湘南幻燈夜話 第十一話「エランの鏡」

湘南幻燈夜話 第十一話「エランの鏡」

 昭和四十五年三月十四日、大阪万国博覧会が開催された。六か月の会期中、参加国七十七ヶ国、入場者数六四二一万八七七〇人を記録し、日本中を熱狂させた国内初の万博は九月十三日大成功のうちに閉幕した。


 これは万博開催の二日まえ、羽田空港国際線出発ロビーの片すみで起きた小さな出来事の忘備録である。


 欧州系航空会社に勤める民子は、羽田空港が職場だ。勤務は変則で、早番の日は朝の五時に起きる。鎌倉の長谷の自宅から江ノ電、横須賀線、高速バスと乗りつぎ、羽田空港へ寝ぼけまなこでたどり着くのが七時前後だ。横浜と羽田を結ぶ高速バスができるまえは川崎から京浜東北線、蒲田から路線バスで通った。そのころを思えば格段に楽だ。それでもたまにだが早朝勤務が四日つづけば朝起きるのはつらい。今日は早番シフト四日連続の最終日で、明日から三連休の予定だった。勤務は午後三時までには終わる。だが、その日はいつものようにはいかなかった。

 昨夜出るはずの他社便がエンジン・トラブルで遅れ、今朝になってやっと出発したために、羽田に乗り入れている航空各社の便に軒なみ遅れが出はじめた。そこへ野犬の滑走路進入という珍事が発生する。着陸許可を待って上空で旋回していた一機が燃料切れで米軍の横田基地に降りるかも知れないというあたりから、着陸地を大阪に変更する便が出はじめた。空港はこれから出発する旅客と見送りの人びと、遅延した帰国便を待つ出迎えの家族たち、無線機片手に行き来する航空各社や空港の職員であふれかえり、待ちくたびれた人びとの声高な詰問の合間には怒声も聞こえてくる。

 とっくに着いている便が着かず、出る便は出れずの状態で、運行ダイヤは乱れに乱れ、民子も時間だからと上がるどころではなくなった。呼び出しを受けた後続シフトがつぎつぎと事務所に飛び込んでくる。

 ごったがえすカウンターでチェック・インに忙殺されている民子の手元に、左横からズイっとパスポートとチケットが押し出された。

(あらっ、いけずーずーしいったら)

 民子はきれいに磨いた爪の主を横目でにらんだ。民子を見下ろすように立っていたのは浅黒い額の秀でた長身の若い男だった。男は文句をいいかけた民子を目で制し、仕立てのいい背広の内ポケットから手札大のものを取り出して見せた。日本の外務省が発行した外交官身分証明書だった。

「手続きを」

 どうどうの横入りをわびれるふうもなく、外交官はいった。

「これがすめば私の仕事は終わる。早く帰らせてくれたまえ」

「失礼ですが、ちゃんと並んで…ほかの方々はみなきちんと…」

 と、先頭でチェックインを待っていた年配の英国人男性が民子をやんわりと制し、

「こちらのお方を、どうぞお先に」

 男性の慇懃無礼なものいいは民子をおもしろがらせた。

「すみません。ありがとうございます」

 こんな夜郎自大を相手に時間をつぶすことはないと先頭客はウインクしてみせる。

 あらためて男のパスポートを開いた民子はそれが公用旅券ではないと気づいた。めくってみたら写真も目のまえの男とは似ても似つかない老人だ。

(なにこれ、どういうこと?)

 怪訝な表情の民子に、浅黒い男前の外交官は無表情で、だが、いらだたしげな様子でがっしりしたレンガのような体をほんの一歩わきへ動かした。

背後から、ひとりの老人が現れた。とても小柄な老人だった。小さな布袋を両手で胸に抱えている。頭に巻いた灰色のターバン、深く落ちくぼんだ眼窩、その奥に炯炯と光る双眸、そそり立つ鉤鼻、顔の下半分は灰色の髭に隠れている。まちがいなくパスポートの主だった。

 ロンドン便の乗客はほとんどが英国人だった。樫のように高く整然と集合する白い人の森で、老人はとてつもなく異質な黒い切り株だった。

「急いで」

 いらだたしげに長い指の背でカウンターをたたき、外交官はふたたび要求した。獅子の頭を模したカフスボタンが金色にきらめく。

 出かかった啖呵をぐっとこらえ、せいぜい外交官から目をそらせていった。

「お荷物を量りの上にどうぞ」

「ない」

「チェックインするお荷物ですけど? トランクとか」

 外交官は老人が抱えた布袋をあごでしゃくった。

(へ、あれだけ? ありゃ手荷物だわさ。てことは、別送?)

「別送荷物がございましたら送り状を拝見できますか」

「ない。なにもないとさっきからいってる」

 外交官は両手を後ろにまわして胸をそらせ、うんざりしたように民子をにらんだ。

 パスポートを確認すると老人は商用ビザで約一か月滞在している。それなのに荷物はほんの身の回りの品だけということらしい。さりげなく見回しても老人の周辺にはなにも見あたらない。積載超過料金をごまかそうと、ドでかい手荷物を隠しておく客もいるからうかうかできないのだが、この外交官が老人のために尽力するなど天地がひっくり返ろうとありえなかった。民子はふたりに話した。

「二階の出発ロビーへどうぞ。出国手続きをおすませになって搭乗をお待ちください。遅延はいまのところ約一時間、中のロビーで軽食をお出ししておりますからお召し上がりください。搭乗口はまだ未定です。追ってアナウンスいたします。あ、これを手荷物に」

 いまひとつ釈然としないまま、チケットと搭乗券、手荷物用タグ一枚をパスポートにはさんで返した。やれやれ、これで一件落着だ。

「では、あとはよろしく」

 外交官はさっと背中を見せた。

「はえ? あら、ちょっと!」

 あっけにとられた民子が声を上げたときには、りゅうとした背広は人込みの中をさっそうと遠ざかって行った。

(あーーーーっ!)

 民子は目が三角になった。

 隣でチェック・インしていたシフト・リーダーが民子の様子を見ていった。

「たみちゃん、次のシフト来てるし、ここもういいからそのお爺さんデッパツに連れてってやってよ。この状況で迷子になられたらもう目も当てられないよ」

 たしかにこの混沌をさらに悪化させるような搭乗客行方不明の事態は避けたい。さらにはそうとうに喧嘩っ早い民子がスカした外交官を追っかけて一発くらわせ、一悶着起こす事態はもっと避けたい。前科は山ほどある。疲労の色濃いシフト・リーダーの顔にそう書いてあった。

「へーい、そうします」

 民子はカウンターから出た。

(フン、なにさ。自分だってこの爺さんを連れてくるだけのペイペイのくせして)

「おじいちゃん、こっち、こっち、いっしょに行きましょ」

 翼を折りたたんだ鷹のように身動きひとつしない老人を手招きした。


 なにかあるときは重なるもので、遅延の喧騒に輪をかけているのが各国パビリオン建築関係者の帰国ラッシュだった。仕上げにてまどり、開会まぎわにやっと完成して引き上げていくのだろう。今日が大きなグループの最後の帰国日らしく、筋骨たくましい男たちの集団が目立つ。みな例外なく家電の大きな段ボール箱をカートに積み、まるで曲芸のようにして運んでいた。テレビ、炊飯器、ステレオ、カメラ、日本人形、ぬいぐるみ、その他もろもろの箱がダルマ落しさながら山積みになっている。

 出国手続きのブースには長蛇の列ができていた。民子は老人のそばに並んでカタツムリのように歩んだ。やっとたどり着いた出発待合室も搭乗待ちの乗客で満杯状態だ。民子は目ざとく免税店寄りの椅子に隙間を見つけ、老人を押し込んだ。横にしゃがんで、いままでと同じように日本語で話しかけた。

「おじいちゃん、もう少し待ってね。なるべくそばにいるからね」

 あらためて見ると、老人の身なりは貧しかった。薄っぺらな背広はターバンより暗色の灰色なのだが襟や袖口がすりきれて糸がこぼれ、左右のポケットは縫い目がほつれて口を開けている。胸ポケットからはみ出た皺くちゃのハンカチが褐色のいかめしい顔立ちを妙にわびしくさせていた。アイロンの跡もない黄ばんだシャツのボタンを首までかけ、上に毛織のチョッキ、膝の抜けた黄土色のズボンに素足で革のサンダルをはいていた。

 なにかしらパビリオン建設に不可欠な技能を持っていたばかりに連れてこられ、用がすめば空港までは送られたもののそこで放り出されたのは想像にかたくない。ほかの建設関係者はすでに去ったらしかった。

「おじいちゃん、なんか飲む? サンドイッチもあるの。もらってこようか?」

 遅れの便を待つ乗客のためにホテルの軽食を用意して、ボーイさんにサービスを頼んである。老人は民子の声に反応せず、正面を向いたまま膝に置いた布袋をしっかりと両手でつかんでいた。

「そんじゃ、お水だけもらってくるわね。待ってて」

 氷水のグラスをもって戻り、

「ほら、冷たいでしょ」

 そっと手わたしたが老人は飲もうとしない。

 民子はそのとき、グラスを持つ老人の手が小きざみにふるえているのに気づいた。

 はっとなった。思わず床にひざまずき、老人の顔をのぞき見た。ターバンから生えたような長いもしゃもしゃの眉毛にかくれ、鳶色の双眸はじっと前方を見すえたままだ。だが鋭利で峻厳な風貌は明らかに血の色をなくしていた。老人は怯えていた。帰国だといわれ連れてこられた空港は異様な騒擾を呈している。たぶん十分な説明もなく置き去りにされて、津波のように押し寄せる不安にいまにも呑み込まれそうなのだ。

 民子は一気に胸が迫った。

「おじいちゃんっ、飛行機はじめて? あ、ちゃうわ、来たとき乗ったよね。えっと、えっと、あのね、おじいちゃん、だいじょぶ、オーケー! もんだいなーい! ノー・プロブレム! へいき、へいき! そうだ、いいもんがある!」

 制服の一部である紺色大型バッグから会社のパンフレットをひっぱりだして世界地図のページを開き、老人に突きだした。

「いま、ここ。東京、と、お、き、よ、お。おじいちゃん、いる、ここ」

 東京を指さし、そこからバンコク、カラチと経由しながら、航空路線の放物線に沿って老人の故郷へ飛ぶ。

「ここ、テ、ヘ、ラ、ン。わかる? テ、ヘ、ラ、ン。おじいちゃん、ここ、かえる」

 ヒューっと喉の奥から甲高い擬音を発しながら、

「ここ、テヘラン、テヘラン。おじいちゃんの、おうち、ある。テ、ヘ、ラ、ン」

 民子の指はなんども、東京とテヘラン間を飛んだ。

 ためらうように老人の左手が動いた。

 爪が割れ、枯れた根のように節くれだった指がゆらぎながらのびると、テヘランと印刷された都市の赤い丸印にふれた。

「……xxxx」

 老人がつぶやいた。

「あ」

 不意をつかれ、民子は老人がはじめて口にした言葉を聞きもらしてしまった。

「ね、なんていったの? おじいちゃん、もういちどいって」

「…xxン、エラxxx」

 灰白色の髭の中からもれるしゃがれ声は、砂漠を吹きわたる乾いた風だった。

「わあ、どうしよ、ぜんぜんわかんない。えら? えら……」

 民子はあせった。

「え、ら……あっ、エラン? エランっていったの? テヘランじゃなくて、エラン、エランなのね。おじいちゃんはそういうのね!」

 老人はまた黙した。だが民子は自分が大きくまちがってはいない気がした。

「そう! そう! エラン、エラン、エランよ。帰るの、そこへ帰るのよ。おじいちゃん、お家に帰れるのよ!」

 民子はハンドバッグを床に放りなげた。

 しゃがんだまま両手をバタバタさせ、鳥が羽ばたくように空を飛んでいるつもり、目はうっとりとはるか故郷の地を見ているつもり、地上に降りたって出迎えの家族と再会の喜びにうちふるえているつもり。百面相と手ぶり身ぶりを総動員して、もう必死だった。遠巻きに人の輪ができてくすくす笑い声もするが、かまうことはない。

「おじいちゃん、わかる? エランよ、お国よ、もうすぐ帰れるからね」

 老人は相変わらず無表情だが、渋皮を重ねた眼尻に小さな花が咲きこぼれそうな気配がしていた。

「わかった? うん、へいきだからね、だいじょーび!」

 顔を大きく上げ下げし、うん、うん、とうなずいてみせる。

「やっと帰れるのよ、おじいちゃん、よかったね……。それにしても、なんにもないのねえ、おみやげ」

 なにか記念になるものはないかと、民子は床に放り投げたバッグをひろってごそごそ探った。

 老人に見せたパンフレットのほかには社員証と税関や出入国管理局など空港内通行許可証、歯形のついた三色ボールペン、失敗したコピー紙をクリップで束ねたメモ用紙、財布、ハンカチ、ちり紙、それだけだ。出入りのたびに税関できびしく調べられるので必要なもの以外は入れていない。お土産になりそうな品物はなにもなかった。現金はいくらあるだろうとバッグの中でそっと財布を開けた。空っぽだった。

(あちゃー、お金を下ろすの忘れてた)

 勤務が明たらと思っていたのが遅延騒ぎで帰りそびれ、すかんぴんだった。小銭は百円玉がひとつに十円玉がふたつ、五円玉がひとつあるきりだ。事務所のロッカーにしまったハンドバッグには銀行の通帳と印鑑、定期入れに非常用千円札五枚、身につけてきた貴金属、そのほかにも、もしここにあれば土産になりそうなものはいくつか思い浮かぶ。だが、いまここを離れるわけにはいかない。ならば八年使っているこのセイコーの腕時計はどうだろう。これを土産にわたそうか。民子はしばし悩み、結局その考えを捨てた。西も東もわからぬ異国でさいごまで矜持を保とうとしているのだ。老人の自負と尊厳を損なうようなことはできない。なにか…ちいさいもの…なにか。

(そうだ、お金を借りよう)

 周囲に同僚がいないかと見回したが、出発手続きと到着便の世話に忙殺されているらしくまったく姿がない。きょろきょろしていると、他社の親しい男を何人か見つけた。みんな気がせいているらしく猛烈な大股で歩いている。航空会社の制服を着ているときは走れない。走れば旅客が不安になる。こんなときにわざわざ呼び止めていきなり金を貸してくれとは、さすがにいえる状況ではなかった。

 こうなれば残された道はひとつだ。免税店にかけあって老人のパスポートで免税品の掛け売りを交渉するほかない。関税法違反は承知だが、

(えーい! 首になろうが手が後ろに回ろうが、もう、かまったもんか!)

 小学生のころ、民子は、買ったばかりの電気釜が壊れて困ってるという級友の話を聞いて家に駆けもどり、台所から電気釜を抱えて飛び出そうとして母親に見つかった。友人の窮状を訴えたが、それじゃウチはいったいなんでご飯を炊くのよっと怒鳴られ、まえに使ってたお釜があるじゃないといい終えるまえに鍋のフタで張りたおされた。炊飯器という言葉もなく、重い木の蓋をのせてガスで炊く黒い大きなお釜がまだどこの家にもある時代だった。

 考える先に突っ走る性格はそのころからまるきり進歩していない。

 免税店では顔見知りのマネージャーが、近づいてくる民子をにやにやしながら待っていた。

「いやあ、すごい熱演でしたねえ、黒山の人だかりでしたよ。ワッハハハハ」

「そう? じゃ、見物料もらおうかな」

「また、そういうことをいう」

「あのおじいちゃんのパスポートでさ、免税品売ってよ、わたしが払うから。いまお金ないけど」

「えっ、またなにをいうかと思えば。それはだめですよ、申し訳ないけど」

「ぜったい、あとで払うから」

「お金のことじゃなくて、そういうことはできないの知ってるでしょ」

「おねがいっ、あたしが全責任負うから」

「そんな権限ないでしょうに」

「………じゃ、免税でないものでいいから。そこの京人形とか」

「だめ」

「そこのちっちゃな扇子でいいから」

「ちっちゃくても、おっきくても、だめ」

「そこの」

「だめったら、だめ!」

 いつのまにかロビーに来ていた英国人マネージャーが無線片手に民子を呼んだ。

「こらっ、タミー、なに遊んでる。ボーディング、ボーディング」


 乗客全員の搭乗手続きを終え、民子は待たせておいた老人とともにリムジンに乗った。

(せめて光ってればいいのになあ)

 財布からつまみ出した五円玉を民子はぶつぶついいながらながめた。穴の開いた硬貨は外国で珍しがられる。だがいまは別の目的で手にしているのだが。

「おじいちゃん、これね、たった五円だけど、日本語では御縁に通じるんでよろこばれるの。こんなのしかなくてごめん」

 人とひとは縁という目に見えない不思議な糸で結ばれている、おじいちゃんと出会えたのもそういう縁があったからなのよと伝えたかった。しかし言語の壁は堅牢不倒だった。

 民子はクリップでとめたメモ紙にそのことを英文で短く走り書きした。きっとだれか訳してくれるひとがいるだろう。無駄ではないはずだ。

「はい、ポケットに入れとくね。お守り」

 五円玉をメモ紙にくるむと老人のポケットに落とした。

 リムジンを降りると、潮の香がした。塩気をふくんだ風がやわらかなスカーフのように民子の額をなぶる。暦の冬は終わったが、遮るもののない滑走路に吹きわたる海風はまだ冷たい。それでも春はそこまできていて、明るく透明な光が広大な空間一面に降りそそいでいた。白と紺の機体は巨大な鳥のように鋼の翼を休めている。長時間待たされた旅客たちはやれやれといった表情で次々と機内へ消えて行った。

民子は後部タラップを駆け上り、搭乗口に待機する英国人スチュワーデスにたのんだ。

「あそこにいるおじいちゃんですけど、よろしくおねがいします。飛行機なれてないみたいで、それに言葉も通じないし」

「わかったわ、心配しないで。じゅうぶん気をつけるようにしましょう」

 また、いそいで降りて、

「おじいちゃん、オッケー、ヘーキ、だいじょーびっ!」

 ドンっと胸をたたき、最後の搭乗客となった老人を励ました。

「おじいちゃんと御縁があってよかったわ。さよなら。グッバイ、元気でね」

 老人の足がタラップにかかった。が、すぐにふりむくと、機体から離れかけた民子のところへ戻ってきた。民子はあわてた。

「あらやだ。なにやってんの、おじいちゃん、もう時間がないのよ」

 老人は泰然としていた。

 やおら胸ポケットからくしゃくしゃのハンカチをつかみ出し、民子の手に押しつけた。

「え、なに? くれるの、わたしに?」

 手わたされたハンカチにはなにか硬いものがくるまれてる。皺くちゃの布を広げた瞬間、まばゆい光の矢が四方八方に飛びちった。

「わあ! きれい!」

 現れたのは精巧な鏡細工だった。

 ちょうど民子の手のひらがかくれる六角形の鏡は裏表になっている。一面は一枚鏡だが、背中合わせのもう一面にはさまざまな大きさに切られた三角形と菱形が組み合わされて互いを支えあう立体的な造形だった。それはアラブの熟練した職人の技だった。高く、低く、透明に澄みきった音たちがさんざめく銀色の華麗な小宇宙だった。

 細工の精緻な流麗さに呆然となりながら、民子はこれを作っている老人を思った。一日の作業を終えた夜、若い仲間たちが遊びに出かけ、老人はひとり宿舎に残っていたのだろう。国の威信をかけた絢爛なパビリオンの内部を飾った残りの鏡の破片は、老人の無聊をなぐさめる無口な仲間だったにちがいない。背を丸め、夜のふけるまでこのすばらしい細工物を作っていた、ひび割れてささくれた、だが細心に動く老人の指が目に見えるようだ。訳もわからぬまま異国へ飛ばされたときかかえてきたシミだらけの布袋ひとつを胸に、いまやっと砂の国へ帰っていく老いた職人のポケットに潜められたこの鏡細工は、家族にわたす記念のたったひとつのつつましい土産だったはずだ。

「おじいちゃん、これ、お家に、子どもか孫のお土産にこさえたんじゃないの? 持って帰るんでしょ、ねえ、記念のお土産じゃないの?」

 渋紙色の皺の陰で老人の目は細められ、鋭く射るような視線はすっかり和らいでいた。

「わたしにくれちゃったら、なんにもないじゃない。おみやげ、ないじゃない」

 民子は首をふった。

「だめ。おじいちゃん、だめよ。これ、もらえない、わたし、わたし……」

 涙声でハンカチごと押し戻そうとすると、老人はもういちど民子の手をとってこんどはしっかりと握らせた。

「おじいちゃん………」

 老人は民子の目を見ながら、うん、うん、と二回うなずいた。

 搭乗口から降りてきたスチュワーデスがそっと老人の肩に手を置いた。

うながされて、老人は一歩、一歩、タラップを上って行った。もう、ふりかえらなかった。


 それから十年が過ぎた。

 民子は親戚がもつ小町通りのビルの一階で喫茶店を始めた。ついこないだまでの小町通りは古い木造の民家がつづくなんら変哲もない未舗装の土の通りだった。それがいつのまにか観光客がふえ、つれて飲食店や土産物屋がつぎつぎと店を開き、往時の面影はまったくなくなった。だが、にぎやかな通りも日暮れが過ぎて夜に入ると人声は絶える。代わりに聞こえるのは横須賀線の列車の音と遠い潮騒だ。夜半、二階の住居で灯下に読みさしの本を伏せ、寄せては返すはるかな波音に耳をかたむけた。民子の日々は平和で安穏に明け暮れた。

 それは九月のある朝だった。

 新聞を開くと、イラン・イラクの西部国境地帯で交戦があり、両国は全面戦争に突入したという記事が載っていた。民子の脳裏に渋紙色の皺をたたんだペルシャの老人がよみがえった。万博パビリオンの建設にかりだされてきた、あの老人だ。空港でしばしのときを過ごしただけだが、民子に忘れがたい印象を残した老人の祖国が戦場になった。いつもなら新聞をたためば忘れてしまう遠い国の戦争が、初めて身近なものとなった。

 争いはすぐに終わるだろうと民子は思った。なぜならひとには生来すべての違いを超えて交感するなにものかが具備されている。それは、民族、習慣、言語、宗教、まったく異質の文化であろうと通い合うものなのだ。むかし、沙漠の国から来た老人がそう教えてくれた。

 だが、民子の予想に反し、中東の地で燃え上がった戦火は衰えをみせなかった。昭和六十年に入るとイラク政府は領空を飛行する民間機も攻撃対象になると各国航空会社に通告を出した。イラン各都市に空襲がつづき、邦人のテヘラン脱出が始まった。

昭和六十三年が明けても争いはつづいた。なんとか停戦の見通しがついたのはその年の夏だった。戦禍に疲弊する人びとの写真に代わり、新聞は停戦に歓喜して街へくりだした人々のはじけるような笑顔を大きく掲げた。

 民子は読み終えた新聞をかたづけた。新しいコーヒー豆の封を切り、時間をかけて焙煎し、香り高くいれたカップを手に安楽椅子へ腰をおとした。老人の残した鏡細工は飾棚の右の隅に立てかけてある。鏡面にはぼつぼつと曇りが出て縁も欠けた。それでも日差しが棚の奥までさしこむ季節には、飾り細工をほどこした鏡面は光を受けて八方に乱反射する。それは愚かにして賢く、酷薄にして慈愛に満ち、互いを理解しようと努め、平和な世界を願う人間という生きものに似て、複雑に屈折した光輝を放った。


 それから五ヶ月後、他国への侵略と自国の二回にわたる原子爆弾被ばく、敗戦の惨禍を経て、平和の意義を骨肉に刻んだ極東の島国、日本の昭和は終わった。


             ― 了 ―

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湘南幻燈夜話 第十一話「エランの鏡」 @kyufu

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