檸檬

紫陽_凛

普通の中に偏在する檸檬について

 親父は作家の梶井の研究をして国立大学を卒業し、その頃には恋人の腹の中にいたらしいあたしの父親になるために婚姻届にサインをした。だけどバカ(とんでもないバカ)な親父はその後五年で自殺したから、あたしは親父の肉声を思い出せない。

 そんな親父に一つ聞きたいことがある。

 なんでなのか。


「爆弾ってことじゃないの。檸檬爆弾」

「マルゼンないから爆発できんし。つーか爆破したら捕まるじゃん」

 ゆみこは何度目かになるセリフを吐く。

「檸檬のお父さんは『檸檬』が好きなんだねぇ」

 そしてあたしも何度目かになるセリフを返す。もはや定型文と化したやりとり。

「いくら好きだからってこどもの名前に檸檬はないでしょ。しかもこの漢字。れもんでもレモンでもなく檸檬よ。習字の時ガチ泣きしたわ」

「ウケる」


 ゆみこはミルクティーのパックにストローを刺してごくごく飲んでいる。あたしは本当はレモンティーを飲みたいんだけど、なんだかその字面というか響きというか、頭の中で響き渡るその三音に死んだ親父の何らかの思念を感じてしまって毎回ゆみこと同じミルクティーにしてしまう。

 それをゆみこに言うときまって「檸檬ってファザコンだよね」と言われるから、あたしは黙って「最初からミルクティーしか勝たんし」みたいな顔でミルクティーを飲んでる。

 甘い薄いミルクティーの味を感じながら手元に置かれた親父の遺品の表紙を眺めてると、不意に、空っぽになった紙パックを軽く振ったゆみこが、やはりその親父の遺品の表紙を見下ろして、ある一文を諳んじた。

「なに」

「私の。私のミルクティーは私のお腹に納まったのだ。胃の中に幸せが詰まってる」

 自分で言って自分でへらへら笑っている。変な奴。


 世の中には変な奴しかいない。これはあたしの持論。変な奴が変な奴らなりに寄り集まってグラデーションを作り、その最大公約数みたいなものが「ふつう」って呼ばれているだけの話。だからゆみこは変な奴だ。梶井が好きすぎて娘に「檸檬」って名前を付けた親父はいっとう変な奴。

 そして、その親父の面影みたいなものを梶井の本の中に探し続けてるあたしはもっともっと変な奴。


「つまりはこの重さなんだな」

  

 家に帰ったあたしはその箇所だけ何度も読み上げる。が梶井にとって、始終胸を押さえつけていた「得体のしれない不吉な塊」を幸福に置換できるほどの力強い重さを持っていたのだとしたら、ゆみこの言う通りそれは幸せの重さだったんだろう。あの話のなかで檸檬は幸せの重さを象徴してるのだ。


「つまりはこの――」


 あたしはすこしおセンチになる。ママが言うことには、あたしを抱き上げた父親はしばらく固まっていたそうなのだ。そしてまだ首も据わらないふにゃふにゃの娘を抱き下ろした直後にこう言った。「この子の名前を檸檬にしてもいいだろうか」


 あたしが適当に繋げた因果が本当だったら、どうしよう。あたしはすこし顔を拭ってから、呆れた声を作った。どこぞで聞いているかもしれない親父の亡霊に向かって。

「マジでバカだなぁ、梶井馬鹿」


 そして一言罵る。


「じゃあなんで死んだんだよ」


 親父にそっくりの顔がスマホの画面の中で揺れている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檸檬 紫陽_凛 @syw_rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画