アラバスター

守宮 靄

いとしのガラテア

 男はその石をじっと見つめていた。血走った目を見開いて、睨みつけているかのように。彼はいま、人の背丈に迫るほどの大きさの直方体に切り出されたその石の見えない中心を、そのまた奥のさらに奥に隠されている何かを見ようとしていた。


 男は石工であり、彫刻家でもあった。神殿の柱や巨像などの大きなものではなく、抱き上げられるほどの小像や装飾品など小さな工芸品を作る方を得意とした。工房に運び込まれたその石もまた、他の石らと同じように小さく切り分けられ、華やかな彫刻の施された香油入れやら小瓶やらへと姿を変えるはずだった。しかし楔と槌を持って石に向き合い、その表面に流れる淡色の縞を目でなぞったとき、男の心は揺れた。この石に無遠慮に楔を打ち込み、無味乾燥なブロックに変えてしまうことなどできなかった。楔を放り出した男は大きな布で石を優しく包んだ。そして木板を橇にして、傷をつけないように慎重に、工房と繋がった自分の居室へと石を運んだ。


 狭い部屋の中心で布を解くと、汚れた布は速やかに滑り落ち、白く半透明な肌があらわになる。小さな窓から差す光を乱反射して生まれる輝きは、澄み切った朝の光のような温もりを湛えていた。

 いくつもの石を見て、割り、砕き、削り、彫ってきた男だったが、ひとつの石によってこれほど胸を掻き毟られるような思いをさせられるのは初めてだった。何者かから隠すようにして工房から部屋へと連れてきてしまったものの、石に何かをしてやろうと思っていたわけではない。半ば戸惑いながら石を見つめているうちに、日は落ち、窓の外は夜の闇に染まってしまった。真っ暗な部屋の中心でその白い身をぼんやりと浮かび上がらせている石の姿に気づいた男は、ランプに火を灯した。揺れる橙色の灯りに照らされる石の肌理は悩ましく、その背後にて震える影がどうにも妖しかったから、何か疚しいことをしているような気分になった。ほとんど石の虜になりかけていた男だったが、それと同時に僅かな違和感も覚えていた。その違和感を解きほぐすためにさらに石を眺めに眺め続けた男は、ついに答えに辿り着いた。


 この石は完全な姿ではない。


 男の目が変わった。惚けた虜の目から使命もつ職人の目へ。男は睨みつけるように、穴が開くほどに石を見つめた。矯めつ眇めつ、表層を意志で突き抜けて内側を見ようとした。石のあるべき姿を見出すために。昇る朝日が窓枠に手を掛けたそのとき、男は石の肌にのみを当て、槌を振り下ろした。



 その日から男は居室に籠りきり、工房には顔を見せなくなった。彼は居室で鑿と槌を振るい続けていた。無表情で貞潔な直方体の角は削り取られ、石の欠片が床と寝床に散らばった。狭い部屋の中、数歩先の寝床へ行く手間も惜しんだ男は石の足元に蹲って短く微睡み、すぐに起き出しては頬や服に白い切粉きりこをつけたまま、また槌を持った右手を振り上げた。

 

 石から全ての直線が失われたころ、男は槌を放り捨て、これまで握っていたものより一回り小さい鑿で石を彫り始めた。石のあるべき姿を知っているのは男ではなく石自身であったから、その内側から呼ばう声に従うように、一彫り一彫り慎重に腕を動かした。石の求めに応じて、より細い鑿で薄く表面を削り、細かな線を加えていった。


「ここ、もう少ししなやかに掘ってほしいの」

 男は言われた通りに鑿を動かした。

「もっと弾むように、跳ねるように、踊るように」

 石の望むままに彫っていく。

「繊細に、やさしく、あたたかく。風のように、光のように」

 そうして彫り出された部分は、石とは思えぬほど柔らかく、まるで血が通っているようだった。男がこれまでにやったすべての仕事のうちでもっとも素晴らしい出来だった。


 鑿を介した男と石との長い対話の間に、日と月は何度となく窓の外を通り過ぎていった。曙光をその縁に透かして輝く石を見た男は目を細め、星もない夜の闇に溶けゆく石を見上げながら眠った。石は眠りもしなければ表情も変えずに、ただただそこに佇んでいた。


 男が持つうちで一番繊細な鑿での作業が終わった。数歩下がって壁に背をぶつけ、男は石の全身を眺めた。そう意図して彫っていたわけではないのに、石はいま、一人の娘の姿をとっていた。今にもステップを踏み出しそうに片足の踵を上げ、手をゆっくりと持ち上げようとしているような姿勢。顎をついと上げ大きな瞳で遠くを見、口元には眠る赤子のそれにも似た無垢な微笑みが湛えられている。これからこの娘はきっと、左足を踏み出し、両手を上げ、華奢な身体に纏う薄衣のドレープにたっぷりと空気を含ませてくるくると回るのだろう。今まさに舞い踊らんとする、その直前の姿勢のまま、永久に時間を切り取られ固められてしまった。そんな娘の姿をしていた。時は夜明けまえ。男は薄明の空を映してさらに清廉さを増す像を、完全な姿を得た石の姿を、日が高く登ってしまうまで見つめていた。


 男は部屋の掃除を始めた。この美しい石に、粉と埃で空気の澱む部屋は相応しくない。削ぎ落とした石の欠片を広い集め、何年も拭いていなかった床を布で綺麗に磨き上げた。床に散らばっていた槌や沢山の鑿も、木箱に仕舞った。石はそれを見ていなかった。斜め上空の、この世でないどこかに微笑みかけていた。それから男は食事の用意をした。最後にちゃんとした料理を食べたのがいつだったか覚えていない。ここ数日は石のために空腹を忘れていたし、それ以前も食を疎かにしがちであった。しかし今日は埃を被った鍋を引っ張りだし、麦の粥をつくった。そして二つの皿によそい、一つを石の娘の前に置き、皿の横には乾燥果物まで添えた。そうして男は石とともに食事をした。石は一口も食べなかったから、男が石のぶんまで食べた。夜になると男は石の爪先に接吻した。いくら仄温かい色彩を呈していようと、石はやはり硬く冷たい。だからこそもう一度、足の甲に唇を落とした。久しぶりに寝床に入った男は眠りにつくまで、石の後ろ姿を見つめていた。あらわになった白い背中の淡色の縞が夜に溶けて見えなくなってしまうころ、泥沼に沈んでいくような眠りがやってきた。



 深い夢の底、闇の中央を切り抜いたように白い影が佇んでいる。石の娘があの軽やかに踊り出しそうな姿勢のまま、永遠に次の一歩を踏めないでいる。男はその硬い足に縋りつき、冷えた脛に頬を押し当て、その硬さに触れて安堵している。

 ふと頭上を仰げば、石の細い腕や薄い胸、すっきりした下顎のさらに向こうに、強い光があった。それに瞳を射抜かれた瞬間、男は身体の中心が凍るような恐怖を覚えた。思わず石の脚に強く抱きつく。白い光はあくまで清く美しく、深い慈愛さえ感じられた。ただそのような慈悲を男は望んでいなかった。すべてを拒み、石の娘を抱きかかえて地の果てまで逃げ出したいとさえ思ったのに、脚は震えて動かない。悲鳴を上げることもできないでいるうちに、光は滝のように降り注ぎ、男と石は身を灼くような熱に包まれた──。



 目覚めた男が最初に見たのは、自分の顔を覗き込む人間の顔だった。卵形の小さな顔についた大きな双眸でじっと男を見つめている。男と目が合うと、白い頬にぽっと紅がさし、瞳が見開かれ輝いた。

「起きたのね」

 人間は微笑んだ。見知った表情だ。その笑みは昨晩まで、石のものであったはずなのに。

「わたし、動けるようになったのよ」

 そう言って人間は男を引き起こし、両手でその頬を包んだ。生温くうっすらと水気のある手だった。

「あなたの愛に応えるために人間になったの」

 人間は男の額に接吻した。ぬるりとした肉の感触。

「ねえ、こんなに天気がいいのだから、お外に行きましょうよ」

 男の顔から手を離し、部屋の中央でくるりとその身を回転させてみせる。薄衣の下から覗くふくらはぎの筋肉がまるで中に虫でも入っているかのようにうねるのを見た。石の娘は四角い土台のみを残して綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。人間は跳ねるような足取りで窓の傍に寄り、すっかり高く登ってしまった太陽を、大きな目を細めて眺めた。

「わたし、お日さまの下で踊るのよ、部屋の外に出て。せっかく人間になったのだから」

 男は静かに寝床から立ち上がった。真っ直ぐ木箱へと近づく。そして音を立てないように、ゆっくりと槌を持ち上げた。

「わたし、踊りが得意よ、踊ったことはないけれど。きっと誰よりもうまく踊れるわ、風みたいに、光みたいに」

 槌を握りしめた男は、窓辺の人間に近づいていく。剥き出しのしなやかな背中に縞はない。産毛の生えた皮とその下にて蠢く肉とささやかな脂肪。人間は振り向き、微笑みながら言う。

「踊りましょうよ、手をつないで。あなたも一緒に」

 男は右手の槌を握りなおし、思い切り振り上げた。



 石像が倒れていた。頭は眉間を割くように斜めに砕けている。首はぽきりと折れて縞のある白い断面を晒し、肩との間に尖った欠片を零している。片腕は肘から折れ、離れたところに転がって虚空を掴もうとしている。男は半分になってしまったその顔の変わらぬ微笑みを眺め、今日目覚めたその瞬間に失われた愛しさを思い出した。そして遅れてやってきた後悔に突き倒され、床に蹲ったままさめざめと泣いた。

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アラバスター 守宮 靄 @yamomomoyan

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