ながるる

あさの

流る

 第二巻二百三十五ページ。

 雨が降っている。人は人を救うようにはできていない。寂しさは懐かしさが引き起こす。雨が降っている。靴下が濡れる。家に着く。玄関の鍵を出すのに時間がかかって服が濡れる。靴に雨がしみ込んでスポンジになっている。寂しさは磁力を持っている。雷が鳴る。やっと鍵を見つけてドアを開ける。

 バタンと音を立ててドアが閉まる。暗い。電気をつけるために壁を手探りで探る。明るくなる。電気をつけたのではない。ドアが再び開いた。

 雨が入ってくる。誰かが後ろに立っている。雨が目に染みる。ちがう、私は泣いている。

「何してんの?」

 それはこっちの台詞だ。勝手に人の家に侵入して何してんの? ドアが閉まる。再び暗くなる。電気をつける。佳が点けた。

「さーて、コーヒーでもご馳走してもらおうかな」

 佳が勝手に私より先に家に上がる。佳の靴下は濡れていない。たったっと軽い足取りで洗面所へ行って手を洗っている。私は玄関で立ち止まっている。また勝手に誰か入ってきたら怖いから鍵を閉める。

「何してんの?」

 今日二回目の何してんの? だ。いや、だからこっちの台詞だ。何してんの? 勝手にお湯沸かして。

「コーヒー飲もうよ。ケーキある」

 涙はすでに引っ込んでいた。でも、動く気になれない。私はスポンジになった靴を履いて立ち尽くしている。ケトルの湯が沸いた。パッという音を立ててスイッチが切れる。テーブルについていた佳が立ち上がってインスタントコーヒーの粉をマグカップに入れてお湯も入れる。勝手知ったるなんとやら。いい匂いが漂ってくる。

「ケーキ食べてるね」

「うん」

「喋った」

「うん」

 佳がカトラリーからフォークをとる音がする。

「お風呂入る?」

「入る」

「入れ入れ」

 佳が立ち上がってお湯を張りに行った。お湯ばかり沸かす人だ。私はその場にしゃがみ込んだ。お湯が勢いよく出てくる音がしている。気分は最悪だった。


 佳は私がやっている古本屋の常連だ。よく来るから会計のときに話して少しずつ仲良くなった。佳はなんでも読む人で、目についたものを買っていくあまりいないタイプの客だ。佳は喋る言葉は軽いけれど、佳自身の身軽さとは関係なく辞書のような印象を与える人だ。たくさん読書をしているからだろうか。私はその逆だと思う。言葉を選んではいるけれどどこか薄っぺらい。本をあまり読まないからだろうか。

「佳」

 なに? 佳は振り向く。佳は佳だ。私は佳の苗字を知らない。

「今日は新しい本が入ったよ」

「おお、おお。見せて」

 私はフィンランド語の辞書、政治の本、古いエッセイを見せる。

「ふーん」

 佳は一瞥して辞書を選んだ。

「これくださいな」

「はい」

 手にした辞書を捲る。

「辞書を、読むの?」

「眺めてるだけで面白いよ」

「へえ」

「見て」

 佳はさよならのページを開いた。

「ナケミーン」

「ナケミーン」

 佳はわははと笑った。

「こうやって無駄な知識を増やしていくのだ」

 佳は辞書をしまう。

「もう終わりでしょ? ご飯行きましょうよ」

「いいよ。ちょっと待ってて」

「はーい」 

 佳は隅にある椅子に腰かけて辞書を見ている。私はレジ閉めと値付けをする。

「はい。お待たせしました」

「おけー。どこ行きますか」

「天ぷら食べたい」

 チェーン店の、と付け加えると

「いいっすよー。行きましょう」

 と佳は応じてくれる。

 佳は食に執着がない。なんでもいいのだ。執着がないわりに私と一緒に食事に行きたがる。話がしたいのかもしれない。佳は変わり者だ。つかみどころがなく飄々としている。そこが良いとおもう。

「佳」

 なんすか、と佳が私を見上げる。佳は背が低い。

「どうしてカムパネルラが死んだのかを教えて」

「人を質問サイトみたいに扱わないでください」

 はははと佳は笑ってそれから考え始めた。

「宮沢賢治……。読めるサイトがあるから開きますね」

 佳は私の時間つぶしの質問にも付き合ってくれる。

「やっぱさいわいのためかなあ」

「幸い」

 天ぷら屋に着く。同じ駅前にあるからすぐ近い。

「さいわいとわざわいって似てない?」

「あー」

 と佳は生返事して考え続ける。

「これがジョバンニだったらどうしたでしょうね」

「助けないでしょう、ザネリを」

「うーん、この旅の後だったらわからないですよ」

 佳はもしももしもって考える。

「そんなこと、ザネリは川に落ちるタイミングは変えられないよ」

「じゃあ、偶然カムパネルラがそこにいたからってことになる」

「それが一つの答えだね」

 私たちは水を飲む。

「佐奈さん」

 佳が今日初めて私の名前を呼んでくれた。くすぐったくなる。

「なあに」

「納得しました」

 わたしはくすりと笑って見せる。メニューを広げる。

「さあて、何を食べようかしら」


 腹が満たされた私たちは、これも駅前の私の家へ行き、音楽を聴いた。

「眠いです」

「帰りなよ」

「まだいたいです」

「お酒飲む?」

 少し飲む、といって佳はチューハイの缶を開けた。コップに私の分を半分注いでくれる。佳は家へ帰りたがらない。なんでかはしらない。でも必ず私と食事をしたときは家まできて終電で帰るか泊まっていく。佳はフリーランスの仕事をしているから出勤とかはないと聞いている。だから明日も大丈夫なのだろうけれど、私は明日も古本屋が開店するので眠らせてもらう。これを飲み終えたらシャワーに入って寝よう。佳をみると今日買ったフィンランド語の辞書を捲っている。

「佳は寂しがり屋さんだから本をたくさん読むの?」

「なにをー」

 反論しようとしたみたいだけど頭が回らないのか言葉が続かない。佳はお酒に弱い。だから佳にもう休んでほしい時はお酒を飲んでもらうことにしている。

「ねむいです」

「ねてていいよー。ほら、こっちのコップで口をゆすいで」

 うー、とゾンビのようになった佳は私のほうに歩いてきた。なんだか笑えてくる。いつもは飄々として自己管理のなっている佳が私の家に来る時だけこうなってしまうのだ。

 プラスティックのコップで口をゆすいだ佳はソファへ行って眠ってしまった。もう気温は温かくなってきたので掛布団は一枚で大丈夫だろう。私はシャワーを浴びることにする。


 この物語を終わらせたい。この物語というのはこの物語のことだ。しかしこの物語が終わるためにはまだ早すぎるし、あと何展開か必要だ。

物語を終わらせるために物質的な世界のことを考える。コーヒーは二杯目。このインターネットの回線も詰まるところ物質なのだと考える。

 休日私はコーヒーを片手にインターネットサーフィンをしている。人間の体も特に血管なんかはインターネットの線みたいなんだろうか。私は私の中にあるインターネットを考える。

 私のインターネット。いい響きだ。私のインターネットにはいまコーヒーの栄養が流れている。インターネット回線。私の栄養を届ける太いチューブや毛細血管。

 この世界の物質は私が触れたものしか描かれない。だから私が佳に会わなかったら佳は永遠に生きられない。それを知っている。

 観葉植物に触れる。葉が瑞々しくてきもちいい。佳は触ったらどんな感じがするだろう?

 私のインターネットはいま観葉植物をとらえている。つやつや。つやつや。葉を一枚ちぎってしまう。佳を想像する。これが佳だったらなんというだろう。痛いですよ! ひどいじゃないですか。でも……そういう人だと思ってました。

 でも……そういう人だと思ってました。は秀逸だ。だってそういう人だと思っていながら一緒にいてくれたのだから。私のインターネットは快楽の信号を発信する。

佳。佳に会いたくなる。スマートフォンを手に取って佳にメッセージを送る。佳が存在しはじめる。佳。佳からなかなか返事が返ってこない。いつもそうだ。佳は自分の時間を大切にしている。今日も忙しいのかもしれない。

 佳のインターネットを考える。佳の世界に今私は存在していない。それがくやしい。わたしはスリッパを蹴り飛ばし脱いで昼寝した。


 佳から返事があったのは夕方だった。

 スマートフォンのメッセージ受信の音で目が覚めた。

『さなさんどうしましたか』

 さなさんどうしましたか。わたしは文字の一つ一つを目で追う。目覚めたばかりの私の脳に文字が吸い込まれていく。さらになめらかすぎて見えないピクセルを見ようとする。おかしくなってきた。どうもしませんよ。ついでに、ああそうだ、私は佐奈という名前だったと思いだす。佳の世界に佐奈さんは存在し始めた。ちぎった葉を見る。萎れてきている。


 その日は佳の最寄り駅まで出向いた。曇っている。近くのコンビニでお菓子を買う。今日は初めて佳の家で遊ぶことになった。

『映画とかみますか!?』

 佳のメッセージはいつも真っすぐだ。佳そのものを表していると思う。佳をさっきあんなふうに思ったことを申し訳なく思う。でも私はそういう人なのです。

 佳はアパートの二階に住んでいる。呼び鈴を鳴らすと直ぐ佳が出てくる。

「おじゃましていいのかしら」

「もちろん。待ってました」

 佳はドアを大きく開けて出迎えてくれる。家の中からはコーヒーの匂いがする。佳の家に入るのは初めてだ、少し緊張する。

 靴を脱いで上がるとコーヒーの匂いが強くなる。インスタントではなさそうだ。赤い夕陽が差している。このアパートは西日が強いのだなあ。洗面所を聞いて手を洗わせてもらう。洗面所にはサボテンと、あと文庫本が三冊置いてある。ここにも本があるのか。

「佳」

「なんですか?」

「お菓子買ってきたよ、コンビニだけど」

「ありがとうございます! 夕飯は何か頼みませんか」

「いいよ」

 佳は子犬のように袋の中を覗き込む。嬉しそうだ、よかった。そうして私たちは映画を見始めた。これは有名だけれど二人とも見たことがないから決まったものだ。映画を見ている間、私は退屈し始めて佳の横顔を眺めている。佳は真剣に映画に見入っている。時折飲み物を飲む。飲み物を私のお酒と入れ替えてみる。そのうち一口飲んであっと声を出した。意地悪く笑う私。佳も笑う。

「佐奈さん、ちゃんと見てますか?」

 佳に怒られるのは心外だ。でも、素直に怒られよう。

「ごめんね、つい」

 ついってなんだと言って、佳の集中は映画に戻った。エンドロールになるころ、佳は酔っていて私は眠っていた。


「佐奈さん」

 佳の声で目が覚める。眠っていたんだ。

「佳」

 少し眠らせてというと佳は、分かりましたと言って毛布を掛けてくれた。ちょっと暑いけれど嬉しかった。

「佐奈さん、……」

 佳がひとりごとを言っていたけれど眠くて聞き取れなかった……。



 ある日、私は古本の仕入れをしている。そういえば向こうにも値付けしていない本の山があったと思って本屋の奥に取りに行く。戻ってくると、レジカウンターの上に数冊の本が置いてある。ここに置いたかしらと思って表紙を見るとタイトルは「流る」とある。ああ、これはと思って開いてみると数年前の私の日常がかいてある。ああ、これが、と思う。私はその三冊の本を鞄に入れて持ち帰ることにする。

 家に帰りついた私は「流る」を開く。佳のことも書いてある。佳。私は佳のことが書いてある行に線を引く。私たちは流れている。流る日常がここに綴られている。佳はこのことを知らない。かわいい、と思う。私にむくりと加虐意識と全能感が芽生えるのを感じる。二冊目を見る。佳はこれからどうなるのだろう?

 佳は、フリーランスの仕事を続けて、結婚するらしい。佳が、結婚。おかしくなって笑ってしまう。子供はできないらしい。それは残念だ。佳の子供を見てみたかった。

 佳が……佳が結婚。私はそのページを破り捨てた。佳の子供は見てみたい。結婚相手も見てみたい、でも、でも心が嫌がっている。佳を誰にもとられたくない。佳は佳であってほしい。佳は誰にもけがされないでほしい、佳は……佳は純度の高い佳本人でいてほしい。

 「流る」のページを破ってしまった。この場合、書かれていた事実はどうなるのだろう? 試しに佳の文字を塗りつぶしてみる。佳が消えてしまうだろうか。私は観葉植物の葉をちぎるように佳の文字を塗りつぶしていった。


 次の日、「流る」は破れたページが元通りになっていた。ただ、佳の結婚の事実も無くなっている。そして、塗りつぶした佳の文字も佳ごと消えていた。「流る」三冊すべてから佳の存在が消えていた。佳は死んでしまったのだろうか? まさか。

 私は佳にメッセージを送る。

『けい』

 夕方になっても夜になっても返事は来ない。私は本屋のレジ閉めをして家に帰るところだ。雨が降っている、傘は持っていない。

 佳がいなくなった。佳の家へ行ってみようか? でも、この「流る」が証明している。佳の存在は消えてしまったと。佳は私の記憶の中の人になってしまった。

 佳、と心の中で読んでみる。私は雨に濡れている。記憶にうそはない。本当に? 本当に佳という人は存在した? 私の記憶違いではないか? 思ってもいない考えが浮かぶ。まさか。佳はいたもの。本当に?

 だれ。私の心の中に入ってこないで。いいえ。佳という人は消えてしまいます。私は誰かを失った喪失感に駆られてなぜか雨に打たれている。靴はスポンジのようになってしまっている。記憶が寂しさを呼び起こす。多分。孤独は磁力を産む。おそらく。

「……」

 誰かの名前を呼ぼうとして思い出せなかった。そのことがひどく胸を締め付ける。

「あ、……」

 佐奈は自分の家のドアの前に立ち尽くす。鍵を探すけれど見つからない。鍵が見つからない。足がひどく濡れている。ロングスカートも濡れて脚にまとわりついている。

 雷が鳴る。ドアを開ける。ドアが閉まる。ドアが開く。誰かが後ろに立っているのに気づく。佐奈の目に雨が染みる。いや、彼女は泣いていた。

「何してんの?」

 それはこっちの台詞だ、と佐奈は思った。後ろの人物は勝手に部屋に上がって手をあらう。佐奈は泣いている。背の低い見知らぬ人は手に持っていた紙箱をテーブルの上に置く。何してんの? だからこっちの台詞だ、と佐奈は思う。

 謎の人はケトルでお湯を沸かしているらしい。一言二言会話をして(佐奈は何を言ったか覚えていない)お風呂に入るかと訊かれてはいる、と答えた。お湯を張る音がしてくる。

 佐奈は不思議な安心感に包まれていた。


「佐奈さん」

 お風呂から上がった佐奈を謎の人はコーヒーとケーキで迎えた。座ってと促されて座る。

「佐奈さん」

 はい、と返事する。

「あなたは知りすぎてしまいました。もうこれ以上物語を続ける気はない。わかる?」

 わかからない、と答える。

「そうだね。でも、それでいいんだ。私はあなたに愛着が湧きすぎた。私が悪いんだ」

 ごめんね、と謎の人は佐奈の手を取ってさする。

「さあ、ケーキを食べて」

 いだただきます、と言って佐奈はケーキを食べ始める。

「ショートケーキは好き?」

 好きです。

「ああ、よかった。そうだ、そのかばんの中の本を見せて」

 いやだ、と佐奈は思う――が、渡してもいいと考え直して鞄を手に取る。よくわからないけれど大切な本なのだろう。謎の人に三冊手渡す。

「ありがとう、このシーンは本来、あなたが私の結婚を知ったシーンのはずだったね……」

 けっこん? あなたが、結婚。ああ、著者は、著者の名前には見覚えがあった。その人は。

「じゃあ、私は行くから」

 まって。行かないで。だってあなたは確か、

「おじゃましました」

 謎の人は席を立って玄関まで歩く。佐奈が縋りつく。

「行かないで、あなたと一緒にいたい」

 ごめんね、と謎の人は手を振りほどく。

「いままでありがとう、さよなら」

 ドアが閉まる。急いでドアを開けて外を見るが誰もいない。雨が降っている。


 その部屋には手の付けられていないケーキと、一口食べられているケーキ。それから二つの冷めたコーヒーがあった。

 女が一人、眠っている。彼女は寝返りを打って、右を下に向いて眠る。

 明日からの古本屋の仕事が憂鬱で、すべてを放棄して眠ったのだった。いつまで眠ろうか。だって、この物語には続きがないのだから。

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ながるる あさの @asanopanfuwa

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