感覚だったの?」

「……そうだ」

「キスされたことで、それを私が共有したの?」

「違う。感覚を共有させたのではなくて、もっと本質的に……あんたを夜に招いたんだ。俺の……仲間として」

 その時に走った感覚を、どう言い表せばいいだろう。怖気を震うような忌避感と、奇妙な高揚感と、本能が片隅で警鐘を鳴らしつつ酩酊するような酩酊感と……様々なものが綯い交ぜになった感覚。……昼の世界にあってはならないような、言葉にしがたい感覚だった。

「私を、夜に招いた……?」

 チセの体はとうとう窓枠を乗り越え、部屋履きのまま庭に下り立った。得体の知れない感覚に後ろから押され、前から招かれ、よろめくように庭を歩き出す。

「クロ……!」

 クロは当然、助けてくれない。涼しい顔のまま、恐怖と困惑と――認めたくはないが、高揚の――中にいるチセの横を悠々と歩いている。

 そのまま庭の低い壁を越えてしまえば、そこはもう夜の中だった。

(…………!)

 恐怖に身が竦む。しかし、クロが泰然としているから、悲鳴を上げたりパニックになってやみくもに走りだしたりせずに済んでいる。彼の意図も状況もさっぱり分からないが、少なくともすぐに致命的な状況に陥ることはないだろうと思える。

 クロがいるだけで、チセは少し安堵してしまう。――夜の存在に心を預けることの意味を知らないまま。

 壁の上を歩きながら、クロは言う。

「今、あんたは人間のチセではなくて、俺の仲間として夜の存在になっているんだ。だから人間の領域から弾き出された」

 意味が分からない。だが、状況は少し分かった。

「なんでそんなこと……」

「あんたは夜に用があるんだろう?」

 言われて、チセは心当たりにはっとした。

「トオルのこと!? クロ、あなたは何か知っているのあ!?」

「さあ。少なくとも、そのトオルとかいう奴のことは知らない。ただ、俺はあんたとの関わりがあるから、あんたのことが少し分かるだけだ」

「そう……」

 クロはそれ以上のことを言わなかった。尋ねたい気はしたが、トオルのことを知らないのは確かなようだったので棚上げしておく。

 それよりももっと切迫した問題があった。

「これ……大丈夫なの?」

 チセの足は動き続け、とうとう家の敷地からも離れようとしている。今までは横に自分の家の壁が続いていたから少しは安心できたが、これからはそれも無い。

「さあ? 夜の中を歩いている時点で大丈夫ではないと思うが。……戻るか?」

「……戻らない。トオルを探したい」

 彼が本当に夜の中にいるなら助けなければ。クロの気まぐれで夜に招かれている今は好機なのだ。今さら部屋に戻ったところで何もできずまんじりと夜を明かす未来が見えている以上、動けるなら動きたい。

 クロは頷いた。

「このまじないが効いているあいだ、あんたは魔物に襲われない。だが、時間制限つきだ。気を付けろよ」

 言われて周りを見回してみるが、なるほど周りに蠢く影たちはチセを脅かしてこない。おそろしげな声だけを残して通り過ぎていく鳥の影も、鞭のようにうねる街路樹の影も、チセを狙おうとはしてこない。

 それらを驚きながら見回して、チセはクロに問うた。

「こんな便利なことができるなら……どうして前に会ったときはしてくれなかったの?」

 このまじないがあれば、森の中を必死に逃げる必要はなかったはずだ。チセは自分の足で走っていたわけではないが、チセを守ってくれたクロにとっても楽な逃走ではなかったはず。

「段階があるからな。夜の者に誘われ、夜の脅威に触れて、それでも昼に戻ってこられたあんたは、少し段階を踏んだんだ」

「段階……」

 それは、どこへ続く段階なのだろう。もしかして今回も、このまじないによってチセは新たな段階を踏んだのだろうか。

 不吉な予感に、チセは無意識に額に手を触れた。

「どうした? 怖気づいたか」

「怖気なのかな……違うような……」

 挑発するようなクロの言葉に、チセは曖昧に言葉を返した。クロはつまらなさそうに尻尾を揺らし、音もなく壁をを蹴って宙で一回転した。その姿が猫から人へと空中で変化する。

「ほら」

 少年の姿になって道路に下り立ったクロは、ズボンのポケットから何かを取り出し、チセに放ってよこした。とっさに受け取って、チセは困惑した。

「なにこれ……筆箱?」

 いかにも男子が好みそうなキャラクターものの筆箱だ。シールが幾つも貼り付けてあり、鉛筆の削り滓のせいかジッパー部分などが黒ずんでいる。

「これをどうしろと……」

「探すんだろ? それの持ち主を」

「…………!」

 チセは慌てて記憶を探りつつ、筆箱を開いた。鉛筆に、消しゴムに、赤ペンに……そうだ、トオルは図書館で、確かにこれを使っていた!

「クロ! これをどこで見つけたの!?」

「さあな。夜は遍在し、夜では遍在する。昼間には定まっていた場所が不定になり、現れたと思ったものが消える。俺がこれを拾ったところに行ったところで、そこはもう元の場所ではない」

 謎かけのようなことを言われ、チセは焦りのままに言い募った。

「訳の分からないことを言わないで! これがあった場所に連れて行って!」

「だから、その場所はどこにもないんだ。あんたの言う場所とやらは、昼の世界での概念だから」

「…………っ!」

 噛み合わない。理解できない。チセは歯噛みし、やみくもに走り出した。

(まずは図書館! 図書館に行ってみて、手がかりを探す!)

 チセを追うように、クロも小走りになっている。それを横目で見やり、チセは正直に不満をぶつけた。

「会えて嬉しいし、おまじないはありがたいけど、クロのことが分からない。なんでトオルを探すのに協力してくれないの?」

「これを協力していると捉えるも協力していないと捉えるもあんた次第なんだが、そもそも、なんで協力しないといけないんだ?」

「なんでって……トオルが夜に呑まれちゃったら大変でしょう!?」

「夜に呑まれたら大変? それを俺に言うのか?」

 クロの口調は怒っているものではなかったが、チセははっとした。そうさせるような迫力があった。

「あんたは、俺を何だと思ってるんだ?」


 言うと、クロはチセの手首を掴んで引き留めた。そのまま人家の塀に押し付けるようにし、顔を近付ける。爛々とした黄金の瞳がチセを見据え、二つの満月に魅入られるように、チセは息をのんだ。

「飼い猫だった俺は昼の存在だった。人間の世界に住んでいた。だが、捨てられた……人間の世界から追い出されたんだ。その意味が分かるか?」

 チセは半ば無意識に首を横に振った。クロの言うことの意味も分からないし、クロのことも分からないし、何もかも分からない。否定するように首を振る。

「昼の存在は夜の中で変容する。それを『夜に呑まれた』と言うんだ。とっくに夜に呑まれた俺が、誰の心配をするって?」

 嘲笑うように歯を剥き出す。八重歯……ではなく、もはや牙だ。押さえつけられた手首に何かが突き刺さる。鋭いそれはチセを魔物から救った――そしてそれ自体も魔物の――爪だった。

「俺が安全な存在だなんて、あんたはいつから錯覚していたんだ?」

 チセはごくりと喉を鳴らした。

 分からないふりをしたいが、そんなことはできない。もうチセは気付いている、知っている。クロはもはや昼の存在ではない。小さくて可愛い子猫ではなくて、夜の――魔物なのだ。

「…………なら」

「なんだ?」

 チセの声がかすれて聞き取れなかったらしい。クロが馬鹿にするように問い返す。

「……それなら。私はあなたを夜から取り戻す」

 言葉にすると意思が定まった。チセははっきりと言い直し、視線に力を込めてクロを見返した。

 虚を突かれたように、クロが黙り込む。

「…………。……取り戻して、どうするんだ?」

「決まってるわ。一緒に暮らすの」

「……は。はは……ははははっ!」

 クロが哄笑した。チセは呆気にとられてクロを見つめる。

 ひとしきり笑うと、クロは唐突にチセから離れた。

「無理なことを言うなよ。だいたい両親をどう説得する気だ? 俺は一度捨てられたっていうのに」

「それは……何とかするわ」

「無理だろう。あんたの危なっかしいところは変わってない。俺がいたらまた不用意に夜に踏み込んでしまうだろうことを、あんたの親は直感的に分かってるんだろうな」

「…………」

「あんたは子供なんだよ。親の庇護が必要で、うっかりすると夜に――おまえたちにとっては死の世界に――迷い込みそうになる子供。大人たちのように昼の存在になりきれていない、子供だ。それも女の子だ。いちばん魔物に食われやすい存在だ。分かってるか?」

 牙を見せつけるように笑いながらクロが脅す。

 クロの言う通り、子供は大人よりも、女性は男性よりも、魔物に狙われやすい。夜に呑まれる危険があるのは年齢も性別も関係ないが、複数の人がいるとき、魔物が真っ先に狙うのは子供、次いで女性だ。

 チセは怯み、反論めいたことを口にした。

「子供っていうなら、クロだって……」

「それに、あんたは重要なことを忘れてる。忘れてるのか、知ってて知らないふりをしているのかは知らないが」

「重要なこと……? が何かは分からないけれど。子供扱いしないでよ」

 チセが睨みつけても、クロはまったく動じない。

「まあ、やれるもんならやってみろよ。俺を昼に引きずり込めるもんならな。競争だ」

「競争……?」

 問い返すと、しまった、という表情でクロは舌打ちをした。

 クロのそんな顔を見ながら、チセは眉を寄せる。

「クロの言うこと、さっきから全然わからない。魔物だろうと何だろうとクロはクロだし、私は夜からクロを取り戻すと決めたの。夜に囚われているなら、トオルだって探し出してみせる」

 言葉にするとすっきりした。チセのしたいことは簡単だ。トオルを見つける。クロを昼の世界に連れていく。それだけだ。いくらクロが意味深なことを言っても、そこを見失いさえしなければいい。

 チセの視線にクロは肩を竦め、チセを解放した。チセを脅すように伸びていた牙や爪は引っ込み、普通の人間の少年の見た目に戻る。

「まあ、せいぜい頑張んな。言っておくが、制限時間は長くないぞ?」

 はっとしてチセは辺りを見回した。夜の世界で魔物が蠢いているが、チセに手を伸ばしてはこない。クロから貰ったまじないが効いているおかげだが、この時間には限りがあるのだ。

 そうでなくても、トオルが本当に夜の中にいるのなら、早く助け出さなければならない。その身体や精神が決定的に損なわれてしまう前に。

「…………時間を無駄にしたの、クロのせいだからね」

「その時間をやったのも俺だからな」

 言い合いつつ、二人は図書館に向かった。チセが先に立ち、クロが後に続くかたちだ。

 突発的な事態に備えて体力を残しておかなければならないが、時間もない。チセは逸る心をなんとか宥めつつ、小走りと早歩きを繰り返した。

 そうして辿り着いた図書館は、夜間にも関わらず煌々と明かりが灯っていた。

「公共施設は夜も開いているとは聞いていたけれど……」

 もちろん閉館時間はとっくに過ぎている。だが、帰りが遅れて夜にさしかかりそうになってしまった人が逃げ込めるように、職員が常駐して明かりを点けておくのだ。

 図書館の利用客ばかりではなく、図書館が帰り道にあたる人のためにもそのようになっている。帰宅途中に具合が悪くなるなどして移動が困難になった人の受け入れもできるように。もちろん救急車やタクシーを呼ぶのも手段の一つではあるが、車両の数には限りがある。自力で移動できる人はなるべく自力で移動するように推奨されている。

 そのことは知っていたが、実際に見たのは初めてだった。チセの帰りが遅れたことは、それこそクロと遊んで時間を忘れたときくらいだ。

 そこでチセははたと気付いた。

「正面から乗り込むのはまずいんじゃ……」

 夜の中、どうやってここまで来たのかという問題になる。

「そもそも入れないぞ。忘れてないか?」

「……そうだった」

 チセは今、まじないによって疑似的に夜の存在になっているのだった。自分の部屋からさえ弾き出された今、図書館の中に行くのは無理だ。

「それなら、電話してみる」

 チセは懐から携帯を取り出した。図書館の電話番号を調べてかけると、宿直の職員に繋がった。

 夜分に電話をかける失礼を詫び、昼間に図書館を利用した生徒だと伝える。同じ班の生徒が帰っていないと聞いたが、図書館にいないだろうかと尋ねる。いないことはカナとの電話で知っているのだが、他にどう聞いたらいいか分からないので、手がかりを求めて話を振ってみる。

 案の定、いないと返答を得て、それなら何か忘れ物など手掛かりになるようなものが残っていたりしないかと尋ねてみる。しばらく待たされて、それもないようだと聞き、チセはお礼を述べて電話を切った。

「手掛かりになりそうなことは何もなし、か……」

 落胆しつつ、なんとなく筆箱を懐から取り出す。駄目元でもう一度、クロに尋ねてみる。

「クロ、これをどこで拾ったのか、せめてヒントだけでも貰えない?」

 チセの問いに、クロは呆れたふうに応じた。

「だから、それは夜の中で拾ったとしか言えないんだって。道端に落ちてたとか、そういうことじゃないんだから」

「どういうこと……?」

「今、あんたは道を歩いている。県道の坂を下って図書館の方に向かっている。それは、あんたが人間だから、昼の存在だからできることなんだ。人間にとっては世界の形が定まっていて、夜の中にいてもその延長で世界を理解しているから」

「……ええっと……」

 チセは目を白黒させた。クロがはぐらかそうとしているのではなく、説明しようとしてくれているのは伝わってくる。でも、意味が分からない。授業の数式よりもずっと難解で、哲学的だ。

 何とか理解の取っ掛かりを得ようと足掻きながら、引っ掛かりを言葉にする。

「人間でなくて、昼の存在ではない者にとっては、世界の形が定まっていないということ……?」

「そういうことだ。だからこそ昼の存在が夜に迷い込んだ後、とんでもなく遠い場所で見つかったり、夜の中に消えてしまったりすることがあるんだ。昼間には何の変哲もない小道が、夜にはどこにも続かない奈落になっていたりするから」

「…………!」

 夜は、なんて恐ろしいところなんだろう。そして――


 ――なんて、魅惑的なのだろう。

 そんなふうに思ってはいけないのに。命を脅かす奇妙な世界のことを、肯定的に捉えるのはおかしいのに。

 夜の中で、クロの金色の瞳があやしく光る。人々を狂気に誘う満月のように。けっして届かない世界から気まぐれにもたらされる誘いのように。

 月が欠けていくかのように、クロの瞳が細くなる。唇も弧を描く。夜に惹かれていくチセを嘲笑うかのように。――待ち望むかのように。

 チセは無意識にトオルの筆箱を握りしめた。その途端、意識が急に現実へと引き戻される感覚がして思わずたたらを踏んだ。

(……なんだったの?)

 瞬きをしてクロを見ると、先ほど感じた吸引力はだいぶ薄れていた。得体の知れない夜の存在であると同時に、チセが可愛がっていた子猫でもあるのだということを思い出す。

 その表情が、どこか面白がりつつ残念がるようなもので、彼がチセの味方とは言い切れないことを改めて意識させられる。夜の中にいられる今の状況も、彼のまじないと気まぐれ次第なのだから、余計なことに気を取られている場合ではない。早くトオルを見つけて助けなければ。

 何か手掛かりがないかと期待してチセは筆箱を開けた。メモ書きなりレシートなり行き先が分かるようなものが入っていればと思ったのだが、あいにくそういったものはなかった。もちろん行き先が分かったとて、夜の中ではあまり意味がないのかもしれないが。

『――そんなことはないわよ?』

「誰!?」

 とつぜん少女の声が響いて、チセは肩を跳ねさせた。慌てて辺りを見回すが、誰もいない。

「? なんだ?」

 クロが怪訝そうにする。不可解な声に対してではなく、チセが驚いたことへの反応のようだ。

「クロ、聞こえてないの!? 女の子の声がするの!」

「聞こえてない。誰の声だ?」

『彼には聞こえないわよ。彼と私は関わりがないもの。昼の世界では、ね」

 思わせぶりに含み笑いをするような声に、チセは問いかけた。

「それなら、私とあなたは関わりがあるというの? あなたは誰? ……それともまさか、私の空耳?」

 夜の中ではなんでもあり得そうな気がしてくる。

 しかし少女の声は、チセの考えを読んだかのように否定した。

「空耳ではないわ。夜の中では何もかもが出鱈目に見えるけれど、夜なりの理屈があるの。私とあなたのよしみで、一つ教えてあげようかな」

「よしみ? それならあなたは、昼の世界で私と関わりがある人なの? どうして夜の中にいるの?」

 矢継ぎ早に問いかける。置いて行かれる形になったクロが不服そうな表情をしているが、彼には聞こえていないのだから仕方ない。

「自己紹介は後。いつか、邪魔の入らないところでゆっくりと話しましょう」

 邪魔、と声が言うのはどうやらクロのことらしい。彼に聞こえなくてよかったと思いながらチセは話の続きを促す。

「よく分からないけれど、お話しできる機会があるのなら。あの、さっき言っていた夜の理屈って何? どうか教えて。トオルを助けるために、何でも知っておきたいの」

「そうね。……交換条件がある、って言ったらどうする?」

 声はからかうように、少し伺うように言った。チセは顔を強張らせた。

「……交換条件って、どういう……?」

 命だろうか。お金は持っていないが、それで済むなら何としてでも掻き集める。後日ということでいいだろうか。

「注意しろ。夜の存在と取引をするのは、ろくなことじゃない」

 クロが表情を険しくして言葉を挟む。チセはこくりと喉を鳴らした。背筋を冷や汗が伝う。

 そう、チセだけに聞こえるこの声は、夜の存在が放つ声なのだ。無害なわけがなかった。善意だけで動くわけもなかった。言葉が通じるからと油断してはいけなかったのだ。

「心外ね」

 口を尖らせて拗ねるような少女の声だ。

「でも、一人を助けるには一人を差し出さなきゃ。そうじゃない?」

「…………」

 チセは答えられない。トオルを助けたいが、代わりにチセが犠牲にならなければいけないのか。その決断をさせるのは意地が悪すぎる。

 答えられないまま、一秒が一時間にも感じる。せめて何か言わなければ、この存在が気まぐれに去っていってしまうかもしれない。トオルを助ける手掛かりをなにも手に入れることができないまま。

「…………腕とか足とかで、何とかならない?」

「お前、何言ってんだ!?」

 苦渋の選択をしたチセに、クロが仰天した声を上げる。

 少女の声は軽やかに笑った。

「いらないわよ、あなたの腕や足なんて。でもそうね、その意気に免じて少し教えてあげる。――夜はね、昼の真似をするの」

「昼の、真似……?」

「ええ。夜が昼を追いかけるように、夜の理は昼の理をなぞっているの。たとえ悪趣味なパロディじみたものになろうとも、いくら逸脱しようとも、まったく無関係のものを出鱈目に継ぎ接ぎにするようなことはないわ」

 声は少し言葉を切り、例を挙げた。

「そうね、彼の譬えを使うなら……何の変哲もない小道が奈落になっていたりするのは、そこに筋という共通項があるからよ。流れでもいいわね。道が滝になり、落ち込む先が滝壺から暗さを伝って奈落になる。そういうことよ」

「……小道が滝に、滝壺が奈落に……流れや暗さといった共通項があって……それが夜の理屈……」

 理解しがたい。しかし理解しなければならない。少なくともその取っ掛かりを掴まなければ。チセは考えをまとめようとしつつ、クロにも聞かせるように言葉を並べた。

「……連想だ」

 クロは短く言った。

「夜は連想が形になる世界。そのことは分かる。昼の世界から夜の世界へと踏み込んだ俺の実感としても」

「……あら」

 少女の声は意外そうに言った。当然クロには聞こえていない。

「ふうん、理解しているの。野生の勘とかかしら。これはちょっと……」

 チセに先を聞かせる気がないのか、少女の声が途中からぼやけた。行ってしまう、とチセは思い、慌ててお礼を言った。

「あの、ありがとう!」

 素直なお礼が気に入ったのか、少女は少し笑ったあと、まだ笑いの余韻のある声で言い残した。

「昼の存在が夜の存在に働きかけるなら、昼の道具を夜の理屈で使いなさい。……ちょっと喋りすぎたかしらね」

 ふつりと、声と気配が消える。引き留めることもできず、チセは立ちつくした。

「……行ったか?」

 やれやれと言いたげにクロが頭を振った。

「クロ、聞こえてたの!?」

「聞こえてはいない。だが、何かがいなくなったことは分かった」

 夜の中にはさまざまな気配がある。その中に紛れて来たことは分からなくても、去ったときに分かったということだろう。

「……何だったんだろう」

 彼女――ということにしておく――の言葉を素直に受け取るなら、また話す機会があるのかもしれない。だが、彼女はクロと話をする気がなさそうだった。本当に、いったい何だったのだろう。誰だったのだろう。

 だが、そのことばかりを考えている場合ではない。刻一刻と夜は深まり、トオルが夜の中にいることは確定的だ。なんとか状況を変えなければ。

「昼の道具を、夜の理屈で使う……」

 その言葉が助けだ。チセは再び筆箱を開け、彼女の言葉を思い返しながら眺めた。

 その目が、赤ペンに吸い寄せられる。


 自分でも、どうしてそれに目を惹かれたのか分からない。取り出して眺めるが、何の変哲もない赤ペンだ。

 何気なく呟く。

「授業みたいに、赤で目印をマークアップしてくれればいいのに……」

 と、ペンがチセの意を受けたかのように動いた。

「え!?」

 仰天するチセの目の前で手の中から赤ペンが飛び出し、地面に何かを描いた。まるで見えない手がペンを操っているかのような動きで、一筆書きに描き上げる。それは、

「……足跡?」

「足跡、だな」

 一つでは分からなかったが、ペンが地面については離れてを繰り返して描き続けるそれは、等間隔に並んだ足跡だった。

「もしかしてこれ……トオルの足跡!?」

 突拍子もない考えではあるが、そうとしか考えられなかった。なにせ、彼の使っていたペンが描いているのだ。

 ふと、先ほどの言葉を思い出す。昼の道具を夜の理屈で使う……こういうことなのだろうか?

 ペンで描かれた足跡は図書館の出入り口から前庭を通って等間隔に並び、県道へ出た。

 闇の中に浮かび上がる赤い線は不吉で、チセは後を追うのを躊躇った。と、足跡が端から消えていく。まるで砂浜に残る足跡を波が掻き消していくように。雪上の足跡に雪が降り積もっていくように。

「行くしかない……」

 ほかに手がかりはないし、迷っている時間もない。チセは心を決めて足跡を追った。

 足跡は県道を上り、チセたちの通う学校の方へ向かっている。チセは足早にそれを追いかけ、クロがそのあとに続く。足跡はやがて学校の門から中に入り、校庭に出た。山の斜面を整備して平らにした、だだっ広い校庭だ。

 そして、

「やだ……! 何これ……!?」

 チセは顔をひきつらせ、一歩後ずさった。クロも顔を険しくする。

 校庭の上に、ペンは狂ったように赤い足跡を無数に描いていた。まるで血を流しながら校庭を走り回りでもしたかのようで、思わず背筋に寒気が走るほどに不気味な眺めだ。

 その校庭を縁取るかのように魔物の影が蠢き、墨の池を思わせる闇がわだかまる校庭に赤い足跡が散る。それはまるで血が散っているかのようで、チセの脳裏に不吉な連想が働いた。

「赤ペンはマークアップする……間違ったところを……」

 そのことに思い至るのと同時だった。

 けたけたけたけた!

 闇が、口を開けて笑った。校庭に散った赤がいっせいに口を開き、耳障りな笑い声を立てる。間違った道に踏み込んだ獲物を喜ぶように。

「いやっ……!」

「まずい!」

 クロが切羽詰まった声を上げ、チセを抱えてその場から大きく跳躍した。無数の口から無数の舌のようなものが伸び、二人を絡め取ろうとする。

「時間切れが早まった! 走れ!」

 クロは叫び、チセを庇って得体の知れない魔物と対峙した。

(もしかして、こちらから夜に働きかけたから……!?)

 クロにとっても予想外のことが起きているようだ。だが、悠長に考えている時間などない。チセがクロの傍にいても出来ることがないどころか足手まといだ。

 チセはクロに突き飛ばされるように押され、その勢いのままつんのめりそうになりながら走った。とにかく、建物の中に入らなければ。後ろを振り返る余裕などなく、背後に迫る魔物の気配に凍るような恐怖を感じながら、間一髪で下駄箱の並ぶ玄関口に走り込んだ。焦りすぎて簀子に躓き、膝をしたたかに打ち付ける。

「痛っ……!」

 だが、そんなことにかかずらっている場合ではない。痛かろうが何しようが足を動かし、魔物から遠ざからなければならない。気持ちばかりが焦るが、全力疾走のあとにひどくぶつけた足は痛み、言うことを聞いてくれない。

(足……動け……!)

 焦りながら、せめてもの試行錯誤として体をねじる。姿勢を変えれば立てるかもしれないと思ってそうしたのだが、チセの目は予想外の光景を捉えた。

 玄関口は開け放されており、何の遮るものもない。だから魔物が手を伸ばしてチセを捕えにくるものだとばかり思っていたが、魔物の赤い触手はうねるばかりでこちらに入ってこない。

「もしかして……入れないの?」

 そのことにようやく思い至る。

(そっか……私もクロのまじないが切れる前は建物に入れなかったんだもの。魔物は入れない、そういうことよね)

 つい一週間前、山の中の東屋で仮初の安全を得たときのことを思い出す。東屋でもしばしの時間稼ぎになったのだから、校舎の玄関口はきっともっと安全だ。

 魔物は人の領域に入れない。そんな基本的なことすら失念していた。

 見えない壁に阻まれてでもいるように跳ね返される魔物の影、その向こうで長く伸びた爪を振るって魔物に対峙するクロを見ながら、チセはようやくクロがドアを開けられなかった理由を悟った。

(クロは……魔物だから……)

 人間の姿をしていても、彼は猫だ。そして魔物だ――人に害をなすものだ。

 だからといって、彼を諦めるつもりは毛頭ない。

「クロ! こっち!」

「だから俺は入れないって……!」

「いいから!」

 叫ぶと、チセは思い切り振りかぶり、投げた。蓋を開けた修正液を。

「消えて! ペンのインクならこれで消えるはずでしょう!?」

 破れかぶれに叫ぶ。

 夜の闇にあってあまりに小さい修正液は、しかし奇妙にくっきりと白く光るように見えた。それは流星のように地面に衝突し、そこから白が飛び散った。赤く躍り上がる炎のように動いていた魔物たちが断末魔の悲鳴を上げ、白が触れた部分がかさぶたのように赤を覆う。

「連想の理屈を、そういうふうに使ったのか……」

 感心したようにクロが言った。戦いから解放されて息を切らしていたが、怪我はなさそうだ。

「あんたに自覚はないのかもしれないが、それは魔術師のやり方だ。関係を繋げ、意味を与え、世界を塗り替える。それができるならあるいは……いや、まさか……」

 クロはそこで言葉を切り、ふと空を仰いだ。

「夏の短い夜が明けるな。あんたは生き残った。勝ちだ」

「勝ちって……て、トオル!?」

 ぐったりと校庭に倒れ伏している少年を見つけ、チセは仰天した。それまで蠢いていた闇は潮が引くようにいなくなり、何も知らぬげに木々が風にそよいでいる。校庭の際が朝日に照らされて明るく縁どられていた。夜が明け、人間の時間が始まったのだ。

 チセは慌ててトオルに駆け寄った。服のあちこちが切れ、体中から血を流している。

「大変! クロ、どうしよう……って、クロ!?」

 クロはいつの間にか姿を消していた。探したかったが重傷のトオルを放っておくわけにはいかず、チセは携帯で救急車を呼んだり、校舎で宿直をしていた先生を探してしどろもどろに状況を説明したり、なぜか校舎の空き教室に隠れていた級友たちに会って驚いたり、大慌てで走り回った。


 トオルは重傷ではあったが一命を取り留めた。意識が戻った彼が話したことによると、やはり夜に踏み込んでやろうと学校で日暮れを待ったらしい。同じく学校にこっそり居残った同級生たちを証人として――あるいは彼ら彼女らに煽られて――校庭に出たはいいものの、逃げ帰る間もなく魔物に襲われてしまったそうだ。同級生たちは教室にあった物を手当たり次第に投げて魔物を撃退しようとしたものの甲斐はなく、彼は夜に引きずり込まれてしまったということらしい。おそらくはその時に彼の筆箱がクロに拾われたのだろう。

 あれから、チセもチセで教師や両親への言い訳に追われた。朝になり、チセが家にいないことに仰天した両親から携帯に電話がかかってきたときはどうしようと思ったが、そういえばもう夜は明けたのだということを思い出し、級友が心配になって朝早くから探しに出かけてしまったということで押し通した。娘の元気な声に、両親もまさか夜のうちから外にいたなどとは思いもしなかったようだった。気持ちは分かるけれど挨拶と一言くらい残して行きなさいというごもっともなお叱りを受け、チセはひたすら謝りながら説教を拝聴した。

「……テーマ、変えようか」

 ぽつりとカナが言ったのは、トオルのお見舞いに行く途中のことだった。

 トオルの怪我は深いというよりも傷口が多く、失血のせいで一時は危なかったという話だったが、なんとか後遺症なしで回復しそうだという目途が立ち、面会も許可されたとのことで、チセたち三班の班員は病院にお見舞いに行くことにしたのだ。

「……そうだね」

 マナトも同意する。

「……猶予期間も貰っちゃったから、考える時間もできたしね……」

 チセも頷く。

 班員が大変なことになり、しかもそれが調べ学習と無関係ではないということで、三班はテーマ発表会での報告を免除された。――くれぐれも危険なことはするなというお叱りつきで。

「言っても仕方ないけれど、ちょっと焦っちゃうよね。他の班はみんなテーマが決まっているし、もうだいぶ調べ進めているところもあったし」

「うちらはテーマさえまだなのに、六班は資料館にも行ってきたっていうしね。『夜がいつから禁忌になったか』かあ……」

 カナが思い出すように視線を空に投げ、マナトが続きを引き取る。

「……いつからかは分からないが、昔は昼と夜が厳密に分けられているわけではなかった。夜がどのように扱われるかは場所や時代によって異なるが、科学の発展とともに夜と昼がはっきりと区別されるようになっていったと考えられる……だったな」

「まったく、初等学校の生徒の発表としては高度すぎるでしょ」

「いや別に、このへんは定説だしな」

「……テーマも決まってない班のメンバーが言える台詞じゃないわよ」

「…………」

「えっと、あとどこだっけ、進んでいた班。『夜の魔物がどんなふうに文学の中で描かれているか』のところ」

 カナとマナトのやり取りに、チセは慌てて口を挟み、話題を変えようとした。カナが応じる。

「二班よね。そこの報告も面白かったな。各国の文学に現れる魔物たちは地域性もありながら共通点もあって、それは人が夜をどのように恐れているかを示しているのではないか……とか」

「二班も。難しい内容だよね……」

「まあ、そうだな」

 今度はマナトも同意した。ややあって思い出したふうに言う。

「そこの班のメンバーの誰だったか、父親が大学教授だって奴がいたような気がする」

「あ、うちも聞いたことがある。サヤだっけ」

「そうなんだ。知らなかった」

 チセは知らなかったが、それなら高度な発表内容にも納得がいく。アドバイスをもらったりしているのだろう。

 話しながら歩き、ふと道端の掲示板を見たチセは、掲示物の写真に添えられた名前に何気なく目を留めて驚いた。

「ねえ、サヤのお父様の大学教授って、この人じゃない?」

 そこに貼られていたのは市民講座の開講案内で、講師として予定されているうちの一人がサヤと同じ姓だ。

 カナが掲示物を見て頷いた。

「ササラセ・カイ教授……うん、多分そう。この人だと思う。名前に見覚えあるもん。図書室に本を寄贈してくれてたはず」

「へー……偶然だね、びっくりした。その本、面白かった?」

「読んでないよ。初等学校にあっちゃいけないような難しそうな本だったもん。題名も覚えてないけど、分厚かったことだけは覚えてる。読んだ人いるのかな?」

「あ、あはは……」

 顔をしかめたカナに、チセは苦笑いした。

 マナトが掲示物の内容を読み上げる。

「公開講座……世界における夜の認識の変遷について……か」

「……無料なんだね」

 マナトとは違うところに目を留めたらしいカナが呟いた。

「事前申し込み不要で、今週の日曜日に開講……四日後か。行ってみないか? テーマ決めのヒントになるかもしれない」

 マナトの提案に、チセはカナと顔を見合わせた。

「私はとくに用事ないし、行けるよ。テーマ決めなくちゃだし」

「うちも大丈夫。トオルにも話しとかなきゃ。一応ね」

 トオルはしばらく病院から出られないから、資料を貰って渡すことになるだろうが、顔をしかめる彼の様子が想像できるようでチセは小さく吹き出した。勉強嫌いの彼は、図書館に行くくらいならまだしも、大人たちに混ざって市民講座を受講しに行くなんて話を聞いたらその瞬間に逃げ出しそうだ。

「トオルがいたら行かないって言い張ったかもね」

「言いそう。でも今回はいないんだし、うちらでさっさとテーマを決めちゃおう。テーマの言い出しっぺが申し訳ないんだけど、考えなしだったわ」

「いや、僕らも賛成したんだし。トオルのことも、元はと言えば僕のせいだ」

 マナトの言葉に、チセとカナは揃って首を横に振った。

「違うよ。うちも本気にしなくて止めなかったから悪かったし……」

「私も、クロのことを話してテーマ決めを後押ししちゃったんだもの」

 実際、チセは罪悪感を覚えていた。クロと再会してからというもの、自分が夜の方へと引きずられていくような感覚がある。トオルはそれに巻き込まれただけだ、という考えが頭の片隅にずっと居座っているのだ。

 カナもマナトもそれぞれに思うところがあるようで、三人は言葉少なに病院への道を辿った。


 トオルの病室は個室だった。チセたちがおそるおそる入ると、本人はまるで気にしていないふうに笑った。

「見舞いありがとな! なにか手土産とかねえの?」

「怪我人に何を持ってったらいいのかなんて分からないよ。食べ物は制限があるかもしれないし、花も香りがきついものは良くないだろうし」

「いやー、大丈夫なんだけどね。あちこち痛かったのも治まってきたし」

 呆れたふうに言うマナトに、トオルがあっけらかんと応える。体の具合が大丈夫そうだと見て取って、チセもカナも安堵の息をついた。

「チセ、あんたが第一発見者なんでしょう? 恩を着せてやったらいいのよ」

「いやーほんと、恩に着るわ。ありがとうな。助かった。死ぬかと思った」

「何で死んでないのよ」

 カナがずけずけと言う。トオルが夜に消えてしまったかもしれないと知って居ても立ってもいられないくらい心配していたのを知っているから、それも安堵の裏返しだと分かる。

「いやーほんと、何でだろうな?」

 トオルもカナが本気で言っていないことは分かるのだろう。まったく気にしていない。

 トオルとカナだけでなく、チセもマナトも、小さい頃からよく遊んだ幼馴染だ。気心が知れている。

「なあ、来てくれたのってお前らだけ? 大人が来たりはしてないよな?」

「うちらだけだよ。引率の先生が必要なことでもないでしょう」

「そうだよな……。よかった……」

「もしかしてトオル、大人からあれこれ聞かれたんじゃないか? 大怪我をしたとはいえ、命も体も心も損なわれずに夜から戻って来られたのだから」

 マナトの問いに、トオルは頷いた。

「ああ。いろいろ聞かれたよ。ちゃんと答えた。……でも、ひとつだけ……言っていないことがあるんだ」

 マナトに視線を向け、

「なあ……。お前の親戚で、夜に呑まれた人って……レイカ姉ちゃん、じゃないよな?」


(レイカ姉ちゃん……?)

 聞いたことのある名前のような気がする。もしかして小さい頃に一緒に遊んだ人とかかもしれない。チセにとってはカナが一番長い付き合いだが、トオルもマナトもそれなりに長く仲良くしてきた。友達の友達とか、友達の親戚とか、関係性がよく分からない人を交えて遊ぶのも普通のことだった。

 トオルがなぜいきなりその名前を出したのか分からない。――いや、気付かないふりをするのは止めよう。チセにはもうなんとなく見当がついている。

「もしかして、それって……トオルが夜の世界から戻れたことと関係している?」

 チセはおそるおそる聞いた。

 夜から無事に帰還できる者は非常に稀だ。トオルはとても無事とは言えないものの、そう言っていいほど影響は軽微だ。短期間の入院で済むのは非常に幸運なことだ。――もしもそれが運であるならばだが。

 チセはトオルを助けたつもりでいたが、そもそもチセがトオルに辿り着くまでに彼が命を落としていても何の不思議もなかった。夜とは、そういうところだ。

「……ああ」

 トオルは言葉少なに認めた。マナトは目を見開いて顔を白くしている。

「……もう、何年も前のことだ。いまさらレイカ姉の名前を出すなんて……どういうつもりだ?」

「レイカ……うちも何か聞き覚えがある気がする。トオル、マナト、どういうこと!?」

「レイカ姉は……僕の従姉だ。昔はよく一緒に遊んだんだけど……」

 マナトが言葉を切る。

 トオルは病室のドアに目をやった。ドアが閉まっており、誰も来る気配がないことを確かめ、密やかに声に出した。

「……会ったんだ。夜の中で。俺を助けてくれた。何が起こったのかよく分からないんだが、魔物は俺を……引きちぎろうとしたんだと思う」

 顔を青くして喉を鳴らしながら、トオルは説明した。彼がいつも通りに振舞っているから忘れそうになるが、彼は夜の中で命の――あるいはそれ以上の――危険にさらされたばかりなのだ。

「たぶん、そうなんだと思う。大人たちにもそう言った。でも……レイカ姉ちゃんに助けられたことは言ってない。大人たちには絶対に言うなって口止めされたから」

「じゃあ何で僕たちには言うんだ!? そもそも、それは本当にレイカ姉だったのか!?」

 冷静になり切れない様子でマナトが声を荒げる。トオルはらしくなく鬱々とした調子で言った。

「……分からない。だってレイカ姉ちゃん、中等学校の二年とか、そのくらいに見えたんだぞ? 俺らよりもちょっと年上くらいの感じだ。……本当ならもう、高等学校に入っているはずの年齢なのに」

「…………!」

 チセは悲鳴を上げそうになる口を押さえた。それ以上のことを考えてはいけない。脳が警鐘を鳴らす。

「それって、レイカさんは、もう……」

「言うな!」

 カナの言葉をマナトが激しく遮る。怒りの矛先はトオルへも向かった。

「どういうつもりなんだ!? 君が助かったのは良かった、それだけの話でいいじゃないか! なぜ、そんな話を僕に聞かせる!?」

「だって……」

 トオルが泣き出しそうな顔をする。

「レイカ姉ちゃん、言ったんだ。……助けて、って」


 四日後の日曜日。三班のメンバーは示し合わせたかのように時間よりもかなり早く集まった。誰も何も言わなかったが、トオルから聞かされたことを咀嚼しきれずにいるのは誰もが同じようだった。

 公開講座の開講時間まであと三十分ほどある。会場になるのは市民会館の一室で、会館は公園の敷地内にあった。会館の入り口付近に集まった三人は、そのまま誰からともなく公園の道を辿る。

「……トオルの言ったこと、うちは信じるよ」

 口火を切ったのはカナだった。チセも頷く。

「……僕も、トオルが嘘をついているとは思っていないよ」

「でも……考えにくいことだよね。うちらはあんまり覚えてないけど、レイカさんって……」

「気を遣わなくていいよ。前は取り乱して悪かった。そう、夜に消えた親戚はレイカ姉のことだよ。昔はみんなと一緒に遊んだりしたんだけど、病気であまり外へ行けなくなって。親戚同士で家が近所だから僕はよく会っていたし、トオルも一緒に来ることもあったけど、二人は来たことないものね」

「そうだね。うちらは昔みんなで外で遊んだくらいの記憶しかなかったから」

「うん。ごめんね……」

「いや、覚えてなくて当然だよ。学年も違う人のことなんてそんなもんだよ」

 歩きながら言葉を交わす。膝を詰めて座って会話するよりも気が楽だ。互いの表情をあまり見ず、見るともなしに景色を眺める。

 爽やかな夏の日だ。木漏れ日が落ち、風が枝を揺らし、遊ぶ子供たちの歓声が聞こえる。のどかで、平和で、何の変哲もない――昼の風景。ここが夜には魔物の世界に変わるなど想像もつかないような。

 その夜の中で、助けを求める――レイカ。

 チセが聞いた少女の声はおそらく、レイカのものなのではないかと思う。彼女については記憶が曖昧で、声も当然覚えていないのだが。

「その……レイカさんって、どんな人だったっけ? 私も名前は覚えているの。あと、髪が長かった気がする」

「そうだね。髪が長くて、色が白くて、大人しい人だったよ。みんなで遊ぶときも、鬼ごっことかになると座って眺めているような」

 チセの脳裏に、儚げな少女の姿が思い浮かぶ。長い黒髪に白い肌、華奢な体つきの少女。しかしその表情は陰になって見えない。

「助けて、ってトオルに言ったんだよね……。ううん、トオルに対してじゃなくて、トオルの近くにいる子供に対して……?」

 トオルに対して、むしろ助けたのはレイカの方だ。その彼女は自分の存在を大人たちに話すなと口止めした。それなのに子供に対しては助けを求める……おかしくないだろうか?

 しかし、チセがその違和感を言葉にする前に、マナトが口を開いた。

「それは多分、子供に対してというより……僕に言ったのではないかという気がする。自惚れかもしれないけれど……」

「うーん、そういうこともあるかもね。確かに、うちらが助けてって言われるのはおかしいもんね」

 そう、おかしいのだ。助けてほしいなら子供よりも大人に言うべきだろう。そうでない理由は、大人では無理だからか……大人からは隠しておきたいからか。

 言い知れぬ不安が胸の中に膨らむ。

「分からないけれど、放っておけない。単なる調べ学習じゃなくて、僕にとってのっぴきならない事態になっているから。だから今日の公開講座も、大人向けの内容なら願ったりだ。なるべく多くを学んで帰る」

「……うん、そうだね」

 チセは短く同意した。開講までもうすぐだ。不安と一体になった違和感については口にせず、いったん棚上げすることに決める。

 今はとにかく、夜について考える材料が欲しい。


「えー、わたくしがこの講座を担当いたします、ササラセと申します。みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、世界における夜の認識の変遷について話していきたいと思うのですが……」

 壇上に立ち、髭をたくわえた壮年の男性が前置きを話し始める。会議室にはそれなりの人数が集まっており、年齢も性別もさまざまだ。受講者の手元には一部ずつ資料が配られており、そのどこを見るようにとササラセは指示を入れつつ、ときおり白板に補足などを書き加えていく。

「……ですから、夜とは昼の世界から外れたものの総体でもあったのですね。昼の世界にあって並外れたもの……象徴的な例は王権ですが、古代人は権力の根拠を夜に求めたのであります。王には夜からの帰還者であることが求められ、試練を経ることによって昼の世界における特別性が担保されたのでありまして……」

 会議室には長机と椅子が設置されており、初等学校の教室ではなく大学の講堂のような雰囲気だった。内容も大人向けのもので、チセたちは部分的に理解するので精一杯だ。

「……そうした媒介者がいなくなった、すなわち昼の世界を治めるための権威を昼の世界の外に求めるのをやめた時点で、昼は夜を切り離したとも言えるのであります。昼と夜との分断は科学技術の発展によるものだとするのが定説ではありますが、民主制の成立と発達も分断に大きく寄与していたのでありまして……」

「……ダメ、もう限界」

 カナが音を上げて頭を抱え、隣の席に座っているチセに小さくぼやいた。

「難しすぎるよね……」

 チセも小声で応じる。頭がくらくらしそうだが、それでも何とか食らいついていこうとしているのは、これが他人事ではないからだ。

 レイカのことをどう考えるべきなのかも、クロをどうやって夜から取り戻すかについても、手がかりになる情報が欲しい。

 その一念だけで、チセは用語も内容も難しすぎる講座をひたすら聞き続けていた。

 ちらりと横を見ると、マナトも難しい顔をしながら講義に聞き入っている。理解した部分をあとでこっそり教えてもらおう、などとチセが考えていると、マナトと目が合った。

「どうかした?」

「ううん、邪魔してごめん。分からないことだらけだから、あとで教えて」

「僕も教えられるほど理解できてないけど、分かった。チセの考えも聞きたいな」

 小声でやりとりを交わし、机に突っ伏してぐったりしているカナを横目に、チセは時に念仏めいて聞こえる講義に食らいつき続けた。


 講義のあと、チセとカナは廊下の一角に設けられた休憩スペースで、ああでもないこうでもないと話し合っていた。

「うーん……だから、ええと……駄目、まとまらない」

「チセでも無理? マナトは……あ、戻ってきた」

 教授にいくつか質問していたマナトが戻ってきて、カナは頭が痛そうな表情で尋ねた。

「あれを聞いて質問に行けるのがすごいよね。何を聞いてきたの?」

「夜からの帰還者のその後について、とかかな」

「それ、私も聞きたい」

 食いついたチセに、残念だけど、とマナトは首を振り、

「あまり明るい話題ではないよ。古代の王たちは権力を得た代わりに短命だったことがほとんどだったようだし、帰還後に身体や精神を病んだ例も多い。……あ、もちろんそういうのが全部じゃないよ」

 慌てて付け加えたのはトオルのことをフォローしたのだろう。だが、チセはトオルのことについて、実はそれほど心配していなかった。

「トオルは大丈夫だろうと思うの。あまり精神を病みそうには思えないし……心配するとすれば、また調子に乗って夜に踏み込んでしまうといった直接的な危険の方かな」

「それ、分かるわ。なんかあいつ、何も考えてなさそうだしね」

 カナの言葉は辛辣だが、一面を言い当てているようにチセは思った。

 彼は根っから昼の存在だ。それはきっとカナも同じ――自分とは違って。

「トオルが夜を求めるとしたら、それは夜そのものを求めているんじゃなくて、昼の世界でみんなに自慢したいからとか、そっちの方がありそうだもの」

「違いない」

 チセが言うと、マナトも笑って同意する。

 だが、そんなマナトは……自分と同じ側にいる、とチセは直感した。

「それで、うちらのテーマ決めのヒントがあったかどうかだけど……」

「それなんだけど、『夜からの帰還者について』ではどうかな。トオルが曲がりなりにも帰還者になったわけだし、これならテーマを突き詰めつつ彼のことを見守れる。子供だから配慮されるとは思うけれど国や研究機関とかからの調査も入ると思うし、そのあたりをまとめられたら初等学校の調べ学習としては百二十点だと思うよ」

 マナトの提案に、チセはカナと顔を見合わせて頷いた。

「いいと思う。トオルのことがあるもんね。どうして自分で思いつかなかったのかと思うくらい」

「これならあのお調子者にとっても悪いテーマじゃないと思うし、うちも賛成。昼の側にも焦点が当たっているしね。また夜の中に行こうとかバカなことを考えないといいんだけど」

「……うん。……そうだね」

「マナト、違ってたらごめん。少し思ったんだけど……もしかしてこのテーマ、レイカさんのためにもなってる?」

 小さい声でチセが問うと、マナトは頷いた。

「……うん、実はそうなんだ。帰還者を調べるということは帰還について調べることにもなるわけで。言い方を少し変えたけれど、トオルも賛成したテーマからあまり変わっていない。……本人には言わないでね」

「言わないよ。無茶をされたら困るもの。でもマナト……本当にレイカさんを助けるつもりなの?」

「そのことだけど……」

「ここ、三班の集まりー?」

 人が近付くのを感じたマナトが言葉を切った。こちらへ歩きながら声をかけたのは、ふわりとした髪を伸ばした少女だった。チセたちの同級生でササラセ教授の娘のサヤだ。

 レイカのことをおいそれと広めるわけにはいかない。チセは切り替えて話しかけた。

「うん、そう。サヤも来てたんだね。お父様の講座だから?」

「そうなのー」

 サヤがおっとりと頷く。

「お父さん感心してたよー。初等学校の生徒なのにすごいな、ってー」

「いやいや、チセとマナトはすごいけどね。うちは全然ダメ、何も分からなかった」

 カナが苦笑いする。チセは慌てて否定した。

「すごくないよ。私も全然分からなかったもの」

「それでも、ちゃんと聞いてくれていたでしょうー? お父さんの講義、眠くなるって大学でも評判なのにー」

「あはは……」

 否定できず、チセは笑ってごまかした。カナもごまかすように話題を変える。

「サヤ、二班だよね? 班のメンバーは来てないの?」

「うんー。個人的に来ているだけー」

「まあ、うちらと違って二班は順調に進んでいるもんね。この前の発表、すごかったよ」

「ありがとー」

「さっき質問にあがって知ったのだけど、教授のご専門って民俗学なんだね。文学じゃなかったんだ」

「わたしたちの班、本が好きな子ばっかりだからー。お父さんのことはあんまり関係ないよー」

「そうなのか。共通点があるとやりやすいよね」

「みんな熱心に調べてくれてるよー。たとえば……」

 そのままサヤとマナトは話し込み、チセとカナは分厚い資料を前に、トオルに何をどう伝えたものかと頭を悩ませた。


 人間の夜は空虚だ、とチセは思う。眠って夜をやり過ごして、朝を迎えて終わりだ。

 その夜の中では、魔物たちが生を喜ぶかのように蠢いているのに。昼の姿というくびきから解放された生命が自由を謳歌しているのに。ひとたびその様子を見てしまうと、なんて豊かな世界なのだろうと思ってしまうのに。

 人間にとっての夜は、ただ意識の暗闇だ。ぽっかりと口を開けた空虚な闇の中に落ち込んで、太陽とともに意識を昇らせて、その間には何もない。

 危険と知りつつも人が夜を求め、夜に惹かれてしまうのは、その空虚さに耐えられないからかもしれない。豊饒な夜の中に、人間がはるか昔に失ってしまったものがあるのではと求めてしまうのではないか。

(古代人にとっての王、か……)

 教授の話は難しすぎてほとんど理解できなかったが、そのくだりは印象に残った。昼の世界を統べる存在は権力の根拠を夜に求めたという部分だ。

 教授によると、その頃はまだ今ほど昼と夜とが明確に分かれていなかったらしい。もちろん夜が危険であることに変わりはなかったが、一歩でも夜の中に踏み出してはいけないといったような厳密性はなかったのではということだ。

 また、昼と夜とが分かたれたのは民主制の成立と発達も関わっているということだったが、王が権威付けによって人々を支配していた頃はまだ、夜の世界が昼の世界に影響を持っていたということなのだろう。人々が人々のことを決めるようになり、昼の世界をそれだけで完結させようとしている現状が、夜を切り離して遠ざけている……教授が暗に言わんとしていた気がするのだが、健全ではない状況にあるということなのだろう。

 人が、いつから人になったのか。それは出生前の胎児の権利についての議論にも似て結論の出ない話ではあるが、ともかくも、現在の「人」は夜を切り離して否定することによって成り立っている。

 王たちがいた時代よりももっと前、神がいた時代では、夜は人間に牙を剥かなかった。魔物は人間にとって明確な敵ではなく、変化した動植物を人間は拒絶しなかった。――今では考えられない、ほんとうに昔の話だ。


 調べ学習のテーマが「夜からの帰還者について」に決まってから、三班のメンバーはそれぞれに色々と調べたり、集まって話し合ったり、退院したトオルからその後の話を聞いたりして進めていた。夜から生還し、体や心に後遺症が残らなかった稀な例であるトオルは、マナトが見越した通り国や研究機関や、報道関係の人からも色々と聞かれたりしたようだった。

 三人が危惧していたことはトオルが調子に乗ってまた夜に踏み込んでいくことだが、今のところそうなってはいない。本人も周囲の大人にこってりと絞られたようだし、彼の家族が彼の行動には目を光らせているようで、自分の部屋にいる時もしょっちゅう誰かが来てゲームにも集中できないと嘆いていた。自業自得だ。

 トオルが聞いたという、レイカからの「助けて」という言葉だが、今のところ進展はない。チセはレイカと言葉を交わしているし、とても「助けて」と頼みたさそうな悲壮感はなかったから言葉に裏があるのではと疑っているのだが、まさかそれを班のメンバーに言うわけにもいかない。

 トオルもあれから夜に踏み込まないよう周りから注視されているし、あまり言わないが相当恐ろしい思いをしたらしく、夜の中にまた行きたいような素振りは見せていない。大人たちから注目されることも嬉しいようで、このうえ危険を冒して夜の中に行く気はなさそうだが、彼は彼でレイカの言葉を重く捉えているようで、夜の中から助ける手がかりがないかと調べ学習を真面目に頑張っている。勉強嫌いの彼だが、そんなことは言っていられないということらしい。

 意外に義理堅い彼のことだからレイカからの助けてという要請を無下にできないだろうし、自分が助けてもらった恩もあるから無視して忘れたりはしないはずだ。レイカが夜に消えてから何年も経っているのでなかったら――一刻を争うような状態だったら――大人たちの目を掻い潜って再び夜に踏み込んだかもしれないが、レイカがおそらく無事な状態ではないだろうことを思うと、無理して急いでも意味はないと判断しているのだろう。少し聞いた感じではトオルはチセのようにレイカから助言を受け取ったわけではないようで、魔物にまるで歯が立たなかったようだ。どうにもならないものだと身に染みて分かったと語っていた。その違いも、チセがレイカへの不信感を高める理由の一つだ。

 カナは最初、退院したトオルがまた夜の中へ行こうとするのではと危惧していたようだった。しかしトオルは日常に戻り、無茶をする様子もなく学校生活を送り、以前の彼だったら面倒がりそうな調べ学習にも真面目に参加している様子を見て懸念は薄れたようだった。カナはトオルやマナトほどレイカのことを知っているわけではないが、「助けて」の言葉は無視できないようだった。トオルが助けられたこともあるし、自分に出来ることがあればと調べつつ模索しているようだ。

 チセが一番心配していたのはマナトだった。レイカと直接の関わりがあり、彼女を助けるつもりでいるらしい彼は、もしかしたら夜の中に行ってみようとするのではないかと思っていた。

 しかしその懸念は不要だった。マナトはトオルと正反対で、老成していると評してもいいくらいに落ち着いた少年だ。考えなしに夜に踏み込むような無謀な真似をせず、昼の世界の中で出来ることをしようと頑張っているようだ。 驚いたことに彼は大学へも出入りし、専門の教授から話を聞いたり、公開講座を聴きに行ったりもしているようだ。チセも誘われたのだが、ササラセ教授の時のことを考えるとさすがに理解できる気がしなくて諦めた。その代わりにマナトが聞いてきた情報を教えてもらって共有している。

 そしてもちろん、チセも出来ることを頑張っている。夜の中で見聞きしたことをノートにまとめ、図書館に行って本の内容と照らし合わせ、思いついたことをメモしたり、分からないことを抜き出したり、曖昧だったところを明確にしたりしている。

 調べていくと市立図書館の蔵書では足りず、大学図書館にも足を運ぶことになった。市民には解放されており、アカデミックな雰囲気に気後れしたものの、集中して調べたり考えたりするのには向いていた。時折マナトと待ち合わせてロビーで話したり、時には購買で軽食を買って一緒に食べたりすることもあった。背伸びしている感覚はあったものの、ポーズで大学に出入りしているわけではない。必要があってのことなので堂々としていればいいし、新鮮で面白い体験ではあった。

 チセがクロと一緒に夜の中を歩いたことは誰にも言っていない。チセがクロを夜から取り戻そうとしていることを知る人ももちろんいない。

 そんな事情を秘密として抱えていると、そんな場合ではないのに楽しくなってきてしまう。秘密基地もそうだが、秘密というものはどうしてこうも心をときめかせるのだろう。夜に惹かれてしまうのも、夜がその中にとびきりの秘密を隠しているように思えるからかもしれない。

 そんなふうに日々を過ごし、三班は最初の遅れを取り戻して余りある内容の中間発表をして他の班を驚かせることになった。


 秋の月が夜空に煌々と輝いている。その光は世界を照らし出すのではなく、むしろ濃い影を落とすように妖しく降り注いでいた。

 昼の間はともかく、夜の道を出歩く人などいない。ごくごく近所の家を除けば部屋の中を見られる心配なんてないのに人々がカーテンを習慣的に閉めてしまうのは、この誘惑的な月の光を遮断したいがためかもしれない。そんなふうにも思ってしまう。

 夜になったらカーテンを閉めるのが当たり前だが、チセはこのところ、その習慣を守っていない。もしかして、と思ってしまうからだ。

 今日は、その期待が報われた。

 窓枠の上に、ひそやかに黒猫がやってきた。月光に黒い毛並みが照り映えて美しく、黄金の瞳は神秘的な満月のようだ。

 しばしチセは見とれ、クロはそんなチセをじっと見上げる。

 開いた窓から、秋の風――木々の葉を落とし、枯葉の匂いを含んだ、凋落の気配を纏った風――が流れ込んでくる。物寂しく、物狂おしく、わけもなく泣きたくなるような切なさを覚える季節だ。

「クロ……」

 会いに来てくれて嬉しい。会えて嬉しい。この夜の中では何を言っても紛れてしまいそうな気がして、チセはただ名前だけを呼んだ。

「また、まじないをしてほしいか?」

「……!」

 チセはかあっと頬を赤くした。それは要するに、キスをしてほしいかということだ。

 してほしい、なんて言いたくない。でも、このままクロを帰したくもない。

 チセの葛藤を見透かすようにクロは意地悪く笑った。

「いらないか。じゃあ帰ろうかな」

「待って!」

 とっさに引き留めるものの、言葉が続かない。羞恥心が勝るのも理由だが、この状況が恐ろしいのも大きな理由だ。このままずるずると夜に馴染んでいった先に何があるのか、明るい想像はできない。

 それでも、機会を逃したくもない。

 調べ学習は順調に進んでいるが、子供が頑張って調べたり考えたりしても限度がある。状況を変えうるような新しい発見などあるはずもなく、レイカのことにも手が届いていない。このまま春を迎えて班が解散してしまえば先のことがどうなるかも分からない。マナトは一人で努力を続けるだろうと思うが、飽きっぽいトオルはどうか。レイカへの義理と、彼の気性――昼が似合い、根本的に夜とそぐわない――のどちらが勝るか、チセには予測がつかない。カナもそこまでレイカを助ける強い動機があるわけでもないから、三班が解散したらレイカを助ける話は立ち消えになる公算が高そうだ。

 それはチセにとっても困る。助けてほしいという彼女の言葉をそのまま受け取れないとはいえ、彼女のおかげでトオルが助かったのは事実なのだ。トオルを守ってくれて、チセに助言をくれた。その恩には報いなければいけない。

 だから、彼女についての手がかりひとつ得られず時間が過ぎていく現状には歯痒さを感じていた。

 薄々、チセは気付いている。夜に踏み込んだことのあるトオルも、レイカを助けたいであろうマナトも、あまり直接的には彼女に関わりのないカナでさえ気付いているだろう。レイカを助ける手がかりは夜の中にあるのだということを。

 自分たちで調べられる範囲のことは調べた。思いつく限りの考えを出し合った。それでなお届かないのだから――危険を冒すしかない。

 こくりと、チセは喉を鳴らした。

 レイカのことも、クロのことも。時間は無限にあるようでいて、その保証など全く無い。現実的にも、三班が解散する時期が刻一刻と迫ってきている。

 クロからの誘いを、断れる余裕なんてない。

「……お願い。おまじないをして」

「屈め」

「……うん」

 目を閉じると、今度は頬に口付けられた感触があった。猫のひげが当たってくすぐったい。

 前回は額。今回は頬。その位置に何か意味があるのかとちらりと疑問がかすめたが、すぐに霧散した。位置がどこであれ、キスはキスだ。冷静に受け取れるものではない。

 動揺をつとめて抑えていたチセは、他にもっと危惧すべきことがあるのに気付かなかった。

 まじないの効果が高まり、制限時間が伸び――段階が進む。夜がチセに対して次第に害をなさないものになりつつある。

 そのことの意味を。


 木枯らしの吹く月夜にアスファルトの道を歩きながら、チセは不思議な気持ちで辺りを眺めていた。

 最初は魔物の影が道を走っていくたび、魔物と化した草木が不気味に動くたび、いちいち怯えていたのだが、クロのまじないは確かだった。それらはチセに危害を加えようとせず、拍子抜けするほど普通にチセは道を歩けている。前にまじないをしてもらった時もそうだったと思うのだが、トオルを助けないとと焦って頭がいっぱいだったのであまりよく覚えていないし、あたりを観察する余裕もなかった。

 そうしてみると、恐怖心の次に湧いてくるのは好奇心だ。

 昼間とはまったく違った様相を見せる夜の住宅街。木立。空。

 冴え冴えと射す月の光は、太陽のそれとは違って大地を暖めることがない。冷たく妖しげな光は魔物たちに害をなさず、蠢く影たちはむしろ月光を喜んでいるように見えた。

 魔物と化した小動物たちが街路樹の根元に集まり、一つの影の塊となって縺れ合うように動いている。それを見下ろす街路樹は蜘蛛の巣のような枝を空に伸ばして空から水を吸うようにゆっくりと蠕動し、飛んできた蝙蝠が枝に留まるや否や吸い込まれるように掻き消えた。

 まるで秩序がなく見える、昼の世界の悪趣味なパロディのような様相を呈する夜の世界。ここでは植物が動き出し、動物が掻き消え、殖えたと見れば減る……人間の理解を拒むような出来事がそこここで起こっているのだ。

 月光でできた木の影が動き出し、ふらつくように通りを横切っていく。悲鳴じみた奇怪な音を立てるのは何だろうか、闇に紛れて見えない。

 恐ろしく、狂おしく、奇妙に魅惑的な夜の世界。ひたひたと潮のように闇が辺りを満たす中を、少年の姿をした黒猫に導かれて進んでいく。

「……どこへ行くの?」

「どこへでも。どこに行きたい?」

「……それこそ、どこへでも。あちこちを見てみたい」

 様相を変えた街並みが目新しく、興味深く、しかし本能的な危機感を呼び起こす。ずっと見ていると気が狂ってしまうのではないかと思えるほど、木々や鳥などがおぞましく変形して魔物と化していた。整然とした昼の姿を知っているからこそ、その違和感が脳を掻き乱す。

 しかし、それらはただ負の感情を引き起こすだけではなく、認めたくないが、人を奇妙に惹きつける魅力も放っているのだった。

 チセはなんとなく坂を下る方へ足を向けた。クロも横に並んで歩いている。

 前回はトオルの手がかりを追うために図書館や学校など坂の上の方へ向かった――チセの家も高台にあるから、あまり下ることはなかった――のだが、街は海の方まで広がっている。むしろ坂の下の方が人も多く栄えていた。国道は坂が終わるあたりにあり、この街を南北に走って隣の街へと続いていく。

 海の方へ下りながら、チセはちらりとクロに視線を向けた。今は人間の姿をしているクロは、暗い中ということもあって表情が読みにくいが、とくに不機嫌そうな様子はない。

 月が明るい。道を照らし、チセの目にも景色が問題なく分かるくらいだ。夏休みなどに旅行に行って田舎の方に泊まり、星を観察したことはあるのだが――もちろん建物から出ずに、屋根に設けられた大きな硝子戸を通してのことだが――月明かりがこんなに明るいものだとは知らなかった。家々の部屋から漏れる光や、夜に対抗するように玄関先や庭に備えられた明かり、そういった人工の光源の方がむしろ不自然に見えてしまうくらいだった。

 ――チセは確実に、夜に馴染んでいっている。

 横で、人の姿をした黒猫が、笑った。


 坂を下っていくと、水音が聞こえてきた。山の方から流れ下ってくる川が道と交わるところに出たのだ。

 川は所々で暗渠になったり顔を覗かせたりしつつ海へと注ぐ。建物や道の下に水の流れが隠されていることは普段意識しないが、夜の冒険の中で神経が研ぎ澄まされているからだろう、些細なことが興味深く感じられる。

 昼の世界にあるものでも、意識の外に追いやってしまうものは暗渠だけではなくたくさんある。そうしたものもチセにとっては「夜」であるのだろうか、とふと思う。

(人間には理解できないものが夜なのだ、か……)

 マナトの言葉を思い出す。

 夜は、生き物に害をなす。人に近しい命ほど危険に晒される度合いが大きく、人がその最たるものだ。

 それは――偶然なのだろうか? 昼の世界の中心にいるのが人間で、夜はその人間をまるで狙い撃ちにするかのように害を加える。人は夜を拒絶し、夜は人を呑み込まんとする。――大昔は、そうではなかったのに。

 人の進化が悪いことであるとは思いたくない。でも、切り捨てて忘れて捨て去ってしまったものの中に大切なものがなかったなどと、誰に言えるだろう。

 ぼんやりと考え込んでいたチセの耳に、水が流れる音に加えて、不規則に何かが跳ねる音が届いた。川面を見てみるが、黒々として何がいるのか分からない。なおも目を凝らすと、月明かりの具合で、ぬめりを帯びて艶めく魚の影が見えた。

 魚だ――昼の世界では。夜の世界においては魔物だ。食べたいとは全く思えなかったが、どんな味がするのだろうかとは少し考えた。

「獲ってやろうか?」

「クロ、猫だもんね。魚は好きだよね」

「別に猫は特別に魚が好きなわけじゃないぞ? むしろ鳥とか小動物とか、肉が主な栄養源なんだから」

「え!? そうなの!?」

「……まあ、魚を口にする機会もあったが」

 ふいと言葉を切り、意地悪く言う。

「夜の世界の物を、昼の世界の者が口にするとどうなるか……保証はできないが」

 チセはこくりと喉を鳴らした。思い出すのは、調べ学習の中間発表で二班が発表した内容だ。

「……夜の世界の物を食べると、昼の世界に戻れなくなる……そういう話を聞いた気がするのだけど」

 本当かどうか分からない。試そうとする酔狂な人はいるだろうが、確かめる前に魔物に襲われるか精神に変調を来すかで命を落としているだろう。ただ、文学の中ではそのようなパターンがみられるということだった。

「試してみるか?」

「……遠慮しておく」

「残念だ」

 ぱしゃん、と魚の魔物が跳ねる。そのシルエットがどう見ても普通の魚のそれではなかった。ひれが異様に突き出して刃物のようになっていたし、尾の形状はまるで鳥の尾のようだった。

 興味深くも忌避するようにそれを眺めるチセに、クロは静かに問うた。

「怖いか? 気味が悪いか?」

「……うん」

 チセは素直に頷いた。そう思っていることは否定できない。

「そうだな。昼の人間にとって魔物は相容れないものだ。忌むべきものだ」

 彼が言わんとしていることに気付き、チセは声を高めて否定した。

「クロは違うわ!」

「俺だって魔物だ。同じものだ」

「違う!」

「何も違わない。昼の秩序の外に在るもの。人間に理解されないもの。そういうものなんだ、俺たちは」

 チセは拒絶するように首を振った。

「でも……クロとは言葉が通じる。魔物だなんて一括りにしたくない!」

 クロは喉で笑った。

「猫と人とで言葉が通じる時点で大分おかしいんだが。そもそも魔物だから意思疎通できないとか、言葉が分からないとか、そんなことはないぞ? ただ、知能のありようが違うだけだ。高次の存在……人が神と呼ぶ存在も夜に属するものだ」

「……それは、聞いたことがあるかも」

 チセは記憶を呼び起こす。ササラセ教授の著作――初等学校にあっちゃいけないような難しそうな本だとカナが評していたもの――に書かれていたはずだ。完全に理解できたとはとても言えないが頑張って読み、要点をノートにまとめた。その一部を思い出す。

「昼の世界において崇められるものは押し並べて夜に根拠を持つ……知恵にしても、力にしても、富にしても。源泉は夜にあるのだと……古代の人々は王を通して、神を見ていたのだと……」

 光の当たる範囲、人間に理解できる範囲、それは世界のごくごく一部であると人々は認識してきた。教授はそのように分析していた。

 まるで、その大部分を海中に沈める氷山のように。

 だからだろうか、とチセは思う。人が、こんなにも夜に惹かれるのは。厭うていながら無視できず、忌んでいながら忘れられない。

「そもそも命が夜からやってきて、昼を経巡って夜へと帰る……太陽のようなものだから、と……」

「昼の側から見ればそういうことになるだろうな。だが、そもそも夜と昼とは分かれていなかった。命の巡りを生死で区切るのは人間のやり方だ」

 クロの語る夜の理屈は、チセには理解できない。理解しようと努めなければならない重要なことのようにも思えるし、理解してはならない危険なことのようにも思える。しかし話をここで終えるのは惜しい気がして、チセは聞き返した。

「命は生死で区切るものでしょう? 他の区切りなんて無いと思うけれど」

 クロは淀みなく言葉を返す。

「区切らなければいい。事象を事象のまま、理解という雑音を挟まなければいい」

「……どういうこと? 理解するのでないというなら……」

 それを理解しようとするのも矛盾になる気がして、チセの頭がこんがらかる。

「理解するということは自己を通して世界を歪めるということだ。世界を単純化して、己の扱える形に矮小化するということだ。それは昼のやり方だ」

「…………」

 チセは押し黙り、夜の世界を眺めた。チセの理解を拒むような、不可思議な闇の世界を。

(歪める…………)

 それは何か、非常に大切なことの一端を言い表しているように思えた。

 不規則に明滅しながら、虫の魔物が闇の中を流されるように飛んでいく。チセはそれを目で追いながら、魂のようだ、とぼんやり考えた。

「命とか……魂とか……そういうものは私たちの歪んだ認識の中にしかない、ということ?」

「認識の中にしかないと言うべきか、認識の中にあると言うべきか。ともかく、それを実在すると捉えるのは的を外していると言えるだろうな」

 流れていた光が、ふつりと消える。

「命も魂も頭の中にしかないということなら……死んだらそれっきりになってしまうじゃない……」

 それは嫌だ。だが、そうと認めなければならない。チセは認めたくないながらも言葉にしたのだが、クロは頭を振って否定した。

「死んだからといって、生きた事実がなくなるわけではないだろう? 死は生の否定にはならない。生物的な死は個体にとって重大事なのだろうが、世界にとっては些事ですらない。気に掛けることもなければ忘れることもない。どんなに短い生だろうと、生まれることのなかった命だろうと、それらすべてを構成要素として、それらすべての存在が影響を与え合って、世界は成り立っているのだから」

「………………」

 クロの語りは素っ気なく突き放したものでありながら、決して虚無には陥らないものでもあった。それは夜そのものにも似ていた。闇は欠落ではなく、濃密な混沌が渦巻くものなのだ。

「………………そう」

 チセは言葉少なに相槌を打った。下手に言葉にすると空虚になるような気がして、語りよりも雄弁な沈黙に身を任せた。

(……夜とは……世界とは……私たちは……)

 本当に、いったい何なのだろう。限りなく豊かで懐が深く、その一方では恐ろしく非情で峻厳で、チセひとりの煩悶など大海の一滴にも遠く及ばず、そのくせ取るに足らない存在では決してないのだという。

 それは、慰めではなかった。むしろ刑罰の宣告に近かった。この世界にお前の逃げ場などないのだと――生物としての死ですら解放にはならないのだと――思い知らされる。

「…………まあ、それを認められないから俺はこうやって足掻いているんだが……」

 クロが小さく呟いた言葉は、チセの耳には届かなかった。頭がくらくらとして、平衡感覚を失いそうだ。

 ふらついて無意識にクロの腕を掴むと、クロは向き直ってチセが倒れないように支えてくれた。その感触だけは確かなものに思えて、チセの心がゆっくりと落ち着いていく。わけもなく涙が出そうになるのを堪え、息を鎮めて、チセはクロの胸を軽く押しやった。

「ありがとう。もう大丈夫……」

 言いながら、恐ろしいことに気付く。

 山の管理小屋でクロから夜の理屈で語りかけられたとき、チセの頭は許容できずに倒れた。その少し後に図書館で班員が集まったときも、そのことを考えただけで眩暈に襲われた。

 しかし今は、こうして夜の理屈に深入りしていっても、少しふらつくくらいで済んでいる。明らかに、自分の精神が夜に馴染んできている。――浸食されてきている。

「――どうかしたか?」

 クロのその言葉は――本当に、チセを気遣うものなのだろうか。


 坂を下り、国道を横切り、海の方へとなんとなく足を向ける。街路樹が化した奇形の魔物たちがチセに触手を伸ばすが、襲い掛かってはこない。クロのまじないが効いているのだ。

 チセはあてどもなく彷徨うように歩き、クロがその隣を足音も立てずに歩く。不思議な夜の中での冒険に、チセの頭は眠気を訴えてこない。本当ならとっくに眠りについているはずの時間なのに。

 秋は日暮れが早く、夜が長い。人が活動できる時間が短い。建物の中ではそれぞれに活動を続けている人もいるはずだが、夜の中で建物の明かりは星のように頼りない。

 そんな時間のなか、クロのほかの誰にも知られずに夜の中を歩いているのだ。後ろめたさと同時に、否定できない高揚感と優越感さえ覚える。

(――いけない)

 チセは首を振り、自分を戒めた。そんな浮かれた考えで夜の中を歩くのは自殺行為だ。いや、そもそも夜の中を歩くこと自体が自殺行為なのだが。

 今一度、自分の目的を思い出す。クロを夜から連れ帰ることと、レイカを助ける――少なくとも、助けられた分の恩を返す――ために、その手掛かりを得ることだ。

 昼の世界で出来ることをしたが、直接的な手掛かりは得られなかった。今、こうしてクロの助けで夜の中に踏み込んでいるのだから、何らかの情報なり成果なりを持ち帰りたい。漫然と歩いていてもそれらが得られないことは分かった。

 チセは尋ねてみた。

「クロ、レイカさんって知ってる?」

「いや、覚えがないな」

 クロは首を横に振った。

 確かに、昼の世界ではクロとレイカの接点はなかっただろうと思う。チセがクロを拾ったとき彼はほんの子猫だったし、チセがレイカと――というよりも、マナトと――遊ぶようになったのはクロを失った後のことだったはずだ。カナにはクロを見せた覚えがあるが、トオルやマナトと親しくなる前のことだったと思う。クロが拾われる前に会っていたら分からないが、それでもクロは本当に幼かったから覚えていないだろう。猫の記憶がどうなっているのかは知らないが。

 でも、夜の世界ではどうか。彼女はクロと関わりがあるようなことを――もしくは、関わりができるようなことを――仄めかしていたような気がする。

「この前、クロには聞こえていなかったけど、私には聞こえていた声。女の子の声だったのは分かるんだけど、その人がレイカさんっていうんじゃないかと思っていて……」

『――そうよ?』

「……!」

「チセ?」

 いきなり話しかけられて驚くチセに、クロが怪訝そうな顔を向ける。

「クロ、やっぱり聞こえてないの!? 私に話しかけているあなたは、レイカさんでいいのよね?」

『ええ。また縁があったわね』

「ええと、久しぶりね……? あの、あなたがトオルに助けてと言ったと……」

『せっかくだから、会って話しましょうか』

 この機会を逃がすまいと話しかけるチセに、レイカは含み笑いをして言った。

「えっと……」

 チセはたじろいだ。やはり彼女からは「助けて」というような切羽詰まった印象を受けない。この誘いは、何かの罠だろうか。

「……クロと一緒でもかまわない?」

「いいわよ。ずいぶんその子を信頼しているのね?」

 その声は楽しげで、チセをからかうような響きを帯びていた。そこになんだか不穏なものを感じて、チセは警戒心を高める。

「おい、俺の名前が出たみたいだが」

『そうね、その子に連れてきてもらいましょう。昼の感覚を持っているあなたでは来るのに時間がかかるから」

 レイカは言い、クロに伝えるようにと前置きしてから続けた。

「レイカが――あなたと競う者が、候補者と協力者を呼んでいると伝えて」

「? 分かったわ」

 意味は分からないが、どうすればいいのかは分かる。チセはレイカの言葉をそのまま繰り返した。しかし、候補者や協力者とは何のことだろう。どちらかはクロを、どちらかはチセを指すのだろうが。

「…………」

 レイカの言葉を伝えられたクロは沈黙した。言葉の意味が理解できないゆえの沈黙ではなく、理解したがゆえの沈黙であることは分かった。クロは何事かを思案し、葛藤している。

「…………。そいつに会いたいか?」

「会いたい。トオルを助けてくれたお礼を言いたいし、聞きたいこともあるもの」

「……そうか」

 言葉少なにクロは頷いた。

「……潮時かもしれない。いつまでもこうしてはいられないのだから」

 小さくつぶやく言葉は、チセにはよく聞こえない。クロが自分に向かって自戒するように言ったものらしかった。

「……分かった。連れていく。俺にとっては街の形が意味をなさないから、そいつのところに直接連れていける。手を離すなよ」

 言うと、クロはチセの手を掴んだ。離すなとは言われたが、離そうと思っても離せないくらいにがっちりと掴まれている。

 街の形、と言われておぼろげに思い出すことがある。確かクロは以前、人間にとっては世界の形が定まっており、夜の中でもその延長で世界を理解しているのだということを言っていた。何を言われたのか分からないし、今でも分かっていないが、結果だけは明確だった。クロに手を引かれたチセは、何かを潜り抜けるような感覚のあと、髪の長い少女の目の前に立っていたのだ。

 昼の理に縛られ、街の形を昼の形でしか理解しないチセには、空間を飛び越えるような芸当はできない。ほんの一瞬前までは坂の下にいたはずが、今は公園の中にいる。魔物が蠢いて昼とは様相が変わってしまっているが、おそらくは市民会館のところの公園だろう。結構な距離を一瞬で移動したことになる。

 レイカらしき少女が目の前にいること、距離を無視して公園まで一足飛びに連れてこられたこと、どちらも驚いて混乱すべきことなのだが、それよりも大きな驚きが目の前にあった。

「マナト!?」

「チセ!?」

 少女の横に、少年が――マナトがいる。チセが驚いて声を上げると、マナトも同じくらい驚いた様子で声を上げた。どうやらチセの見間違いではないらしく、瞬きをしても少年が消える気配はない。

「どうして君がここにいるんだ!? それに、そいつは誰だ!?」

「ご挨拶だな、お前こそ誰だよ。まあ、昼の世界でチセの近くにいる奴だというのは分かるが」

「……彼女とはクラスメートで、調べ学習で同じ班だ。名前はマナト。……君は?」

 少し冷静になったらしいマナトが簡単に自己紹介をし、口調を改めて問う。

「クロ」

「クロ? 珍しい名前だな。それとも苗字由来のあだ名か?」

「どうだっていいだろ、そんなこと」

 クロはふいと顔を背け、マナトは困惑した様子だ。

「どうなっているんだ? 僕は幻覚でも見ているのか?」

「この二人はね、私が呼んだの」

「レイカ姉……!?」

 マナトが隣を見る。薄く笑ってそう言った髪の長い少女は、やはりレイカなのか。チセは話しかけた。

「あなたがレイカさんなのね。久しぶり、でいいのかな」

「そうね、いろんな意味でね」

 話すのは数か月ぶりだし、会うのは何年ぶりだろう。記憶も定かではない。

「その、トオルを助けてくれてありがとう。私に助言をくれてありがとう」

 助言……? とマナトが首を傾げている。レイカは軽く首を振った。

「いいのよ。私がしたくてしたことだから」

「いろいろ知っていて力もあるのに、助けて、ってトオルに言ったのはどうして? 何から助けてほしいの? トオルもそうだけど、昼にいる私たちに出来ることがあるの? 大人に言うなっていうのも分からない。大人に助けを求めないの?」

 怒られるから、とかいう理由ではないだろう。トオルでもあるまいし、そもそもそんな次元の話ではない。レイカはすでに夜に呑まれ、数年を経ているのだ。

 本来ならレイカは高等学校に通う年齢だという。だが、チセの目から見ても、レイカはチセやマナトよりわずかに年上というくらいにしか見えなかった。

「そもそも、助けて大丈夫なの……? 昼の世界に戻ったら……」

「戻れないわ」


 薄く微笑みつつ、レイカははっきりと言った。チセが息を呑み、マナトが唇を噛む。

「昼の存在が夜の中で心を保てないように、夜の存在は昼の中で体を保てない。私は昼から来たけれど、もうとっくに夜に染まってしまっているから」

 残念そうにするでもなく、レイカは淡々と語った。

 レイカが昼に戻れない理由というだけでなく、彼女の言葉は聞き流せなかった。昼の存在は夜の中で心を保てず、夜の存在は昼の中で体を保てないという部分だ。そのことには信憑性がありそうだった。

(クロが夕暮れや朝方に猫の姿になっているのも、そういうことなのか……)

 チセは朝のクロを直接見てはいないが、公園管理の人を呼んできてくれたクロは猫の姿だったはずだ。夜の中での形を保てていないのだ。

 そしてもう一つ気になるのが、夜にたびたび踏み込んでいるチセ自身についてだ。

(昼の存在は、夜の中で心を保てない……)

 戦慄せずにはいられなかった。少しずつ夜に馴染んできている自覚もある。この心が形を失ったら……どうなるのだろう?

 身震いし、チセは自分の腕をさすった。秋風が冷たいからというだけでなく、体も心も冷え込んでいく心地がする。

 ふと、目の前を枯葉が舞った。チセは見るともなしにそれを目で追い、枯葉から蝶を連想し――


 ――気付けば、花野にいた。

(ええ!? どういうこと!?)

 思わず声を上げようとしたが、声が出ない。あたりはやさしい風と春の陽光に満ちたのどかな花の野で、夜の魔物の影も形もない。今まで一緒にいたはずのクロたちの姿もない。

 差し迫った脅威はなさそうだが、不可解な状況に変わりはない。景色を楽しむことなどできるはずもなく、チセはあたりを見回した。

 色とりどりの花が風に揺れている。寝転がって花々に埋もれることができれはさぞかし気持ちがいいだろう。青い空も春の淡い色合いで、雲がのんびりと流れていく。

 ちょっとだけ誘惑に心が揺れるが、はたとチセは気付いた。話すことができないばかりか、体も自由にならない。

 なんとか体を動かそうと懸命になり、努力のかいがあって体が動いた。少し揺れるように前へ進む。なんだか動きがおかしくてつんのめりそうになるが、なぜか転ぶことができない。視線は地面から遠いまま、ぐるんと地面の方へ向く。

 吹いてきた風に体がさらわれそうになり、チセの体がふわりと浮いた。――いや、もとから浮いていた。

 ひらりと、視界の端で鮮やかな蝶の羽が揺れる。そちらに視線を向けようとしても向けられない。――その羽が、チセの背中から生えているからだ。

(なにこれ!? どういうこと!?)

 恐慌状態になり、無暗に体を動かす。ばさばさと羽ばたく音がして、チセの体が――蝶になった体が――空中でもがくように暴れた。

 不意に、クロの言葉が脳裏によみがえる。

『――じゃああんたは、猫になれるか? 夜から生還するのにそれしか方法がないとして、猫として昼の世界に帰りたいと思えるか?』

 人間であるチセの形を捨てられるのかとクロは問うた。チセの心はその問答に耐え切れず、昏倒することになった。山の管理小屋でのことだ。

 自分の形が変わってしまうというのは、こんなにも耐え難いものなのか。その時の問答が予習のようになっていなければ、チセの恐慌と混乱はこんなものでは済まなかっただろう。それこそ――心を再起不能なまでに損なってしまっていだだろう。

 昼の存在が夜の中で心を保てないというのは、こういうことなのだろうか。

 蝶になってしまったチセと、チセの心を知らぬげに風にそよぐ花々。風景画としてなら美しいだろうが、その美しさが皮肉になるくらい、事情としてはグロテスクだ。

(本当に、どういうことなの!? 誰か教えて……)

 状況を理解する前に精神が参ってしまう。チセは力なく心中で呟いたが、その懇願にいらえがあった。

『――胡蝶の夢』

 男性とも女性ともつかない、年齢も読めない、聞き覚えのない声がチセの疑問に答える。

 しかしその答えは、答えになっていなかった。

(あなたは誰!? 夢って、何!?)

 夢――聞き覚えのない言葉だ。胡蝶は蝶のことだと分かるが、夢とは何のことだろか。心が掻き乱されるような、奇妙に誘惑的な響きの言葉だ。

 チセの問いに、声は少し笑ったようだった。

『答えてやろう。ここまで辿り着いたのだから。ここまで――夜の、夢の中まで』

(夢の中……)

 チセのいるここは、夢というものの中なのか。夢とは花野のことなのだろうか。

『それは違う。そこが春の野であるのは、そなたが蝶から花を連想し、蝶が遊ぶ花野を脳裏に思い描いたがゆえに。夢とは特定の場所ではなく、脳が情報を処理し、整理する過程で生まれるものというだけだ。少し語弊はあるが、平たく言うと幻想だ」

(ええっと……)

 チセには理解しきれない。夜に関わるものはどうして、こうもいちいち小難しいのだろうか。チセはまだ初等学校の生徒だというのに。言っても仕方ないが、少しくらい手心を加えてほしい。難解すぎてついていけない。

 声はまた少し笑った。

『そう言うでない。そなたはなかなかいい線を行っておるぞ。言語化できるような理解ではなくても、直感的に理解しておる。頭が柔らかいのは夜の中で助けになる。もしも考え方が凝り固まった者であれば、とっくに壊れておるだろう』

 ぞっとして、チセは蝶の羽を震わせた。簡単に言うが、壊れたらどうなるのか考えたくもない。人間は玩具ではないのだ。

『さて、そなたの疑問だが。余が誰かということについては、夜の化身であると答えよう。こう言った方が伝わりやすいか。――夜の王だ』

(…………!)

 その言葉には重みがあった。その言葉が真実であると、チセの心の深いところが否応なく理解している。

 夜の王。夜を、この不可解で幻惑的な世界を統べる存在。そんな途方もない存在と、言葉を――というか、思念を――交わしている現状に眩暈がする。そろそろ卒倒していいだろうか。

 声はまた笑った。

『構わぬが、勧めはせん。目覚めるかどうか分からんぞ。幸運にして目覚めたとて、人間として目覚められる保証などない。現実逃避は命取りになると心得よ』

(…………。……心得ました……)

 すうっと、花野に黒い人影が現れた。豪華で重そうな王冠を被り、重厚な衣装を着ている。しかし不可解なことに、王冠は金属に見えるのに色がなく、衣装も模様はあるのに色がない。格好としてはトランプのキングのイメージに近く、それを白黒にしたような感じだ。

 そして、顔の部分は影になってまったく見えない。剣を持つ手には手袋が嵌められており、長い衣から覗くのは靴先ばかりなので、素肌の部分は顔くらいなのだが、その顔がまったく見えない。光の加減などではなさそうだった。

 姿を現した夜の王に、チセは本能的に恐れを抱く。ひれ伏した方がいいのだろうかと思うが、あいにくひれ伏す体がない。

『よい。楽にせよ』

 声にまた笑いの響きが混ざる。王はどうやら笑い上戸らしかった。

『改めて、余は夜の王。夜の化身にして代弁者、遍在する者にして潜在する者。人間の心の奥深くに住まう者。夜と――集合的無意識の闇と――存在を一にする者だ』


 王が語る言葉に、いよいよチセはついていけない。夢といい、集合的無意識といい、訳の分からない言葉が多すぎる。

『そうさな。この世界の人間は夢というものを知らぬ。集合的無意識の観念も知らぬ。それらを切り捨ててきたがゆえに。世界を明示的で個人的なものと定めてきたがゆえに。闇に怯えて夜を切り捨て、魔物を自ら肥大化させてきたがゆえに』

 流れるような王の言葉を、チセは息をつめて聞く。

(魔物を自ら肥大化させて……!? 魔物は人間にとって制御不可能なものなのに。人間を襲う、厭われるものなのに。それを自分たちで大きくしてきたというの……!?)

『そうだ。制御しようとする、厭う、それ自体が悪手であったな』

 そういえば、マナトはいつか、こう言っていなかっただろうか。

 夜を定義することはすなわち、魔物を定義することであると。

『それは本質を言い当てておるな。魔物とはすなわち、人がどのように夜を恐れるか、その恐れが具現化した姿であるがゆえに。魔物の本質は――変化するもの(メタモルフォシス)。夜は昼の人間にとって危険であるが、夜そのものが人に害意を持っているわけではない。夜の理が――変化を促す力が――昼の人間に耐え切れないだけだ。それらを不条理として自ら切り捨ててきたがために』

(――…………)

 チセは何かを言おうとし、しかし何も言えずに思いは言葉にならなかった。

 夜の王はまさしく夜の代弁者だった。昼の人間であるチセに、夜の言い分を分かりやすく伝えてくれる。

 そして、その内容も納得できるものだった。

 動植物が変化した魔物はたしかに危険だが、それらだけが夜の恐怖の理由というわけではない。夜そのものの性質が――変容を強いる力が――人間にとって本質的で致命的な危険なのだ。昼の世界は定型、夜の世界は不定形。そういうことなのだろう。

 チセが理解して呑み込むと、それでいいと王が頷くような気配があった。

『そなたは柔軟だな。昼の人間には受け容れがたい理屈のはずだが。それのおかげかな?』

 それ、と言いながら王が自分の額と頬を順に指さす。王が何を言わんとしているのかが分かり、チセは顔から火が出そうになった。

 額と頬は、クロに口付けられた場所だ。それ、と王が言うのはクロのまじないのことだろう。

 思わず顔を擦りたくなるが、蝶の体ではどうしようもできない。そもそも蝶に額や頬があるのだろうか。

 笑い含みに王は言った。

『擦ったとて取れるものではないぞ。其は所有の証。己のものだと周囲に示す印。そなた、夜の魔に魅入られたのであろう』

(…………クロ、話が違う! 魔物に襲われないおまじないだって言ったのに!)

『間違ってはおらんぞ? 己のものだから手を出すなと周囲を牽制する印であるからな。ただし、その印を付けた者から襲われないかどうかは別の話であるが』

 意味深に王は言い、ひらりと手をひらめかせて歪な三角形を描く。

『一度目は額へ。二度目は頬へ。……三度目は想像がつくであろう?』

(…………!)

 もちろん、想像がつかないわけはなかった。ただ、それを――口にすることができなかっただけだ。

『囚われるにせよ、逃れるにせよ、転機は三度目に来る。夜の存在が昼のそれと関わるとき、昼の存在は自分たちに理解できる形で夜を解釈する。繰り返しの開始、あるいは終焉が三であるゆえに』

(転機は三度目に来る……)

 そのことはどこかで聞いた覚えがあった。苦労して記憶を探ると――なぜだか昼に同じことをするよりも思い出しやすい気がするのだが――、サヤとマナトが確かそういった会話を交わしていたことを思い出した。

 市民会館での公開講座の後のことだ。二班が調べていたことについてサヤがマナトに語っていたのだが、文学の中で、三回の繰り返しがモチーフとしてよくみられるという話だった。夜の存在に追いかけられた昼の存在が、たとえば一度目に葡萄を、二回目に筍を、三回目に桃を投げて逃げ切ったという例を出していた。

『一度は一度でしかあらぬ。二度目は偶然かもしれぬ。しかし三度目は必然かもしれぬ。そこに意思が介在すれば必然になりうる。それを繰り返しと認識し、意味を持たせるならば』

 王が愉快げに語る。

『さて、三度目にそなたは何を選ぶのであろうな?』

(…………)

 チセは言葉を返せない。

 そのまま、王の姿がぼやけた。いや、王だけでなく、花野に靄がかかったかのように、世界が曖昧になっていく。

『そら、そなたを獲物と定めた者が取り返そうと必死になっておるわ。そろそろそなたが目覚めそうだ。夢も終わりのようだな』

 チセが蝶になっているこの摩訶不思議な状況が終わるのだろうか。その前に、と思い、チセは蝶の頭を垂れた。

(いろいろと教えてくださってありがとうございます)

 感謝を込めて伝えると、王は鷹揚に笑った。

『受け取っておこう。余にとっても楽しい時間であった。そなたの夢もこれで覚めるが――』

 王の顔は見えないが、にやりとひときわ楽しそうに笑った気配がした。

『――覚めた先の状況が、悪夢でなければよいな?』


「……チセ!」

 遠くからのようにクロの声が響く。それが実際に遠いわけではなくて、自分の意識が遠ざかっていたからだと気付き、チセの意識は覚醒した。

 目を開くと、自分を抱えるクロと目が合った。心配そうに、縋るように必死に、チセを覗き込んでいる。

「……クロ?」

「大丈夫か!? 意識ははっきりしているか!? 俺のことは分かるか!?」

 チセは頷いた。自分がクロに抱きかかえられている状況だと気付き、狼狽えて足に力を籠める。少しふらついたが、クロに体重を預けていたから転ぶことはなかった。確かめるように立ち、クロを見上げる。

「ありがとう。クロのことはちゃんと分かる。私、いったいどうなっていたの?」

「……眠っているように見えた。いきなり倒れたから驚いたが……」

 それでは、チセは眠っている間にあの不可解な状況になっていたのだろうか。自分が蝶になって花野を飛び、夜の王と名乗る存在と出会い、夜についての知識を得た。

 王から聞いたことも考え合わせると、夢から覚めるということは、眠りから覚めるということと等しいようだ。昼の世界においては眠りは眠りであり、夢などという訳の分からないものが関わってくる余地などないのだが。

「……その。本当に大丈夫か……?」

 遠慮がちに声をかけたのはマナトだ。そういえば彼は図書館でもチセのことを気遣ってくれた。そのときのコーヒーの香りやスポーツドリンクの味を思い出し、何か飲めるなら飲みたいと思ったが、夜の中でうかつなことはしない方がいいだろう。

「マナトも、ありがとう。大丈夫そう。私、どのくらい眠っていたの?」

「ほんの少しだ。数十秒くらいか?」

「それだけ!?」

 チセは驚いて思わず声を上げた。蝶として花野を飛んで、夜の王と意思を交わして、結構な時間が経ったと思ったのだが。不思議だが、そういうものとして捉えるしかない。

「それで、ええと、ごめん。せっかくレイカさんと会えたのに……」

 チセは話を戻そうとした。チセがクロの誘いに乗って夜に踏み込んだのはこのためでもあるのだから、レイカの言葉の真意を知って、解決しておきたい。

「……戻れないと言われてショックを受けてしまったのかも。それは……確かなの? 助けられる方法はないの?」

「レイカ姉。僕にも教えてほしい。三年間ずっと、助けたいと……知りたいと願っていたんだ。どうして……自分から夜に入ってしまったんだ?」


 マナトの言葉に、息を呑む。

 なんとなく、レイカは不慮の事故によって夜に囚われてしまったのではないかと思い込んでいた。マナトの親戚で大人しい少女であったという情報から、まさかトオルのように自ら夜に踏み込んでいったのだとは想像していなかった。

 驚いてマナトを見ると、彼は目を伏せた。

「おじさんもおばさんも、僕の父母もそのことは知らない。言えないよ、……まさかレイカ姉が自分から夜の中に行ってしまうなんて。最後に会った僕だけしか知らなかったことだ」

「そうね。一人くらいは知っておいてほしかったから、あなたには仄めかしておいたの」

 レイカの言葉はそのことを肯定するものだった。

「ずっと苦しかった! 僕のせいだと何度も自分を責めた! 僕が気付けなかったから、引き止められなかったからだと!」

 マナトは叫ぶように心情を吐露した。聞いているだけのチセさえ胸を締め付けられる心地がする。レイカもさすがに心を動かされたような表情をした。

「……ごめんね。苦しめるつもりはなかったの。ただ、私自身が望んで選んだことなのだと知っておいてほしくて……」

「望んだ!? 選んだ!? 何を!」

「――死に場所を」

 密やかに、レイカはその言葉を口にした。ひゅっと喉を鳴らしたのはマナトか、それともチセかもしれない。クロは感情の読めない顔でやり取りを見守っている。

「マナトは知らないはずだけど、私の病気、治る見込みのないものだったの。保ってあと数年だと言われたわ。あなたには普段通りに接してほしかったから、お父さんやお母さんに、マナトには言わないでって頼んだの」

「……そんな! 嘘だろう!? レイカ姉!」

 信じられない、信じたくないとばかりにマナトが叫ぶ。嘘だと思っているのではなく、嘘であってほしいと痛切に願っているのがチセにも分かった。

「……それは、本当のことだろうな」

 ずっと黙っていたクロが言った。レイカに視線を向け、どこか通じ合ったような視線のやり取りを交わす。

「……どういうことだ?」

「そいつの死期の話だ。保って数年だと言われたのだろう? それから三年くらいが経った。そうだろう?」

「……だったら、何だ?」

「当ててやろうか。そいつは今になって、お前の前に姿を見せた。当時のままで、夕暮れ時に。そしてお前を夜に誘った。そうなんだろう?」

 クロが淡々と、問題を解いていくような口調でマナトを問い詰める。マナトは強張った顔で浅く頷いた。

「なら、そういうことだ。そいつの肉体の寿命が来て、精神との繋がりが揺らいだんだ。もう昼の肉体など無いも同然でとっくに変質しているが、それでも精神はその形に縛られていたから。逢魔が時に、あわいの時間に、昼の世界の心残りに会いに行けるのはそのタイミングくらいしかないから」

「…………!」

 マナトは衝撃を受けたようによろめいた。レイカがその腕を支えるが、マナトを見る視線には憂いしか浮かんでいない。クロの指摘に怒る様子も――否定する様子も、見せない。

 マナトに一拍遅れて、チセの顔からも血の気が引いていく。

(夕暮れ時に姿を見せて、夜に誘う……死期……肉体の寿命……!?)

 それはいちいち、クロに当て嵌まる。チセはぎこちない動きでクロの方へ顔を向けた。

 クロは静かな、やるせない眼差しでチセを見下ろした。

「……そうだよ。俺もそいつと同じだ。俺の死期はこの夏だった。昼の世界には戻れないし、この体や心も、いつまで保つか分からない」


 がんがんと耳鳴りがする。頭痛もひどい。耳から受け取った情報を脳が処理したくなくて、耳と頭を切り離そうとしているかのようだ。

(……嘘! そんなの嘘! クロがもう……死んでいるはずだ、なんて……!)

 そもそも、夜に消えてしまった時点で死の可能性は頭をよぎった。むしろその可能性が最も高いものだった。

 それなのに、元気そうな姿を見てしまったから。チセと言葉を交わして、チセを魔物から救って、チセをからかって……そんな普通そうな様子を見てしまったから。

 彼の体が、心が、死を抱えているなんて、気付けなかった。

 ……いや、嘘だ。気付こうとしなかっただけだ。突き詰めるべき違和感はあったというのに、目を背け、耳を塞いでいただけだ。

 トオルから、レイカの姿が中等学校の二年生くらいであると聞いたとき。チセが失った子猫が、人間であればチセよりも少し上くらいの年齢に換算できることから――再会したクロの年齢がそのくらいに見えることから――目を背けるべきではなかった。

 クロも言っていたではないか。チセは重要なことを忘れていると。知ってて知らないふりをしているのか知らないが、と。

 猫の寿命は人間よりもずっと短い。それにしても子猫の状態から五年というのは短いように思うが、死期というのは天寿以外の要因で早まるものだ。レイカもそうだし、クロもそうだったということだろう。

 チセは馬鹿だったのだ。考えなしだったのだ。クロを昼の世界に取り戻したい、一緒に暮らしたい、だなんて。クロはどんな気持ちでチセの戯言を聞いていたのだろう。

「……ひどい顔色だな。なんだ、その顔」

 のろのろと顔を上げると、クロが笑いを堪えるような表情でチセを見下ろしていた。蒼白だった顔にかっと血の気がのぼったのを自覚する。

「私がっ! どんな気持ちで、いると……!」

 心の内を言葉にできず、しゃにむに掴みかかろうとしてしまう。クロはチセの腕をやんわりと掴んで止めた。そうできてしまうことに、チセの腕を掴む彼の手に体温があることに、堪え切れず涙が溢れてきてしまう。

 事情はどうあれ、クロは今ここにいるのだ。この先の保証がなくても、悲観的な見通ししかなくても。今を一緒に過ごせることをありがたく受け取って全力で味わい尽くすべきなのに。

 とても、そんな冷静にはなれなかった。

「馬鹿だって思ったんでしょう!? あなたを昼から取り戻すとか、何も知らずに言った私のことを! 無理だって知りながら、心の中で嘲笑っていたんでしょう!?」

 八つ当たりだ。そのことは自覚していたが、ぶちまけずにはいられなかった。

 クロは、仕方ない奴だとでも言いたげな表情で、困ったように少し笑った。

「嘲笑うとか、そんなことはないよ。そう言ってくれて嬉しかったし……なんだか、不可能ではないような気さえした。お前なら本当になんとかしてしまうんじゃないかって」

 チセは泣きながらクロの胸に顔を押し付けた。クロの手がチセをあやすように背中を撫でる。その優しい手つきがさらにチセの涙を溢れさせた。

「……~~っ! できるはず、ないじゃない! できるならしたいよ! 私、ただの子供だよ!? クロみたいに強くないし、マナトみたいに頭もよくないし、調べても学んでも届かない! どうすればいいの!?」

 泣き喚くチセの背中をクロが撫で続けてくれる。その規則的な動きに、少しずつチセの心が静まっていく。その手の温かさを思うとまた泣けてきてしまいそうだったので、チセはつとめて何も考えまいとし、心を落ち着けて涙を止めようと試みた。

 ようやく落ち着いてクロの胸から顔を上げると、まじまじとこちらを見ているレイカと、居心地が悪そうに目を逸らしているマナトが視界に映った。そういえば今は二人きりではなかったのだった。すっかり失念していた。

「……あの、ごめんなさい……」

 取り乱してしまったことを謝ると、レイカもマナトも首を横に振った。

「いいえ。そこまで思われてその子も幸せ者ね」

「僕も気にしてないよ。むしろ僕の代わりに言いたいことを言ってもらった感さえある。無力感を覚えているのは僕も同じだしね。……それと、チセは頭いいと思うよ」

「二人とも……」

 慰めてくれてありがとう。そう言おうとしたときのことだった。

 レイカが爆弾を投下した。

「でも、その子を選ぶのは止めた方がいいと思うわよ。あなたを裏切ろうとしているから」


 裏切り。

 その言葉にぽかんとして、チセの涙が引っ込んだ。どういう意味だろうかとレイカを見ると、そのレイカはクロのことをじっと見ている。つられてチセもクロを見ると、焦りを浮かべた彼の目と目が合った。

「えっと、クロ?」

 別にクロを咎めようと思って呼んだわけではない。ほとんど関わりのないレイカの言葉を鵜呑みになんてするわけない。

 それなのに、クロは焦った様子で目を泳がせた。明らかに怪しい。チセの心に、じわりと不安が滲む。

「あの、どういうこと?」

「それは……」

 クロは説明しようとしたが、言葉が続かない。チセの不安がどんどんと大きくなっていく。

「だって、その子。候補者と協力者について、あなたに教えていないんでしょう? その時点ですでに怪しいわよ」

「候補者と、協力者って何……?」

 クロとレイカ、どちらに向かって尋ねていいか分からない。頼りなく尻すぼみになった言葉にレイカが答えた。

「候補者とは――夜の王にならんとする者。王を倒すのは我だと、我こそはと名乗りを上げる者」

(…………!?)

 夜の王。その言葉に、夢の中で出会った存在を思い出す。チセが触れたのはほんの上澄みのようなものだろうが、それでも底知れない英知に鳥肌が立った。

 あの、圧倒的な存在を――倒す!? 夜を統べる王になる!?

 そして、レイカは何と言っていたか。クロと競うようなことを言っていなかっただろうか?

「クロ……!?」

「……そうだ。俺は、夜の王になろうとしている」

「候補者が王を目指すにあたって、重要になるのが『協力者』。夜の存在は、独りでは王に太刀打ちなんてできないから。当然よね、一介の存在と世界の支配者とでは勝負になんてならないもの。だから、夜の外側から――昼の世界から、協力者を呼ぶの。救いや力は、世界の外側から来るのだもの」

 驚いて何も口を挟めないでいるマナトとチセを見て、レイカは続けた。

「助けてと言ったのはそういうことよ。私を昼に連れ戻してほしいんじゃないの。それは不可能なのだもの。そうじゃなくて、私を助けて、私に協力してほしいの」

「……トオルに、助けてと言ったのは」

 マナトがかすれた声を出す。

「言葉通りよ。私を助けてほしかったの。助力が欲しかったの。トオルならマナトに伝えてくれるとも思ったわ。あなたなら私のところへ来てくれると思っていた」

 この状況をどう考えていいか分からないが、とりあえず目の前の情報を情報として、チセの頭が勝手に処理していく。心を置き去りにして、上っ面だけを理解していく。

 「助けて」の言葉に悲壮感がなかったのは、そういうことだったのだ。救い出してほしいのではなくて、言葉通りに、助けてほしかったのだ。

 大人に言うな、というのもだからだろう。レイカはマナトたちに、夜の中へ来てほしかったのだから。大人にそれが伝わったらとうぜん止められるだろうから、口止めしたのも納得がいく。

 トオルを助ける力があっても、そこらの魔物と戦うのと夜の王になろうとするのとでは話がまるで変わってくるだろう。助けが必要だという彼女の言葉が、トオルに言ったことの意味が、どんどんと腑に落ちるものになっていく。

 レイカは、他にも何か言ってはいなかっただろうか。トオルに対してではなくチセに対して、何か。

「……一人を助けるには、一人を差し出さなきゃ……」

 その言葉を思い出して、こわごわとレイカを見る。レイカは機嫌がよさそうに笑った。

「ふふ、覚えていてくれたの? そうね、そういうものよね? トオルを助けてあげたのだから、見返りがあってもいいものね?」

 言いながら意味深にマナトを見るが、マナトは何も答えられない。チセも口を挟めない。そんなチセに向かってレイカは少し意地悪く口の端を上げた。

「そういえばあなた、手足をくれると言ってくれたわよね? いらないと言ったけれど、代わりに頼んでもいいかしら」

「…………!」

 夜の存在と取引をするのはろくなことじゃない。クロの言葉が頭の中を回る。あの時はトオルを助けたくてあまり深く考えずに丸呑みにしてしまったが、言質を取られたかたちだ。

 何を言われるのだろう、とチセは身構えた。手足の代わりになるようなものなんて何があるだろうか。それとも、トオルの代わりに夜に囚われろということなのだろうか。

「簡単なことよ。少しその子から離れて、こちらへ来てほしいの。邪魔の入らないところでゆっくりと話したいと思っていたの」

 チセは少しだけ緊張を解いた。そういえば、そんなことも言われていた。

「でも……」

 ちらりとクロを見る。クロはチセだけを見ていた。レイカは笑う。

「その子をそんなに信じていいの? 自分の死期のことを話してあなたを揺さぶっておきながら、夜の王になろうとする大それた野望については口を噤んでいたのに。協力者について教えていないなら、このことも知らないんじゃない? ――協力者は、遠からず昼の世界に戻れなくなるのだということを」

「……――――!?」

 チセは目を見開き、口を覆った。悲鳴を抑えた。協力者は、遠からず昼の世界に戻れなくなる――レイカのその言葉を、クロは否定しない。無言は肯定を意味している。

 ひきつった自分の顔がクロの目にどう映っているのか、チセには分からない。レイカの言葉を咀嚼しきれず、とても冷静ではいられなかった。

「本当なの、クロ……? 私を、裏切ろうとしていたの……? ずっとそのつもりで、私を利用するつもりで、傍にいたの……?」

 違う、と言ってほしかった。しかしクロは否定しなかったし、弁解もしなかった。何かを言おうとはしていたが言葉にならなかった。

 秋の夜風が、鋭ささえ感じさせる冷たさを含んで吹き抜ける。髪や服の裾がはためくが、その音さえ沈黙をさらに強調するようだった。

 長く重い沈黙が落ちる。


 膠着した事態を力ずくで打開したのは、太陽だった。秋の長い夜が明け、曙光とともに人間の時間が始まったのだ。

 クロにもレイカにもまだまだ聞き足りないことがあったし、そもそも何から聞いていいのか心の整理がついていなかったが、二人はチセが少し目を離した間に掻き消えてしまった。マナトに聞いても同じ印象を持ったようだ。クロに至っては夜明けとともに猫の姿になっていたからマナトはさらに目を疑うことになったようだが。

 夜が明けてみれば、そこは何の変哲もない公園だ。秋のひんやりと冷たい空気が清々しく、落ち葉が夜のうちに降りた露を含んで湿った匂いを立ち昇らせる。色を変えた木の葉がはらはらと散り落ち、木立の物寂しさが深まっていく。風情があり、秩序立って、定まった世界の姿だ。

 夜に置いて行かれるようなかたちになったチセとマナトは、どちらからともなく連れ立って公園の自販機へ向かった。マナトはブラックコーヒーを、チセはミルクティーを選び、ベンチに並んで腰かけて飲む。選んだのはどちらももちろんホットだ。

 レイカの言葉と、クロの沈黙。裏切り。チセの心の中はぐちゃぐちゃだ。一人なら叫び出していたかもしれないし、泣き出していたかもしれない。

 でも、ここにはマナトがいた。人前でみっともないところを見せられないという意地だけで、荒れ狂う心に蓋をする。

「……僕はまだ状況がよく分かっていないのだけど、早まって結論を出さない方がいい。君も夜通し歩いたんだろう? 体も頭も疲れた状態のままでは、思考がろくでもない方向に引っ張られてしまう。……正直、僕もまだ混乱している」

 チセははっとした。そして気付いた。マナトの状況はチセと同じなのだ。レイカは間違いなく、協力者としてマナトを夜の中に引き入れたがっている。そのことをマナトにどこまで説明したのか、マナトがどこまで理解したのか、そして受け容れたのか――拒絶したのか。分からないが、簡単な話でないことだけは分かる。

 思考がよそに向くと、少し心が落ち着いた。暖かいミルクティーを飲むと、現金なことに空腹さえ思い出した。まろやかな風味と砂糖の甘さが嬉しい。冷え切った体が内側から優しく暖まり、ほうっと吐く息が白い。

 チセは缶を両手で包み込むように持ち、じんわりとした熱で指を暖めた。あまり意識していなかったが体がそうとう冷えていたらしく、暖かいものに触れた指が少し痒いほどだった。

 指とお腹が温まると、ささくれ立った気持ちが宥められていくようだった。

 紅茶の香りがやさしく立ち昇る。紅茶は秋の飲み物だ、とチセはなんとなく思っている。読書のお供にきりっとしたレモンティーを飲むのも美味しいし、魔法瓶にティーバッグの紅茶を入れて紅葉を見に行くのも楽しいし、木枯らしの吹く公園で指を暖めながら飲むミルクティーも嬉しい。

 昼の日常が戻ってきたことを実感して、チセはようやく気を緩めた。ともかくも今は朝で、ここは人の世界で、クロもレイカもここにはいないのだ。そう思うと気持ちの箍が緩んでしまい、いきなり眠気が襲ってきた。そういえばミルクティーは眠気を誘うものでもあった。これはカフェインレスではなく普通の紅茶のはずだが、徹夜したうえにいろいろなことがありすぎて、そろそろ限界だ。

 ミルクティーを飲み終えて小さくあくびをかみ殺すと、マナトもどこかぼんやりした声で言った。

「……いろいろと話したいことはあるけど、日を改めようか。疲れた頭で考えてもろくなことにならないだろうし。今日が土曜日でよかったね。家でゆっくりできる」

「ほんとね。これが学校のある日で、一時間目から体育だったりしたら絶望だわ」

「まったくだ」

 マナトも少し笑って同意した。

「チセもおうちの人に黙って出てきたんだろう? 今から急いで帰っても朝食に間に合わないだろうし、先手を打って連絡しておこうか。ええと……急にラジオ体操に参加したくなったことにする?」

 チセは思わず吹き出した。ミルクティーを飲んでいる時でなくてよかった。マナトの言い訳のまずさが面白すぎる。いかにも慣れていない感じだ。

「年配の方が毎朝集まってラジオ体操をされているのは知っているけれど、子供が参加するのなんて夏休みくらいでしょう。実際に参加していないのだから確かめられたらばれちゃうし。一体どうしてそういう発想になったの?」

「いや、朝にすることなんてそのくらいしか思い浮かばなくて……」

 チセはますます笑い転げた。感情の箍が外れていることは自覚している。

「朝焼けを見に散歩したくなったとか、思い立ってジョギングを始めたとか、無難な理由なんていくらでもあるでしょうに」

「なるほど、その手があったか」

 難解な問題の解法を示されたかのような反応がおかしい。ひとしきり笑って、チセは気持ちを切り替えた。

「ともかく、言い訳には協力してもらうわ。私の親もマナトのことは信用しているから、一緒だったと言えばあまり怒られずに済みそう。マナトの方もそれでいい?」

「うん、お願いしたいな。僕の親もチセには信用があるし。……付き合ってるとか勘ぐられたらごめんね」

「こちらこそ。まあそう聞かれても否定すればいいだけだし、誤解されても別に何ともないしね」

「……子供でその割り切り方ができるのはすごいよ」

 マナトは苦笑し、携帯を取り出した。チセも懐から自分の携帯を取り出す。交互に使って互いの家に連絡を入れ、少しのお小言をもらって事を収め、手を振って別れる。

 チセはクロと、マナトはレイカと。夜の中で逢引きをするような形になっていたことには、どちらも触れなかった。


 秋の夜の一件から、チセとマナトの間には奇妙な連帯感が芽生えた。秘密を共有する仲間ができたのだ。

 夜の間は人の少年の姿をしていたクロが、チセが昔かわいがって飼っていた黒猫だということもマナトには話してある。とうぜん彼は驚いたが、意外とあっさり受け容れた。夜の中では何があってもおかしくないと思っているのと、クロの瞳が黄金に輝いていたことへの印象などから納得したらしい。

 チセとマナトの間で何事かを分かち合ったらしいというのはカナとトオルも察したようだが、まさか二人が夜の中で会ったということまでは気付いていないようだった。もともとチセとマナト、カナとトオルという分け方で動くことも多く、チセとマナトが大学に出入りするようになってからは特にその傾向が顕著だったので、二人の接近はその延長線上だと捉えられたらしい。

 チセとマナトは話したり一緒にいたりする頻度が増えたが、話の内容や二人の様子があまりに色気がないものだったせいか、付き合っていると邪推されることはなかった。誰と誰が付き合ったの、誰が誰を好きだのといった話題でいちいち盛り上がる年頃の少年少女たちの中にあって、しかしそんな彼ら彼女らが食いつきたくなるような面白みが皆無だったらしい。

「まあ、うちらにとってもその方がいいんだけどね。班の中でくっつかれるとこっちもやりづらいし」

 給食を食べながら、言いにくいことをはっきりと言葉にしたのはカナだ。チセもご飯を口に運びながら苦笑いで応じた。

「四人の班のなかで二人がくっついたらそれはやりづらいよね。そういうことはないから安心して」

「分かってるって。それより聞いた? 七班の班内恋愛の話」

「ええ!? 実際にやってるとこあるの!?」

「それがあるみたいよー。よくやるよねー」

 おっとりした口調で会話に加わったのはサヤだ。チセやマナトが大学のササラセ教授の研究室に時々お邪魔するようになったので――とは言ってもチセが行ったのは著作の内容について分からないところを質問しに行った一回だけだが――、その娘のサヤともなんとなく付き合いが多くなっている。

「でもまあ、もうすぐ冬休みじゃないー? 調べ学習の最終発表までもう少しだし、だいたいは調べ終えてあとはまとめるだけみたいなところも多いから、あんまり問題にならないのかもねー」

「……そうかもね」

 チセは少し目を逸らした。まとめるのはカナとトオルに任せて期限ぎりぎりまで色々と調べようとしているチセには少し耳が痛い。どこかで切り上げるべきなのだろうが、踏ん切りがつかない。

「それより、カナはどうなのー? トオルと、とかー?」

 サヤが身を乗り出して聞く。こうした話が好きらしい。カナは少し顔をしかめて素っ気なく言った。

「うちにだって選ぶ権利はあるよ。あんなお調子者はお断り。それに同じ班の中でどうこうなんて風通しが悪いったら」

 その言葉が照れ隠しなのか、それとも本心なのか、チセには判別がつかない。カナとは古いつきあいだが、そうした機微は分からない。

「つまんないのー」

 サヤは口を尖らせたが、カナからはそれ以上なにも引き出せなさそうだと見て取ったらしく引き下がった。代わりのようにチセに目を向ける。

「チセはどうなのー? マナトが相手じゃないなら、誰かに片思いでもしてるのー?」

「えっ……」

 チセは言葉に窮した。とっさに否定できなかったのを見たサヤが食いつく。

「えー、そうなのー? 相手は誰ー?」

「え、ええっと、その……」

 脳裏に思い浮かべるのは少年の姿をしたクロだ。付き合うだの好きだのといった話を聞くときに思い浮かべるのは彼しかいない。

(でも……猫だし)

 そこが大問題だ。相手の気持ちがどうとかいう以前の問題だ。

 しかし、夜の王はチセのことを、魔に魅入られたと言った。キスされたところを指して、所有の証だと言った。

 そう、キスだ。いくら猫の姿でのことだったとはいえ、キスはキスだ。意識してしまうと顔が赤くなってしまい、そこをサヤに目ざとく見つけられてしまう。

「わー、赤くなったー? 誰のことを考えたのー? 教えてよー」

「えーっと……」

 困ってカナの方に助けを求めるが、カナはにっこり笑って裏切った。

「うちも知りたいな? 誰?」

「うー……」

 逃げ場がない。嘘もつけない。チセは言葉選びに苦慮しながら答えた。

「マナトでもトオルでもないよ。クラスの子でもない」

「誰ー? 誰ー?」

「サヤは知らないと思うよ。カナも分からないんじゃないかな」

 そう答えるのが精いっぱいだ。嘘はついていないはずだ。

「あ、じゃあもしかして上級生ー? それとも下級生なのかなー? 一学年くらいだったら下でもありだよねー」

「うーん……。ちょっと上、かな……?」

 少年の姿のクロはチセよりもいくつか年上に見えるが、学年は分からない。そもそもがチセと離されて夜の者になってしまったときの年齢なのだ。一歳にもなっていなかったくらいだと思うのだが、それが人間で言う何歳にあたるのかは分からない。実年齢で言うならものすごく下なのだが。

 話が具体的になってきたのでサヤが目を輝かせた。カナも興味深そうな表情だ。

「もー、じらさないでよー。名前はー?」

「それは秘密。でもね……」

 少し声をひそめ、内緒話のように言う。

「遠くにいて、なかなか会えない相手なの。……もしかして、これきりになってしまうかもしれなくて……。だからこの話はここまで。ね?」

「……分かったー。切ないねー……」

「……うん。そうだね」

 チセの言葉に偽りや誤魔化しの響きがないことを感じ取ったのか、サヤは頷いて追及を止めた。

 切ない、のだろう。これきりになってしまうかもというのは嘘ではない。彼は死と――裏切りを抱えていたという。

 チセをたびたび夜に招いた彼が、夜の存在である彼が、チセの全面的な味方であるはずがなかったのだ。そう信じていたかっただけだったのだ。

 彼は、候補者。野望を持って夜の王にならんとする者。

 チセは、協力者。夜の王に挑まんとする者が求めた、外部からの助け。

 そして、協力者は――昼の世界に戻れなくなるのだという。遠からずというのがいつのことになるのか分からないし、レイカが本当のことを語っているとも信じきれないが、クロは否定しなかった。否定できなかった。

 チセがクロを昼の中へ引き戻そうと無理で無謀で馬鹿な試みをしている間、彼の方はチセを夜の中に引き入れ、夜に馴染ませ――夜から戻れなくしようとしていたのだ。

 競争、とクロが漏らした言葉を思い出す。チセが彼を昼に連れていくか、彼がチセを夜に連れていくか……そういう、チセに勝ち目のない競争だったのだ。

「……チセー? ……大丈夫ー?」

 知らないうちに表情を険しくし、唇を噛みしめていたらしい。サヤに心配され、チセははっと我に返った。

「ごめんね、からかいすぎた。あんまり思いつめないで。うちで相談に乗れることなら乗るし、聞かれたくないなら聞かないから」

 カナも気遣ってくれる。チセはつとめて表情を緩めた。デザートのフルーツゼリーに手をつけ、気持ちを切り替える。

「二人ともありがとう。大丈夫だよ。それより、サヤにはそういう話はないの? まさか私たちに聞いてばかりってことはないよね?」

「えー? わたしー?」

「そうそう。サヤのお父様って大学教授でしょう? 大学生が家に来たりしないの? そういえばチセも大学に出入りしているけど……」

 カナは言いかけたが、言葉を濁した。チセが思う相手が大学関係の者なのではないかと気を回してくれたらしい。チセはその部分には触れずに話に乗った。

「ゼミとか合宿とかあるんでしょう? 教授は民俗学がご専門だからフィールドワークとかも。たしかに、大学生と接することも何かとありそうだよね。サヤ、どうなの?」

「えー……?」

 サヤが困ったように笑う。チセも笑いつつ、クロを自分がどう思っているかという難題については心に蓋をした。


 冬は夜が長い。部活動や課外活動も制限されるし、そもそも寒いからあまり皆が外に出たがらない。

 窓の外に雪が降り積もるのを視界の端に映しながら、今日もあまり進展がなかったかとチセは小さく溜息をついた。

「……ごめんね。あんまり役に立つ情報を集められなくて……」

「ううん、そんなことないよ。私の方こそごめんね、焦っちゃって」

 謝るマナトに、チセは慌てて首を振った。

 二人がいるのは、大学図書館のロビーだ。大学生ではない二人は自習用の部屋を利用することができず、館内で話ができるところといえばロビーくらいのものだから、自然とここに来ることが多くなっている。

 夜の中に踏み込んだという秘密を共有した二人は、そうした話をするときは大学図書館まで来ることに決めていた。外は寒いし、冬になって雪まで降り出したし、落ち着いて考え事をしながら歩ける季節ではない。付き合っていないのだからお互いの家に行くのも憚られる。喫茶店やファストフード店だとデートのようだし、クラスメートたちの耳もある。調べ学習の範囲のことなら聞かれても問題なかったが、実際に夜の中でどうこうという話になると聞かれては非常にまずい。だから市立図書館やショッピングモールなども待ち合わせて作戦会議をする場としては不適切だ。

 そう、作戦会議だ。

 チセはクロを、マナトはレイカを、諦めていない。それが恋情なのか友情なのか義理なのか何なのか分からなくても、近しい存在を夜の中に寂しいままにいさせたくないという気持ちは同じだ。

 ――たとえ本人たちが、それを望んでいるのだとしても。

「……でも実際、クロもレイカさんも、無理やり昼の中に引っ張ってくるわけにはいかないものね。本人たちがどう思うかという以前に、絶対うまくいかない」

「そうだね。あの秋の日も、朝が来たら二人ともいなくなってしまったし」

 昼の世界と夜の世界は重ならない。一時的にイレギュラーに出入りできても、昼の存在は昼で生きるしかなく、夜の存在は夜の中で動くしかない。そして――それも、時間制限付きだ。

(制限時間は長くない……)

 クロのまじないを受けたときの言葉が、意味合いを広げて脳裏に響く。まじないの効力によってチセが夜の中にいられる時間も、チセが夜から戻れる状態でいられる時間も……クロが姿をとどめておける時間も。どれもが差し迫っている。

「だからといって、二人がいつまでもあのまま夜の中にいられるわけでもない。二人が昼にも戻れないし、夜にもいられなくなるなら……」

 チセは何度目になるか分からない結論を繰り返した。

「……夜の王について、夜の王になることについて、知らなければならない」

「……そうなんだよね」

 マナトは溜息をついた。彼は夜の王について調べてくれているが、進捗は芳しくない。そうした存在について、単語レベルで触れている本はあるが、まとまった資料などない。下手をすればフィクションに分類される文学などの方が情報源として豊かなほどだ。チセももちろんマナトだけに任せず調べているが、難航している。

 チセが夜の中で見聞きしたことを書き出し、資料から得た知見も書き加えてまとめたノートも、マナトにはそのまま見せた。事情を知らないカナとトオルには見せたことがなく、調べ学習で使うときも見せて問題がない部分を必要に応じてコピーして渡しただけだ。二冊になり、三冊になったそのノートを、マナトは手放しで褒めてくれた。チセはこれまでに三回夜へと踏み込んでおり、見聞きしたり知ったりした情報量もかなりのものだ。……自分が不穏に夜に馴染んでいくという変化も含めて。

 クロの目的は最初からそれなのだったと思う。チセを最初に夜に誘い込んだときも、トオルが行方不明になった夜も。トオルを助ける気がなかったのにチセへまじないを施してくれたのは、トオルを間接的に助けるためなどではなく、チセを夜へと馴染ませる目的があったのだ。マナトと出会い、夜の王と会話した夜もそうだ。

(……?)

 そこまで考えて、チセは少し引っ掛かりを覚えた。何か手掛かりがあった気がする。

 しかしマナトが話し始めたことでそれは散じた。

「夜の王については、君とレイカから聞いたことがほとんどすべてだ。それ以上に詳しい情報となると眉唾のものも多いし、確かめようもない」

 あの秋の夜、マナトはレイカの姿を追って夜の中へ踏み込んだと後で聞いた。チセがクロを追ったときと同じだ。しかしチセのように魔物に襲われることはなく、街の中をレイカと普通に歩いたそうだ。マナトは言葉を濁したが、彼もレイカから「まじない」を受けたらしかった。チセは一度目の夜にそれを受けることができなかったのだが、そもそもクロが猫だという時点でいろいろと違う部分があるのだろう。そう思っておくしかない。

 他に違う点といえば、レイカはマナトへ、夜の王の存在や、自分が王位を狙っているということ、マナトに協力者としてそれを助けてほしいということを包み隠さず明かしたということだ。反対に、チセはそれらについてクロからまったく聞かされていなかった。夜の王の存在について知ったのは、自分が夢の中で出会ったときのことだ。しかしクロが夜の王の存在について知っていたことは疑いない。彼は自ら候補者として名乗りを上げたのだから。

 「夜の王」についてレイカが知っていることも、チセとそこまで変わりはないようだった。夜を統べる存在、夜を具現化したような人型、年齢も性別も定かではなく、しかし途方もなく長い時を経ていることを思わせる凄みがあり、世界への深い理解がある……というよりも、世界そのものの叡智がほんの少し見える形で現れたかのような、そんなとんでもない存在だ。

 しかしチセが知らなかったことが、レイカに知らされたことが、一つあった。それはクロも間違いなく知っているだろうとレイカは話していたということだ。夜の存在になった者が闇の中で天啓のように悟ること、それは――

 ――夜の王になれば、願いが叶う。

「マナト、レイカさんが話していたという、夜の王になれば何でも願い事が叶うという話だけど……」

「確かめようがないけど、レイカ姉は確信していたね。僕たちには分からないことだけど」

「でも、昼に戻るとか、そういうことは出来ないって話だったよね」

「あくまで夜の中での話だからね。夜を統べる存在であれば夜の世界を好きなようにできる、そういうことみたいだから。昼の世界までは力が及ばない」

 昼の世界は人間によって作られ、かっちりと形が決まっている。しかしその理が夜には通用しないように、夜の理も昼に力を持てない。二つの世界は厳然と分かたれている。

「夜の存在になれば、夜の王の候補者として立てる、か……」

 その資格がある者は無数にいるだろうが、知能を持ち、意思を持つ者となれば相当に少ないのではないだろうか。まして夜の存在は不安定だ。いつまでも候補者のままで――その形のままで――存在し続けられるわけではない。

 魔物たちも、言ってしまえば昼の命を元にしたものだ。夜の中で違う存在になったように見えても、命が増えたわけでも長くなったわけでもない。命がなくなれば夜からも消える。クロやレイカのように昼の姿を失い、名残のように夜の中にいる者であればなおさら不安定で、失われやすい。

(……駄目、そうはさせない!)

 理に抗うことが必要なら、抗ってみせよう。レイカを、あるいはクロを、夜の王にするために協力するのか――それはすなわち、マナトやチセが夜に囚われることと同義なのだが――、あるいはまったく別の道を見つけるのか。

 できる限りのことをする。世界に、抗ってみせる。

 そしてクロを――救うのだ。


 しかし、チセの意気込みとは逆に、マナトは懸念を浮かべてチセを見た。

「夜に深く関わってきた君に言うのは今更なんだけど……どう転んでも勝算は薄い。このまま僕たちが夜に囚われる可能性は高いし、レイカ姉やクロが夜の王になれる見込みは立っていない。僕は直接知っているわけではないけれど、夜の王などという圧倒的な存在にどう立ち向かうのか……協力者が少しいたところでどうにかなるような問題じゃない。言うまでもなく、危険だ」

「そうだね……」

 言葉にされると怯みそうになるが、その通りだ。

「……でも、諦めるつもりはないんでしょう?」

「うん、僕はね。今だから言うけれど、トオルからレイカ姉のことを聞いたとき、僕も夜に踏み込もうと思った。危険だからみんなは巻き込まずに、一人でレイカ姉を探しに行こうと思ってた」

「……うん」

 そう言われても驚かない。そんな気はしていた。

「……でも、なかなか踏み出せなかった。まだこれを調べていない、あれを考えていないと、行動しない理由を探していた。……怖かったんだ」

「それは当然だよ。いくら準備してもしすぎることはないし、夜が怖いのは人間として当たり前だもの」

 言いながら、チセは自分がクロを探していたときのことを思い出した。もう五年も前のことだが、つい昨日のことのようだ。家や近所ばかりではなく、街中を探し回った。きりがなくて、しまいにはどこを探せばいいのかも分からなくなったが、それでも諦められなかった。――そして、夜の中を探すことはしなかった。

 クロが夜の中に迷い込んでしまったのだと考えなかったわけではない。その可能性は最初から気付いていたが、夜の中では猫を探すどころか、一歩進むことすら危うい。不可能だと早々に諦めて、昼の中でできることをしていた。

 その選択が間違っていたとは思わない。それしか出来ることがなかったのだから、そうするしかなかったのだ。

 しかし、その選択が合っていたとも思えない。事実クロは夜の中にいて、夜の中でしか会えないのだから。

「……でも、探すものが夜の中にあるなら。……行くしか、ないものね」

「……そうだね」

 マナトも同意する。チセは元気づけるように明るく言った。

「それに、昼の中でしていることが無駄になるわけでもないもの。夜の王の候補者については、少し進展があったよね? ササラセ教授のご専門の近隣分野の古典的な研究書にあった『王殺し』……これが夜の王の継承方法に通じるんじゃないか、って話」

 ……明るい話題ではないのだが。

 夜の王の継承については謎が多い。そういった道もあるとクロやレイカに示されただけで、協力者が必要であることが教えられただけで、具体的な方法については不明だ。

 昼の世界のそれとどのくらい関連があるのかも不明だ。昼の世界にかつて存在した王たちは、あるいは試練を経て、あるいは血筋で、あるいは力ずくで、王位を臣民に認めさせてきた。

 しかし夜の世界に臣民はいない。人が定めた様式もなく、王とはほとんど世界そのものだ。昼の世界の王位継承が周囲の人間に認めさせるものなら、夜の世界の王位継承は王に、世界そのものに認めさせる行為だ。

 途方もない話に、気が遠くなる。

 それでもクロやレイカが挑もうとしているのは、それしか道がないからだ。後がないからだ。叶えたい願いがあるからだ。

(……クロは一体、どんな願いを叶えたいのだろう……)

 チセを協力者として利用し、協力者が夜へ囚われることを教えずに裏切り、引き換えに叶えたい願いとは何なのだろう。

 何度考えても、答えは出ない。

 マナトもレイカの願いを知らないらしい。レイカに協力するかどうか迷っているのも、自身を犠牲にするからというだけでなく、判断材料が足りないこともあるだろう。

 そして、王位を求めることの難しさも。

「……夜の王の交代は、昼のそれのように権力基盤を受け継がせるものではなくて、様式的に――そして本質的に――役目を交代するもののようだから。引退して子供の裏から采配を振るような昼の権力者とは違って、引退がすなわち存在の消滅である可能性は高いと思う。世界と一体化しているのだから」

「王位を交代することは、世界を作り替えることに等しいのかもね。願いが叶うというのは、きっとそういうことなんだわ」

「そうだね……」

「……」

 沈黙し、視線を交わしあう。おそらく、お互いの考えていることは同じだ。

「……昼の中でこれ以上考えていても埒が明かないよね」

「……時間的な猶予がいつまであるかも分からないしな」

 夜の中へ、また分け入っていく必要がある。

 チセもマナトも、あれから一度も夜へ踏み込んでいない。クロもレイカも二人の前に姿を現してはいない。

 クロがチセのところに来ないのは、あの気まずい別れから納得もできるのだが、レイカがマナトのところに来ないのは分からない。何らかの条件があるのかもしれない。

「こちらから働きかけることもできないしな……」

「試しにとか言ってうかつに夜の中に入るわけにもいかないしね……」

 額を寄せ集めて唸っている二人の視界を、大学生のグループが通り過ぎる。ロビーは広いから話を聞かれる心配は薄いが、人が増えてきた。昼時になったのだ。

 マナトが提案した。

「昼食の時間だし、気分転換に少し歩こうか。購買ではなく外のコンビニに行かない? コンビニの肉まんが食べたい気分だ」

「賛成。肉まんいいね。甘いものも欲しいな」

 チセも応えて立ち上がる。

 連れ立って図書館を出、校門を出てコンビニへ向かう。気分転換も兼ねているので、話題は食べ物のことに終始した。

「肉まんとかあんまんって冬の風物詩だよね。暖かい室内でのんびり食べるのもいいけど、寒い中を歩きながら行儀悪く食べるのも楽しいし」

 チセが言うとマナトも笑って頷いた。

「カップ麺も冬がいっとう美味しいよね」

「そうだね。……あれ、トオル?」

 チセは瞬いた。このあたりはチセたちの通う初等学校の学区から少し離れているので、トオルに会うとは思わなかった。

 トオルもこちらへ気付き、手を上げて応える。

「よう。……大学に行ってきたのか?」

「うん、図書館にちょっとね。トオルは?」

 マナトが問う。トオルは並んで歩きながら答えた。

「友達んちに行ってきたとこ。コンビニ寄ろうかと思って」

「そっか。私たちと一緒に行く?」

「ああ」

 そのままコンビニに入り、買い物を済ませる。店を出て別れようとしたところでトオルが口を開いた。

「なあ……お前ら、レイカ姉ちゃんを助けるつもりなんだろ?」

「うん、そのつもりだよ。トオルは違うのか?」

「いや、俺だって助けたいよ。俺を助けてくれたんだし。そのために俺なりに頑張ったけど、方法が見つからない。お前らもそろそろ……ええと……」

「……諦めたら、か?」

「……ああ」

 マナトが静かに問う。チセは驚いた。トオルがそんなことを言うとは思わなかった。怒りや不快さはなかったが、ただ意外だった。

「たしかにそろそろまとめに入らないといけない時期だけど。トオルとカナに任せてばっかりで負担だった?」

「いや、そうじゃない。そうじゃなくて……心配なんだ。お前らが」

 チセの言葉に、トオルは首を振った。続けて言い募る。

「なんだかお前らだけで遠くに行っちまいそうな、そんな気がしたんだ。俺みたいに考えなしにじゃなくて、なんていうか……覚悟を持って、夜の中へ入ってしまうんじゃないかって。それは、本当にやばい」

 トオルはごくりと喉を鳴らし、ためらってから言った。

「……助けられた俺が言いたくないけど……レイカ姉ちゃん、変だったんだ。魔物に襲われた俺を助けてくれたんだけど、その方法が……レイカ姉ちゃんが魔物に触ると、そこから魔物がぼろぼろと崩れていって……!」

「……それは、本当なのか?」

「そうだよ! 冗談で言えねえよ、こんなこと! でも、お前らが深入りしそうだったから言ったんだ! お前らまで変になったりいなくなったりしたら嫌だ……!」


 トオルの言葉に、マナトは目を見開いて言葉を返せないでいる。

 だが、チセは彼ほど衝撃を受けているわけではなかった。落ち着いてトオルに言葉を返す。

「教えてくれてありがとう。トオルが言いたいことは多分……レイカさんが元のままではなくて……魔物になってしまっているのではないか、ということじゃない?」

「……っ! そうだよ! レイカ姉ちゃんは俺に助けてって言ったけど……本当に、助けることなんてできるのか!?」

 トオルのその言葉は、レイカの「助けて」の真意を知らないがためのものだ。

「……トオルが言うように『助ける』ことはできないと思う。それはマナトも私も分かってる。でも……できることをしたいの」

 チセが真剣な表情で言うと、トオルはチセの目を見返した。視線が揺らがず凪いでいることを見て取ったのか、トオルも落ち着きを取り戻す。

「……悪い。ちょっと、うまく言えなかったかもしんねえ」

「……いや、大丈夫だ。伝わった」

 気を取り直したマナトが応えた。トオルも表情を緩めた。

「まあお前らは頭いいもんな。大丈夫だよな?」

「頭がどうかはともかく、任せろ。レイカ姉の言葉は引き受けたし、トオルの気持ちも分かった。レイカ姉はそれでもトオルを助けたんだろ? それが事実で、それが答えだ。無理するな。レイカ姉のことは僕たちでなんとか考えてみるから」

「……ああ、そうだな! じゃあ、調べ学習のまとめと発表は俺らに任せろよ! すごいの作ってやるよ!」

「じゃあ、お願い。カナに負担かけすぎないでね?」

「信用ねえなあ。分かってるって。じゃあな!」

 トオルは明るく請け負って手を振った。チセとマナトも手を振り返し、大学図書館への道を戻る。

「クロが私を庇って魔物と戦ったとき、長い爪を使っていたの。クロは猫だから爪が変化したのね。その……レイカさんは病気だったのでしょう? だから、そういうことなのだと思う」

「……分かってる。チセのノートにも書いてあったよね。魔物とは『変化するもの』(メタモルフォシス)であると。昼の世界での姿や性質が変化しただけで、根本から全く別のものに変わるわけではない。分かってるけど……動揺した」

「そうだよね……」

 チセは言いつつ、コンビニで買ったあんまんの袋を取り出した。食べながら話すようなことではないと思いつつ、冷める前に食べてしまいたい。マナトも思い出したかのように自分の肉まんを取り出した。

 まだ熱いあんまんを齧りつつ、なんとなくマナトの肉まんを見る。似たものが二つある様子に、記憶のどこかが刺激された。

「……ねえ、ちょっと思いついたことがあるのだけど……」


「……場所、分かったみたいね。よかった」

「地図もあったし、なんとなくこういう場所があるのは覚えてた。大丈夫だ」

 チセは山の管理小屋のドアを開けてマナトを迎えた。山の中は街中よりも気温が低く、雪も積もっていたが、冬山を歩こうという者も一定数いるらしく雪道には足跡が残っていた。歩きにくいが歩けないというほどではなく、道を失う心配もなかった。

 日曜日の、冬の午後だ。今から山を降りようとするなら厳しい時間だが、二人は今日中に山を降りるつもりがなかった。

「ここが、夏にチセたちが魔物に追われて使った小屋なんだね」

 荷物を降ろしながらマナトが小屋の中を見回す。

「そうなの。本当は緊急避難用に開けてあるだけだから、こういう使い方をしてはいけないんだけど……」

 コンビニの近くでトオルと別れてから、チセは自分の推測をマナトに話した。

 クロがチセのところへ来た二回目と三回目、それぞれでチセはトオルとマナトと会った。それは偶然ではなくて、近しい者が夜の中にいる時にクロはチセを夜の中へ連れ出せたのではないか、という推測だ。

 トオルが夜の中に行ってしまったときも、チセはなんとなく自分のせいではないかと思った。夜の方へと引かれているような感覚があったからだ。

 おそらく、何らかの誘因力や伝染力があるのだと思う。夜の影響力が近しい者に伝播するのではないか。

 推測に過ぎなかったし、確かめようもなかったが、クロやレイカからの接触がない以上、夜に行こうとするならこちらから動くしかない。

 やみくもに夜に踏み込むよりも、少しでも彼らに会える可能性を高めるために考えたのがこれだった。二人で同時に夜の中へ入ることだ。チセが考え付き、マナトも賛成した。

 そうなると、次に問題になるのは場所だ。どちらかの家から夜の中へ行くのは現実的ではない。夜が来たら人に見咎められずに外に出られる場所、と考えてチセが思いついたのが山の管理小屋だった。

 もちろん家族には言えないからこっそり家を抜け出すことになるが、夜に同じことをするよりも成功率がずっと高い。それにチセは念には念を入れて、部屋に親が入りにくい状況も作っておいた。前日にカナの家に泊まり、夜通し遊んだり勉強したりして寝不足だということにしておいたのだ。早めに寝たいから起こさないでと言えば親は疑わなかった。

 そうして家を抜け出し、食料と燃料――マナトがガスボンベ式のストーブを持ってきてくれるということなので、ボンベはチセが用意することにした――を買って小屋へ向かった。そうしてマナトを迎えたというわけだ。

「荷物ありがとう。重かったでしょう」

「いや、これくらいなら大丈夫だ。しかし寒いな」

「早速ストーブ使わせてもらうね」

 ボンベをセットしてストーブを点け、敷物を広げる。その上に食料を並べるとマナトが笑った。

「そんな場合じゃないのに楽しくなってくるな。ピクニックみたいだ」

「敷物と食べ物だけ見ればそれっぽいかもね。敷物が分厚いけど。とりあえず飲み物はなにか飲んだ方がいいし、食べれば力も出るかも」

 チセも笑ってマナトに勧めた。自分でもペットボトルの蓋を開け、お茶を飲む。温くなってはいたが暖かさが残っていた。

「ありがとう。いただきます」

 マナトもペットボトルやおにぎりに手を伸ばした。しばらく二人で黙々と食べ、英気を養って備える。

 ストーブで暖を取りつつ食べ物を胃に落ち着けると人心地ついた。マナトも少しリラックスしたようで表情を緩める。

「それで、今後のことだけど……」

「二人で外に出る。そしてクロかレイカさんに見つけてもらう。二人が助けてくれるかは分からないけれど。……自分で提案しておいて何だけど、行き当たりばったりで勝算の薄い賭けになってしまう。本当にいいの?」

「構わない。それしかないと思う。もともと僕は一人でそういうことをしようとしていたんだし、今回を逃せばもう機会はないと思うから」

「……そうかもね」

 チセは言葉少なに同意した。この機を逃したくないのはチセも同じだ。クロを諦めたくない。

 冬は日暮れが早い。窓の外はもうかなり暗い。太陽が沈むのはもうすぐだ。

 ――夜が、やってくる。


 日はすっかり沈み、森の影が妖しく蠢いている。すでに夜が始まり、魔物の時間が来たのだ。

 チセの想像に反して、冬の森は意外と明るかった。葉を落とした木々の枝は月明かりを遮らず、白々と雪の積もった地面が月光を反射する。かすかな星明かりさえ馬鹿にはならないもので、月に光を添えていた。

「……意外と明るいんだな。今日って満月だっけ」

「分からないけど、違ったとしても満月に近そう」

 部屋の電気を消して闇に目を慣らしつつ、マナトと言葉を交わす。ざわざわと不自然に動く木々の影が心を波立たせる。

「……開けるよ」

 無謀なことをしているとは分かっていたが、後には引けない。チセは小屋のドアを開いた。

 しんと冷えた冬の森の空気が身を竦ませる。安全な小屋の中で、暖かいストーブの近くで座っていたい誘惑を振り切り、チセはおそるおそる一歩を踏み出した。マナトも緊張した様子でチセの隣に立つ。

 夜にさらされ、夜に見られている感覚に、体が総毛立つ。そこにあるものが敵意や害意といったものではなくて、もっと純粋で、もっと致命的な――理なのだと今のチセは知っている。生き物の変容を促す理だ。

 そもそも、生き物というものが、その在り方が、そういうものなのだ。夜も昼も、生命の一側面なのだ。

 チセの横で、マナトが身を竦ませる。木の魔物がこちらへ触手を伸ばしていた。チセも身を固くする。

 ひゅんと風を切ってこちらへ届こうとするその枝は、しかし届く直前で崩れた。ぼろぼろと不自然な崩れ方をした、その先を見ると――レイカがいた。闇から溶け出るかのように現れ、魔物に手を伸ばしていた。――魔物として。

「レイカ姉……」

「これを見ても、まだそう呼んでくれるのね?」

「助けてくれた、から……」

「そこらの魔物なんかに横取りされたくないもの。あなたは私の協力者だから」

 レイカがマナトの頬に口付ける。マナトにまじないを施したレイカは、チセに向き直って微笑んだ。

「あなたも、私に協力してくれる?」

「…………」

「あの子に義理立てするの? 大切なことを黙っていて、あなたを裏切ったあの子に?」

「…………!」 

 クロを信じたい。信じきれない。レイカの言葉に心が簡単に揺さぶられる。

「……でも、レイカさんも同じじゃない。マナトを利用して夜の王になろうとしているんだもの。協力者は夜に囚われてしまうのでしょう?」

 チセは言い返した。レイカは怯まない。

「そうよ。今のままならね」

「……どういう意味?」

「王になれば、世界を変えられる。候補者とともに夜の深淵に触れる協力者は運命を一にするものだけど……世界そのものが変わるならどうかしら?」

 ざわりと、風もないのにレイカの黒髪が広がる。佇む彼女の存在感がぴりぴりと精神を圧迫する。

 彼女が腕を振るうと、近くにいた魔物がじゅっと焦げるような音を立てて崩れた。

「私は魔物が嫌い。気持ちの悪いこの力も嫌い。ただ死を待つことに耐えられなくて、自分の手で決着をつけたくて、すべてを終わらせるつもりで夜の中に入ったのに、こんな訳の分からない存在にされて。病気を自分ごと消すつもりだったのに、その側面だけグロテスクに誇張されて魔物として在れと夜に言われて。どんな気持ちか分かる?」

 チセもマナトも言葉を返せない。

「だから私は夜から魔物を消すわ。変容の理を根底から変えるわ。魔物なんていらない、姿なんて変わらなくていい。夜に魔物になってしまうかわいそうな昼の生き物たちを救ってあげる。人間を変容させる理を変えて、協力者を人間のまま返してあげる。だから私に、協力して」

 峻烈なレイカの言葉は、夜を根底から否定するものだった。世界を変えてみせるという、世界に対する高らかな敵対宣言だった。

『――面白い』

 レイカの声に呼応するように、言葉が返された。すうっと闇が凝り、人の姿をとる。

「誰だ!?」

 驚いたのはマナトだけだった。トランプのキングを思わせる、しかし色が欠け落ちたその姿は、チセには覚えがあった。

「夜の王……」

「いかにも」

 チセの呟きに、王が鷹揚に頷く。マナトは驚いて息を呑み、レイカは身構えて目を眇めた。

「そこなる少年には初めて会うな。余こそが夜の王。そなたらが打ち倒すべき敵にして、そなたらのすべてを受け容れる者だ」

 王に敵意はなかった。こちらを見下して弱者と嘲る気配もなかった。その存在は、ただそこに在った。

「……なぜ、ここに出て来られるの? ここは夢の中ではないはずなのに」

 レイカが緊張しながら問う。

 チセと同じように、レイカも夢の中で夜の王に会ったのだろう。そして色々と情報を与えられたのだろう。彼女はトオルを助けようとするチセに助言をくれたが、そうした情報は夜の王から得たものなのだろう。トオルに直接助言しなかったのは、彼がチセのように夜に馴染んでいないから、チセのように協力者として求めにくかったから……昼の存在である彼を損なうのを嫌ったからだろう。レイカは魔物を、夜の理を、憎んでいる。

 敵意をぶつけられながら、夜の王は気を悪くした様子もない。むしろ上機嫌に見える。

「余は夢の中に棲んでいるわけではない。夢が泡沫であるならば、集合的無意識は海。棲まいとして挙げるならばそちらの方が適切であろうな」

 マナトもレイカも理解しきれないといった表情をしている。もちろんチセにもさっぱりだ。

「人の心は奥底で繋がっておる。個を超えて、心という観念すら超えて。夜はその具現化、ここは心の奥底の世界。夜に馴染んだ人間が三人もおれば、余が姿を見せるのも容易いこと」

 人間、その言葉にレイカは息を詰まらせた。

「……そこの二人とは違う。私はもう、人間ではない。夢も見られなくなってしまった。魔物になってしまった。夜のせいで」

「定義次第であるな。魔物とは存在ではなく状態であるとするなら、そなたは人間であろう」

「……戻れないなら、同じことだわ」

 レイカは唇を噛んだ。

「私は人間ではないし、魔物としても時間が残されていない。それでも、こんな状態のまま終わりたくはないの。王を探すために協力者の夢の中へ行く手間が省けたのなら、ちょうどよかったわ」

 レイカが短く息を吸い、宣言した。

「ここで私は、夜の王を倒す!」

 挑戦を受け、王の笑みが深くなった気配がした。


 明かされたレイカの真意。夜の王の登場。レイカの敵対宣言。すべてが急すぎて、チセの理解が追い付かない。

 臨戦態勢になったレイカと王を囲むように、風が渦巻き始めた。

 それが風なのか、それとも別のものなのか分からない。世界が輪郭を溶かし、混沌と闇とが雄叫びを上げる。

「……倒す、って。どうやって、こんな……」

 圧倒的な存在を。気圧されて顔を引きつらせるマナトの呟きだけが現実的なものだ。

 レイカは王から目を離さず、険しい表情のまま冷静に言った。

「そのためにも協力者が必要なのよ。昼の存在が。夜を統べる者に対して、その臣民は無力だわ。反乱を起こそうにも、力も武器もない。夜を変えるには、夜の外のものが必要なの」

「僕たちのどこに、そんな力があると……」

 マナトの声が力ない。チセも同感だ。調べた「王殺し」の推測が当たっていたことはいいのだが、それについて具体的な方法までは考えられなかった。ヒントを求めて夜の中に来たはずが、まさか早々に王その人とやり合うことになるとはまったく想像していなかった。

「思い浮かべて。武器を。防具を。ここでは連想が形になる。力になる。それを私にちょうだい」

 チセは腹をくくった。いきなり言われても、せめてマナトには教えておいてほしかったとは思ったが、下手に伝えて怖気づかれるのを避けたかったのだろう。心が丸裸にされるような夜の世界では、そもそも付け焼刃の知識などあまり役に立たなさそうだ。無理して詰め込んでも恐怖ですっ飛んでしまう。

 外にざわめく魔物が視界に映る。鋭く尖った木の枝、不規則に大きくしなる木の枝。それらがチセの脳裏で剣と鞭に置き換わる。

 チセというフィルターを通して、世界が変換されたかのようだった。レイカの近くにいた魔物が剣と鞭に姿を変えた。

「……ほう」

「ありがとう! 使わせてもらうわ!」

 夜の王が笑い、レイカも笑う。マナトが目を瞠った。

「何をしたんだ!?」

 レイカが鞭を振るって前方を攻撃する。鞭の触れたところから世界が崩れ、王が飛び退って躱した。レイカはそこに踏み込み、剣を振るって王を狙う。

 その様子に目を釘付けにされながらチセは答えた。

「思い描いただけ。連想しただけ。何かを手掛かりに、それと繋がる別のものを引き寄せただけ。……ここは心の奥底の世界だから、そういうことができるのだと思う」

「それなら……!」

 マナトの理解と順応は早かった。たちまちに盾が、槍が生み出される。レイカが歓迎した。

「助かるわ!」

 剣が、槍が、鞭が、唸りを上げて王を襲う。盾が魔物の邪魔からレイカを守る。

 しかし、王は余裕を崩さない。それらの攻撃をことごとく避け、あるいは腕で往なす。腰に佩いた剣を抜く気配すら見せない。

「もっとお願い! 拳銃とか大砲とか爆弾とか、そういうものはないの!? いっそ核兵器とか!」

「無茶言うなよ!? なぜか分からないが、飛び道具は駄目みたいだ! ちゃんと仕組みを理解してないからか!?」

 レイカの過激な言葉にマナトが焦ったように応じる。

 たしかに、そうしたものはチセにも呼び出せなかった。構造の単純な――言ってしまえば、原始的な――ものしか現れない。チセたちの力不足なのか、それともそうしたものがこの場に許されないからなのかは分からない。

 なんとなく、後者であるような気はした。助力があるとはいえ、これは一対一の――決闘。己の力のみを恃む、古式ゆかしい戦いの形式。

「武器は道具に過ぎぬ。己の心と体の延長に過ぎぬ。そなたの攻撃が余に届かぬのは、その願いが弱いがため」

「…………っ!」

 レイカが悔しさに顔を歪める。王の言葉は淡々と事実を伝えるものだった。言葉を偽ったり飾ったりすることをしないのは、王がそもそもそういった存在だからだ。人間の心の奥深くに棲む者、心の深奥が形を取ったものだ。

 そもそも、そんな存在に成り代われるのか。チセと同じ疑念をレイカも抱いたようだった。攻撃の手が鈍り、精彩を欠く。戦い方を急に忘れたように、繰り出す一手一手が拙いものになる。

 夜の王への挑戦者という立場、武器という道具に合わせる形で戦えていたレイカから、覇気が薄れる。レイカは動きに焦りを滲ませたが、己を疑ってしまった心はどうにもならない。

「……つまらん」

 王が呟いた。強い敵意を向けられていた時よりもよほど不機嫌そうに。

「戦えぬなら、それまでであるな」

 王が腰の剣を抜いた。無造作にレイカに歩み寄る。レイカは戦いの中ではじめて後ずさりをした。

 その時だった。

 がきんと金属的な音がして、王の手から剣が落ちた。いや――落とされた。

「――クロ!」

 チセは思わず叫んだ。少年の姿をしたクロが、長く伸びた猫の爪で王の剣を弾き落としたのだ。

 すかさず、それを蹴り飛ばす。そのままレイカを庇うような形で王に宣言した。

「俺もお前に挑戦する。夜の王」

「……これは驚いた」

 言葉だけでなく、王は本気で驚いたようだった。剣を弾かれた形のまま腕を動かせずにいる。

「己の在り方を変えたか。夜の中で。よもや人ならぬ身でここに至るとは――」

 ここは王が姿をとる世界。人の心の奥底が具現化した世界だ。いくら少年の姿をしていてもクロは猫、独力で辿り着けるはずがないということなのだろうが……

(……クロ)

 ……それでも彼は辿り着いた。王を倒し、世界を変えるという望みを抱いて。

「――いったいどのような望みが、そなたをそこまで駆り立てたのであろうな?」

「…………」

 クロは答えない。ちらりとチセに視線を向けただけで、すぐに王へと意識を向ける。己に備わった魔物の爪だけで王を狙う。

 しかし、鋭いその爪は王を傷つけなかった。剣には触れられても、服には届いても、王の体は損なわれない。夜の理のなかにある爪は、その主を傷つけることはない。

 クロは舌打ちをした。やっぱり駄目か、という反応だ。

 チセは歯痒い思いで叫んだ。

「どうして助けてって言ってくれないの!? どうして何も教えてくれないの!? 私は協力者なんじゃないの!?」

「…………」

 クロは黙っている。チセは破れかぶれで叫んだ。

「私を裏切ったんでしょう!? 利用しようとしたんでしょう!? 利用すればいいじゃない!!」

「――違う!」

「じゃあ、どうして!」

「申してみよ。余に挑戦するならば、その思いの丈を。世界を変えんとする意気があるのならば」

 チセにつられたように声を荒げるクロに、夜の王が愉快げに言う。クロは言葉に詰まったように間を置いた。

「……違う。そんな大それたことは思ってない」

「ならば、余の前から去ね」

「それもできない。俺は……世界を変えたいんじゃない。ただ……チセの傍にいたいだけだ。夜の王になれば、それが叶う」


 明かされたクロの真意に、一番驚いたのはチセ自身だった。

「それ……本当?」

「……ああ」

「候補者と協力者について、協力者が夜に囚われることについて、私に言わなかったのは……」

「……初めから、それが目的だった。お前を夜に連れていくことが。騙すつもりだったのだから、裏切りと言われても否定できない」

「私と……一緒にいるために?」

「ああ」

 言明して吹っ切れたのか、クロは明かした。

「俺が人の形を取るようになったのも、それが理由だよ、チセ。お前が人間だから。俺が猫のままではずっと一緒にはいられないから。お前が俺を追ってきてくれるか試すような真似をして悪かった。夜の森の中で怖い目に遭わせて悪かった。俺は人よりも夜に近しいからまじないをすぐに施すことができなかったし……そのまじないも、お前を夜に馴染ませるためにしたことだ。お前を夜から守るためではなく。お前を、夜に連れて行きたかったんだ」

 レイカもマナトも、夜の王すらも目に入れず、クロはチセにだけ語りかけた。

「…………」

 何をどう考えていいか分からない。怖い目に遭った。勝手なことを言わないで。……それでも、嬉しい。ぜんぶ言ってやりたいが、ぜんぶ言っても足りない。

 クロは真っ直ぐ、チセに心を向けてくる。そしてチセも、とっくにクロに心を囚われている。夜の存在に心を預け……夜を受け容れてもいいと思いそうになっている。

「私は……」

 ひゅん、と音が鳴った。夜の王がレイカの剣を拾い、クロに切りかかったのだ。クロもとっさに槍を拾って応戦する。

 王は愉悦の滲む口調で言った。

「面白い。じつに面白い。世界などどうでもよいと。ただ一人のためだけに王の座を欲すると。それも出来るやも知れぬな、思いの強さゆえに人の姿と心を得たそなたであれば」

 剣を振るいながら王は笑う。

「よい。挑戦者として認めよう。それに――面白い」

 クロの槍を弾き、躱しながら王はチセに言葉をかけた。

「娘、そなたは何を選ぶのだ? この者に助力し勝たせれば、そなたは夜に囚われる。この者に助力せず負けさせれば、この者は失われる。さあ、どうする?」

「…………!」

 突きつけられた選択肢の残酷さに、チセはとっさに動けない。クロと共にいたければチセは昼を捨てなければならず、昼の人間でいたければクロを失わなければならない。

(そんな……!)

「悩む時間などないぞ。余を見くびってもらっては困る」

 新しく武器を調達できないクロはじりじりと押されていく。しかし、クロに武器を与えることは彼の勝利を――チセが昼に戻れなくなることを――後押しする。

(どうしたらいいの……!? そもそも私が助けたところでクロは勝てるの……!?)

「落ち着け。あいつを信じろ。今すぐにやられるわけじゃない」

「そうよ。ちょっと手ごわそうだと思った印象は正しかったわね。しぶといわ」

 混乱するチセに、マナトとレイカが言葉をかけてくれる。レイカはクロの競争相手であったはずなのにと瞬くと、レイカは肩をすくめた。

「気持ちの上で私は負けてしまったけれど、まだ一矢報いたいと思っているの。あの子にもあなたにも恨みがあるわけじゃないし」

 そう言って、レイカはチセに剣を渡した。チセたちが生み出したものではなくて、夜の王が腰に佩いていたものだ。クロに弾かれて遠くに蹴り飛ばされていたものをレイカが拾っていたらしい。装飾の細かさや豪華さが段違いだ。古代の王の墓に埋葬されていそうな雰囲気がある。

 困惑しながらも思わず受け取ってしまったチセに、レイカは言葉をかけた。

「これはきっと昼に属するものよ。だって夜の中で人工のものは生み出されないから。それならあなたが扱った方がいいはずだわ。昼の道具を夜の理屈で使えば、状況を変えられるかもしれないわ」

「うん……ありがとう!」

 剣の柄を握りしめ、チセはレイカにお礼を言った。

 どう使うのかなんて分からない。レイカもマナトも答えは持っていないだろう。だがこれは、事態を打開する鍵だ。

 状況に翻弄されていたチセの頭が冴えてくる。

 同時に、脳裏に見たことのない風景が広がり始めた。


 ――そこは、チセたちの住んでいる国ではなかった。石造りの家が目立つ街並みで、道を馬車が闊歩している。中世か近世くらいの雰囲気だ。チセはそれを、高いところ――輪状の城壁や建物の密集具合から、おそらく城だろう――から見下ろしていた。

『――陛下』

 チセに向かってそう呼びかけたのは、高位を示す重厚な服を着込んだ禿頭の老人だった。チセはそちらを振り返って言った。

『もはや、この波は引き返せぬ。人々は政治参加を求め、王家は形骸化する。権力は真実、人の世のものになる。夜の権威は、もはや必要とされておらぬ――』

 自分のものと思えない声は若々しい青年のものだった。

『ですが、それでは釣り合いが取れませぬ! 陛下が、歴代の偉大な王たちが、昼と夜とを仲介してこられたというのに――!』

『その仲介は、もはや不要ということなのだ。人々は夜と折り合いをつけることではなく、決別する道を選んだ。余ひとりがどうこう言ってもこの流れは変わらぬ――』

 どちらが悪いということでもないのだ、と声は呟いた。老人はただ項垂れるばかりだ。

 街を眺め、王位を示す外套を外し、王冠を無造作に手挟み、チセは部屋の外へ向かった。

『ヴァーシュ陛下、どちらへ――!?』

 チセは振り返って少し笑い、視線を落とした。その腰には見覚えのある剣が佩かれている。

『受け取ったものを、返しに行くだけだ』

 ――。

 ――――。


(今のは……)

 チセは茫然として剣を取り落としそうになり、慌てて掴み直した。その手は少女のものだ。先ほどまでの、成人した男性の手ではない。

「ヴァーシュ陛下……」

 思わず呟くと、夜の王はひどく懐かしそうに笑った。

「そのように呼ばれるのは久方ぶりだな」

「受け取ったものを返しに行く、とは……」

「さて。それは余がこうしていることが答えになっておると思うが」

 夜の王とは代替わりをするもの。当然のことながら、当代の夜の王もかつては人であったのだ。

「余は、夜の王。かつては昼の世でも王でもあったが。夜と昼との仲立ちをする役割を返上し、夜と昼の分断の象徴となった。そういうものだ」

 ヴァーシュが夜の王になってから、少なく見積もっても数百年が経っているだろう。彼と一体になった夜に至っては数百年や数千年ではとてもきかない。ほとんど永劫に近い時を経ている。

 暴力的なまでの時の重みに、誰も何も言えない。ヴァーシュだけが軽やかに言葉を口にする。

「それを終わらせるというのなら、それでもよいぞ。知識はあれど、余の体は剣を嗜み程度にしか知らぬ。太刀打ちできぬ道理もあるまい。そなたの願いの強さが、余の責任の重さを上回るならば」

 レイカも、マナトも、クロさえ、ヴァーシュに気圧されて黙り込んだ。語るヴァーシュは隙だらけに見えるのに、クロは槍を突き込めずにいる。

 そんな子供たちを見渡し、ヴァーシュは失望したように、失笑するように、剣を振りかぶった。

 そこに、進み出る。雑な動きで大振りにクロに向かって振られた剣は、チセの振るう剣でも止められた。そもそも剣自体の性能がまるで違うようだ。

「そなたも、名乗りを上げるか?」

「いいえ。私は、夜の王になりたいと思わない。ただ、あなたの在り方を……」

 悲しく思う、とは言えなかった。にわかに王が激高し、本気の殺気をチセに叩きつけたからだ。

「……っ!」

 クロがチセを攫うように抱きかかえ、横に飛ぶ。庇われなかったらチセは叩き切られていただろう。

「分かったような口を利くな! そなたに、余の何が分かるというのだ!?」

 答える言葉をチセは持たない。生きた年数さえ遠く及ばないし、知識も思考も何もかも足りない。それは痛いほど承知している。

「私は子供だし、足りないものだらけだし、喧嘩の仕方さえ分からないけれど……気持ちだけは負けないわ。みんなの望みを、まとめて叶えてみせる! 魔物を消して、レイカを助けて、クロが私と生きられるようにして、仲介者の役割を成就させる!」

 レイカの、マナトの、クロの、そして、ヴァーシュの。それぞれの望みを羅列したチセに、ヴァーシュが目を剥いた。

「そなた、何を申しておるのだ!? そのような、都合のいいことが……」

「出来るはず。そして、これしかないと思う。そもそも人間が、夜を拒絶してきたからこそ今の歪な状況があるのだから――」

「おい、そなた、まさか――」

 とっさに動こうとするヴァーシュをクロが制し、隙を作る。チセはがむしゃらに、ヴァーシュに向かって剣を振りかぶった。夜を象徴し、夜の要である王に対して。

「昼と夜の分断――それこそが、断ち切るべきものだわ!」


 ――気付けば、物寂しい浜辺に倒れていた。こぶし大の岩がごろごろとしている岩浜だ。チセはぼんやりと体を起こし、辺りを見回した。どうやら街外れの灯台近くにある浜辺らしい。

(って、寒っ!?)

 倒れていたところは体温で溶けたらしいが、あたりにはうっすらと雪が積もっている。チセは身震いし、近くに倒れているマナトを見つけて仰天した。

「マナト、大丈夫!? 起きて!」

「う……」

 揺さぶると、体が温かい。気を失っているだけのようで良かったと心底安堵する。

 すぐにマナトも目を覚まし、くしゃみをして辺りを見回した。

「チセ!? 無事だったんだな、良かった……。ここは、灯台の下あたりか? どうしてこんなところに? あれからどうなったんだ?」

「私もよく分かっていないの。でも、この場所には覚えがあるわ。私がクロを拾ったところだから」

 夜からの帰還者がまったく別のところで見つかる例があると聞くが、この状況もそれに近いのだと思う。今までは夜明けとともに昼の世界へと戻っていたが、今回は強制的に放り出された感じだ。うまくいっていれば――永遠に。

「とにかく、帰りましょう。ここは冷えるから」

 まだ状況が呑み込めていないマナトを促し、チセは朝焼けの海岸を後にした。


 盛大な拍手とともに三班は『夜からの帰還者について』をテーマにした調べ学習の発表会を終え、多目的教室の席へ戻った。教室の後ろの方では保護者たちの姿もちらほらと見え、初等学校の調べ学習の総まとめを見学しようとしていた。

「お疲れ! 大成功だったね!」

 カナが明るく労う。

「おう、俺らの進行のおかげだな!」

「調子に乗らないの! チセとマナトがとんでもなく深く調べてくれたおかげでしょうが!」

 トオルが胸を張り、カナがトオルを小突く。

 チセとマナトも笑顔で話に加わった。発表の後の小休憩の時間だから、話していても問題はない。

「うまくいってよかったよ。お疲れ様」

「よかったよね。カナもトオルもマナトもありがとう」

「後で打ち上げしようね! うちがおすすめの店に連れて行ってあげるから!」

「奢りだよな?」

「割り勘に決まってるでしょうが!」

 にぎやかに言い合うカナとトオルに笑いつつ、マナトは苦笑した。

「しかし、この調べ学習も位置づけが変わってきてしまうんだよな。実用性がなくなったというか。無駄になったとは言わないが……」

「ほんと、びっくりしちゃうよね!? 夜から魔物がいなくなっちゃうなんて!」

「ほんとだよな! 夜がただ暗いだけのものになるなんて、誰が考えるかって!」

 言いつつ、トオルはちらりとチセとマナトを窺い見た。チセは微笑んで口をつぐむ。トオルは何か勘づいているようだが、何も言うつもりはなかった。あの場にいた人だけの秘密だ。マナトも口をつぐんでいる。

 夜の王を――正しくは、昼と夜の分断だけを――チセが斬ってから、この世界は激変した。夜から魔物が消えてただ暗いだけのものになり、代わりに人々は夢というものを見るようになった。夢という言葉や概念を、魔物が人々の想像の中にしかいなくなったことを、昼と夜とが緩やかに連続するようになったことを、人々は眠りの中で見る夢でぼんやりと知ることになった。すべては、チセが願った通りに。

 チセが斬ったのは夜の王という役割であり、ヴァーシュという存在ではない。斬られた瞬間にそのことを理解したヴァーシュは、夜の王の最後の仕事として、チセに知識を流し込んでくれた。

 押し流されるような感覚になりながらも理解したのは、夜と昼との成り立ちだった。人間の脳は眠っている間に情報を整理し、それが本来なら夢として現れるべきであるのに、この世界の人間はそれを不合理として拒絶したこと。それと同じように、世界は、昼に人間が作り上げたあと夜にそれを情報として整理しようとしていたこと。世界は昼に人が作り、夜にそれを反復するかたちで構成されていたのだ。レイカが語った、夜は昼の真似をするというのはそういうことだった。魔物はいわば、夜に世界が見る夢の存在だったのだ。

 そしてヴァーシュは別れ際に、チセのことを古代の魔術師になぞらえて称賛してくれた。世界を繋げ、意味を塗り替える存在であると。その称賛は面映ゆかったが、彼の表情が安らかだったのが救いだ。

 現実の世界から魔物が消えたことは、レイカの望みにも適うだろう。レイカ姉も救われたと思う、とマナトはチセにお礼を言ってくれた。

 世界は形を変え、しかし続いていく。人々は不可思議なものを拒絶せず、少しずつ受け入れるようになってきている。拒絶したことで魔物という恐怖を自ら作り上げてしまったことを、夢を通じて少しずつ理解してきている。

 すべて、収まるところに収まった。――クロのことを除いて。

(クロ……)

 かつて猫であり、魔物であり、人間になった彼がどうなったか、チセには確かめられていない。どこかで元気にしてくれていればと願うばかりだ。

「三班のみんな、お疲れ様ー」

「あっサヤ、ありがとう! 二班もすごかったよ!」

「三班には適わないってー」

 サヤが三班のテーブルへきて労ってくれる。カナがお礼を言って二班を褒めるが、サヤは苦笑で首を振った。

 そのまま、意味ありげにカナとチセに目配せする。

「見学者の中にね、すごく格好いい人がいるのー。中等学校の人だよね、誰かのお兄さんとかかなー?」

「えっ、誰? どの人?」

 カナは興味津々で後ろを見るが、チセは気を引かれない。付き合いでぼんやりとそちらに目をやり、

「――嘘」

 椅子を蹴飛ばして立ち上がった。二人が驚くのにも目をくれず、そちらへ向かう。

「クロ……!?」

「チセ」

 その姿も、その声も。チセが知る彼のままだった。生きていたのだ。

「よかった……!」

 人目も憚らず、チセはクロに飛びついた。クロもしっかりと抱きしめ返してくれる。

「心配したんだよ、いなくなっちゃったんじゃないかって。本当に、よかった……!」

「悪かった。俺がちゃんと人間なのか、身寄りのない俺がどうしていけばいいのか、いろいろ調べたり手続きをしたりしていたら会いに行くのが遅れた。これからは先輩になるな。ちゃんと人間をやれるのか分からないが……多少は夜の中で得た知識を使えるだろう」

 そう言ってチセに笑いかける。その様子を見たサヤとカナが楽しそうにこちらを見ながら囁き合っているが、チセは気付かない。

「しそこねた三度目のまじないを、してやろうか?」

 そんな風にいたずらっぽく言ってチセの唇に指を触れるクロに、目を奪われていたから。

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夜想 @sazare220509

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