鮫の置物

紫鳥コウ

鮫の置物

 日野家の玄関のがりがまちに腰を下ろしている梅子は、片方だけ開いた扉から門の向こうの往来を見ていた。飛び石には銀杏いちょうの枯葉が散っており、丁度、ほうきを使おうと思っていたところらしい。


 が、かれこれ三十分も座ったままでいた。別に、待ち人がいるわけではない。というよりも、じっとしていることに、なんの理由も持ち合わせてはいなかった。季節外れの蝉の抜け殻のように、言葉を発することさえしない。


 木枯こがらしは、枯葉を庭のあちこちにき続けている。雨曇りの空は、雷を蓄えているに違いない。


     ×     ×     ×


 夕暮れになると、猫が稲光いなびかりおびえはじめた。台所の机の下にもぐったまま、香箱こうばこつくっている。洗濯物を取り込んだ後、畳まずに居間に放り出したままにして、初子は再び黙然もくねんと週刊誌に目を通しはじめた。こういうとき雷は、彼女の冷笑に風情を与えないこともなかった。


 初子は、有名人の醜聞のひとつひとつに、口に出せぬ冷評を下していった。しかしふと、窓の向こうの寒々しい雨を見てしまうと、自分の身の上は、夫の浮気を知った女優よりも、悲惨極まりないのだという感傷が、胸中に膨らまないこともなかった。


     ×     ×     ×


 線香に火をつけると、梅子は神妙な顔を作りながら手を合わせた。作りながら?――それは紛うことなく演技に違いなかった。のみならず、死者をいたんでいる自分の純潔さに誇りを持っているらしかった。


 冷ややかな空気のなかを漂う線香の匂いは、不思議が起こるかもしれぬという、演出効果をもたらしていた。が、梅子は、死人が姿を現わすのは構わないが、よみがえるのは不愉快であるという気もしないではなかった。


     ×     ×     ×


 太一は手も当てずに咳をしながら、地元の新聞社が主催している文学賞に応募する小説の構想をノートブックにめていた。が、彼の航海は危うかった。それでも死人を悼む家族を書くということだけは、もうすでに決まっているらしかった。無論、過保護に育てられた子供が鬼籍きせきることになっていた。


 そういえば昨日、太一は、初子に教科書を投げつけた。彼にとってそれは愉快な一事だった。無論、初子にしてみれば、雷に撃たれるような衝撃に違いなかった。が、それは、太一による積年の復讐と言えなくもないのは当然だった。


     ×     ×     ×


 ところで、日野家の玄関には、木彫きぼりさめが置かれていた。


 が、これが鮫であることは、鮫であると言い張られたから鮫とされているに過ぎなかった。そうでなければ、たいでもかれいでもイルカでもクマノミでも、なんでも差し支えはなかった。


 鮫は歯を抜かれていた。というより、彫りが深かったために取れてしまったらしい。のみならず、この鮫の置物は、しおれた水仙や、何年前のものか分からぬ電話帳や、カレンダーを裁断して作ったメモ帳のなかに、はかなくも埋もれてしまっていた。


 加えて、メモ帳の上に横たわっているボールペンは、手に取られることは滅多にないらしかった。というよりも、もうすでにインクをくしていた。それは無論、台所のボールペンと交換されていたからに違いなかった。


     ×     ×     ×


 その日の夜、浩太郎は、赤らめた顔を玄関の明かりのなかに見せた。片手には飲みかけのビールの缶が持たれていた。そしてまた、少なからず陽気な気分ではあった。が、若干の寂しさが隠しきれていないのも事実だった。


 無論、浩太郎を待ち望んでいた者は、誰もいなかった。のみならず、みな、夜がけるごとに眠りについていた。辛うじて玄関の扉に鍵をかけた浩太郎だったが、しんと静まり返った家の気配に、一気に酔いがめていくのを感じた。鍵入れのなかに鍵を放りこんだ手も、多少震えを忘れていないこともなかった。


「相変わらず、辛気臭しんきくせえ家だなあ」


 が、その理由を、知らないはずがなかった。そして、しもの中で呼吸をしているような孤独さを、思い出さずにいられないことは、自然なことと言えないこともなかった。もうビールを飲みきることなんて、できやしない。しかし玄関先に流してしまうのは情けない気もしないでもなかった。


「酒なんて飲みだしたのは、おめえのせいだ。だから今日は、弔ってやらあ」


 浩太郎は、萎れた水仙、旧い電話帳、カレンダーで作ったメモ帳……の陰に隠れた鮫の置物の上に、残ったビールをいてみせた。それは花瓶の中に飛び散り、電話帳やメモ帳を侵し、無論、鮫の置物は濡れしょぼたれて、めた色が濃くえていった。


「もう俺たちゃあ、家族でもなんでもねえんだ。残った俺たちゃあ……」


 がりがまちに突っ伏して缶を握りつぶし、そうなげいた浩太郎だったが、青空を飛翔しているような爽快な気持ちも、抱いていないことはないらしい。無論、猫が一声ひとこえ鳴いたのが、聞こえないこともないのは確からしかった。…………



 〈了〉

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