第三話

 ほう、と横で感嘆が聞こえ、クルサートルもつられて欄干にもたれた。

 言われてみればそうだ。セレンがまるきり安堵しきった顔をするようになったのはごく最近だ。それまで、いっときでも緊張や警戒を捨て去ったことはあっただろうか。

 記憶を辿ってみてもなかなか思いつかない。少なくとも成長してからは無かったはずだ。

 ――ああ、そうか。

 もう遠い過去のことだ。今はセレンがケントロクス外に出張に出ているが、まだクルサートルたちが子供の頃はミネルヴァが今のセレンの仕事をしていた。そうした時はたびたびクルサートルの家でセレンを預かったのだった。

 ただ、小さな子供だ。いつもならミネルヴァが近くの部屋で寝ているのに、広い邸宅でそばに誰もいないと落ち着かなかったのだろう。夜中はなかなか熟睡できないらしく、昼間も常に眠そうにしていた。そして日中、クルサートルと一緒の部屋で銘々、本を読んでいる際、たまに本を開いたまま船を漕いでいることがあった。

 暗い夜中ではないし、誰かが同じ空間にいるからだろう。暖かな陽射しを浴びてまどろむ時のセレンは、本当に例外的に安心しきった顔をしていた。

「そういえば、寝顔でしか見たことがなかったな。セレンが無防備になるなんて……」

 子供の時分のセレンが眠る様子を思い出しながら、クルサートルは欄干に肘をついて星空を眺めた。

 もっと気遣って心労を取ってやるべきだった。そばにいてやりながら不甲斐ない。

 今後は過去のぶんまで埋めるくらいのことをしてやろうと、反省とともに決意する。すると、横から「うっ」と悲痛な呻き声が聞こえた。

 記憶から否応なく現実に引き戻されて声のした方を向くと、メリーノが瞳孔を開いてクルサートルを凝視している。

「貴様……他人を相手にそんなことを恥ずかしげもなく堂々と……なんて破廉恥な」

「はぁ?」

 いきなり何を言い出すんだと一気に不快感が増幅して聞き返す。だがメリーノは、わなわなと震えながら「寝顔だと?」と続ける。

「恐ろしい……神職でありながら隠そうともせず公然と……やはりこんな欲情にまみれた男に彼女を渡すなど危険極まりないな! 言っておくが私はまだ諦めてはいないぞ」

 さすがにこの相手からこの言われようには我慢がならない。クルサートルの中で何かが切れた。

「呆れて言葉もないな。その思考回路をどうにかしたらどうだ」

「ああ失敗した。こんな似非神官と同じ棟に客間を用意しては彼女の身が危ぶまれる……今からでも居室の移動をせねば色魔が」

「ふざけるな、さっきからどの口が冗談を。絡み酒もいい加減にしろこの好色馬鹿が」

「好っ……貴様、自分のことを棚に上げておいて人のことをなんて呼び方を」

「先に自らを顧みない失礼千万な呼称を使ったのはどちらか自問してみろ」

「俗世の公国領主と教会の神職では立場が違うだろう!」

「どんな理屈だ。大体、色魔というなら貴公の方が事のはじめから」

「あれっ?」

 熱を増す言い合いに、突然鈴のような声が割って入った。振り返ると開けた硝子戸の前にセレンが立っている。

「カタピエ公女に捕まってしまって話が長引いたから、クルサートルがどこか行ってしまったかなと思ったのだけれど……」

 首を傾げるセレンの両手には盃がある。恐らく自分とクルサートルの分を持ってきてくれたのだろう。

「ごめん、歓談の邪魔をしたかな? 随分と盛り上がっていたみたいだね」

「いや」

「どこが」

 否定が同時になり、二人は顔を見合わせ相手を半眼で睨んだ。一方のセレンはきょとんとして男性陣を交互に見る。

 この二人の間にある遠慮のない空気はなんだろう。

「二人とも、今のうちに随分仲良くなった?」

「全然」

 二つの返事がまたもぴったり重なった。再び睨み合う二人をよそに、セレンがふふ、と微笑を漏らす。

「息ぴったりだ」

 そうやって笑う様は輝くように明るくあどけなく、そして可愛らしすぎるからこれまた困る。

 満面の笑顔を前に一瞬毒気が抜かれたが、この愛らしさを見たからこそ、横にいる相手をますます放っておけない。

 ――このいけ好かない男に渡してたまるか。

 男二人は三たび横目で睨み合うと、決意を新たにしたのだった。



 ――おまけに続く。

 何やってるんでしょうね、バカサートルとダメリーノ。セレンさん最強説。

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